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「あの、あの、……ちょっとだけ……」
「……? なんだ?」
 上目遣いのアルノーが、バルドゥイーンの機嫌を伺うように見上げている。
「ちょっとだけ、尻尾に触ってもいいでしょうか?」
「……かまわないが」

 ありがとうございますっ、と言い終える前に、しゃがみ込んだアルノーが尻尾に飛びついていた。
 生まれ故郷では、尻尾を使って子狼をあやすことがある。バルドゥイーンは今それを思い出していた。
「モフモフ、フワフワ、生きてて良かった~」
 心から尻尾に触れることを堪能している様子のアルノーに、バルドゥイーンもおかしな人間だなと、苦笑しつつ、アルノーが尻尾を撫でるに任せた。

 尻尾に顔までうずめて、口に毛が入ったと喜んでいるアルノーの手が、ふいに尻尾の付け根に触れて、バルドゥイーンが身体をこわばらせた。
 ビクッと固まったバルドゥイーンに気づき、アルノーが尻尾から顔を上げた。
「……バル?」
「尻尾の付け根は、マズいんだ」
「……ごめん、なさい」

 視線を逸らしたバルドゥイーンは、口元を片手で覆っている。
 眉根を寄せて、しばらく耐えるような顔をしていたバルドゥイーンが、ようやくアルノーと目を合わせて言った。
「いや、獣人のことを知らなければ仕方ない。尻尾の付け根には性感帯がある」
「あ、なるほど。せいかんたい……」
 尻尾からそっと手を離し、両膝を床についていたアルノーは、立ち上がった。

「………ほんと、ごめんなさい。失礼なことをしました」
「いや、いいけど」
 どうせそのうち尻尾の付け根を触らせる仲になるのだし、と思いつつバルドゥイーンは、アルノーを見下ろす。
 耳まで真っ赤に染めて俯いたアルノーは、つむじしか見えない。
 いくつになるのか知らないが、もだもだと謝罪を口にしているアルノーは、かわいらしかった。
 『正式なお誘い』まで、待てるだろうかと自分自身の忍耐力に疑問を持ちつつ、バルドゥイーンのお腹は再びグウゥと音を立てた。

 顔を上げたアルノーが、思ったよりも近くにあったバルドゥイーンの顔に一瞬驚き、そういえばご飯だって起こしに来たんだった、と思い出した。
「ご飯、できたけど食べられそう?」
「もちろん」
「身体のしびれは、どう?」
「だいぶ消えている。手と足の先がビリビリしてる程度だな」
 手を持ち上げて、握ったり開いたりしてみせる感じでは、問題なさそうに動いているようだ。
「そう、良かった。あの……バル、傷つけてごめんなさい」
「気にしていない」
「それから、助けてくれてありがとう」

 バルドゥイーンが、ふっと微笑んだ。精悍な顔はほころぶと、優しげに見える。
 灯りをつけた室内では、バルドゥイーンの瞳は、はしばみ色になった。
「こちらこそ街まで連れてきてもらった。今も世話になっている」
「あ、うん。狭いけど、どうぞくつろいで?」
 薄茶色の髪とよく合うグレーの瞳を細めて、アルノーが微笑んだ。
 いつの間にか敬語はなくなって、とっつきやすいくだけた話し方へと変わっていた。

 アルノーの笑顔を見たからか、きちんと謝罪をしたのがよかったのか。
 バルドゥイーンの尻尾がふいに、バッサバッサと寝具を叩いた。
 揺れる尻尾を見て、お腹が空いたよね、早く食べようと言ってアルノーは階段を下りて行った。



 『あなたに私を捧げます』と家に招かれても、『正式なお誘い』を受けるまでは待つのが種族の礼儀である。
 まずはアルノーからの『正式なお誘い』を待とう、とバルドゥイーンは律儀に決めていた。
 それが、もうさっそく『正式なお誘い』を受けてしまった。
 アルノーは先ほど、寝具のところで「どうぞくつろいで」と言った。

 寝具で首や腹を見せ、安心してくつろいでいい。
 それが種族に伝わる『正式なお誘い』である。

 もちろんアルノーは、種族の習わしなど知らないし、「くつろいで」とはそのままの意味であった。
 だがまさか、自分の種族の習わしが人間たちとは違う、などとは夢にも思わないバルドゥイーンである。
 尻尾をゆらりと揺らしながら、しびれの残る足先を動かして、ゆっくりと階段を下りていくのであった。



 「うまいっ!」
 バルドゥイーンは何を口にしても、うまいと言った。酒など出していないのに、酔ったように上機嫌なバルドゥイーンを前に、アルノーも笑った。

 いつもは一人暮らしである、生きるためだけに食事を摂っているようなものだ。
 だが今日はバルドゥイーンがいて、会話がはずみ楽しかったし、二人で食べる食事はとても美味しかった。

「今夜はずいぶん楽しいので、二人でお酒でも飲みたい気分だけど」
「おっ、いいねぇ酒!」
「残念ながら、私の家にはお酒が置いてないのです」
「えぇ~」
「それに、バルはしびれ薬のこともあるし、今夜はどのみち無理ですよ」
「ん~、もうほとんど、しびれはないけどな」
 拳を握って開く動作を素早く繰り返して、バルドゥイーンがつぶやく。

「お酒はまた今度、買ってきましょう」
 浴室を使って、早く休まないと明日も店を開けますから。
 と言われてバルドゥイーンが先に浴室を使った。
 古いがよく手入れされた魔道具は、湯量も温度も十分だった。
 さっぱりと汚れを落とし、荷物から出した着替えに身を包んだバルドゥイーンがキッチンへ戻ると、アルノーが階段を下りてくるところだった。

「湯をありがとう」
「どういたしまして。ベッドで寝られるようにシーツ替えたから、どうぞ先に休んでください」
 ベッドでひとり、アルノーが来るのを悶々と待つのも、いやだった。
「いい、ここでアルノーを待つ」
 バルドゥイーンが、キッチンのご飯を食べたテーブルの椅子に腰を掛けると、律儀な人ですねと小さな声でアルノーが言って、浴室へ入っていった。

 浴室で二人分のマントを洗ってすすぎ、よく水気を絞る。広げて干しておけば、一日あれば乾くだろう。
 魔物の血の汚れもきれいに落ちたマントを見て、アルノーはホッと息を吐いた。

 広げて浴室内に干したバルドゥイーンのマントの裏側には、布と同じ色をした糸で、目立たぬよう美しい刺繍がたくさん施されていた。
 刺繍はすべて見たこともないような複雑な形の紋様で、いかにも魔術師らしい。
 魔術師を見かけたことはあっても、マントの裏側など見るのは初めてだったので、そんなものかと手を離し、皺にならぬよう再び整えて干した。

 浴室を出れば、バルドゥイーンが待っていた。
 いや、待ち構えていた、というべきか。
 頬杖をついて仏頂面だが、出てきたアルノーを見た瞬間から激しく揺れる尻尾が、子どもの頃家にいた犬を思い出させる。
 思わず懐かしさから微笑んで、お待たせしました、とアルノーは言った。

「早くベッドへ行こう」
 素早く立ち上がったバルドゥイーンが、アルノーの手を取った。
 おや、一緒に寝てよいのかとアルノーは思った。バルドゥイーンにベッドを貸して、アルノーは床に毛布でも敷いて寝るつもりだったのである。

「一緒に寝てもいいんですか?」
 手を引かれながら階段を上るアルノーに他意はないが、バルドゥイーンは『正式なお誘い』を受けたと思っている。
「一緒に寝ないのか?」
 不思議そうな顔をして尋ねるバルドゥイーンに、欲は見えない。
「バルがかまわないなら、一緒に寝ます。床は痛いですし」

 アルノーの応えに満足そうに笑顔で頷いて、バルドゥイーンは一緒に寝ようと言って、アルノーの手を持ったまま先に階段を上っていった。
 はしばみ色だった瞳は、再び金色にギラギラと光り、これから味わうであろうアルノーの柔らかい白い肌を想像すれば、身体中が尻尾の先まで期待にブルリと震えた。



 ベッドで上掛けをめくってくれたバルドゥイーンに礼を言って、アルノーは先にベッドへと上がった。
 いつもは真ん中あたりにのびのびと一人で寝るベッドだが、今夜は端の方へ寄って、バルドゥイーンが寝るスペースをあける。
 なんとなく半分ほど残したスペースで、身体の大きなバルドゥイーンが足りるかな、と目線で確認していたアルノーは、ベッドに上がったバルドゥイーンに「寝ましょうか」と言った。

「……寝させないよ」
 いきなり上から覆い被さられて、アルノーは心臓が飛び出すかと思った。
 アルノーの顔の横に両手をついたバルドゥイーンは、ギラギラした瞳でアルノーのことを見ている。
 欲望をむき出しにした表情には、覚えがある。
 あれ、いつの間にこんなことになったんだっけ、と思っているうちに、降りてきたバルドゥイーンに軽く口づけられ、そのまま抱きしめられていた。

 あれ、あれ、と混乱しているうちに、バルドゥイーンは手際よくアルノーのシャツをはだけさせ、不快ではないキスと愛撫を優しく繰り返していた。

 アルノーとて、こんなことは初めてではない。人と比べたことなどないから、数は多くないだろうが、経験だってそれなりにはある。
 だが、どうして急にこうなったのか、さっぱり理解できなかった。
 先ほどまではいたって普通に、ただ一緒に寝ようとしていたはずである。
 どこでこの獣人のスイッチが入ってしまったのか、まったくわからない。

 今日初めて会ったばかりの獣人と、その夜こんな関係になってしまって、いいのだろうか。
 アルノーの常識では、それは今まではありえないことであった。
(会ったばかりの人と、すぐにそんなこと、ありえない……)
 そうは思っても、バルドゥイーンから与えられる愛撫は、とても優しくて。
 不快などころか、とても気持ちが良かった。

 友人としての付き合いが長い人がいたとして、その人と初めて夜を共に過ごそうとした場合、いざという時にその人から触れられるのを不快に思うことがある。
 その人の何がいや、というわけではなかったのだが、生理的嫌悪。友人であった時には感じなかったそれは、どうしようもない。

 アルノーはあらがうのを止めた。
 バルドゥイーンは今日初めて会った獣人だが、この感触はとても心地よい。
 バルドゥイーンのシャツを握りしめていた手から、そっと力を抜く。
 シーツを掴んでいた手からも力を抜けば、残ったのは肌が粟立つような心地よさだけだった。

 アルノーは与えられる心地よさに身を委ね、大きく息を吐いた。



 バルドゥイーンは、アルノーの閉じたまぶたに軽く唇をあてて、そっと身を起こした。
 ぐしゃりと一度、自分の髪の毛をかき回す。
「……嘘だろう?」
 バルドゥイーンは、すうすうと寝息を立てているアルノーを見てため息をつくと、諦めて自分も横になった。
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