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掘り起こした下草の生えた土ごと、そっとたき火の跡に戻せば、アルノーたちの火を扱った痕跡はなくなった。
「さて、帰りましょうか」
二人ともビクはどうするのだろうか、とバルドゥイーンの肩に落ち着いているビクを眺めたが、当のビクは動くつもりもないらしく、肩のところで器用に丸くなっている。
「一応、爪を少しだけ切らせてもらってもいいかな?」
ビクを両手で優しく包み込んで、アルノーはビクに話しかけた。
言葉を理解するはずもないのに、ビクはきゅぃっと鼻で鳴く。
6本の足には、それぞれ4本の爪が生えている。
体の一番外側の爪から、少しだけ爪を切らせてもらい、6つの爪の欠片を薄紙に包んだ。
この程度ならば、森で生きていくにしても、樹木に登ることもできるだろう。
ありがとう、と言って背中を撫でると、ビクはきゅっと鳴いて再びバルドゥイーンの肩へと飛んだ。
「かわいい……」
「あまり情をかけるなよ」
ビクを見て表情を緩ませるアルノーに、バルドゥイーンが注意を促す。
そういうバルドゥイーンとて、肩に戻ったビクの背中を、指の背で撫でていた。
昨日とは違い、二人とも身体のどこにも異常がない状態であるから、帰りの足も速い。
ビクは変わらずバルドゥイーンの肩に鎮座しているが、豊かな黒髪の影にいるビクも黒いから、まったく目立たない。
今日も馬車一台通らない道の端を歩きながら、アルノーとバルドゥイーンはポツポツと互いの話をした。
特に、街を出たことのないアルノーは、バルドゥイーンの旅の話を聞いて大いに楽しんだ。
「一度でいいから、旅に出てみたいなぁ」
「行ってみるといい。自由だし楽しいぞ」
「う~ん、仕事もあるし、腕に自信がないからなぁ」
推しにも弱く、がんと断れないタイプであることもわかっている。
アルノーはかつて、女性に押し倒されて童貞を卒業したし、その後の何人かとの付き合いも、すべてが相手からの強烈な推しの一手であった。
ただしアルノーの気持ちはそこにないから、何度身体を重ねても、誰とも後が続かなかった。
執着心が沸かないのである。
どうしても手に入れたい、だとか、離れたくないだとか。
そういう気持ちがないので、相手も空間に掛けた薄布を押している気分になり、最後には離れていってしまうのだろう。
両親が亡くなって一人きりになっても、それほど寂しさを感じることもなかった。
以前から続く同じ事を、毎日繰り返して、一日を過ごしていくだけだ。
もしかしたら自分には、心が足りないのかもしれない、とアルノーは思っていた。
旅先の何が起こるかわからないような場所で、きっとそれでは駄目だろう。
出かける前のシュミレーションで、すでに旅に出ることを諦めるアルノーである。
旅に憧れているらしいアルノーだが、出かけるつもりはないらしい。
確かに旅をするには金が掛かるし、そう楽しいことばかりでもない。
さえぎるものがない場所での突然の雨、暑さや寒さ、水の補給ができない場所。
持っている食料が傷んで食べられないこともあるし、獲物もない日だってある。
出会う危険は魔獣だけでなく、人間こそが一番危険だと、バルドゥイーンは思っている。
バルドゥイーンは強いから、一人でも大丈夫だが、アルノーには辛いだけかもしれない。
旅で宿に泊まったとして、アルノーが一人で食事をとっていれば、部屋に押し入ろうとする輩が出てくるだろう。
たまにある共同浴場に、アルノーが入ることもあるかもしれない。
見知らぬ輩の前で、アルノーが肌を晒す? 駄目だ、危険すぎる。
夜も明るい街では、酒を飲むこともあるだろう。
見たことはないが、おそらく酔ったアルノーは頬を色付かせていることだろう。
そんな美味しそうな状態のアルノーが、酒に酔って、無事に一人で宿に戻れるか?
絶対に無理だろう。
よし、とバルドゥイーンは心に決めた。
いつかアルノーが旅に出る際には、自分がアルノーを守ろうと。
無意識に心に刻んだ誓いが、バルドゥイーンのマントの裏側の刺繍のひとつを、かすかに光らせたことに誰も気づかない。
明るいうちに城壁をくぐり、灯りをつけずとも商売ができる時間に戻ってきた二人は、そのままいくつかの買い物を済ませた。
酒を買うというアルノーに、バルドゥイーンの心が跳ねる。
「私たちが飲む用じゃないですよ? 薬用です」
なんだと口を尖らせたバルドゥイーンを見たアルノーは、手にしていた瓶とはまた違う瓶も、一緒に購入した。
日用品店でも消耗品を購入し、別の布地の店では、大きな布を幾枚かと、端切れ布を大量に購入した。
質のいい薬瓶を扱う店では、大きめの深い瓶と小さな浅い瓶、どちらも濃い色がついており、日の光を通さない仕組みらしい。
「こんなものかな。荷物持ってくれてありがとう」
「いや、別に大した重さでもない」
バルドゥイーンが一緒にいてくれるから、大量に買ってしまったが、自分一人だったら少なくとも一度に購入して持ち帰れる量ではなかった。
(あまり頼りすぎないようにしないと)
自分を戒めるアルノーである。
街で買ってきた惣菜とパンで早めの夕食を済ませると、アルノーは薬を作るからと断って、一階へと降りていった。
家に戻った時点でしっかりと鍵は掛けたから、大丈夫だろう。
一緒に一階にいてもいいが、作業するには邪魔かもしれない。
何かあれば大きな声を出して呼んでくれ、と二階から言えば、アルノーが作業を見ていても構わないと一階から答えた。
薬師が珍しい薬を作るところなど、なかなか見られるものではない。
ましてや今回は媚薬である。粉末か丸薬か液体か。
一体どのようにして薬が出来上がるものなのか。
バルドゥイーンは肩に乗せたビクをそのままに、尻尾を振って、一階へと降りていった。
「一度の調合で成功する、という確率は低いんです」
「そうなのか」
白いストンとかぶる形の衣服に着替え、髪に布を巻きつけ、口元に白い布を巻いて、粉末を吸わないように準備したアルノーが、いくつもの金属でできた器具を並べていた。
小さく頷いて、始めますと言ったアルノーは、手際よく調合を始めていった。
バルドゥイーンは動き回るアルノーの邪魔にならぬよう、店の入り口側にある椅子の一脚へと腰掛けている。
アルノーが無言で真剣に調合しているのはわかっている。
わかっているのだが、動くたびに揺れる白い衣服から見えるふくらはぎが、バルドゥイーンの視線を釘付けにした。
凝視していても邪魔するわけでもない。
尻尾は動いてホコリをたてぬよう、あらかじめ手に持って抑えている。
集中しているアルノーは、バルドゥイーンに見られていても気にする様子もなく、淡々と作業をこなしていった。
ある程度まで作業が進むと、液状化の工程が待っている。
媚薬に使う液体には、とろみが必要である。
今回アルノーが作ろうとしている媚薬は、口で摂取するのではなく、身体に直接塗り込めるタイプである。
リカルドに渡す場合、いつどうやって仕込まれてもわからない、経口摂取のタイプではマズい。
その点、身体に直接塗り込める媚薬であれば、少なくとも素肌を晒さなければ安全である。
そこまで考えての、とろみのある媚薬であった。
だがひとつ、問題がある。
薬師の薬の精製法は、一般に公開されていない。
今回の媚薬のように、とろみのついた液状化の工程は、限られた薬師だけが知っている。
なぜ隠匿されるのか、それはその材料に秘密があるからであった。
「バル」
頭と口元から白い布を外して、アルノーがバルドゥイーンの方を向いた。
「もうできたのか?」
首を振って、まだですとアルノーが答える。
「まだ大事な工程が残っているんですが、ちょっとお願いがありまして」
バルドゥイーンが頼まれたお願いは、しばらく上に来ないでほしい、というものだった。
何でも材料が足りないらしい。
どういうことかはさっぱりわからないが、家主はアルノーだし、アルノーのお願いは聞きたい。
バルドゥイーンはカウンターの外、椅子に腰掛けたままじっと待ち続けた。
アルノーは知らない、獣人の耳は人間よりも聴覚に優れていることを。
静かに待つバルドゥイーンの耳には、扉を閉めても、アルノーが立てる密かな音がすべて聞こえていた。
最初は、衣服のこすれる音だった。
ぎ、ぎ、と歩く音がして、ギシと小さく木が鳴る。
そして、アルノーの細かな息づかい。
こらえるように、それでも漏れる、ふっ、ふっと艶のある声が聞こえてくる。
音しか聞こえないバルドゥイーンに、見えないはずの光景が、目の前に浮かぶように現れる。
今アルノーは上の階で一人きり、自慰をしているのだ。
なぜかはわからない。
わからないが、アルノーの息づかいは段々激しくなり、我慢しているのであろう声が、唇からんっ、と漏れる。
ギ、ギシと木がしなり、んんっ、と一際艶のある声を漏らして、アルノーは静かになった。
しばらくして、衣服のこすれる音がした。
扉が開き、階段を下りて、アルノーがゆっくりと姿を見せた。
白い服は、きっと一度脱いだのだろう。
急いで着直したからか、アルノーの薄茶の髪は乱れていた。
一人で息をつめて精を吐き出してきたであろうアルノーを、じっと見つめてしまう。
一瞬だけ顔を上げたアルノーが、バルドゥイーンと目を合わせると、真っ赤になって目をそらした。
手に持った色つきのグラスに、おそらくアレが入っているのだろう。
獣人であるバルドゥイーンは、もちろん鼻も利くので、その匂いにも嗅ぎ覚えがある。
スン、と鼻を動かしたバルドゥイーンの仕草に気づいたアルノーが、中身が何かは聞かないでくださいと小さな声で頼んだ。
なるほど、媚薬の作り方が隠匿される理由もわかった。
バルドゥイーンが無言で頷くと、やはり小さな声でありがとうと言って、アルノーは手を洗浄した。
再び髪と口元を白い布で包むと、手にした器にグラスの中身をあけ、何種類かの薬草を混ぜて粉末にしたものを加えて、陶器の棒で練りだした。
種を割った中身と、ビクの爪も擦って加え、純度の高いアルコールを注いでいく。
合わせたものを小鍋に移し、火に掛けて木べらで休まずかき混ぜ続けた。
やがて粘度が増したのだろう、片手でしっかりと小鍋を支え、力を加えて木べらを使うアルノーの額に、汗が浮かぶ。
よし、と言って火から下ろした小鍋の熱を取り、濃い色つきの小さく浅い瓶に移せば、それはほんのわずかな量の軟膏のような出来である。
「できた……」
「あんなにたくさんの材料を使って、たったこれだけの量しか作れないのか」
瓶に顔を近づけて嗅げば、甘い花の蜜のような香りがした。
「あんまり嗅がないでください。材料が材料なんで、恥ずかしい、です」
「思わず口にしたくなるくらい、甘い香りがする」
「だ、駄目ですよッ! 口にしちゃ駄目。そういうものではありませんから」
「媚薬だろう? 口にしては、いけないのか」
浅い瓶に蓋をして、アルノーが真っ赤な顔で説明をした。
「これは素肌に直接塗り込めて使う媚薬なんです」
「なるほど、これなら垂れずに、使いやすそうだな」
バルドゥイーンがニヤリと笑って、アルノーを見て尋ねる。
「それで、いつ試す? 今夜か?」
「………ッッ!!」
真っ赤になって震えたアルノーが、知りませんっ、と言って薬棚の方へ行ってしまった。
きゅぅ、とバルドゥイーンの膝で丸くなって寝ていたビクが、顔だけ持ち上げた。
「かわいすぎだろう」
ビクにだけ聞こえる声でバルドゥイーンが呟けば、きゅっとビクが鼻を鳴らした。
媚薬の材料の一つが新鮮な精液である、ということがバルドゥイーンにバレてしまった。
非常に恥ずかしい、いたたまれない。
何より恥ずかしかったのは、上の階で自慰をしたことすら、バルドゥイーンは気づいていたことであった。
ベッドで精液を出すために、アルノーは想像してしまったのだ。
低い声が自分を呼ぶのを。
アルノーが握ったものを、包み込むように大きな手が添えられることを。
夕べの愛撫を思い出し、アルノーはその続きを想像して、射精をした。
罪悪感いっぱいに下へ降りれば、本物のバルドゥイーンが待っていて。
薬が仕上がるまでは、ずっと静かに見守ってくれていたのに。
「それで、いつ試す? 今夜か?」
悪い顔で笑った顔も、かっこよかった。
心臓が跳ねて、思わず逃げてしまった。
(これは何だろう、心を鎮めるお茶でも飲もう)
薬棚をガチャガチャと荒らして、目当ての茶葉を探し出した。
「さて、帰りましょうか」
二人ともビクはどうするのだろうか、とバルドゥイーンの肩に落ち着いているビクを眺めたが、当のビクは動くつもりもないらしく、肩のところで器用に丸くなっている。
「一応、爪を少しだけ切らせてもらってもいいかな?」
ビクを両手で優しく包み込んで、アルノーはビクに話しかけた。
言葉を理解するはずもないのに、ビクはきゅぃっと鼻で鳴く。
6本の足には、それぞれ4本の爪が生えている。
体の一番外側の爪から、少しだけ爪を切らせてもらい、6つの爪の欠片を薄紙に包んだ。
この程度ならば、森で生きていくにしても、樹木に登ることもできるだろう。
ありがとう、と言って背中を撫でると、ビクはきゅっと鳴いて再びバルドゥイーンの肩へと飛んだ。
「かわいい……」
「あまり情をかけるなよ」
ビクを見て表情を緩ませるアルノーに、バルドゥイーンが注意を促す。
そういうバルドゥイーンとて、肩に戻ったビクの背中を、指の背で撫でていた。
昨日とは違い、二人とも身体のどこにも異常がない状態であるから、帰りの足も速い。
ビクは変わらずバルドゥイーンの肩に鎮座しているが、豊かな黒髪の影にいるビクも黒いから、まったく目立たない。
今日も馬車一台通らない道の端を歩きながら、アルノーとバルドゥイーンはポツポツと互いの話をした。
特に、街を出たことのないアルノーは、バルドゥイーンの旅の話を聞いて大いに楽しんだ。
「一度でいいから、旅に出てみたいなぁ」
「行ってみるといい。自由だし楽しいぞ」
「う~ん、仕事もあるし、腕に自信がないからなぁ」
推しにも弱く、がんと断れないタイプであることもわかっている。
アルノーはかつて、女性に押し倒されて童貞を卒業したし、その後の何人かとの付き合いも、すべてが相手からの強烈な推しの一手であった。
ただしアルノーの気持ちはそこにないから、何度身体を重ねても、誰とも後が続かなかった。
執着心が沸かないのである。
どうしても手に入れたい、だとか、離れたくないだとか。
そういう気持ちがないので、相手も空間に掛けた薄布を押している気分になり、最後には離れていってしまうのだろう。
両親が亡くなって一人きりになっても、それほど寂しさを感じることもなかった。
以前から続く同じ事を、毎日繰り返して、一日を過ごしていくだけだ。
もしかしたら自分には、心が足りないのかもしれない、とアルノーは思っていた。
旅先の何が起こるかわからないような場所で、きっとそれでは駄目だろう。
出かける前のシュミレーションで、すでに旅に出ることを諦めるアルノーである。
旅に憧れているらしいアルノーだが、出かけるつもりはないらしい。
確かに旅をするには金が掛かるし、そう楽しいことばかりでもない。
さえぎるものがない場所での突然の雨、暑さや寒さ、水の補給ができない場所。
持っている食料が傷んで食べられないこともあるし、獲物もない日だってある。
出会う危険は魔獣だけでなく、人間こそが一番危険だと、バルドゥイーンは思っている。
バルドゥイーンは強いから、一人でも大丈夫だが、アルノーには辛いだけかもしれない。
旅で宿に泊まったとして、アルノーが一人で食事をとっていれば、部屋に押し入ろうとする輩が出てくるだろう。
たまにある共同浴場に、アルノーが入ることもあるかもしれない。
見知らぬ輩の前で、アルノーが肌を晒す? 駄目だ、危険すぎる。
夜も明るい街では、酒を飲むこともあるだろう。
見たことはないが、おそらく酔ったアルノーは頬を色付かせていることだろう。
そんな美味しそうな状態のアルノーが、酒に酔って、無事に一人で宿に戻れるか?
絶対に無理だろう。
よし、とバルドゥイーンは心に決めた。
いつかアルノーが旅に出る際には、自分がアルノーを守ろうと。
無意識に心に刻んだ誓いが、バルドゥイーンのマントの裏側の刺繍のひとつを、かすかに光らせたことに誰も気づかない。
明るいうちに城壁をくぐり、灯りをつけずとも商売ができる時間に戻ってきた二人は、そのままいくつかの買い物を済ませた。
酒を買うというアルノーに、バルドゥイーンの心が跳ねる。
「私たちが飲む用じゃないですよ? 薬用です」
なんだと口を尖らせたバルドゥイーンを見たアルノーは、手にしていた瓶とはまた違う瓶も、一緒に購入した。
日用品店でも消耗品を購入し、別の布地の店では、大きな布を幾枚かと、端切れ布を大量に購入した。
質のいい薬瓶を扱う店では、大きめの深い瓶と小さな浅い瓶、どちらも濃い色がついており、日の光を通さない仕組みらしい。
「こんなものかな。荷物持ってくれてありがとう」
「いや、別に大した重さでもない」
バルドゥイーンが一緒にいてくれるから、大量に買ってしまったが、自分一人だったら少なくとも一度に購入して持ち帰れる量ではなかった。
(あまり頼りすぎないようにしないと)
自分を戒めるアルノーである。
街で買ってきた惣菜とパンで早めの夕食を済ませると、アルノーは薬を作るからと断って、一階へと降りていった。
家に戻った時点でしっかりと鍵は掛けたから、大丈夫だろう。
一緒に一階にいてもいいが、作業するには邪魔かもしれない。
何かあれば大きな声を出して呼んでくれ、と二階から言えば、アルノーが作業を見ていても構わないと一階から答えた。
薬師が珍しい薬を作るところなど、なかなか見られるものではない。
ましてや今回は媚薬である。粉末か丸薬か液体か。
一体どのようにして薬が出来上がるものなのか。
バルドゥイーンは肩に乗せたビクをそのままに、尻尾を振って、一階へと降りていった。
「一度の調合で成功する、という確率は低いんです」
「そうなのか」
白いストンとかぶる形の衣服に着替え、髪に布を巻きつけ、口元に白い布を巻いて、粉末を吸わないように準備したアルノーが、いくつもの金属でできた器具を並べていた。
小さく頷いて、始めますと言ったアルノーは、手際よく調合を始めていった。
バルドゥイーンは動き回るアルノーの邪魔にならぬよう、店の入り口側にある椅子の一脚へと腰掛けている。
アルノーが無言で真剣に調合しているのはわかっている。
わかっているのだが、動くたびに揺れる白い衣服から見えるふくらはぎが、バルドゥイーンの視線を釘付けにした。
凝視していても邪魔するわけでもない。
尻尾は動いてホコリをたてぬよう、あらかじめ手に持って抑えている。
集中しているアルノーは、バルドゥイーンに見られていても気にする様子もなく、淡々と作業をこなしていった。
ある程度まで作業が進むと、液状化の工程が待っている。
媚薬に使う液体には、とろみが必要である。
今回アルノーが作ろうとしている媚薬は、口で摂取するのではなく、身体に直接塗り込めるタイプである。
リカルドに渡す場合、いつどうやって仕込まれてもわからない、経口摂取のタイプではマズい。
その点、身体に直接塗り込める媚薬であれば、少なくとも素肌を晒さなければ安全である。
そこまで考えての、とろみのある媚薬であった。
だがひとつ、問題がある。
薬師の薬の精製法は、一般に公開されていない。
今回の媚薬のように、とろみのついた液状化の工程は、限られた薬師だけが知っている。
なぜ隠匿されるのか、それはその材料に秘密があるからであった。
「バル」
頭と口元から白い布を外して、アルノーがバルドゥイーンの方を向いた。
「もうできたのか?」
首を振って、まだですとアルノーが答える。
「まだ大事な工程が残っているんですが、ちょっとお願いがありまして」
バルドゥイーンが頼まれたお願いは、しばらく上に来ないでほしい、というものだった。
何でも材料が足りないらしい。
どういうことかはさっぱりわからないが、家主はアルノーだし、アルノーのお願いは聞きたい。
バルドゥイーンはカウンターの外、椅子に腰掛けたままじっと待ち続けた。
アルノーは知らない、獣人の耳は人間よりも聴覚に優れていることを。
静かに待つバルドゥイーンの耳には、扉を閉めても、アルノーが立てる密かな音がすべて聞こえていた。
最初は、衣服のこすれる音だった。
ぎ、ぎ、と歩く音がして、ギシと小さく木が鳴る。
そして、アルノーの細かな息づかい。
こらえるように、それでも漏れる、ふっ、ふっと艶のある声が聞こえてくる。
音しか聞こえないバルドゥイーンに、見えないはずの光景が、目の前に浮かぶように現れる。
今アルノーは上の階で一人きり、自慰をしているのだ。
なぜかはわからない。
わからないが、アルノーの息づかいは段々激しくなり、我慢しているのであろう声が、唇からんっ、と漏れる。
ギ、ギシと木がしなり、んんっ、と一際艶のある声を漏らして、アルノーは静かになった。
しばらくして、衣服のこすれる音がした。
扉が開き、階段を下りて、アルノーがゆっくりと姿を見せた。
白い服は、きっと一度脱いだのだろう。
急いで着直したからか、アルノーの薄茶の髪は乱れていた。
一人で息をつめて精を吐き出してきたであろうアルノーを、じっと見つめてしまう。
一瞬だけ顔を上げたアルノーが、バルドゥイーンと目を合わせると、真っ赤になって目をそらした。
手に持った色つきのグラスに、おそらくアレが入っているのだろう。
獣人であるバルドゥイーンは、もちろん鼻も利くので、その匂いにも嗅ぎ覚えがある。
スン、と鼻を動かしたバルドゥイーンの仕草に気づいたアルノーが、中身が何かは聞かないでくださいと小さな声で頼んだ。
なるほど、媚薬の作り方が隠匿される理由もわかった。
バルドゥイーンが無言で頷くと、やはり小さな声でありがとうと言って、アルノーは手を洗浄した。
再び髪と口元を白い布で包むと、手にした器にグラスの中身をあけ、何種類かの薬草を混ぜて粉末にしたものを加えて、陶器の棒で練りだした。
種を割った中身と、ビクの爪も擦って加え、純度の高いアルコールを注いでいく。
合わせたものを小鍋に移し、火に掛けて木べらで休まずかき混ぜ続けた。
やがて粘度が増したのだろう、片手でしっかりと小鍋を支え、力を加えて木べらを使うアルノーの額に、汗が浮かぶ。
よし、と言って火から下ろした小鍋の熱を取り、濃い色つきの小さく浅い瓶に移せば、それはほんのわずかな量の軟膏のような出来である。
「できた……」
「あんなにたくさんの材料を使って、たったこれだけの量しか作れないのか」
瓶に顔を近づけて嗅げば、甘い花の蜜のような香りがした。
「あんまり嗅がないでください。材料が材料なんで、恥ずかしい、です」
「思わず口にしたくなるくらい、甘い香りがする」
「だ、駄目ですよッ! 口にしちゃ駄目。そういうものではありませんから」
「媚薬だろう? 口にしては、いけないのか」
浅い瓶に蓋をして、アルノーが真っ赤な顔で説明をした。
「これは素肌に直接塗り込めて使う媚薬なんです」
「なるほど、これなら垂れずに、使いやすそうだな」
バルドゥイーンがニヤリと笑って、アルノーを見て尋ねる。
「それで、いつ試す? 今夜か?」
「………ッッ!!」
真っ赤になって震えたアルノーが、知りませんっ、と言って薬棚の方へ行ってしまった。
きゅぅ、とバルドゥイーンの膝で丸くなって寝ていたビクが、顔だけ持ち上げた。
「かわいすぎだろう」
ビクにだけ聞こえる声でバルドゥイーンが呟けば、きゅっとビクが鼻を鳴らした。
媚薬の材料の一つが新鮮な精液である、ということがバルドゥイーンにバレてしまった。
非常に恥ずかしい、いたたまれない。
何より恥ずかしかったのは、上の階で自慰をしたことすら、バルドゥイーンは気づいていたことであった。
ベッドで精液を出すために、アルノーは想像してしまったのだ。
低い声が自分を呼ぶのを。
アルノーが握ったものを、包み込むように大きな手が添えられることを。
夕べの愛撫を思い出し、アルノーはその続きを想像して、射精をした。
罪悪感いっぱいに下へ降りれば、本物のバルドゥイーンが待っていて。
薬が仕上がるまでは、ずっと静かに見守ってくれていたのに。
「それで、いつ試す? 今夜か?」
悪い顔で笑った顔も、かっこよかった。
心臓が跳ねて、思わず逃げてしまった。
(これは何だろう、心を鎮めるお茶でも飲もう)
薬棚をガチャガチャと荒らして、目当ての茶葉を探し出した。
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