逃避行は悪魔と共に

黒砂糖デニーロ

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第二章

「追われる者と追う者と」

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 人間とは不便なもんだ。生きる上で睡眠という行為を欠かすことができない。睡眠中は一切の行動が出来ず、どんな武術の達人であろうと睡眠中は無防備だ。
 それでありながら他の本能的欲求と違い、睡眠欲には抗うことは出来ず、いずれは眠りに落ちてしまう。人間ではない俺には考えられないことだ。
 エリカの安らかな寝顔はとても幸せそうだ。そこに追われる者の緊張は皆無だ。
 睡眠中の人間は誰もが同じだ。それを責める事は筋違いなのだが……
「なんでこんな安らかに眠れるのかね。こいつは……」
 眠る前は散々野宿はいやだとごねていたくせに。
 昨晩は逃げるようにエルバを後にし、街道を進んで森に入った所で野宿となった。
 一夜明け、今は眩い朝日が昇り、日の光が木々の間からこぼれている。
 退屈を持て余す俺は差し込む光に目を細めながら向かいにいるエリカをただただ見つめる。
「……へへっ」
 うわっ。寝ながら笑ってるよ、こいつ。気持ち悪っ!
 これ以上の主の醜態に耐え切れなくなった俺は、我が主様を起こすことにした。

「飯はどうする?何なら採ってきてやってもいいぞ」
 まだ眠い目をこするエリカに尋ねる。まぁ、このへんで採れる食い物なんて蛙か蛇くらいなもんだが。正直、エリカのリアクションが見たくて食料調達係を買って出たのだが、
「いやよ。ヴァル君、蛙とか蛇とか変なのしか持ってこないんだもん。それよりも……じゃん!」
 俺の考えを的中させたとは知らず、エリカが袋をごそごそと取り出したのは、大きな葉に包まれた握り飯た。
「昨日宿のおばちゃんに台所を借りて作っておいたの。朝は早く出るつもりだったからね」
 得意げに説明し、それを俺に差し出す。どうやら俺の分もあるらしい。
「それで?ベルゼルの目撃情報があったマルレーンってどんなとこなんだ?」
 握り飯を受け取りながら尋ねる。ちなみに食事は睡眠ほど否定的ではない。うまい飯を食う事はいいことだ。けして無駄ではない。
「マルレーンはこのシーヴィル大陸でも随一の港湾都市よ。世界中の様々な品物が集まることはもちろん、海路の要所でもあるから、多くの人が集まるわ」
 エリカは指を立てて流暢に説明する。
「今度の師匠の目撃情報は信憑性が高いし、今まで出一番有力な手がかりだわ。今回はここで徹底的に聞き込みを行って師匠の手がかりを探すわ」
 自信満々に語り、エリカも握り飯を口にする。大口で頬張るのではなく、少しずつこまめに食べる姿は小動物っぽくてエリカらしい。
「その方針に文句は無いが、気をつけろよ?それだけ人の多い大都市なら、警察官や王国の捜査官なんかも多いはずだ。エルバみたいにボケッとしてると簡単に捕まるぞ」
 俺の忠告にも、エリカはへらへらと阿呆の子のように笑って聞き流しやがる。
「わかってるって。もぅ、ヴァル君は心配性すぎるよ」
「とても指名手配中の逃亡犯のセリフとは思えないな……」
「でもヴァル君は私を心配してくれるのよね。ありがとう」
 さらりとそんな愚にも付かないことを言い出したエリカ。おおよそ腹芸や作り笑顔とは縁の無い、心底嬉しそうな笑みをこちらに向けられ、不覚にも俺は一瞬見入ってしまった。
 はっと我に帰ると、こみ上げていた感情を残りの握り飯と一緒にガツガツと平らげ胃に押し込んだ。
「つまらんこと言ってないで、オラ、さっさと行くぞ」
 手をはたくと立ち上がり、エリカをせかす。
「待って。私まだ食べ終わってないから」
 見るとエリカはまだ一個目を半分ほどしか食べていなかった。
「まったく……。さっさとしろよ」
 俺はそういいつつも再び腰を下ろし、イライラしながら膝を揺する。エリカは、恐らく本人的にはかなり急ぎながら食べているのだろう。
 たった2個の握り飯をじっくり時間をかけて完食したエリカはとても満足そうだった。食ってる間暇な俺は他にすることも無く、仰向けになってずっと空を見続けていた。重なる木々の間から垣間見える蒼穹の空。たまに鳥の群れがアホのように固まって飛んでいるのが見えた。
「はー。おいしかった」
「ああそうですか。そらよかったですな」
 お腹いっぱいで眠い、などと言われたら敵わないので今度こそ出発することにしよう。食後の一息を入れようとしているエリカなど知ったことか。
「ほら、さっさと――」
 急かそうとした言葉は唐突に途切れる。何者かがこちらに向かって急接近しているのが俺の感覚に引っかかったからだ。ただ近づくだけなら問題ないが、俺が張り巡らせた警戒網に入ったこいつは明らかに人間の速さではない。これを一般人と判断するほど俺の頭は腐ってない。
 これは久しぶりの大物かな?俺はこれから起こるであろう戦いの予兆に、つい舌なめずりをしてしまう。
「エリカ。何かがこっちに向かってる。注意しろ」
「え?何かって……!」
 エリカも何かを感じ取ったのか、言葉を飲み込み周囲を警戒する。
 そしてそいつを肉眼で捉え、その速さを改めて実感する。いささかも速度を緩めることなく木々をかわして迫るそいつは、動体視力が人間の比ではない俺でもぼやけた白い輪郭だけしか見えない。エリカにはまともに目で追うことすらできていないはずだ。
 あれだけの速度を出しながら音も無く止まった白い影。背後では遅れて木々が風圧に大きく揺れ、こすれた木の葉同士が小波の音を上げていた。
身に纏うは、清廉を示す白にシンボルである赤い十字が刺繍されたローブ。
それは王国の精鋭たる、王国捜査官エージェントの証。
「ようやく見つけたぞ……エリカ・カーティス!」
 フードを上げ顔をあらわにした少年はそう叫び、エリカに視線をぶつける。
 小柄な体型に見合った、まだ幼さを残す顔立ち。発せられる声も中性的な少年のそれだ。
 そしてその顔は俺も、エリカにも見覚えがあった。
「もしかして……オリン君?」
 震えるような声で問うエリカ。
 コイツの名はオリン。見た目こそまだ青臭さの残る少年だが、王国の広域犯罪を捜査する王国捜査局に所属する、王国捜査官エージェントである。
そしてどうやらエリカとオリンは旧知の間柄のようだ。よくは知らないがエリカとは魔法学校時代の離れた先輩後輩の間柄だったと聞く。
 指名手配直後、エリカを追跡の任を受けたコイツと一戦交えた過去がある。
「首都ローデン以来だな。あの時は不覚を取ったが今回は……わぷっ!」
 オリンの言葉は押し付けられた温もりによって阻まれた。
「よかったぁ!無事だったんだね!本当に心配していたのよ!」
 駆け寄り、強く抱きしめるエリカ。胸の中でオリンがムガムガと何か言っているがエリカは聞いちゃいない。
 オリンはそのエリカを両腕で突き放す。
「お、お、お前何考えてるんだ!俺はそ、捜査官だぞ!お前の追っ手、つまり敵だぞ!」
 エリカを指差し、ぎゃあぎゃあわめくオリン。顔は耳まで真っ赤だった。経験未熟な少年にあの凶器じみた体は刺激が強すぎたようだ。
 そんな事など露知らず、ただ突き放されたことに戸惑うエリカ。
「敵って……オリン君まだ怒ってるの?」
「怒ってる、だと?自分でやっておいてよく言えるな!」
 心底怒ったようにまくし立てるオリン。しごくもっともな言い分だ。なぜなら、以前俺がサードシフトの状態で半殺しにした捜査官というのも他ならぬオリンのことだからだ。エリカが心配したのはその時の傷のことだ。正直俺もあの状態からよく回復したと驚いているくらいだ。
 その件で言えば実行犯は俺であり、エリカを責めるのはお門違いなのだがオリンからすればその召喚者であるエリカにやられたも同然なのだろう。
 歳の離れた後輩に怒られしゅんとうな垂れるエリカ。これでは一体どっちが年上なのだかわからなくなる。
「王国魔導士の治癒術師隊のおかげで一命は取り留めたが、術後も一ヶ月は昏睡状態だった。もう少し遅ければ、死んでいたそうだ」
 あれは放っておけば間違いなく死に至る類の傷だった。そうそう治るような生易しい傷じゃない。さぞ大規模な術式だったに違いない。
「少しでも俺に罪悪感があるなら大人しく縛に就け!」
 情けをかなぐり捨て、厳しい口調をぶつけるオリン。一方、その眼差しの先にいるエリカはというと、顔を歪ませ、今にも泣きそうな表情だった。オリンを傷つけたことにか、オリンと敵対することになった現状にか、はたまた単にオリンが怒っているからか。エリカの性格を鑑みれば泣く原因が多すぎてわからない。さすがに声を上げてなくほど子供でもないが、ぎゅっと服の裾をぎゅっと握り、しゃくり上げながら必死に泣くのを堪えようとしている姿は、情けないが完全に親に叱られた子供にしか見えない。
 そして予想通り、程なくエリカの双眸から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。
 やれやれ。そろそろ助け舟を出してやるか。このまま放っておいたら本当に自首しかねないからな。
「まぁそこらへんにしておけよ」
 言いながら一歩前に出る俺。エリカとオリンが同時に目を向ける。
「いいじゃねえか。結果的には生きてたんだ。それでよしとしようぜ?」
「お前が言うな!」
 ズビシッ!とキレのよさでつっこむオリン。
「第一、その事はもうどうでもいい。俺は職務を全うするためにエリカ・カーティスを追ってきたんだ。けっして怨恨や仕返し目的じゃない!」
「そりゃ仕事熱心なことだ。ならこんなぼけらっとしたやつ追いかけるよりもっと犯罪者らしい奴でも追いかけてろよ。昨日泊まった宿にはそんなのがたくさんいたぞ」
 宥めるように言うが、表情から察するに穏便に帰してやろうという俺のありがたい気遣いはオリンには届かなかったようだ。
「あくまで自首する気が無いと言うなら力ずくで――」
「力ずくで、何だ?」
 低い声と威圧感を込めた視線で睨みつけられ、オリンは思わず言葉を飲み込んでしまう。
「力ずく?上等だ。こっちは最近雑魚ばっかりで欲求不満なんだ。楽しませてくれるんだろうな?」
 俺は肩をぐるぐると回し体をほぐしながら言う。俺の威圧に気圧され「うっ」と思わず後退るオリン。脳裏には以前の光景がフラッシュバックしていることだろう。
「言っとくが、そこらの雑魚と同じだったりしてみろ。前回は運よく助かったみたいだが、次は肉片レベルまで刻んでやるからな」
 獣の唸り声のように低い声で脅されたオリンは微かに足が震え、今にも逃げ出しそうだった。
 だが、思い出したかのように表情を一転させ余裕の笑みを浮かべる。
「ふん。前回までの俺だと思うなよ?こちらとて同じ事を繰り返すほど馬鹿じゃない」
 なるほど。秘策アリ、か。オリンは首に下げた羽飾りを握り締めると、
「盟約に従い、姿を現せ。対の使徒、メリッサ!アリッサ!」
 声高らかに唱えた。同時にオリンを中心に魔力を伴った光と風が吹き荒れる。その魔力量も一般的な魔法のそれを大きく上回っていた。
 だがそれも一瞬。光が収まり、閉じていた目を開けると、オリンの両脇には二人の女が忽然と現れていた。
 陶器のように白い肌。ガラス玉の如き丸く澄んだ目。エリカとは違い起伏は目立たないものの、無駄なくしなやかそうな体。細く繊細な四肢――二人は人間とはかけ離れた次元の美しさを擁していた。
 驚くべき事は彼女らは体の細部に至るまでお互いまったく同じ容姿をしていたことだ。正直、二人の髪形が違っていなければ見分けはつかないだろう。それはまるで意図して創られた二対一組の美術品のようなその容姿は、自然の交配だけではこうも美しい姿を生み出すことは不可能だ。
「こんにちは。お初にお目にかかります。主オリンの盟約者、メリッサです。以後お見知りおきを」
 二人の内、ブロンドでウェーブのかかった髪の方が長いスカートの端をつまみ、恭しく優雅な仕草でお辞儀をする。
「実体化するのは久しぶりね。いつ以来かしら」
 対照的に伸びをするストレートで黒髪の方。「はしたないわよアリッサ!」とメリッサに窘められる。どうやら黒髪の方はアリッサというらしい。
 全体的に二人とも清楚な雰囲気をかもし出している。そのお高くとまった胸糞悪い感覚と魔力は俺にこいつらの正体を告げていた。
「彼女らは俺の盟約者、メリッサとアリッサ。神界系天属種天使属に分類される高位天使だ」
 自慢げに聞かれてもいないことをぺらぺらと話すオリン。
 盟約者、召喚獣、使い魔――呼び方はいくらでもあるが、俺たち異界の者はいくつかのカテゴリーに分類される。俺や目の前にいるクソ天使は同じ『神界』の住人だ。
 神界には大きく分けて天属種と魔属種と呼ばれる二種族が存在する。その二種族は気の遠くなるほど昔から、互いを滅ぼすべく戦いを続けている。
 そんな経緯もあり、一般的に天属と魔属はとても相性が悪い。互いの種族への嫌悪は本能レベルに刷り込まれており、現に俺を見るメリッサとアリッサの表情はゴミか何かを見るような見下した目だ。綺麗な目が今は嫌悪感という色一色に染まっている。
「オリン君……、その人たちはもしかして」
「彼女らは召喚禁止指定種だ。それも第Ⅱ級のな。無論、捜査に当たって、特別に承認を得た上で召喚した。お前と違ってな」
 オリンの棘を含んだ言葉にエリカは胸を痛め、苦しむように顔をしかめる。
「盟約者で優位に立ったつもりだろうが、それもここまでだ。――最後通牒だ。素直に投降しろ」
 最後の言葉には威圧感に混じって「出来る事なら傷つけたくは無い」という意志が垣間見える。それはエリカを思いやっての気持ちからなのだろうか。
 エリカは俯いたまま答えない。ただぐっと、何かに堪えるように身を震わせているようにも見える。
 今、エリカの胸中がどんなものなのか、俺にはわからない。二人の間柄を推し量ることしかできない俺には。
「ごめんね、オリン君。やっぱり自首はできないわ」
 言うエリカの表情に迷いは無かった。逆に、それを耳にしたオリンは僅かに失望の色を見せる。
「私は何も罪を犯していない。でも、それを証明する術を私は持たない。あの時、あの場で何が起きたのか私にもわからないの。だからね、その真実を確かめるその時まで、私は捕まるわけにはいかないの」
「……そうか。わかった」
 オリンは短くそう告げ、表情を消す。旧知の間柄から、法の番人の顔へと戻った。
「お話は終わり?終わり?」
「逸らないの、アリッサ。ではオリン?当初の予定通り、あの女性を捕まえればよろしいかしら?」
 やっと出番だとばかりにはしゃぐアリッサと冷静にオリンに確認するメリッサ。
「ああ。ただし絶対に殺すな。生け捕りが絶対条件だ」
「りょーかい!」
 返事をすると同時に、アリッサが一足で弾丸のような速さで一直線にエリカに迫る。あまりの速さに幾重ものフリルが着いたスカートがバタバタとはためく。エリカも身構えるが、迎撃するにはとても間に合わない。
 横にいた俺はすかさず間に入り、間合いに入ったアリッサの顔面目掛けて上段蹴りを放つが、アリッサははじめから俺を意識していたのだろう。フワリと宙を泳ぐように難なく攻撃を躱した。天使族は常に半浮遊魔法がかかっている。奴らの動きはさながら水中を泳ぐ魚の如く俊敏で、軽快だ。
 アリッサは重力に縛られずゆっくりと地に降り、メリッサの横に並ぶ。
「オリン。どうやらそこの薄汚い悪魔が邪魔をするみたいですわ。そちらはいかがいたしましょう?」
 しらじらしくオリンに訊ねるメリッサ。俺がおとなしく見ているなど、微塵も思っていなかったくせに。むしろエリカを捕まえるよりも俺を殺したくて仕方ないとすら思っているはずだ。
 彼女の問いに対しオリンは再び首の羽飾りを握り、魔力を放つ。するとメリッサとアリッサの背中から淡い光を纏った何かが生えてくる。羽化する蝶のようにゆっくりと姿を現すと、ばっと勢いよく広げられる。
 それは一片の汚れも無い純白の翼だった。
 翼は天使を象徴するもの。それが現れた今の状態こそが奴らの戦闘体勢だ。
 ただ、不思議なことにメリッサとアリッサの翼はそれぞれ片翼だけだった。言うまでも無いが天使の翼は二対一組が基本だ。
「シフトをサードまで解放した。――完膚なきまで叩きのめしてやれ」
 オリンの言葉にサディスティックな笑みを浮かべる二人。本当に天使かと一瞬疑いたくなる。
 アリッサの右手に光の粒子が集まり、それが収束すると装飾の美しい細身の剣が握られる。一方、メリッサの左手にも光が集まり、それは長柄のワンドの形となった。ワンドの先端には翼を象った飾りが持ち手に成り代わるかのように雄雄しく広げている。
 神界の種族は魔力を物質化し、自らの武器を精製することが出来る。もっとも、精製する物の構造を細部に至るまで把握しなくてはならないので一種類の武器が限界だが。
 しかしサードシフトとはまた厄介な。
「さぁ。覚悟はいい?悪魔さん?」
 剣を構えながら愉快そうに言うアリッサ。言葉を言い終わらないうちに、霞むような速さで一気に間合いを詰め、剣を突き出す。俺は意識するよりも早く、反射的に体を反らす。確実に首を狙った鋭い切っ先が目の前にあった。
 必殺の一撃を躱されたことに驚くアリッサに、俺はすかさず顔面目掛けて回し蹴りを繰り出す。
 その時、アリッサの脇を閃光が駆け抜け、俺の腹部に直撃する。きりもみに吹っ飛びながら視界に入ったのは、ワンドの先をこちらに向けたメリッサの姿だった。俺に一撃を食らわせたことに会心の笑みを浮かべていた。
「あら。ちょっと小突くだけのつもりだったのですが、そんなに痛かったかしら?悪魔って思ったよりひ弱なのね」
「気にすんな。本調子ならそんな豆鉄砲、まず当たらねぇからよ」
 受身を取り、瞬時に立ち上がった俺は、言いながら脇腹を押さえる。肋骨が何本か折れてやがる。
 メリッサが放ったのは攻撃魔法、スピトだ。基本的には人間が行使するものと同じだが、その威力はそこらの魔法使いのものとは雲泥の差だ。生身の人間が食らえば肋骨がすべて折れるどころか、皮膚を突きぬけ内臓にまで食い込むはずだ。
 正直シフトさえ上げてしまえばこんな奴ら相手に、それもスピト程度で傷を負わされるようなことはない。セカンドシフトでは人間相手にはほぼ無敵でも天属の天使相手にするにはちょっと厳しい。こいつらとまともに戦うにはこちらも相応のシフトほしいところだ。
「おいエリカ!」
 俺は視線をアリッサたちに向けたまま、背中越しにエリカに呼びかける。
「なにボケっとしてやがる。こっちもシフトを上げるんだ。こんなやつら、サードになっちまえば楽勝で――」
「だめよ」
 ……は?俺は思わず振り向いてしまいそうになるのを何とか抑える。
「まだ寝ぼけてるのか?!こいつらは盟約者なんだぞ!そのへんのゴロツキとはわけが違うんだ。わかってるのか?」
「ええわかってるわ。それでもだめよ」
 エリカにしては珍しく、厳しい口調でそう言い切る。
 そうだった。俺はサードシフトでオリンを殺しそうになった。そして二度とその過ちを犯さないようエリカは今までシフトを抑えてきたんだ。
「もう以前みたいなヘマはしない」
 と、その場限りの言葉を吐いてみる。だが、エリカは頑として首を縦には振らない。
「ごめんなさい。でも私は犯罪者じゃない。だから、できることなら誰も傷付けたくは無いわ」
 悲痛な声で訴えるエリカの姿に、俺は溜め息を吐く。
 つくづく甘ちゃんだな。こいつも、俺も。
「わかったよ。まぁやれるだけはやってみるさ」
「うん。ごめんね。せめて私も援護するから――」
「邪魔なだけだ。お前はそこでおとなしくしてろ」
 冷たい口調で突き放す。厳然とした事実であり、決してエリカの身を案じてのことではない。
 だと言うのに、エリカは何を勘違いしているのか「ありがとう、ヴァル君」などと心底嬉しそうに言いやがる。
 ……調子狂うな。ったく。内心でため息をつきながら、気合を入れアリッサたちに向き合う。
「いい主をお持ちね?まったく、ご立派な考え方に涙がでそうですわ」
 明らかに馬鹿にした口調でメリッサは言う。ご丁寧に涙を拭う仕草まで付けて。
 賭けてもいい。こいつは絶対に性格が悪い。
 それはともかく、さすがに盟約者二人相手に素手では分が悪い。
「得物が必要だな」
 俺が意識を集中させると、右側の空間が水面のように歪む。それを確認すると、おもむろに右手をその歪みに突き入れる。
 俺が何をしようとしているのかわからないオリンとメリッサは首をかしげるが、
「何してるか知らないけど、やらせないよ!」
 と、アリッサが電光石火のごとく仕掛ける。俺の胸目掛け霞む速さで繰り出される細剣。切っ先は深々と胸を貫いて――はいなかった。鋼と鋼がぶつかり合う感触にアリッサは目を丸くする。俺の手には身幅の広い反身の剣が陽光を浴びて怜悧な輝きを放っていた。
 メリッサたちと違い、俺には魔力で武器を精製することはできない。では俺に武器はないかと言うと、違う。俺のみがリンクできる、この世界には存在しない空間の中に貯蔵されている。
『敗者の器』――それがこの空間に付けた名だ。
 この空間には、俺が生れ落ちてから今日まで、俺が倒した全ての相手の得物が納められている。俺がその空間にリンクすればそこから自由にその武器を取り出すことが出来るのだ。この魔法は神界広しといえど使えるのは俺だけだ。もっとも、今はシフトによる制限があるので、厳密には自由に、とはいかない。シフトによって取り出せる武器のグレードは大きく変わってしまう。
 俺の剣とアリッサの剣が鍔迫り合いをし、ギチギチと軋み鳴る。剣越しに睨むアリッサと目が合うが、そこに慈悲深い天使の眼差しは見当たらなかった。
 不意に俺は身を引き、剣の腹でアリッサの剣を受け流す。押し込んでいたアリッサは、そのままつんのめるような醜態はさらさないものの一瞬構えを崩してしまう。そこを逃さず、俺は剣を振りかぶる。剣の刃がアリッサの首をとらえる直前、視界の隅で無数の煌きを見た俺は瞬時に剣を引いて跳躍し、急ぎその場を離れる。
 俺が地を蹴った一瞬後、俺がいた場所には無数の光がスコールのごとく地に突き刺さり、土塊を飛ばし、地を抉る。立ち込める粉塵の向こうにはワンドを振るったメリッサの姿があった。
「悪魔の分際で妹に手を出すことは許しませんわ!」
 叫び、メリッサはさらにワンドの先を地に突き刺す。飾りの根元の環がシャン、と軽やかな音を鳴らす。
 次の瞬間、足元がぐらりと一揺れしたかと思うと、目の前の地面が盛り上がり、そこから土で出来た巨大な拳が現れた。俺を押し潰さんと振り下ろされる巨人の拳。俺は飛び退いてそれを辛くも躱す。地面に激突した土の拳は地を大きく震わせ、その衝撃にエリカが尻餅をついてしまう。
 叩きつけられた拳は、その自らの威力に耐え切れず木っ端微塵に弾ける。それにより、あたりは土煙が巻き上がり風圧が木の葉を舞い上がらせた。
「隙ありぃ!」
 一息つく暇も無く、濛々と立ち込める土煙を突き破り、一つしかない翼を広げてアリッサが肉薄する。
 疾駆する勢いを乗せた一撃が、水平な弧を描きながら一気に放たれる。
「どこにだよ!」
 叫びながら正確に剣で斬撃を弾き落とし、がら空きになったアリッサの腹に前蹴りを放つ。
 衝撃に姿勢を崩すアリッサにすかさず剣を振り上げる。同時に粉塵の向こうで魔力の収束を感じ、メリッサが魔法を放つ気配を鋭く感じ取る。本来なら隙の生じたアリッサに止めを刺したいところだが、メリッサの魔法でこちらが手痛いダメージを追うのは明白。
 前衛のアリッサに後衛のメリッサ。互いが互いにカバーしながら連携するのがこいつら双子天使の戦闘スタイルなのだろう。
 なんともわかりやすい事だ。
 俺は目の前のアリッサを肩で突き飛ばし追撃――すると見せかけ急角度に足を踏み出し、標的をメリッサに切り替える。
 粉塵の中から突如として飛び出てきた俺の姿を驚いた表情のメリッサ。予想外の敵の行動に慌てて援護用のスピトをキャンセルし、迎撃魔法に切り替える。魔方陣が展開されるが、遅い。
 空を切って迫り来る真空の刃を、俺は地を這うような姿勢でかい潜る。真空波は髪の毛を数本刈るだけで、後方に流れていく。
「しまっ――!」
 狼狽えるメリッサを間合いにとらえると同時に、逆袈裟に斬り上げる。
 しかし、驚愕の表情は一転、冷たい笑みに変わった。
「なんちゃって」
 と、悪戯っぽい笑いを含んだ声と共にメリッサの腕が動く。まるで短剣でも扱っているかのごとく器用にワンドを繰り、斬撃を柄の部分で防いだ。
 俺はさらに斬撃を繰り出そうとするが、メリッサが魔法用のワンドを振り被る構えを取ったことで嫌な予感が俺に警鐘を鳴らす。身の危険を感じた俺は剣を引き、とっさに間合いを取ろうする。
「甘いですわ……よっ!」
 わずかな逡巡も許さず、メリッサは短く息を吐くと同時にワンドが振り下ろされる。
 空を切る短い音と、霞むワンドの先端を見るに至り、その嫌な予感の正体を知る。
(バカな、あり得ない……!)
 ワンドの先端にあった翼の飾りは一瞬の間に、禍々しい刃に姿を変えていた。今、メリッサの手に握られているのはワンドではなく死神が持つような大鎌だった。
 奴の笑みのような緩やかな曲線の刃が、脳天目掛けて迫る。
 防御は間に合わない!俺はとっさに剣を手放し、振り下ろされる刃を両の掌で挟む、いわゆる真剣白羽取りで受け止める。鋭い先端が鼻先で止まり、九死に一生を得る。
 だが、この状況は良くない。
 挟んだ掌から焼けるような鋭い痛みが伝わり、俺は苦鳴を漏らす。事実、掌からはうっすら白煙が立ち上っていた。
「あら?どうしまして?顔色がよろしくなくってよ」
 知っていてメリッサは嗜虐に口の端を吊り上げる。
 メリッサたち天属の魔力とそれで構成されるものに、俺たち魔属には強烈な拒絶反応がある。こうやって触れただけでも体を蝕み、食い尽くす。長くこの状態が続けば俺の腕は消失してしまうはずだ。俺たち魔属と天属の相容れなさは魔力レベルにまで達しているのだ。
 脳を焦がすほどの痛みを無視し、掴んだ刃を力に任せて大きく上へ投げ飛ばす。メリッサはあえてされるがまま、宙に身を飛ばされる。
 逆さになったメリッサの表情は、笑っていた。
 その表情を見、悪寒が走る感覚を覚えたが、それに身体が追いつくには僅かに遅かった。
 メリッサが視界から消えたその向こうには、無数の煌きが目前に迫り、そのさらに奥で楽しそうに笑みを浮かべるアリッサと目が合った。
 舌打ちは、無数の衝撃音にかき消された。
 とっさに回避行動を取るが、半数以上が俺の左半身を打ち据え、あるいは射抜いていった。肉体を破壊し、血飛沫が飛び散る。
 メリッサよりも段違いに高威力なスピトの群れに肉体を破壊され、たまらず、俺はその場に膝をつく。
「ヴァル君!」
「動くな!」
 後ろから駆け寄ろうとするエリカを叫んで制する。
「俺は大丈夫だ!だから黙って見てろ」
 エリカに告げ、俺は立ち上がる。今、下手に助けに入れば巻き添えを食らいかねない。オリンはどうだか知らないが、少なくとも悪魔を召喚したエリカをこの双子天使は快く思っていないはずだ。主の命令の手前、殺しはしないだろうが、気を使ってくれるほど優しくはない。天使のくせに。
「本当に大丈夫なのかしら?」
 と、皮肉をたっぷり乗せて言ったのはクソ天使の片割れ。メリッサはふわりと優雅に着地したところだった。
「私が魔法しか使えない後衛だとでも思ったのかしら?悪魔らしい浅慮さですわね」
 跪く俺を見下すように、メリッサが鎌を揺らしながら言う。その横で「私はどっちかというとこっち魔法のほうが好きだけどね」と言いながら杖を手の中で遊ばせるアリッサ。
 悪魔だ。こいつら絶対に悪魔だ。悪魔の俺が言うんだ。間違いない。少なくとも天使なんかよりずっと悪魔の方が向いている。
「ずいぶん余裕だな?出来損ないの天使がちょっとまぐれが続いた程度で」
 肉体が回復する時間を稼ぐため挑発をかけてみる。盟約者は自然回復が人間の比では無い。魔力供給が続けば多少の傷はすぐに完治する。
「あら?出来損ないとは失礼ね。これでも神界では高位天使の位をもっていますのよ」
 この時、メリッサの眉がピクリと動いたのを俺は見逃さなかった。
「まぐれ」のところではなく「出来損ない」にひっかかるあたり、あの片翼にコンプレックスを持っているようだ。もしかするとこれは使えるかもしれない。
「ほぅ?そうだったのか。翼が片方でも天使と認めてくれるなんて、さすが天属。懐が広いな」
 俺は芝居がかったジェスチャーで肩をすくませる。
「ええ。それも私たちの実力と行い、そして気高き精神が――」
「もっとも、そんな状態の天使を天使と呼んでいいのか、悪魔の俺にはわからないけどな」
 聞いていないとばかりに、覆いかぶせるように言葉を重ねる。一方、執拗な悪口雑言にメリッサは肩を震わせている。目は前髪に隠れて見えないが挑発が思いのほか効いているようだ。
「片翼の天使、ねぇ。俺ら悪魔には理解できないね。だって天使なのに翼が一つって、間抜けすぎるだろ。笑っちまうよ。いっそもう片方も切り落としたほうが――」
 その時、メリッサの中の感情を押さえ、理性を保っていた何かがぶちっと音を立てて切れた。
 大鎌を振りかぶり、メリッサは猛烈な勢いで打ち込んできた。
「貴様なんかに何がわかる!貴様みたいな薄汚い悪魔風情に!私達姉妹から翼を奪った魔属が!」
 完全にキレたメリッサは、鬼気迫る形相で鎌を連続して振るう。後ろでは「ね、姉さん!落ち着いて!」とアリッサが制止の声をあげるが、まったく聞こえちゃいない。
「貴方にわかるかしら?生きたまま翼を捥がれる気持ちが。天使の象徴である翼を捥がれる気持ちが!」
 なるほど。あの翼は生まれつき、という訳じゃないのか。
 天使の翼は力の象徴。すなわち自らの存在証明であり、自他にそれを誇示するためのものでもある。階位や格を重んじる天属種の間では、重要な意味を持つのだろう。
 それを生きたまま捥がれるとは、総じてプライドの高い天使にはこの上ない屈辱だったに違いない。
「翼が無くなっただけで同族から向けられる蔑み、哀れみ、嫌悪――どれほど不遇な扱いを受けたか、貴様に想像できて?」
 言葉と共に斬撃は手数、威力共に苛烈を極めた。それを受け流す剣は火花を散らし、ぶつかり合う鋼は甲高い悲鳴を上げる。そしてメリッサは目を血走らせ叫ぶ。
「それもこれも、忌々しい魔属さえいなければ!」
 体を一回転させ、勢いを鎌に乗せる。美しい髪を振り乱し、渾身の力が込められた憤怒の一撃は受け止めた剣を耐え切れず真っ二つに折れてしまった。とっさに剣を手放さなければそのまま俺の首も同じ運命を辿っていたはずだ。
 武器を失った俺は再び『敗者の器』に手を入れ、急いで武器を取り出す。武器が空間から姿を現すのと、メリッサが斬撃を打ち込んだのはほぼ同時だった。手にした武器が何か確認する暇もなく、それをかざす。先程よりも身幅も厚い重厚な長剣が斬撃を受け止める。これならメリッサの斬撃にもなんとか耐えられそうだ。
「魔属がっ!魔属がっ!魔属がぁっ!」
 縦、横、斜めと三連撃をかわしながら、挑発が予想以上に効いていることに内心でほくそ笑む。
 完全に我を忘れた今のメリッサは連携もクソもない。下手に魔法で援護しようものなら当のメリッサも巻き込みかねない。現にアリッサは戸惑いながらメリッサを呼びかけるばかりで何もできずにいた。
 斜め上からの首を狩る一撃を、剣の腹に手を添えて防ぐと同時に、その軌道を巧みに逸らせる。鎌は剣の上を走り、切っ先を地面に深く突き刺さってしまう。すぐさま引き抜こうと鎌を持ち上げるが、そこに一瞬の隙ができる。
 舌打ちをするメリッサ。引き抜いた時はすでに俺はリーチの内側に入り込んでいた。剣はすでに捨て、新たにナイフを逆手に握り、最短距離で繰り出す。刃は深々とメリッサの脇腹に食らい付き、腹を裂きながら反対側へ抜ける。さらに、返す刀で今度は逆袈裟に切り上げ、最後に肩にナイフを突き立てると鳩尾を蹴り上げてやった。ラッシュを食らったメリッサは後方に勢いよく吹っ飛ばされ、傷口を押さえながら膝を地に着く。魔力供給で治癒されていても深手なのは明らかだ。血で真っ赤に濡らした衣服がそれを証明している。
「さっきとは逆になったな」
 先程の意趣返しに言葉を浴びせてやる。メリッサは視線で射殺せそうなほど強く睨むが、それすら今は心地良い。
「このぉおお!」
 庇うように跪くメリッサの前に立ち、ワンドをこちらに向けるアリッサ。
 だが、遅い。俺は魔法が発動する前にワンドの柄を両手で掴むと、勢い良くこちらに引き寄せる。体重の軽いアリッサは簡単に引っ張られ、入り込んできたところを渾身のボディブローを叩きこむ。
「かはっ!」という呻きと共に、アリッサは体を浮かせる。すかさず片手で持ち上げると地面目掛け、力任せにぶん投げてやった。アリッサはされるがままに吹っ飛び、地面を二回、三回とバウンドし、ごろごろと転がってようやく止まる。
「アリッサっ!」
 メリッサは思わず駆け寄ろうとするが、傷が疼き顔を顰める。
 こいつらの最大の強みは二人一組の完璧なまでの連携にある。つまり、連携さえ無くしてしまえば単純な一対一の状況が築ける。
 メリッサはこちらの思惑通り挑発に乗り、怒りに身を任せて突出してくれた。切り結んだ感覚では、個別の戦闘力ならセカンドシフトの俺でも厳しいながらなんとか渡り合える。独力で俺を倒すには、こいつらにはちと荷が勝ちすぎている。
 所詮はⅡ級の天使ということか。
「メリッサ!アリッサ!」
 己が盟約者の敗北に驚きを隠せないオリン。すかさず駆け寄り、倒れているアリッサを抱き起こす。
「へへっ。カッコワルイね、私」
 などと健気に笑いかけ、自分の無事をアピールしている。だがその笑顔も引きつっている。
「でも私は大丈夫だよ。まだ戦える」
「ええ。その通りですわ。私達はまだ戦えますわ」
 よろよろと鎌を杖代わりにして立ち上がる。キッとこちらを睨む目からは些かも闘志は失われていなかった。いや、それどころか薪をくべたがごとく先程よりも激しく燃え盛っていた。
「オリン、シフトを」
 メリッサの求めにオリンは「ああ!」と応じ首の羽飾りを握る。
 やはりそう来たか。今までは天使としての矜持がシフトの差を許さなかったのか、はたまた単にオリン自身の魔力量の関係でかはわからないが、シフトをサードまでしか解放されなかったのは好都合だった。俺の実力とエリカの質・量共に高い魔力供給のおかげで何とか戦えた。
 だがフォースシフトとなると話は変わってくる。フォースシフトともなると8割近くの力が解放される。セカンドシフトの俺ではあまりに分が悪すぎる。無謀などというレベルではない。
 オリンは羽飾りに魔力を流す。おそらく盟約の証であろう触媒を通し、増幅されたオリンの魔力がメリッサたちに届く。血液のように全身に行き渡る魔力は傷ついたメリッサたちを一瞬で回復させた。俺に斬られた腹は肉が盛り上がり、溶け込むように傷口を塞ぐ。
 そうして瞬く間に二人は戦闘前の姿を取り戻した。同時に二人から発する魔力が吹き荒れる嵐のように俺の体に打ち付けられる。二人を中心とした木々がまるで恐怖を感じているかのように震え、小波を立てる。
 前言撤回。こいつらは十分に成熟した天使に匹敵する力を持っている。いや、正確には持っていたはずだ。
 天使の翼は象徴でもあり、力の源でもある。もしもう片方の翼が健在であったなら、実力はこんなものでは無かっただろう。
「ありがとうございますわ、オリン。これで遅れを取る事はありません」
 拳を二、三度握り力の具合を確認しながらオリンに礼を言う。オリン自身もフォースシフトは初めてなのか、軽く眉を上げて見入っている。
「存分に暴れてくるといい」
「もとより、そのつもりですわ」
 ぐっと腰を落とし、下唇を舐めながら口に不敵な笑みを浮かべる。
 その時、俺はメリッサの姿が数倍にも大きくなった錯覚を見た。ねっとりとした不快な汗が額から流れるのを感じる。だめだ。さすがにこれほどの力の差は覆せない。せめてあと一つ、シフトが無ければ話にならない。
『おい!エリカ!』
 俺はエリカに呼びかける。もっとも、声は一切発していない。
 これは盟約者と召喚者を繋ぐ魔力命脈ラインを通じて行われる思念通話だ。声を発することなく、離れた場所でも会話ができる。
 完全に呆気に取られていたエリカは突然の、頭の中に響いた声に驚きながらも、俺からの呼びかけだと気付き、こちらを見る。
『この状況でも俺のシフトを上げられないか?』
 俺の訴えにエリカは短い沈黙の後、
『わかったわ。シフトは上げるわ』
 と、答えた。だが、そのすぐ後に、
『でも、ヴァル君は一切攻撃をしないで』
 と付け加え、思わず口のほうで「え?」と言ってしまう。
『何言ってるんだ!それじゃ意味無いだろ!』
『シフトを上げるのはあくまでヴァル君が自分の身を守るためよ』
 言い聞かせるように言うエリカの口調は、静かだが一切の反論を許さない強い厳しさが込められていた。
『OK。じゃ仮に一切攻撃しないとしよう。で?その後はどうする。相手の魔力切れでも待つか?』
 皮肉めいた口調で言う俺に対し、エリカは、
『私に考えがあるわ。ヴァル君はなんとかあの天使さんたちの気を引きつけて』
 と、答える。どうやらただ感情的になっていっているわけでは無いらしい。
 ここは主を信じるより他ないようだ。
『わかった。うまくやれよ。そっちはやられても殺されはしないだろうが、俺は確実に殺す気だろうからな』
『大丈夫。ヴァル君は強い子、元気な子。ふぁいとっ!』
『うっせぇよバカ!向こうは本気で殺しに来てんだぞ!そんな「子どもは風の子」みたいなノリでなんとかなるか!』
 温度差に一抹の不安を抱えながらも、エリカの作戦に一縷の望みを託し、腹を据える。
 目の前ではメリッサとアリッサがすでに戦闘態勢に入っていた。
「覚悟なさい、下賤で野蛮な悪魔。この世に生まれてきた事を後悔させてやりますわ」
「ねぇねぇ。こいつの身体、細切れに切り刻んじゃおうよ」
 などと、天使の口から出ているとは思えない物騒な言葉を吐く二人。どっちが野蛮なんだか。
 その時、脳の奥がピリッとする感覚を覚えた。それを本能的に危険信号と感じ取った俺の体は考える間もなく、体を伏せた。
 一瞬メリッサの体が霞んだかと思うと、次の瞬間には俺の目の前に鎌を振りかぶった状態で現れていた。伏せる俺の背中の数ミリ上を刃が通過する。凄まじい勢いの斬撃は風を起こし、シャツの裾を暴れさせる。
 俺が避けることで大鎌は俺の背後に合った巨木を綺麗に一刀両断していた。元々魔力でできた武器だ。本人の魔力量が上がればそれに合わせて武器の性能も上がる。このぐらいの芸当は可能だろう。正直今の一撃目を躱せたのは奇跡に近い。
 くそっ!こっちはまだシフト上がってないのに……。
 メリッサはさらに鎌をくるりと翻し、伏せる俺目掛け振り下ろす。俺は無様に地面を転がり、なんとかそれを躱す。
 うつ伏せの状態から手の平に魔力を溜め、地面に向け解放する。爆発する魔力は土塊を巻き上げ、メリッサと俺にささやかな隔たりを作る。同時に、その爆発の反動を利用して俺は体を浮かせ、一足で一気に飛び退き、メリッサから距離を取る。
 だがまさかその先に、アリッサが回りこんでいようとは。
「いらっしゃーい」
 背後からかけられる間の抜けた声。自分に向かってくる獲物に狙いを定め、細剣を手に待ち構えるアリッサを肩越しに見た俺はすぐさま反転し、そちらを向く。それと同時に『敗者の器』に手を入れる。
 何でもいい!丈夫な武器を!それだけを考え、手に触れると同時にそれを掴み、取り出す。出てきたのは身の丈を遥かに超える大剣だった。切るよりは叩き潰すことを目的としたその剣はまさに鉄塊が如し。
 それを俺は無我夢中でかざす。アリッサは構うことなく細剣を振るった。その一撃は軌跡すら確認できないほどの速く、大剣を爪楊枝か何かのようにいとも簡単に断ち切る。そしてその軌道上にいた俺をもしっかりとらえていた。切っ先は俺の胸板を横一文字に切り裂き、夥しい量の血を噴出する。
 ニヤリと笑みをこぼすアリッサを奔騰する血しぶきの向こうに見る。
 急いで間を取ろうとするが、足元がおぼつかない。傷が塞がらないのは憑代である肉体を通し、魂まで傷つけた証拠だ。肉体にしか傷つけることが出来ない人間相手ではありえない事だ。
「先程までの余裕はどこに行ったのかしら?」
 余裕のつもりか、背後から歩って俺に近づくメリッサ。同時にアリッサも近づいてくる。前後を挟みこまれた形だ。
「それじゃお別れね……さようなら」
 憎悪の込められた言葉と共に、無慈悲な一撃が俺の首を狩るべく繰り出される。
 その時、全身に力が行き渡る感覚を感じた。
 心臓が激しく脈打ち全身に血液を送り込むがごとく、魔力が漲ってくる。それだけでなく、思考がクリアになり、五感が研ぎ澄まされる感覚。さっきまで振りかぶるところすら見えなかったメリッサの斬撃がしっかりと目に映る。
 シフトが上がったようだ。ちらりと、エリカの姿を見ると俺との契約の証、触媒である爪を埋め込んだピアスが昏い光を宿していた。我が主はこちらを見、強く頷いていた。
 目前に迫る鎌。禍々しい輝きが血を寄越せと言っているかのようだ。だが俺はその要望に応えはせず、身を屈めてやり過す。
 メリッサが目を剥いて驚くのも一瞬のこと。俺の様子が先程と違うことを目ざとく感じ取ったメリッサは瞬時に間合いを離す。それはアリッサも同様だった。
 先程までこいつらに感じていた脅威は今は全く感じない。恐らく今の俺とこいつらはほぼ同じ力量だ。
「ほらどうした?お前らの翼を奪った憎き魔属の首はまだ繋がってるぞ?さっさと取りに来いよ、誇り高き高位天使サマ?」
 新たに取り出した長剣を肩に担ぎ、挑発しながら自らの首を指差す。
 メリッサのぎりっと歯を食いしばる音がここまで聞こえてくる。大鎌の柄を強く握り締め、怒気を漲らせる。歯を剥いて構えるその姿は獰猛な肉食獣そのものだ。
 さっきと同じだ。また一人暴走して自ら連携を乱そうとしている。まったく、学ばない天使だ。
 我を忘れて、今にも俺に斬りかかると思われた寸前、メリッサの手に優しく手が重ねられる。
「姉さん、落ち着いて」
 優しく宥めるアリッサにメリッサの激情が和らぐ。
「大丈夫よ、姉さん。何も怖くは無いわ。だから落ち着いて、ね?」
 あの荒れ狂う怒りの中に恐怖が隠れていたことを見抜いたのは双子の姉妹だからこそ成せる業か。姉を気遣うアリッサの声には全てを包み込む柔らかさが込められており、表情も心なしか大人びて見える。これまで幼い言動が目立ったアリッサだが、不思議な事に違和感はない。
 目と目を合わせる二人。ふと、メリッサは顔を伏せると軽く深呼吸をして顔を上げる。怒気は霧散したかのように消え、さっきまでの高飛車で高慢なメリッサに戻っていた。
「……ありがとう、アリッサ。私は心配無用よ。私はいつだって冷静沈着、八面玲瓏、豪華絢爛ですわ」
 うそつけ。と思いっきり言ってやりたいが場の空気がそれを許さないようだ。っつか豪華絢爛って?
 冷静さを取り戻した姉に安堵したアリッサは、
「それに、悪魔が憎いのは姉さんだけじゃないわ」
 と、姉に向いていた目が俺に向けられる。打って変わって憎悪の込められた鋭い視線を真正面から受け止める。
「私達から翼を奪った事を後悔させてやりましょう、姉さん!」
「ええ。もちろんよ、アリッサ!」
 武器の大鎌と細剣を構え、鼓舞するように吠える姉妹。二人は同時に地を蹴る。
「俺じゃないんだけどな。捥いだの」
 天使の羽根を捥いで悦に入るような趣味は俺には無い。と、言った所で通じないんだろうな。
 ため息を吐きつつ。俺も武器を構える。
 高シフト同士の戦闘は、これまでとは次元の違うものとなった。
 天使共の放つ攻撃は洗練されているだけでなく、その一撃一撃が必殺級の威力を秘めていた。下手に喰らえば、依代たる身体が容易く破壊されるのは明らかであった。
 攻撃を禁じられていることを差し引いても、致命傷になりえる攻撃だけを巧みに避け、間合いを取ることに専念せざるを得なかった。
 サードシフトなら引けは取らないと高を括っていたが、どうもそうは言っていられないようだ。
 早いところ主殿に作戦とやらを成功させてもらいたいところだ。
 と、真正面で切り結んでいたメリッサが唐突に視界から消える。気配と目で瞬時に追うが、刺すような冷気が肌に伝わる。
 反射的に頭上を見上げると、陽光を背にし、杖を頭上に翳すアリッサの姿が。
 そしてそのアリッサの頭上には視界を覆いつくすほどの巨大な氷塊が現れていた。
 冗談じゃない!いくらサードシフトの俺でもあんな物は受け止められない。
 どうする……?避けるか?だめだ。あの規模はエリカを巻き込みかねない。それに、どう考えても俺が動くより奴が杖を振り下ろすほうが早い。
 と、そこで俺は大事なことを思い出す。
「そうだ!俺今魔法使えるじゃねぇか!」
 久しくサードシフトなんてなっていないから、すっかり忘れてたが、俺はサードシフトからまともな魔法が行使できるのだ。
 俺はすぐさま掌を天に掲げ、魔法を展開、発動する。
 同時にアリッサの杖が振り下ろされ、宙に縫いとめられていた氷塊が放たれる。
 異常な勢いと質量で迫る氷柱は、俺の展開した魔障壁と衝突し、砕ける。
 砕け散った氷が陽光を透過し、宝石のように輝く。そんな光景に目を奪われてくれれば少しはかわいらしいくもあるが、生憎目の前の二人の関心はきらめく眩い光の乱舞ではなく俺の命だ。
「どうしましたの?逃げているだけでは勝てませんわよ」
「そいつはどうかな」
 俺の意味深な笑みと言葉にメリッサは怪訝そうに眉根を寄せる。そして何かに思い至ったのか素早く周囲に視線を走らせる。
 そして距離を置いてそこにいるエリカに目が留まる。エリカは変わらず心配そうにこちらを見ているだけだ。
 恐らく、エリカが加勢か何かをしていると思ったのだろう。思い違いか、と顔を戻そうとして違和感を感じたのかメリッサはエリカを凝視した。
「オリン!」
 唐突にメリッサは後方のオリンを振り向き、叫ぶ。天使たちの戦いを見守っていたオリンは呼びかけられるも、その意図がわからず眉根を寄せる。
 そのオリンのすぐ後ろの空間が揺らいでいる。ちょうど、人間一人くらいの大きさの揺らぎだ。
「ごめんね、オリン君」
 と、その揺らぎは小さくそう謝った。
 背後からの声と魔力反応にオリンは驚愕に体を震わせた。振り返るとその空気の揺らめきはまるでベールのように剥がれた。
 果たして、エリカがそこに姿を現し、オリンは二度驚く。
「エリカ・カーティス!貴様、な――」
 何をした、と言いたかったのだろう。だがオリンは体の異変に呻きながら膝をつく。
 倒れる寸前、疾風の如き速さで駆け寄ったメリッサに体を支えられる。
「擬態魔法と透過魔法、ですわね」
 メリッサの問いにエリカは「はい」と頷く。
 今俺の視界には二人のエリカがいる。だがメリッサの言うとおり片方は擬態魔法で作った偽者だ。
 同時に自らに光の屈折率を変化させる透過魔法を自らにかけ、姿を消してオリンたちの目を騙した。逃亡生活において、追手を巻くのによく使う魔法だけにこちらは手慣れたものだ。
 無論、魔力に敏感なメリッサたちなどが見ればすぐにばれてしまう。擬体も基本構成は魔力だし、消えたエリカも魔力の残滓を追えば見えずともどこにいるかはわかる。エリカが事前にメリッサたちの気を引き付けて欲しいと言ったのはこれらを警戒してのことだ。
「俺に……、何をした」
 オリンは搾り出すような声で問いかける。確かに、エリカの性格上オリンに攻撃をすることはないと思っていた俺もそこは気になる。
 俺はアリッサを警戒しつつエリカの横に付く。万が一天使どもがエリカに攻撃を仕掛けないとも限らない。現にメリッサのエリカに向ける表情は主を傷つけられた怒りに染まっている。
「ごめんなさい。睡眠魔法を使わせてもらったわ」
「あ、なるほど」
 俺は思わず声を出し、指を鳴らす。
「強制的に睡眠を促す医療用の魔法よ。ちょっと強めに使ったから一日以上は眠ることになると思うけど、死ぬ事はないわ」
 説明を聞くオリンは悔しげに顔を歪ませる。が、それすらもままならない。瞼が落ちてくるのを必死に抗うが、襲い来る睡魔はそれを許さない。
 どんなに鍛えても睡魔には勝てない。不憫だな、人間は。
「くそっ……」と呻き声を残し、瞼が完全に落ちるとオリンは安らかな寝息を立て始めた。
 瞬間、メリッサたちにも変化が起きる。あれほど漲っていた魔力が急激に収縮していき、背中の翼も空気中に溶けるように霧散してゆく。
 メリッサたちのシフトが下がったのだ。通常、召喚者が睡眠中といえど魔力供給が途切れることは無い。だが、睡眠中は魔力量が覚醒時に比べ大幅に少なくなるのだ。概ねセカンドシフト程度を維持するのが限界だ。
 二人の天使どもは俺たちを睨め付ける。だがそれ以上のことはしてこない。さもありなん。セカンドシフトまで下がったこの二人ではサードシフトの状態である今の俺には逆立ちしても勝てる道理はない。それでも主の前に立ちはだかり、守ろうとする気概はさすが、魂を守り、導く天使といったところか。
「大丈夫。あなたたちの主に危害を加えるつもりはありません。だからそんな怖い顔をしないで、ね?」
 そんな彼女らにエリカは安心させるように言う。だが姉妹がそれで安心することも気を許すこともない。狂犬の様な鋭い視線で俺たちを威嚇する。それを受け、エリカは悲しそうにため息をつくと、
「……オリン君が目を覚ましたら、ごめんなさい、でも会えて嬉しかった、と伝えてください」
 と、言葉を残し、背を向けて歩き出す。俺も一瞥と憎たらしい笑みをくれて後に続く。悔しさに歪むメリッサとアリッサの顔が見たかったが、そこは勝者の余裕。振り返りたい衝動を我慢する。
 二人の視線が背中にブスブス突き刺さるのを感じながら俺たちはその場を後にした。

 オリンたちの姿が見えなくなると、俺たちは街道に出た。陽も完全に昇ったこの時間なら、人通りも多い。下手にコソコソするよりも目立たない。
「しかし考えたな。睡眠魔法とは俺も思いつかなかった」
「……正直あのやり方でもかなり気が引けたわ。死傷こそさせていなくても魔法を悪用していることに変わりはないから」
「いや、悪用はしてないだろ」
「ううん。本来睡眠魔法は不眠症などの症状に使われる立派な医療魔法よ。禁止魔法ではないけど本来の使い道ではないわ。十分悪用よ」
 エリカは視線を前に向けたまま淡々と答える。
「そいつは違うな。魔法に善悪なんて区分はない。使う人間の意志に善悪があるだけだ」
 俺は諭すようにエリカに言う。
「お前は誰も傷つけることなくあの場を収めた。俺も含めて誰も傷ついちゃいない……まぁ多少切った張ったはあったが、これ以上を望むのは贅沢ってもんだ。違うか?」
 エリカはしばらく沈黙した後、
「そうね。ヴァル君の言うとおりかもね」
 と、こちらを向いて微笑む。困ったような、何かを飲み込んだ複雑な笑みで。
 おそらく、俺の言った事に全てを納得したわけではないのだろう。
 こいつは善良な魔法使いだ。魔法に対する倫理観や哲学と現実の間に思い悩むのはこれが初めてではないはずだ。
 それでも、そんな現実に向き合うために気丈に笑ってみせる。
 そんなエリカの笑顔をみて、わずかに胸が痛むのを感じた。
 ――エリカはまだ、真実を知らない。
 もし真実を知った時、果たしてエリカは自分を保っていられるだろうか。
 優しいコイツには、その重みにとても耐えられないに違いない。
 それならば一生、逃亡生活のほうがマシかも知れない。少なくとも希望を抱き続けることはできる。
 願わくば、真実なんてものに辿り着かないよう祈るばかりだ。
 もっとも、悪魔の俺が一体何に祈るんだろうな。
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