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新年の準備
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いつものように起きて素早く着替えると、下に行って暖炉の灰をかき、火をおこして薪をくべる。窓の鎧戸を開け、茶を入れるための湯を沸かす。射し込む光が窓枠に積もった雪に反射して、家のなかを屈折した不思議な光で満たす。
腸詰めをあぶり、チーズの塊とパンを切る。茶にミルクをおとし、机に並べる。上階でドミトリーが動きだした音がしたら、暖炉であぶって溶けたチーズを、素早くパンですくう。皿を机に置くころ、とんとんと階段を降りる足音がして「おはよう」という、今日も世界で一番好きな人。
「おはようございます」
一日のうち学校があるときは、一緒に起きていられる時間は少ししかない。起きて家を出るまでと、帰って寝るまでの時間。だからどの瞬間も貴重で大切で、どこを思い出してもしあわせを感じられる時間にしたかった。
「雪が少し積もったみたいです」
「そう。では少し早めに出なくては」
そんな会話をしながら朝食をとる。
「そういえば、ご褒美はまだ決まらないの?」
飛び級したらご褒美がもらえる、という件の話だ。ヤーデはまだご褒美をなにもほしがっていなかった。
「はい。まだゆっくり考えたいと思います」
別に期限はもうけてないのだが、ドミトリーはヤーデに早く何かしてあげたいのだった。
「ん。ヤーデはわがままも言わないし、ご褒美とは別に何か買おうか?」
「ふふっ、ありがとうございます。それじゃあ今度の休みに、一緒に町へ出かけたいです。あとたぶんですけど、ぼくけっこうわがままですよ」
ヤーデがわがままを言って困ったことなど、一度もない。どちらかというと、ドミトリーの方がわがままな自覚はあった。大人として、それでいいのかと少し反省をする。
「今度の休みね、わかった。今夜は帰りが遅くなると思う、先に休んでて」
「はい」
書類の提出期限が近づくと、各所から期限ぎりぎりの書類が一気に送られてくる。月に一度数日間は、不備ばかりの書類の仕分けにイライラすることになる。疲れて仕事から帰ってくると、ヤーデはすでに眠っていて、かわいい笑顔は見られない。一人で食事をし、風呂に入り適当に髪を乾かして、眠る子を起こさぬよう細心の注意を払い、体温で温まった寝具に潜り込む。
この期間になると、朝しかヤーデと話せない。髪をきちんと乾かさずに眠ったことを嘆きながら、櫛を入れてまとめてくれる。
「ヤーデが足りない。学校のことも聞きたいのに、夕食も一緒にとれない。仕事に行きたくない」
机にうつぶせになって泣き言をいうが、ドミトリーが人の悪口を言うのを聞いたことがない。それは立派なことだと思うが、毎月同じような不備書類があるということは、同じ人物が間違えている可能性が高い。ドミトリーが早く帰るためにも、書類の不備はできるだけ少なくしてほしい。
ヤーデだったら、本人に直接確認しにいき、なぜ同じ間違いを繰り返すのか改善をはかる。もしかすると、書類の書き込み方法に問題があるのかもしれない。ヴィンター商会のときのような、表を作って計算や数字をわかりやすくしたり、あらかじめ本のように紙に印刷して、書式を一律化したらどうだろうか。毎回同じところに言葉や数字を書き込むだけなら、間違いも減るだろうし、確認もしやすくなると思う。
ヤーデは髪を結いながら、思いつく限りのことをドミトリーに話した。仕事の内容を詳しく知らないので、ヴィンター商会のような書式や表を作ってあげることはできないけれど。ヤーデが思いつくくらいだから、誰かしら作れる人間はいるはずだ。
「天才なの……? 今日仕事に行ったら、早速みんなに相談してみよう」
「お役に立てたならよかったです。それからこれ、お昼にどうぞ」
忙しい期間は、昼食を食べる時間を逃してしまうことがある。お茶で腹をふくらませると聞いたので、簡単につまんで食べられる食べ物を、袋にいれてある。
「かわいいとは思っていたけど……女神の御使いなの? 私は決して信心深いほうではないけれど、今なら女神に祈る気持ちがわかるかもしれない」
「御使いじゃありません、ただのヤーデです。それとぼくも信心深くはないので、ごめんなさい」
女神に祈るなら、ぼくを抱きしめてもらえませんか。女神信仰の深い人に聞かれたら非難されるかもしれないが、ヤーデは祈るより現実を選ぶ。ヤーデを助けてくれたのは女神ではなく、人間のドミトリーだった。
「ぼく、こうしてもらえるなら、いくらでも頑張れます」
「ふふっ、ずいぶん大げさだね。いつでも抱きしめてあげるよ、かわいいヤーデ」
ドミトリーに抱きしめられることが、認められることが、役に立てることがヤーデのすべてである。けして大げさな話ではない。
ヤーデを抱きしめながら、背中に回る腕が長くなったな、とドミトリーは思っていた。いつまでこうして甘えてもらえるのだろう。
忙しい書類仕事が、楽になるかもしれない。ドミトリーの持ってきた新しい提案に、同僚たちは沸いた。すぐにいくつかの書式を整え、紙に印刷依頼を出している。マス目を作り数字を書き込み、一番下の段で合計の数字を記入するだけにした表は、画期的である。これで毎月の無駄な書類仕事が減ると思うと、今月の書類仕事もはかどるというものである。
ドミトリーも常よりは機嫌良く、山と積まれた書類をさばいていた。お茶を飲みながら、ヤーデの持たせてくれた袋の食べ物をつまむ。昼食をとりに出たばかりに、採決済みの書類に未処理の書類を重ねられるという惨事が起こることがある。机でつまむことのできる食べ物は、それを防ぐことができた。今日はヤーデが起きている時間に、帰れるかもしれない。
「孤高の魔法使いが、愛妻弁当……だと?」
ドミトリーの机に書類を運んできた同僚が、わざとらしくわめく。声が大きい、うるさい。恥ずかしい二つ名が自分についているのは知っている。孤高かは知らないが、省で働く同僚たちのなかに、魔法使いはいない。それより問題は。
「私に妻はいない。これは子どもが持たせてくれたものだ」
「子どもって、あのドミトリーが引き取った子どもか?」
「ああ」
「もうそんなに大きくなったのか。早いな」
同僚は積んだ書類に肘を載せる。こんなところで無駄話をするなら、さっさと席に戻って仕事を進めてほしいものだ。
「十歳だ、学校に通っている。それと書類に肘をつくな」
「なんだ、まだ小さいじゃないか」
「飛び級で五年生になった」
「……優秀か!」
学校、飛び級ということばに、他の同僚たちも集まってくる。いいから全員仕事を進めてくれ。
「子どもは小さいうちはかわいいんだけどな。最近じゃケンカばかりだよ」
「そうそう、うちも上級生になったら生意気で困るよ」
「親の言うことなんて、ぜんぜん聞かないしな」
「ドミトリーのところも、そのうち大変だぞ。きっと」
わいわい騒ぐ同僚たちは、それぞれ子どもがいたらしい。今までまったく興味がなかったので、結婚のことも子どものことも、知らなかった。
ケンカ、生意気、言うことを聞かない。といわれてもピンとこない。ヤーデはいつもかわいい。数年たつと、ヤーデもかわいくなくなる日がくるのだろうか。考えてみたが、かわいくないヤーデは想像もできない。
「しかしあのドミトリーが、子どもの話をするようになるとはな」
「なぁ。孤高の魔法使いが、子どもの反抗期に悩む日がくるのかと思うと」
「魔法使いに家族の話はしちゃいけないもんだと、思ってたからさ「おいっ!」っ痛、すまん」
「いや……」
そうか。自分が他人に興味をもたなかったのもあるが、魔法使いだからと周りに気をつかわれていたのか。そんなことも、ヤーデという家族をもってはじめて気づくことだった。
「でもまぁ、あれだ。子どもとケンカするってのは、。不満の発散だから」
ドミトリーも子どもが反抗期になったら、ケンカには付き合ってやれよと言われ、そういうものかと頷いておく。職場の同僚にすぎなかった者たちが家族持ちで、子どものための人生の先輩として、急に頼もしく思えてくる。
久しぶりに、二人で町へ来ている。以前だったら、しばらく遅くまで仕事が続くと疲れがたまり、外出など絶対嫌だったのだが。なかなか願い事を言わないヤーデが、一緒に町に買い物へ出たいと言った。ヤーデとなら喜んで出かけている自分の変化に、ドミトリーは気づいていない。
普段の日用品の買い物は、ヤーデが学校帰りに買ってきてくれている。学校から少し回れば、市場を通って家に帰ってくることができるのだ。ドミトリーの職場は市場や図書館など、町の活気ある地域とは反対方面にある。仕事帰りに買い物をするには、少し不便だった。
「ヤーデは何かほしいものがあるの?」
「もうすぐ新年なので、その準備がしたくて」
新年。冬の一番寒い時期に、世界が新しい息吹に生まれ変わるとされている。古いものや悪いものが流されていくのだ。新年を迎える瞬間は一緒に流されることのないように、外へ出ず家のなかで過ごすのが習慣である。ドミトリーはずっと一人だったので、ただいつものように家に引きこもるだけで、新年の準備を特にしたこともなかった。
そういえばヤーデを引き取ったばかりの年は、新年すら記憶にない。何とか子どもを生かすために、暗闇で手足を振り回しているような状態だった。去年も一昨年も、急に前線へ駆り出された。メレネ婦人が邸で預かると言ってくれたが、ヤーデが頷かなかった。小さな子どもが、新年に家で一人きりなのは不安だったろう。
二人できちんと新年を迎えるのは、はじめてだ。しっかりと準備をしたかった、のだが。
「ヤーデ」
「はい」
「私は新年の準備というものがわからない。やったことがないんだ」
「ぼくもはじめてです。メレネ婦人に聞きましたし、大丈夫です。任せてください」
最近のヤーデは、自信がついてきたのか頼もしい。ヤーデのいう大丈夫と任せろには、本当に大丈夫と思わせる説得力があった。
二人であちこちの店を覗きながら、手を繋いで歩いているところだ。新年の準備のため、町はいつも以上に活気があふれている。どこの店先も色とりどりに装飾してあり、見て回るだけでも目が楽しい。
「ヤーデ?」
「はい」
普通に繋がれた手に、ドミトリーは気づいてしまった。少し前まで、小さな手はドミトリーの指を握っていたのに。ヤーデはもう、手を引いてやるほど幼くないのだ。
「きみはもう、一人で町を上手に歩けるんだね」
歩きながらドミトリーを見る顔は、昔ほど下にはない。
「そうでしょうか」
ドミトリーを見ているのに、ひょいと体を傾け、前から急ぎ足で歩いてくる人を避ける。ほら、もうよそ見をして、人とぶつかることもない。子どもの成長は嬉しい、反面少しだけ寂しさを覚える。
「だからもう、手を繋ぐ必要はないのでは、わっ」
繋いだ手に力がこもり、引き寄せられる。ドミトリーの体は、急に立ち止まったヤーデにぐっと近づく。
「ご褒美をお願いします」
離れた手が、ドミトリーの二の腕を掴んでいた。ぎゅっと掴まれた力の強さに、ヤーデの不安を感じる。
「今、ここで? かまわないけど、なんだろう」
ヤーデの欲しいものでもあったのか、それとも怖いことか。ドミトリーは辺りを見渡す。
「ご褒美は物ではなく、お願いになります。これからもぼくと一緒に歩くときは、ずっと手を繋いでください」
「それはかまわないけど、いつまで」
二の腕を掴む力が、ほっと緩む。ヤーデが安心したのだ。
「ずっとです」
にっこりときれいに笑うヤーデの顔は、妙に大人びて見えた。
「前に言いましたよね。ぼくけっこうわがままですよ、って」
手を繋ぐのがわがままとは思わないが、一人で上手に歩けるのにわざわざ手を繋ぐのは、かえって歩きにくいのではないかと思う。そう言うと「歩きやすいし大丈夫です。ぼくはドミトリーさんのことが大好きなので」と笑顔のまま言い切られた。
子どもに大好きと言ってもらえるのは、今のうちだけだと同僚がいっていた。ヤーデの望むご褒美がそれでいいのなら、と手を差し出す。再び手を繋いで歩き始めたヤーデは、嬉しそうだった。にこにこと周りの店主と挨拶を交わしながら歩く、ヤーデはいつもかわいい。
そんなわけで二人はいつもどおり、手を繋いで歩いた。ヤーデの背は順調に伸びていて、ドミトリーの肩あたりまである。途中で引っ張ったり、離れそうになるのを指をからめて繋ぎ直したり、成長してもそういう癖はそう変わらないようだ。前から体の大きな男が歩いてきても、繋がれた手が緊張することはなくなっていた。
次の店を目指して歩いていると、ヤーデと呼ぶ声が何度も聞こえた。ヤーデの方から、ちっと小さな音がした。町の人にヤーデはずいぶんかわいがってもらっている。きっと挨拶をするのだろうと、気を利かせたドミトリーが足を止め、声のした方を振り向く。
「?」
振り向いたつもりが、くるりと体を反転させられていた。石畳で靴底が滑ったのだろうか。ヤーデに背中を支えられ、長い髪の毛が開いて舞う。髪先が背中に落ちつく前に、開いた店の扉のなかに押し込まれていた。
「?」
何が起こったのかわからないうちに、店の中にいた。はじめて入る店内は、いたるところに用途のわからない糸束と、薄布と繊細な刺繍で覆われた品しか置かれていない。明らかに自分は場違いな、婦人用の高級店である。こういった店には縁がない、入り口で固まったドミトリー。それを置き去りにしたヤーデは店内を見渡し、つと歩を進める。いらっしゃいませ、とかけられた声に小さな声で答え、品物を指さしている。
丁寧に薄紙に包まれた小さな品を抱えたヤーデが、入り口で立ったままのドミトリーにお待たせしました、と告げる。差し出された手を握り、扉を開けた店主に見送られ外に出ると、ようやくほっと息ができた。
「足りなくなった分の刺繍糸です。メレネ婦人に刺繍を教えてもらっているところで」
「刺繍……」
ヤーデは本当に何でもできるらしい。刺繍まではじめているとは知らなかった。ドミトリーは繕い物すら苦手である。魔法使いはそれなりの高給取りだから、破れた衣服は諦めて捨て、新しいものに買い換えていた。
あまりにも驚きすぎて、さきほどヤーデが誰かに呼び止められていたような気がしたことは、すっかり忘れていた。
腸詰めをあぶり、チーズの塊とパンを切る。茶にミルクをおとし、机に並べる。上階でドミトリーが動きだした音がしたら、暖炉であぶって溶けたチーズを、素早くパンですくう。皿を机に置くころ、とんとんと階段を降りる足音がして「おはよう」という、今日も世界で一番好きな人。
「おはようございます」
一日のうち学校があるときは、一緒に起きていられる時間は少ししかない。起きて家を出るまでと、帰って寝るまでの時間。だからどの瞬間も貴重で大切で、どこを思い出してもしあわせを感じられる時間にしたかった。
「雪が少し積もったみたいです」
「そう。では少し早めに出なくては」
そんな会話をしながら朝食をとる。
「そういえば、ご褒美はまだ決まらないの?」
飛び級したらご褒美がもらえる、という件の話だ。ヤーデはまだご褒美をなにもほしがっていなかった。
「はい。まだゆっくり考えたいと思います」
別に期限はもうけてないのだが、ドミトリーはヤーデに早く何かしてあげたいのだった。
「ん。ヤーデはわがままも言わないし、ご褒美とは別に何か買おうか?」
「ふふっ、ありがとうございます。それじゃあ今度の休みに、一緒に町へ出かけたいです。あとたぶんですけど、ぼくけっこうわがままですよ」
ヤーデがわがままを言って困ったことなど、一度もない。どちらかというと、ドミトリーの方がわがままな自覚はあった。大人として、それでいいのかと少し反省をする。
「今度の休みね、わかった。今夜は帰りが遅くなると思う、先に休んでて」
「はい」
書類の提出期限が近づくと、各所から期限ぎりぎりの書類が一気に送られてくる。月に一度数日間は、不備ばかりの書類の仕分けにイライラすることになる。疲れて仕事から帰ってくると、ヤーデはすでに眠っていて、かわいい笑顔は見られない。一人で食事をし、風呂に入り適当に髪を乾かして、眠る子を起こさぬよう細心の注意を払い、体温で温まった寝具に潜り込む。
この期間になると、朝しかヤーデと話せない。髪をきちんと乾かさずに眠ったことを嘆きながら、櫛を入れてまとめてくれる。
「ヤーデが足りない。学校のことも聞きたいのに、夕食も一緒にとれない。仕事に行きたくない」
机にうつぶせになって泣き言をいうが、ドミトリーが人の悪口を言うのを聞いたことがない。それは立派なことだと思うが、毎月同じような不備書類があるということは、同じ人物が間違えている可能性が高い。ドミトリーが早く帰るためにも、書類の不備はできるだけ少なくしてほしい。
ヤーデだったら、本人に直接確認しにいき、なぜ同じ間違いを繰り返すのか改善をはかる。もしかすると、書類の書き込み方法に問題があるのかもしれない。ヴィンター商会のときのような、表を作って計算や数字をわかりやすくしたり、あらかじめ本のように紙に印刷して、書式を一律化したらどうだろうか。毎回同じところに言葉や数字を書き込むだけなら、間違いも減るだろうし、確認もしやすくなると思う。
ヤーデは髪を結いながら、思いつく限りのことをドミトリーに話した。仕事の内容を詳しく知らないので、ヴィンター商会のような書式や表を作ってあげることはできないけれど。ヤーデが思いつくくらいだから、誰かしら作れる人間はいるはずだ。
「天才なの……? 今日仕事に行ったら、早速みんなに相談してみよう」
「お役に立てたならよかったです。それからこれ、お昼にどうぞ」
忙しい期間は、昼食を食べる時間を逃してしまうことがある。お茶で腹をふくらませると聞いたので、簡単につまんで食べられる食べ物を、袋にいれてある。
「かわいいとは思っていたけど……女神の御使いなの? 私は決して信心深いほうではないけれど、今なら女神に祈る気持ちがわかるかもしれない」
「御使いじゃありません、ただのヤーデです。それとぼくも信心深くはないので、ごめんなさい」
女神に祈るなら、ぼくを抱きしめてもらえませんか。女神信仰の深い人に聞かれたら非難されるかもしれないが、ヤーデは祈るより現実を選ぶ。ヤーデを助けてくれたのは女神ではなく、人間のドミトリーだった。
「ぼく、こうしてもらえるなら、いくらでも頑張れます」
「ふふっ、ずいぶん大げさだね。いつでも抱きしめてあげるよ、かわいいヤーデ」
ドミトリーに抱きしめられることが、認められることが、役に立てることがヤーデのすべてである。けして大げさな話ではない。
ヤーデを抱きしめながら、背中に回る腕が長くなったな、とドミトリーは思っていた。いつまでこうして甘えてもらえるのだろう。
忙しい書類仕事が、楽になるかもしれない。ドミトリーの持ってきた新しい提案に、同僚たちは沸いた。すぐにいくつかの書式を整え、紙に印刷依頼を出している。マス目を作り数字を書き込み、一番下の段で合計の数字を記入するだけにした表は、画期的である。これで毎月の無駄な書類仕事が減ると思うと、今月の書類仕事もはかどるというものである。
ドミトリーも常よりは機嫌良く、山と積まれた書類をさばいていた。お茶を飲みながら、ヤーデの持たせてくれた袋の食べ物をつまむ。昼食をとりに出たばかりに、採決済みの書類に未処理の書類を重ねられるという惨事が起こることがある。机でつまむことのできる食べ物は、それを防ぐことができた。今日はヤーデが起きている時間に、帰れるかもしれない。
「孤高の魔法使いが、愛妻弁当……だと?」
ドミトリーの机に書類を運んできた同僚が、わざとらしくわめく。声が大きい、うるさい。恥ずかしい二つ名が自分についているのは知っている。孤高かは知らないが、省で働く同僚たちのなかに、魔法使いはいない。それより問題は。
「私に妻はいない。これは子どもが持たせてくれたものだ」
「子どもって、あのドミトリーが引き取った子どもか?」
「ああ」
「もうそんなに大きくなったのか。早いな」
同僚は積んだ書類に肘を載せる。こんなところで無駄話をするなら、さっさと席に戻って仕事を進めてほしいものだ。
「十歳だ、学校に通っている。それと書類に肘をつくな」
「なんだ、まだ小さいじゃないか」
「飛び級で五年生になった」
「……優秀か!」
学校、飛び級ということばに、他の同僚たちも集まってくる。いいから全員仕事を進めてくれ。
「子どもは小さいうちはかわいいんだけどな。最近じゃケンカばかりだよ」
「そうそう、うちも上級生になったら生意気で困るよ」
「親の言うことなんて、ぜんぜん聞かないしな」
「ドミトリーのところも、そのうち大変だぞ。きっと」
わいわい騒ぐ同僚たちは、それぞれ子どもがいたらしい。今までまったく興味がなかったので、結婚のことも子どものことも、知らなかった。
ケンカ、生意気、言うことを聞かない。といわれてもピンとこない。ヤーデはいつもかわいい。数年たつと、ヤーデもかわいくなくなる日がくるのだろうか。考えてみたが、かわいくないヤーデは想像もできない。
「しかしあのドミトリーが、子どもの話をするようになるとはな」
「なぁ。孤高の魔法使いが、子どもの反抗期に悩む日がくるのかと思うと」
「魔法使いに家族の話はしちゃいけないもんだと、思ってたからさ「おいっ!」っ痛、すまん」
「いや……」
そうか。自分が他人に興味をもたなかったのもあるが、魔法使いだからと周りに気をつかわれていたのか。そんなことも、ヤーデという家族をもってはじめて気づくことだった。
「でもまぁ、あれだ。子どもとケンカするってのは、。不満の発散だから」
ドミトリーも子どもが反抗期になったら、ケンカには付き合ってやれよと言われ、そういうものかと頷いておく。職場の同僚にすぎなかった者たちが家族持ちで、子どものための人生の先輩として、急に頼もしく思えてくる。
久しぶりに、二人で町へ来ている。以前だったら、しばらく遅くまで仕事が続くと疲れがたまり、外出など絶対嫌だったのだが。なかなか願い事を言わないヤーデが、一緒に町に買い物へ出たいと言った。ヤーデとなら喜んで出かけている自分の変化に、ドミトリーは気づいていない。
普段の日用品の買い物は、ヤーデが学校帰りに買ってきてくれている。学校から少し回れば、市場を通って家に帰ってくることができるのだ。ドミトリーの職場は市場や図書館など、町の活気ある地域とは反対方面にある。仕事帰りに買い物をするには、少し不便だった。
「ヤーデは何かほしいものがあるの?」
「もうすぐ新年なので、その準備がしたくて」
新年。冬の一番寒い時期に、世界が新しい息吹に生まれ変わるとされている。古いものや悪いものが流されていくのだ。新年を迎える瞬間は一緒に流されることのないように、外へ出ず家のなかで過ごすのが習慣である。ドミトリーはずっと一人だったので、ただいつものように家に引きこもるだけで、新年の準備を特にしたこともなかった。
そういえばヤーデを引き取ったばかりの年は、新年すら記憶にない。何とか子どもを生かすために、暗闇で手足を振り回しているような状態だった。去年も一昨年も、急に前線へ駆り出された。メレネ婦人が邸で預かると言ってくれたが、ヤーデが頷かなかった。小さな子どもが、新年に家で一人きりなのは不安だったろう。
二人できちんと新年を迎えるのは、はじめてだ。しっかりと準備をしたかった、のだが。
「ヤーデ」
「はい」
「私は新年の準備というものがわからない。やったことがないんだ」
「ぼくもはじめてです。メレネ婦人に聞きましたし、大丈夫です。任せてください」
最近のヤーデは、自信がついてきたのか頼もしい。ヤーデのいう大丈夫と任せろには、本当に大丈夫と思わせる説得力があった。
二人であちこちの店を覗きながら、手を繋いで歩いているところだ。新年の準備のため、町はいつも以上に活気があふれている。どこの店先も色とりどりに装飾してあり、見て回るだけでも目が楽しい。
「ヤーデ?」
「はい」
普通に繋がれた手に、ドミトリーは気づいてしまった。少し前まで、小さな手はドミトリーの指を握っていたのに。ヤーデはもう、手を引いてやるほど幼くないのだ。
「きみはもう、一人で町を上手に歩けるんだね」
歩きながらドミトリーを見る顔は、昔ほど下にはない。
「そうでしょうか」
ドミトリーを見ているのに、ひょいと体を傾け、前から急ぎ足で歩いてくる人を避ける。ほら、もうよそ見をして、人とぶつかることもない。子どもの成長は嬉しい、反面少しだけ寂しさを覚える。
「だからもう、手を繋ぐ必要はないのでは、わっ」
繋いだ手に力がこもり、引き寄せられる。ドミトリーの体は、急に立ち止まったヤーデにぐっと近づく。
「ご褒美をお願いします」
離れた手が、ドミトリーの二の腕を掴んでいた。ぎゅっと掴まれた力の強さに、ヤーデの不安を感じる。
「今、ここで? かまわないけど、なんだろう」
ヤーデの欲しいものでもあったのか、それとも怖いことか。ドミトリーは辺りを見渡す。
「ご褒美は物ではなく、お願いになります。これからもぼくと一緒に歩くときは、ずっと手を繋いでください」
「それはかまわないけど、いつまで」
二の腕を掴む力が、ほっと緩む。ヤーデが安心したのだ。
「ずっとです」
にっこりときれいに笑うヤーデの顔は、妙に大人びて見えた。
「前に言いましたよね。ぼくけっこうわがままですよ、って」
手を繋ぐのがわがままとは思わないが、一人で上手に歩けるのにわざわざ手を繋ぐのは、かえって歩きにくいのではないかと思う。そう言うと「歩きやすいし大丈夫です。ぼくはドミトリーさんのことが大好きなので」と笑顔のまま言い切られた。
子どもに大好きと言ってもらえるのは、今のうちだけだと同僚がいっていた。ヤーデの望むご褒美がそれでいいのなら、と手を差し出す。再び手を繋いで歩き始めたヤーデは、嬉しそうだった。にこにこと周りの店主と挨拶を交わしながら歩く、ヤーデはいつもかわいい。
そんなわけで二人はいつもどおり、手を繋いで歩いた。ヤーデの背は順調に伸びていて、ドミトリーの肩あたりまである。途中で引っ張ったり、離れそうになるのを指をからめて繋ぎ直したり、成長してもそういう癖はそう変わらないようだ。前から体の大きな男が歩いてきても、繋がれた手が緊張することはなくなっていた。
次の店を目指して歩いていると、ヤーデと呼ぶ声が何度も聞こえた。ヤーデの方から、ちっと小さな音がした。町の人にヤーデはずいぶんかわいがってもらっている。きっと挨拶をするのだろうと、気を利かせたドミトリーが足を止め、声のした方を振り向く。
「?」
振り向いたつもりが、くるりと体を反転させられていた。石畳で靴底が滑ったのだろうか。ヤーデに背中を支えられ、長い髪の毛が開いて舞う。髪先が背中に落ちつく前に、開いた店の扉のなかに押し込まれていた。
「?」
何が起こったのかわからないうちに、店の中にいた。はじめて入る店内は、いたるところに用途のわからない糸束と、薄布と繊細な刺繍で覆われた品しか置かれていない。明らかに自分は場違いな、婦人用の高級店である。こういった店には縁がない、入り口で固まったドミトリー。それを置き去りにしたヤーデは店内を見渡し、つと歩を進める。いらっしゃいませ、とかけられた声に小さな声で答え、品物を指さしている。
丁寧に薄紙に包まれた小さな品を抱えたヤーデが、入り口で立ったままのドミトリーにお待たせしました、と告げる。差し出された手を握り、扉を開けた店主に見送られ外に出ると、ようやくほっと息ができた。
「足りなくなった分の刺繍糸です。メレネ婦人に刺繍を教えてもらっているところで」
「刺繍……」
ヤーデは本当に何でもできるらしい。刺繍まではじめているとは知らなかった。ドミトリーは繕い物すら苦手である。魔法使いはそれなりの高給取りだから、破れた衣服は諦めて捨て、新しいものに買い換えていた。
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