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第2章
幕間 ティータイム
しおりを挟む今日は水の日。
前日に初回の授業を終えた俺と母上は、今日は自宅でまったりと過ごしていた。
今は至福のおやつタイムだ。
例によって小さな丸テーブルを囲んで、向かい合って座っている。
母上と二人で過ごすこの時間は俺にとってとても幸せな時間だった。
父上は……うん、混ぜてあげなくもない。
もちろん目の前のおやつも魅惑的だが、俺がこの時間を大事にしているのは色んな事を忘れてゆったりと過ごせるからだ。
ちょうど直前の時間を魔法の秘密特訓にあてているから、余計に癒しを求めてしまうのかもしれない。
お腹も空いてるしな。
これで生菓子なんかもあれば最高なんだけどな……。
この世界のお菓子といえば何故かクッキーやビスケットなどの焼き菓子ばかりだった。
前世世界における中世なら、保存方法などの問題で傷みやすい生菓子やとけやすい氷菓は難しいかもしれないが、ここには魔法がある。
科学の追い付いてない部分だって、幾らでも魔法で補えるだろうに。
ううっ、プリンや餡団子が懐かしい。
二度と食べられないと思うと食べたくなるものだ。
実際にそれらをこの舌で味わった事は無い筈なのに、この世界のお菓子を食べていると何と無くこれじゃない、と思ってしまう。
前世の僕は甘いものにはうるさかったようで、レシピを見て自分で、なんて事もちょくちょくしていたらしい。
自分流のレシピも幾つか持っていたようだ。
頻繁に作っていたもの以外は思い出せないけれど。
いつか自分で作ってみよう、なんて考えながらリスのようにビスケットをガジガジ食んでいた。
「ねえ、アルちゃん?」
「……はい?」
向かいの席で時々紅茶を飲みながら編み物をしていた母上に名を呼ばれる。
両手で持っていたビスケットを下ろし、口の中のものを急いで咀嚼してからごくんと飲み込み、返事をした。
よく見れば母上の手元の靴下は完成していた。
サイズから考えるにどうやら俺のものらしい。
「アルちゃんはどうして“俺”なの?」
一瞬何を聞かれたのかわからなかった。
どうして“俺”なのか。
哲学的な話かと首を傾げそうになったところで思い直す。
ああ、一人称のことか、と。
「別に俺じゃあダメっていうわけじゃないわよ? ただ、何処でそんな言葉を覚えたのかしらと思って……」
「えーっとね……」
何処でそんな言葉を覚えたのか。
そう訊ねる母上の言葉に俺は目を泳がせた。
アルフレート・シックザールの身近に一人称が俺の人物はいない。
考えろ、考えるんだ、俺!
働け、俺の脳。
「御本で読んだの。俺って言うの、格好いいでしょ?」
なるべく子供らしく。
耳新しい言葉を使ってみたいという子供心を装う。
納得してくれただろうか?
内心で緊張しながら様子を窺うと、母上はうーんと数秒考え込みはしたものの最終的には頷いてくれた。
ホッとして再び食べ掛けのビスケットに手を伸ばす。
しかし、その指先はお菓子に行き着く事無く凍りついた。
「俺、もいいけど母様はアルちゃんが僕って言うのを聞いてみたいわ」
「うっ……」
試練はまだ終わっていなかった。
母上が、『僕』をご所望だ。
母上のささやかな願いくらい、叶えてあげたい。
だが、俺は『僕』と言えずにいた。
そもそも、俺くらいの年齢の男の子なら自分の事を『僕』、もしくは名前で呼ぶのが最もポピュラーだと思う。
家族にニックネームで呼ばれている場合はそれをそのまま真似る子も多いだろう。
逆に『俺』と自称する子は稀だ。
周囲の目を気にして普通の子供らしく振る舞うなら『俺』ではなく、年齢相応に『僕』が無難だろう。
そんな事は百も承知だった。
だが現実には敢えて『俺』を選んでいる。
いや、『俺』しか選べなかったのだ。
乙女ゲー言語への恐怖ゆえに。
俺の前世は『僕』だった。
一度ひとたび、『僕』と語り始めてしまえば魂の淵、脳味噌にこびり付いたそれが発動してしまいそうで怖かった。
だからこそ、俺は『俺』を選んだのだ。
何の意味も無い、無駄な抵抗だと笑うだろうか?
実際、こうして『俺』と自称していても時に乙女ゲー言語の侵略を許してしまう。
これが『僕』と言い始めたらと思うと、想像するだに恐ろしい。
「ね、一回だけ?」
「うっ……」
「お願いっ」
「ぼ、ぼ、ぼ……」
子供の成長過程を文字通り一挙手一投足に注目して楽しむ親は多い。
普通ならアルちゃんだの僕だのを経て俺になる筈だったのだ。
そこをすっ飛ばしてしまったのだから、見守る側としては『見逃した』と思うのもまた自然だった。
他ならぬ母上の頼みならば、と期待に満ちた眼差しを前に口を開く。
金魚みたいに、何度も吃どもった。
そしてついに……。
「ボスニア・ヘルツェゴビナ!」
……言えませんでした。
「ボス……? それはなにかしら?」
急に耳慣れない単語を叫んだ俺に母上が目を剥く。
ボスニア・ヘルツェゴビナ。
地球のどこかの国の名前だ。
どこの国かは覚えていない。
ただ口を衝いて咄嗟に出ただけだ。
「ううん、何でもない」
左右に首を振ってビスケットに口を付けた。
ごめんなさい、と心の中で呟きながら。
小さくなってビスケットを齧る俺は落ち込んでいるように見えたのだろう。
「無理しなくてもいいのよ?」
テーブルの向こう側から伸びてきた手が俺の頭をそろりと撫でる。
皮肉にも、母上の小さなその願いが叶ってしまわない事が俺の願いだ。
それがちょっぴり寂しい。
けれど今はその優しい手に甘える事にした。
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