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第二十三話:仮面の割れる音が聞こえた
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母親が死んだ。私達家族は三人になった。
仕事人間でろくに息子に構ってくれない父親との生活にある程度の不安は感じたが、自分には弟が居る。母が死んでから塞ぎ込んでしまったが、それも徐々に回復し、以前の元気を取り戻してきた。
だから父親が構ってくれなくても。
いくら冷たい態度をとられようとも、大丈夫だと思っていた。
「父さん!父さん!俺、サッカーで今日ゴールめっちゃ決めたんだ!」
「おぉ、すごいじゃないか千鬼!流石は私の息子だ、その調子で頑張るんだぞ!」
弟と自分は平等であると。
そう、思っていた。
* * *
「…………」
生前の人柄の良さを思わせる、大人数での葬式。
たくさんの人々が行き来して口々に故人の思い出を語るざわざわとした空間の中、故人の息子達は壁際にこぢんまりと立ち尽くしていた。
いや。一人は車椅子に座っていた。
無刀は異能による治療を受けたものの、血液を大量に失ったが故に立つことすら困難になっていた。リハビリを受ければ問題なく回復することはできるが、葬式までに完全な回復には至ることが出来なかった。
「お父さんを恨む人に押し入られたんですって」
「まぁ…それで息子さんを庇って?」
「立派なお母さんね。でも、残された方は辛いでしょうねぇ…」
聞きたくもない話が、否応なしに耳に入ってくる。
千鬼はただ呆然とそこに立ち、光の宿っていない眼で虚空を見つめては、時々「ごめんなさい」と呟いていた。
無刀は隣でその言葉を聞くたび、お前のせいじゃないと返していたがその言葉は千鬼の耳に届いてすらいなかったかもしれない。
すると、ふと千鬼が無刀を見てはっきりと言った。
「兄ちゃんの怪我も、おれのせいだよね。ごめん、ごめん兄ちゃん…ごめん…ごめんなさい…」
涙こそ流さなかったものの、むしろその分千鬼の体がどろりと溶けるのではないかという程に憔悴した様子で彼は口を同じ形に動かす。
「………千鬼のせいじゃない」
そっと自分の傷口に手を当てながら、無刀は何度も言ったであろう台詞を再び吐く。
こんな台詞しか思い付かない自分に嫌気がさし、周りの喧騒も吐き出しかけた黒い感情も、唇を噛んで全て呑み込んだ。
「…無刀、千鬼。父さんは仕事があるから、中々お前達に構ってやれない。だから、本当にすまないが……二人で生きていけるようになってくれ」
ただの少しも申し訳ないとは思っていないかのような言い草に無刀はほんの少し怒りを覚えたが、それにも気づかないように父は家を出た。
無刀の傷はその頃にはもう車椅子無しで行動できるくらいには回復していた。今までは母がこなしていた家事の大半を兄弟は受け持ち、料理は未だ完璧でなくとも掃除や洗濯、皿洗い…少なくとも清潔感は保てる。
血の海と化したはずのリビングは、カーペットやその他諸々を取り替えて、特になにもなかったかのようにそこに存在していた。無論ずっと血みどろのままというわけにもいかないし、こうなることは何もおかしなことではないのだが。
母親の写真すら飾らない父のせいだろうか。
母さんが無かったことにされているようで、嫌だった。
「兄ちゃん!ごはんできた!…ちょっと焦がしちゃったけど……」
「はは、大丈夫だよ。作ってくれるだけでありがたいさ」
千鬼は慣れない料理に四苦八苦し、それでも料理だけは無刀には出来なかった。一度挑戦したことはあるのだが、火を使うと必ずと言っていい程見事なフランベをするのだ。下手をしたら家が炭になってしまう。
上手に料理を作れないのは当たり前だ。だって、二人ともまだ子供なのだから。
まだキッチンに立つにも踏み台が必要なほど小さな、子供なのだから。
だから。
だからこそ俺が、早く大人にならなくては――
たった一歳しか年の離れていない弟思いの兄は、そんな使命感を背負いだした。
「兄ちゃんただいまーっ!今日は玉ねぎとニンジンが安かったからカレーだぞ!」
そんな兄弟も中学生になった。
もうとっくに家事に慣れた兄弟は、家事を分担して、そこらの家に負けない程立派にこなしている。未だ無刀は料理だけは出来なかったが。
「おかえり、カレー楽しみにしてるよ!」
無刀は自室からそう返した。扉の向こうから「へへっ、とびっきりの作ってやるよ!」という元気な声が聞こえた。
「…千鬼ももう中一か…」
そう呟くと、無刀は再び勉強机へと向き直る。
無刀は勉強ばかりするようになった。ろくに友達も作らず一日中机とにらめっこをするばかり。何故かと問えば、「勉強が出来れば大人になれる気がする」と返ってきた。
早く、早く大人に。
弟の分まで辛いことを背負えるようにならなくては。
もうあんな弟は、見たくないから。
「あれだけ勉強をしておいて、まだ全教科満点は取れないのか…」
弟にだけはこんな。
こんな言葉、絶対に言わせてなるものか。
ばらまかれた自分のテスト用紙を、悔しそうにかき集める。
その点数は、98、97、100、99…などと決して低くない。
ただ、父にとっては満足できないようだ。
理由はわかっている。無刀は、母親似なのだ。
目元、髪質、努力家なところも。歳を重ねるにつれ千鬼とは異なり穏やかになってきた口調も、生前の母そっくりだ。
母は、完璧だった。
素晴らしい人だった。
死んだ人間というのは、それ以上失敗をおかさない挙げ句死者というだけで無条件に思い出にフィルターがかかる。その人を大切に思っていたのなら、尚更。
無刀は父にとっては、母の生き写し。完璧な彼女が残した完璧な子供であると。
だから完璧でなくては、父が認めてくれることは決してないだろう――しかし、それでもよかった。
なぜなら、無刀が誉められるようになってしまっては千鬼がどうなるかわからなかったから。
父は比較をする癖がある。千鬼は、父親似だ。無論父親よりずっと、ずっと優しいが。
『無刀は出来るのに、なぜ千鬼、お前はできない!』
そうなるくらいなら自分が責められた方がましだ。
自分が我慢すれば、俺達は――いいや。
私達家族は平穏を保てる。
そんな生活を続け、とうとう無刀は千鬼より一足先に高校生になった。
地域でも有名な進学校で倍率も高いのだが、無刀の頭なら特に問題もなく入れると担任の先生に言われ、その通り無刀はさらっと受験に合格した。
「兄ちゃんおめでとーーーっ!ごちそう用意するぜ!何が食いたい!?」
結果を報告するなり千鬼は兄に抱きついて、自分のことのように喜んだ。
そんな弟を見て、ほんの少し無刀の顔がほころぶ。
しかし。
「高校受験なんぞ、合格して当たり前だ。この程度で喜ぶんじゃない」
直前に言われた父の一言が心に引っかかって、弟の言葉を素直に喜べない無刀がいた。
…まだ私は大人じゃないんだ。
大人なら、このくらい背負える。大人ならこんなこと弟に打ち明けたりなんか、しない。
千鬼にとって私達の父親は、良い父親。
だから駄目だ。
そのイメージを私が崩してしまったら、千鬼はどれだけ落ち込むかわからない。
でかかった父親への憎悪を生唾と共に飲み込み、弟に感謝の言葉を告げた。
高校生活はそこそこ順調だった。
相変わらず友達を作ることはしなかったが、勉強にもついていけているし風紀委員に属することも出来た。
――この学校における風紀委員と生徒会は、生徒及び教職員、校内に侵入した不審者を暴力で威圧する権限を持つ。
然り、余程の優秀な人物でなくては入ることは出来ない。それに入ることができ、無刀は少し自信を取り戻していた。
――しかしそれは突然に起こった。
考えてみればわかることだったのだ。暴力で威圧する権限を持つ――それはつまり、誰かの代わりに手を下すということ。
「はっ……はっ………はっ……」
放課後の教室。
無刀の目の前には死体が転がっていた。
つい先程まで生きて、自分に助けを求めていた同学年の生徒だったものだ。
「ご苦労だった」
教室の入口に、今の生徒会長――この頃はまだ書記であった――霧影怜人が逆光を浴びながら立っている。
「はっ…はっ……はぁっ、はぁっ、はぁっ」
「……気に病むことは無い」
無刀は日本刀を取り落とし、そのままくずおれる。肉を、人の肉を斬った感触が、いまだ手に残っている。
まるであの時の、母さんを殺した男の足を斬ったときのような――
いや。あの時は衝撃波で斬った。決してこの手にその感触が残ることなど無かったはずだ。
少なくとも、この手には。
「…そこに転がる奴の異能は、自らを獣に変える能力……それが暴発したとなれば、恐ろしいほどの被害が出ただろう」
貴様はそれを止めたのだ。
怜人はまるで励ますかのように、無刀に淡々と話しかける。
「貴様は、正しいことをした。皆を助けたのだ。故に気に病むことなど無い…慣れろ。結局それしか道はない」
そこまで言うと、怜人は無刀を置いてその教室を後にした。
「……………っ」
生徒会に報告を受けて、教室に駆けつけたとき、彼は今にも猛獣になろうとしていた。
その時、彼は言ったのだ。ギリギリの理性を振り絞って。
『頼む…止めてくれ、俺を止めてぐれ……っこのままじゃ、何もかも誰も彼も傷つける…頼むよ』
助けてくれ。
彼は助けを求めたのだ。
それが殺してくれと言う意味合いではないことなど、無刀にも解っていた。
それなのに。
自分は刀を抜き、彼の首を刎ねてしまった。
いいや、刎ねようとした。
刎ねられなかったのだ。直前であろうことか躊躇った無刀は、ほんの少しだけ力を弱めてしまった。
『ぎぁっ…が………』
そのせいで、余計な苦痛まで与えてしまった。
「あぁ…あぁぁ………あぁ…」
『皆を助けたのだ』
本当か?本当にそうか?
少なくともここに、被害者が一人いるじゃないか。助からなかった人がいるじゃないか。
私がもっとちゃんとしていたら――この人は、ひょっとしたら。
「あぁぁぁ…………」
大人に、ならなければ。
大人ならこんなの、なんてことない。正しいことをした、と割り切れるはず。
大人なら。
大人ならきっとこの人のことも助けられたはず――
早く、早く大人にならなくては、誰のことも守れない。
弟を、守り切れないんだ。
そうやって何人の人を手にかけただろうか。
異能力が暴走した生徒を殺した数が、きっと一番多かっただろう。
人の命はなんて軽いのだろうか。
生徒会や教職員の一言で、無刀は皆の喉笛を掻き切る。親やその友達なんかは悲しむのだが、「異能力の暴走なら仕方が無い」と納得する。
こんなことになるくらいならいっそ――
異能力なんて、いらない。
「まっ、待って、ころさないで、おねがっ」
刀が相手の首をかっさいて、血飛沫が飛ぶ。浴びた血液は生温く、不快だった。
時間は、誰にでも平等に優しい。
無刀はだんだん人を殺すことに抵抗を覚えなくなった。全ては仕方の無いこと、その他大勢を救うには犠牲者がでなくてはならない。
全員助かるなんて未来は、あってはいけない。
そんな都合のいい話があってたまるか。
無刀は服の返り血を確認し、上のブレザーにしかついてないことを確認してブレザーを脱いだ。後の処理は美化委員に任せて無刀はそこを後にする。
…はやく帰らなくては。
千鬼が、受験前の時期だというのにご飯を作って待っていてくれているのだから。
兄がこんなことをしているとも知らずに。
無刀は急いで家に向かった。帰るのが遅くなったら、その言い訳を思いつきそうになかったから。
その日の夜は眠れなかった。
…人を殺した日の夜は、眠れない。
無刀は一つため息をつき、なにか温かいものでも飲もうと身を起こした。
階段を静かに降りていくと、父の書斎から話し声が聞こえる。…電話だろうか?
なんとなく気になって、父の書斎の前で足を止めて耳を澄ましてみる。
「…から……あいつらは…で……」
少し聞き取りづらい。無刀は更に息を殺して耳を澄ませた。
「あぁ。息子達が鬱陶しくなってな」
その言葉に息を呑んだ無刀は、慌てて自分の口を押さえる。
「まったく、あいつも面倒なもんを残しよる。あの時三人諸共死んでしまえば良かったのだ、そうすれば一気に保険金が…」
面倒?あの時?保険金?
何を言ってるんだ、この人は。
「弟の方は可愛げがあったんだがな、もう面倒くさくなってしまった。そもそも私が稼いだ金で生活しているあいつらが許せん、だから――」
「そこでだ。今、そっちで臓器か何かを仕入れる予定はないか?」
――闇商売。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
臓器?まて、それは、つまり。
私達の――
「あの時の男、あいつもあいつだ。こっちがさりげなく私の住所を教えて、そして家に私達家族を殺しに来るよう仕向けたのに。あんなクソガキの一撃なんぞうけおって…情けないことこの上ないわ」
ゆっくりと、ゆっくりと、無刀の中でピースがはまっていく。
「しかし、うるさい奴を始末してついでに金儲けも出来るとは良いものだな。え?ははっ、家族なんて金儲けのために作ったようなものだ。だから、どうだ?若い内臓は新鮮で中々手に入るもんじゃないだろう?」
母親が死んだのも、自分が大怪我をしたのも、千鬼が心に一生消えない傷を負ったのも。
全ては、この男の――
「大丈夫だ、確かに息子達には武道を習わせているが、毒に耐性があるわけではない。強力な痺れ薬でものませて、あとは内臓を――」
無刀はそこまで聞いて、扉の前から離れていった。
守らなくてはいけない。
千鬼を、あの悪魔のような男から――しかし、どうやって?
全員助かる方法。
そんなものは、考えるだけ時間の無駄だとわかっている。
その他大勢を救うには。
誰かを、守るためには。
「………よし」
犠牲者がでなくてはならない。
無刀はキッチンから包丁を取り出し、それを手にもう一度父の書斎へ向かった。助けを呼ばれては困るので、電話が終わるのをドアの前で待つ。
ここまで冷静な自分に、正直吐き気がした。
「兄の方は真面目でな、母親に本当に似ている。だから気持ち悪い。私はあの母親の家がそこそこ有名なところだったから結婚したんだ、勿論殺すことを前提としてな。もうあんな女思い出すのも嫌だというのに、あの子供は全く」
そういうことだったのか。と、無刀は内心ため息をついた。
母さんに似ていたから完璧を求められたのではなく――
母さんに似ていたから認められなくなった。
「弟は私に似ていた。名付け親も私だ。だから可愛げはあったんだが、頭のできが悪いのがどうにもな。まぁなんにせよどちらも殺すさ、今度タイミングを見て再度連絡する。…あぁ……それじゃあ」
どうやら終わったようだ。父親が部屋の中をうろつき、パチン、と電気を消す音が聞こえた。
…ということは、今父親はこの部屋から出ようとしていて、その上室内は真っ暗。
――都合が良い。
書斎には内側から鍵がかかっていて、開けることは出来ない。なら扉の近くに潜んで、父が開けた瞬間に父ごと書斎の中に突っ込む。
千鬼が起きてくる前に、一瞬でケリをつける。
――ドアノブを捻る音。
今だ!
扉がガチャリと開く。
無刀の包丁を握る手が、わずかに震えた。
…親殺しは、巣立ちの儀式だと言う。
大人になるための、儀式。
そうだ、こいつを殺して千鬼を守れば――
私はようやく、大人になれるんだ。
包丁を伝って落ちてきた血が、無刀の手を汚す。
「……、むと、………」
父親は顔を歪め、苦しそうに無刀を睨み付けた。
なにも感じない自分に違和感と少しの安堵を覚えつつ無刀は包丁を父の腹部から引き抜いた。と同時に血が勢いよく吹き出す。父が膝をつく音をどこか遠くで聞きながら、無刀は目を閉じた。
これでいいのだ。
これで――
腹部に鋭い痛みが走った。
「……!?」
喉の奥から熱いものがこみ上げてきたと思ったら、口内に血の味が充満する。とうとう口の中には収まりきらず、唇の端から血が滴り落ちた。
自分の腹部には、折りたたみ式の小型なナイフが刺さっている。
「……父さん、……」
最後の抵抗、と言ったところか。
幸いナイフを抜く前に父は完全に崩れ落ちたので、まだ慌てる状況ではない。
それとも自分の感覚が麻痺しているのか。
それでもまだ自分は動ける。このまま自分で救急車を呼ぶことだって勿論できる。
だが――
「………………」
無刀はふらふらと壁に寄りかかって、そのまま激しい音を立てて倒れた。
実の父が自分達を殺そうとしていたこと。
実の父を手にかけたこと。
実の父に殺されかけたこと。
――無理に大人になろうとしたこと。
他に方法はあったはずだった。千鬼に事情を話して二人で逃げることだって出来た。
しかしその方法達は、全て千鬼の中の父親像を壊すもののみだ。
自分だけが背負って済むのならそれでいい。
犠牲者は、最低限でいい。
「兄ちゃん!父さん!?」
無刀が倒れた音を聞きつけて、千鬼が慌てて階段を降りてきた。無刀には、その音が頭の中で反響して聞こえる。
被害者は、あくまで被害者だ。
犠牲者は――ある意味、加害者の方なのかも知れない。
目を覚ますと病院にいた。
「……!兄ちゃん……」
無刀のベッドのすぐ横に千鬼が座っている。
「……千鬼、心配かけたね。…さて、警察はどこかな?」
傷口を庇いながらゆっくりと体を起こす。
父親を刺した自分はまず間違いなく牢獄行きだろう、と無刀は思った。裁判でも、あの時の電話の内容は話さないつもりでいた。「母さんのところに皆で行きたかった」と、無理心中を図ったことにしよう。それなら千鬼もそこまで傷つかないはずだ――と。
「け、警察…?あぁ、確かに来てるけど…事情聴取って言ってたぜ」
「…?事情聴取?」
逮捕ではないのか?と無刀は不思議そうに部屋の入口を覗き込んだ。…と、その瞬間、タイミング良く扉が開いて数人のいかつい顔の警察官とおぼしき人物達が入ってきた。
「…橘無刀君、だね?目が覚めたばかりなのにすまない。ついては――」
署まで同行願う。の言葉が来ると思い、無刀は身構えた。
「君の家に入った強盗についてなんだが」
無刀の思考がフリーズした。
「………………強盗…ですか……」
「あぁ。…記憶が多少混濁していても無理はない、君は被害者だし、しかも丸二日間眠っていたんだ。…事情聴取はまた後日にしても構わないが…」
…何故?
「…それから……目が覚めたばかりの君に、こんなことを言うのは申し訳ないんだが…」
警察官は俯き、言葉を少々喉の奥で焦らしつつ、覚悟を決めたかのように言った。
「……お父上は…亡くなった。救急隊が到着した頃にはもう、意識がなく……」
千鬼はその言葉を聞くのが二回目なのだろう、眉間にぐっと皺を寄せて何かをこらえるように拳を握った。
……何故。
何故バレていない?
この国の警察はそんなに無能だっただろうか。いいや、そんなはずは無い。…しかし、異能力が存在する限りいくらでも現場の証拠を消せるし、捏造できる。…自分は特に何もしていないが、とにかく何かしらが良い方向に働いたのだろう。と無刀は思った。
本当に良いかは知らないが。
「…………………そうですか」
それだけ言うのが精一杯だった。
その言葉以降口をつぐんでしまった無刀を見て、警察官は立ち上がる。
「やはり、事情聴取はまた今度にしよう。君が落ち着いてからまた来るよ」
そして病室には兄弟二人だけになった。
家族も、兄弟二人だけになった。
「…兄ちゃん……」
無刀が寝ている間に泣いたのであろう、目が腫れている。
「……すまない、千鬼」
無刀は両手で顔を覆った。今更、ほんとうに今更、罪悪感と後悔が襲ってきた。
「すまない、すまない、千鬼、すまない」
涙こそ出ていなかったものの、今にも自分の体がどろりと溶けそうな感覚に全身を包まれた。
そう、まるであの時の千鬼と同じような――
『ごめん兄ちゃん、ごめん、ごめんなさい…』
それでも無刀は嘘をつき続けなければならない。
誰も傷つかずにすむように、嘘を。
自分だけが傷つけばそれですむように。
「…父、さんを、まもれなかった」
その言葉に、千鬼が目を細めて歯を食いしばった。その目は怒りに燃えている。
感情をむき出しにして怒るその姿は、無刀には一生することのできない芸当だ。
「……っお前のせいだ!!」
千鬼の拳が、無刀の頬に強く当たる。鈍い痛みと熱さが走った。
無刀は抵抗しない。自分が悪いと解っているから。
「お前のせいだっ、お前のせいだっ、お前のせいだ、お前のっ、お前がっ!!」
そのまま無刀の顔や肩をひとしきり殴り、とうとうやりきれなくなったのか床に崩れ落ちてベットサイドの手すりに拳を突き立てる。
「……お前のっ………!」
あぁ、千鬼、私もあの時そう言いたかったよ。
母さんが死んだのも、あんな大怪我をしたのも、父さんに認めて貰えなかったのだって全部、ぜーーーーんぶお前のせいだと言ってやりたかったよ。
でも言えなかった。
だって私達、たった二人の兄弟じゃないか。
ただでさえ苦しんで泣いている君を見たくはないのに、そこに私がとどめを刺すなんて残酷すぎる。
…もっと他に手段があったのだろうか。
私が愚かだっただけなのだろうか。
私は、思いつくだけの最善を尽くしたはずなんだが。
私は――…
……愛して、欲しかったなぁ…。
* * *
母さんが死んでから、兄ちゃんはじわじわと蝕まれていくようにおかしくなった。
急激に大人になった、というか。
俺より一つ上な訳だから、まぁ自分よりも先に大人になるのは当たり前なのだが。
…先に行ってしまったような気がした。
いや、もっと適切に言えば、置いて行かれた気がしたのだ。
故意に。作為的に。――わざと、俺を置いていったかのような。
兄ちゃんは俺を頼らない。頼ってくれない。
料理のことになると別だが――他のところで一切俺に負担をかけようとしない。その理由が、俺にはなんとなく分かる気がした。
だから必死に自分に出来ることをこなし、兄ちゃんが見てないところで兄ちゃんの仕事を勝手に片付けたりもした。少しでも兄弟の負担を減らしたいと思うのは、兄も弟も同じなはずだ。
……兄ちゃんはまるで、いついかなる時も本当の自分を見せないように振る舞っている。
それは俺にも同じ。母さんの葬式以降、俺は兄ちゃんの本当の顔を見ていない。
気のせいなのだろうか?
…どちらにせよ、兄が辛いときは支えなくては。それが兄弟なのだから。
次、何か良くないことが起こったら今度は俺が助けてやるんだ。
兄弟として。
ほんの少し自分の口元が緩んだのがわかった。
ガタン。
大きめの物音で目が覚めた。
中学三年生の――夏から秋になりかけの頃だっただろうか。その日は朝から晩まで少し肌寒くて、時期的に少し早いけれど毛布を出して寝ていた気がする。
…何か落ちたのだろうか?
別に明日の朝でもよかったのだが、なんとなく気になって、起き上がって下に様子を見に行った。
すると――
「なっ………」
血の海に沈む、兄と父の姿が目に映った。
あの時と。
あの時と、同じ――
「兄ちゃん!父さん!?」
慌てて駆け寄り、階段から転げ落ちそうになりながらもなんとか二人の元まで走る。…この状況は、二回目だ。大丈夫、今回はちゃんと、冷静に対処できる。
…兄ちゃんはナイフが腹部に刺さったままだから、出血が酷くない。これならすぐ救急車を呼べば助かるはず――!
「…っ父さ」
待て。
この血の量で、兄の出血は少ないと言うことは、つまり――父の出血量は――
「ぐっ……」
止血だ。急いで止血をしなくては。
いや、その前に救急車を。救急車を呼んで、待っている間に止血をしよう。
そう思って、電話を取りに振り返ったとき。
一番に目に飛び込んできたのは、兄の姿――ではなく――
血に濡れた、我が家の包丁。
「…は?」
その包丁は無刀の手に直前まで握られていたようで、無刀の掌の下に包丁の柄がある。
まさか、と思って兄の腹部に刺さったナイフを確認すると、父が護身用にと言って携帯していた折りたたみ式ナイフと全く同じだった。
「……………」
殺し合い。
何らかの理由で、自分の兄と父は殺し合ったのであろう。この状況を見るに、そうとしか思えなかった。
思考が、どんどん真っ白になっていく。
「……兄ちゃん」
驚いたことに頭は非常に冴えていて、頭の中で一つ一つ事実が明らかになっていく。
父はこのナイフを携帯していたが、兄が包丁を携帯するなど有り得ない。つまり、この包丁は兄が自分の意思で手に取ったもの。
激しい乱闘の後が無いことから、恐らく奇襲してその場でどちらかが反撃を喰らった。
――どちらか、というのは勿論――
「兄ちゃん?」
兄は答えない。
しかし、確信はしていた。
兄ちゃんが、父を刺した犯人なのだ――と。
一瞬、本当に一瞬、兄に対する殺意が湧いた。
しかし考え直す。あんなに優しく、しっかり者だった兄がなんの理由もなしに父を殺したりするだろうか?
………駄目だ、考えている暇はない!
「兄ちゃんは悪くないっ!」
自分を奮い立たせるようにそう叫び、千鬼は父の書斎に踏み込むと中を荒らし始めた。父はこの部屋に金庫を隠していると言っていた。それを探そうと強盗犯が暴れ回った――そんなシナリオだ。
次に兄の腹部に刺さったナイフをゆっくりと引き抜き、無刀が持っていた包丁も一緒に洗面台で血を洗い流す。包丁はいつもいれている場所に戻し、折りたたみ式ナイフは――自分のポケットに入れた。
自分がしていることの意味なんて、とうにわかっている。
それでも、兄は悪くない。そう信じる。
次は、自分が助ける番だから――
救急車のサイレンが聞こえ出す頃には、現場はただの強盗殺人未遂現場となっていた。
兄ちゃんが目を覚ますまで、頭を冷やして考えた。
やっぱり、兄ちゃんが全部悪いとはどうしても思えない。弟の自分になら全てを話してくれるだろうと思い、兄を信じて待つことにした。
…現場を荒らしたからって、悪くないと信じたからって、父さんを殺したのを許すわけにはいかない。
だというのに。
「…父、さんを、まもれなかった」
この期に及んでまだ嘘をつくのか。
やっぱり兄ちゃんは俺に本当の顔なんて見せたことなどないのではないか。
どうして、どうしてそんなに俺を信用できない。これからは二人きりだというのに。話してくれると信じていたのに。
信じていたのに。
……そうか、兄ちゃんはあの時死んでしまったんだ。
ならここにいるのは兄ちゃんじゃない。
「お前のせいだ!お前のせいだ!お前のせいだ!お前のせいだ!」
いつの間にかとんでもないことを口走っていた。挙げ句の果てに手まで上げてしまった。しかし、後悔はなかった。
「このっ………クソ兄貴っ……!」
お前が自分を偽り続けるなら。
もう俺は、お前を兄ちゃんとして受け入れない。
* * *
「……………」
血が芝生に落ちる。
しかし、その血は想像したものよりは遙かに少なく――
「…千鬼、」
血を流していたのは、千鬼の掌だった。
――無刀が首を斬る直前、千鬼が刀を直で掴み引き剥がしたのだ。
芝生に倒れ込む音は、勢い余って二人が転倒した音だった。
「……っのクソ兄貴」
千鬼は俯いたまま、ぼそりと呟く。
「兄貴はいっつもそうだ、全部全部自分一人で解決しようとする――自己犠牲だけで解決しようとする」
その声はどこか震えていた。
無刀はそれどころではないと言うように、血を流す千鬼の掌を執拗に気にしていた。早く止血しなくては、というような目で。
しかし千鬼はそれに構わず、むしろ余計に刀を握るその手の力を強めた。
「…なぁ兄貴、俺、兄貴が隠してること知ってるんだ」
その言葉に、無刀は少し息を呑んだ。
「全部じゃない。説明して欲しいことだって山ほどある。その全てを知る覚悟は出来てるし、それに――一緒に背負う覚悟も出来てる」
千鬼は淡々と、こみ上げる何かを押さえつけるように、静かにゆっくりと言葉を紡いだ。
…無刀の瞳が、揺らぐ。
「……言うのが遅くなって、ごめん」
鼻をすする音。
「今までずっと一人で背負わせてごめん。辛いこと全部任せてごめん。兄貴のせいだなんて言ってごめん。許せなくて、ごめん」
まるで子供のように、親にわがままを言う子供のように、千鬼は泣きじゃくり兄の肩に顔を埋めた。刀を握っていた手は力を失ってだらんと地面に落ちている。
無刀はぼぉっと、空を見上げている。
千鬼の言葉が意外すぎたのか、脳に届いて理解するまで多少の時間を要しているようだ。
「…………兄貴、詳しいことは、あとでしっかり話す」
震える声で、それでもはっきりと力強く千鬼は言った。
「兄貴が背負ってるものは、俺も一緒に背負わなくちゃいけないものだ。兄弟だとか、関係なく」
だから。
だから――
「置いてくなよぉ…兄ちゃん……」
耐えきれなくなった、というように千鬼は嗚咽を漏らし始めた。それ以上は言葉にならなかったらしい。
無刀の目が、ゆっくりと、段々とくすんだ世界が色づいて見えだしたかのように開かれていく。
そして――
「……っあぁぁぁぁあぁぁああぁあ!うわぁあぁあぁぁぁ、あぁぁあぁあーー!」
まるで子供のように。
「ばっ、せんっ、きのっ、ばかぁぁぁあ!なんで今更っ…っうぁあぁぁぁあぁぁ」
兄弟喧嘩の後に、拗ねて泣きじゃくる子供のように。
「う、うぁ、っ、ゔっ、ごめんなさっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさいっごめんなざっ」
「……っう…」
今まで兄弟の間に開いていた溝が。今まで二人がつけていた仮面が。
――音を立てて割れたような気がした。
* * *
「…いい話じゃねぇか…ぐすっ」
「えっ…真里、お前も泣くの?私も泣きそうなんだけど誰が慰めてくれるって言うんだよ」
「ふぇぇ~……」
「すぐるに至ってはすでに号泣じゃん嘘でしょ私どうしたら良いの?」
いやだって、仕方が無いだろう。目の前でこんな兄弟愛を見せつけられてしまったら。
「……ほらほら、皆、もう行こう」
ハッカー先輩が俺達の背中をぽんと押して、帰るよう促す。
「もう今日は解散。真里君のことは、皆で家に送ってあげるよ。だからほらもう行こう」
「ちょ、先輩、そんなに急かさなくても…」
確かに俺らがここにいたら邪魔だろうが…
すると、ハッカー先輩はふっと笑って言った。
「…無刀、あぁ見えてプライド高いんだ。明日は、何でもない顔して「何も見てない」って言ってやってよ」
少し悪戯っぽく笑ったハッカー先輩の目尻に、ほんの少しだけ涙が滲んでいた。
仕事人間でろくに息子に構ってくれない父親との生活にある程度の不安は感じたが、自分には弟が居る。母が死んでから塞ぎ込んでしまったが、それも徐々に回復し、以前の元気を取り戻してきた。
だから父親が構ってくれなくても。
いくら冷たい態度をとられようとも、大丈夫だと思っていた。
「父さん!父さん!俺、サッカーで今日ゴールめっちゃ決めたんだ!」
「おぉ、すごいじゃないか千鬼!流石は私の息子だ、その調子で頑張るんだぞ!」
弟と自分は平等であると。
そう、思っていた。
* * *
「…………」
生前の人柄の良さを思わせる、大人数での葬式。
たくさんの人々が行き来して口々に故人の思い出を語るざわざわとした空間の中、故人の息子達は壁際にこぢんまりと立ち尽くしていた。
いや。一人は車椅子に座っていた。
無刀は異能による治療を受けたものの、血液を大量に失ったが故に立つことすら困難になっていた。リハビリを受ければ問題なく回復することはできるが、葬式までに完全な回復には至ることが出来なかった。
「お父さんを恨む人に押し入られたんですって」
「まぁ…それで息子さんを庇って?」
「立派なお母さんね。でも、残された方は辛いでしょうねぇ…」
聞きたくもない話が、否応なしに耳に入ってくる。
千鬼はただ呆然とそこに立ち、光の宿っていない眼で虚空を見つめては、時々「ごめんなさい」と呟いていた。
無刀は隣でその言葉を聞くたび、お前のせいじゃないと返していたがその言葉は千鬼の耳に届いてすらいなかったかもしれない。
すると、ふと千鬼が無刀を見てはっきりと言った。
「兄ちゃんの怪我も、おれのせいだよね。ごめん、ごめん兄ちゃん…ごめん…ごめんなさい…」
涙こそ流さなかったものの、むしろその分千鬼の体がどろりと溶けるのではないかという程に憔悴した様子で彼は口を同じ形に動かす。
「………千鬼のせいじゃない」
そっと自分の傷口に手を当てながら、無刀は何度も言ったであろう台詞を再び吐く。
こんな台詞しか思い付かない自分に嫌気がさし、周りの喧騒も吐き出しかけた黒い感情も、唇を噛んで全て呑み込んだ。
「…無刀、千鬼。父さんは仕事があるから、中々お前達に構ってやれない。だから、本当にすまないが……二人で生きていけるようになってくれ」
ただの少しも申し訳ないとは思っていないかのような言い草に無刀はほんの少し怒りを覚えたが、それにも気づかないように父は家を出た。
無刀の傷はその頃にはもう車椅子無しで行動できるくらいには回復していた。今までは母がこなしていた家事の大半を兄弟は受け持ち、料理は未だ完璧でなくとも掃除や洗濯、皿洗い…少なくとも清潔感は保てる。
血の海と化したはずのリビングは、カーペットやその他諸々を取り替えて、特になにもなかったかのようにそこに存在していた。無論ずっと血みどろのままというわけにもいかないし、こうなることは何もおかしなことではないのだが。
母親の写真すら飾らない父のせいだろうか。
母さんが無かったことにされているようで、嫌だった。
「兄ちゃん!ごはんできた!…ちょっと焦がしちゃったけど……」
「はは、大丈夫だよ。作ってくれるだけでありがたいさ」
千鬼は慣れない料理に四苦八苦し、それでも料理だけは無刀には出来なかった。一度挑戦したことはあるのだが、火を使うと必ずと言っていい程見事なフランベをするのだ。下手をしたら家が炭になってしまう。
上手に料理を作れないのは当たり前だ。だって、二人ともまだ子供なのだから。
まだキッチンに立つにも踏み台が必要なほど小さな、子供なのだから。
だから。
だからこそ俺が、早く大人にならなくては――
たった一歳しか年の離れていない弟思いの兄は、そんな使命感を背負いだした。
「兄ちゃんただいまーっ!今日は玉ねぎとニンジンが安かったからカレーだぞ!」
そんな兄弟も中学生になった。
もうとっくに家事に慣れた兄弟は、家事を分担して、そこらの家に負けない程立派にこなしている。未だ無刀は料理だけは出来なかったが。
「おかえり、カレー楽しみにしてるよ!」
無刀は自室からそう返した。扉の向こうから「へへっ、とびっきりの作ってやるよ!」という元気な声が聞こえた。
「…千鬼ももう中一か…」
そう呟くと、無刀は再び勉強机へと向き直る。
無刀は勉強ばかりするようになった。ろくに友達も作らず一日中机とにらめっこをするばかり。何故かと問えば、「勉強が出来れば大人になれる気がする」と返ってきた。
早く、早く大人に。
弟の分まで辛いことを背負えるようにならなくては。
もうあんな弟は、見たくないから。
「あれだけ勉強をしておいて、まだ全教科満点は取れないのか…」
弟にだけはこんな。
こんな言葉、絶対に言わせてなるものか。
ばらまかれた自分のテスト用紙を、悔しそうにかき集める。
その点数は、98、97、100、99…などと決して低くない。
ただ、父にとっては満足できないようだ。
理由はわかっている。無刀は、母親似なのだ。
目元、髪質、努力家なところも。歳を重ねるにつれ千鬼とは異なり穏やかになってきた口調も、生前の母そっくりだ。
母は、完璧だった。
素晴らしい人だった。
死んだ人間というのは、それ以上失敗をおかさない挙げ句死者というだけで無条件に思い出にフィルターがかかる。その人を大切に思っていたのなら、尚更。
無刀は父にとっては、母の生き写し。完璧な彼女が残した完璧な子供であると。
だから完璧でなくては、父が認めてくれることは決してないだろう――しかし、それでもよかった。
なぜなら、無刀が誉められるようになってしまっては千鬼がどうなるかわからなかったから。
父は比較をする癖がある。千鬼は、父親似だ。無論父親よりずっと、ずっと優しいが。
『無刀は出来るのに、なぜ千鬼、お前はできない!』
そうなるくらいなら自分が責められた方がましだ。
自分が我慢すれば、俺達は――いいや。
私達家族は平穏を保てる。
そんな生活を続け、とうとう無刀は千鬼より一足先に高校生になった。
地域でも有名な進学校で倍率も高いのだが、無刀の頭なら特に問題もなく入れると担任の先生に言われ、その通り無刀はさらっと受験に合格した。
「兄ちゃんおめでとーーーっ!ごちそう用意するぜ!何が食いたい!?」
結果を報告するなり千鬼は兄に抱きついて、自分のことのように喜んだ。
そんな弟を見て、ほんの少し無刀の顔がほころぶ。
しかし。
「高校受験なんぞ、合格して当たり前だ。この程度で喜ぶんじゃない」
直前に言われた父の一言が心に引っかかって、弟の言葉を素直に喜べない無刀がいた。
…まだ私は大人じゃないんだ。
大人なら、このくらい背負える。大人ならこんなこと弟に打ち明けたりなんか、しない。
千鬼にとって私達の父親は、良い父親。
だから駄目だ。
そのイメージを私が崩してしまったら、千鬼はどれだけ落ち込むかわからない。
でかかった父親への憎悪を生唾と共に飲み込み、弟に感謝の言葉を告げた。
高校生活はそこそこ順調だった。
相変わらず友達を作ることはしなかったが、勉強にもついていけているし風紀委員に属することも出来た。
――この学校における風紀委員と生徒会は、生徒及び教職員、校内に侵入した不審者を暴力で威圧する権限を持つ。
然り、余程の優秀な人物でなくては入ることは出来ない。それに入ることができ、無刀は少し自信を取り戻していた。
――しかしそれは突然に起こった。
考えてみればわかることだったのだ。暴力で威圧する権限を持つ――それはつまり、誰かの代わりに手を下すということ。
「はっ……はっ………はっ……」
放課後の教室。
無刀の目の前には死体が転がっていた。
つい先程まで生きて、自分に助けを求めていた同学年の生徒だったものだ。
「ご苦労だった」
教室の入口に、今の生徒会長――この頃はまだ書記であった――霧影怜人が逆光を浴びながら立っている。
「はっ…はっ……はぁっ、はぁっ、はぁっ」
「……気に病むことは無い」
無刀は日本刀を取り落とし、そのままくずおれる。肉を、人の肉を斬った感触が、いまだ手に残っている。
まるであの時の、母さんを殺した男の足を斬ったときのような――
いや。あの時は衝撃波で斬った。決してこの手にその感触が残ることなど無かったはずだ。
少なくとも、この手には。
「…そこに転がる奴の異能は、自らを獣に変える能力……それが暴発したとなれば、恐ろしいほどの被害が出ただろう」
貴様はそれを止めたのだ。
怜人はまるで励ますかのように、無刀に淡々と話しかける。
「貴様は、正しいことをした。皆を助けたのだ。故に気に病むことなど無い…慣れろ。結局それしか道はない」
そこまで言うと、怜人は無刀を置いてその教室を後にした。
「……………っ」
生徒会に報告を受けて、教室に駆けつけたとき、彼は今にも猛獣になろうとしていた。
その時、彼は言ったのだ。ギリギリの理性を振り絞って。
『頼む…止めてくれ、俺を止めてぐれ……っこのままじゃ、何もかも誰も彼も傷つける…頼むよ』
助けてくれ。
彼は助けを求めたのだ。
それが殺してくれと言う意味合いではないことなど、無刀にも解っていた。
それなのに。
自分は刀を抜き、彼の首を刎ねてしまった。
いいや、刎ねようとした。
刎ねられなかったのだ。直前であろうことか躊躇った無刀は、ほんの少しだけ力を弱めてしまった。
『ぎぁっ…が………』
そのせいで、余計な苦痛まで与えてしまった。
「あぁ…あぁぁ………あぁ…」
『皆を助けたのだ』
本当か?本当にそうか?
少なくともここに、被害者が一人いるじゃないか。助からなかった人がいるじゃないか。
私がもっとちゃんとしていたら――この人は、ひょっとしたら。
「あぁぁぁ…………」
大人に、ならなければ。
大人ならこんなの、なんてことない。正しいことをした、と割り切れるはず。
大人なら。
大人ならきっとこの人のことも助けられたはず――
早く、早く大人にならなくては、誰のことも守れない。
弟を、守り切れないんだ。
そうやって何人の人を手にかけただろうか。
異能力が暴走した生徒を殺した数が、きっと一番多かっただろう。
人の命はなんて軽いのだろうか。
生徒会や教職員の一言で、無刀は皆の喉笛を掻き切る。親やその友達なんかは悲しむのだが、「異能力の暴走なら仕方が無い」と納得する。
こんなことになるくらいならいっそ――
異能力なんて、いらない。
「まっ、待って、ころさないで、おねがっ」
刀が相手の首をかっさいて、血飛沫が飛ぶ。浴びた血液は生温く、不快だった。
時間は、誰にでも平等に優しい。
無刀はだんだん人を殺すことに抵抗を覚えなくなった。全ては仕方の無いこと、その他大勢を救うには犠牲者がでなくてはならない。
全員助かるなんて未来は、あってはいけない。
そんな都合のいい話があってたまるか。
無刀は服の返り血を確認し、上のブレザーにしかついてないことを確認してブレザーを脱いだ。後の処理は美化委員に任せて無刀はそこを後にする。
…はやく帰らなくては。
千鬼が、受験前の時期だというのにご飯を作って待っていてくれているのだから。
兄がこんなことをしているとも知らずに。
無刀は急いで家に向かった。帰るのが遅くなったら、その言い訳を思いつきそうになかったから。
その日の夜は眠れなかった。
…人を殺した日の夜は、眠れない。
無刀は一つため息をつき、なにか温かいものでも飲もうと身を起こした。
階段を静かに降りていくと、父の書斎から話し声が聞こえる。…電話だろうか?
なんとなく気になって、父の書斎の前で足を止めて耳を澄ましてみる。
「…から……あいつらは…で……」
少し聞き取りづらい。無刀は更に息を殺して耳を澄ませた。
「あぁ。息子達が鬱陶しくなってな」
その言葉に息を呑んだ無刀は、慌てて自分の口を押さえる。
「まったく、あいつも面倒なもんを残しよる。あの時三人諸共死んでしまえば良かったのだ、そうすれば一気に保険金が…」
面倒?あの時?保険金?
何を言ってるんだ、この人は。
「弟の方は可愛げがあったんだがな、もう面倒くさくなってしまった。そもそも私が稼いだ金で生活しているあいつらが許せん、だから――」
「そこでだ。今、そっちで臓器か何かを仕入れる予定はないか?」
――闇商売。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
臓器?まて、それは、つまり。
私達の――
「あの時の男、あいつもあいつだ。こっちがさりげなく私の住所を教えて、そして家に私達家族を殺しに来るよう仕向けたのに。あんなクソガキの一撃なんぞうけおって…情けないことこの上ないわ」
ゆっくりと、ゆっくりと、無刀の中でピースがはまっていく。
「しかし、うるさい奴を始末してついでに金儲けも出来るとは良いものだな。え?ははっ、家族なんて金儲けのために作ったようなものだ。だから、どうだ?若い内臓は新鮮で中々手に入るもんじゃないだろう?」
母親が死んだのも、自分が大怪我をしたのも、千鬼が心に一生消えない傷を負ったのも。
全ては、この男の――
「大丈夫だ、確かに息子達には武道を習わせているが、毒に耐性があるわけではない。強力な痺れ薬でものませて、あとは内臓を――」
無刀はそこまで聞いて、扉の前から離れていった。
守らなくてはいけない。
千鬼を、あの悪魔のような男から――しかし、どうやって?
全員助かる方法。
そんなものは、考えるだけ時間の無駄だとわかっている。
その他大勢を救うには。
誰かを、守るためには。
「………よし」
犠牲者がでなくてはならない。
無刀はキッチンから包丁を取り出し、それを手にもう一度父の書斎へ向かった。助けを呼ばれては困るので、電話が終わるのをドアの前で待つ。
ここまで冷静な自分に、正直吐き気がした。
「兄の方は真面目でな、母親に本当に似ている。だから気持ち悪い。私はあの母親の家がそこそこ有名なところだったから結婚したんだ、勿論殺すことを前提としてな。もうあんな女思い出すのも嫌だというのに、あの子供は全く」
そういうことだったのか。と、無刀は内心ため息をついた。
母さんに似ていたから完璧を求められたのではなく――
母さんに似ていたから認められなくなった。
「弟は私に似ていた。名付け親も私だ。だから可愛げはあったんだが、頭のできが悪いのがどうにもな。まぁなんにせよどちらも殺すさ、今度タイミングを見て再度連絡する。…あぁ……それじゃあ」
どうやら終わったようだ。父親が部屋の中をうろつき、パチン、と電気を消す音が聞こえた。
…ということは、今父親はこの部屋から出ようとしていて、その上室内は真っ暗。
――都合が良い。
書斎には内側から鍵がかかっていて、開けることは出来ない。なら扉の近くに潜んで、父が開けた瞬間に父ごと書斎の中に突っ込む。
千鬼が起きてくる前に、一瞬でケリをつける。
――ドアノブを捻る音。
今だ!
扉がガチャリと開く。
無刀の包丁を握る手が、わずかに震えた。
…親殺しは、巣立ちの儀式だと言う。
大人になるための、儀式。
そうだ、こいつを殺して千鬼を守れば――
私はようやく、大人になれるんだ。
包丁を伝って落ちてきた血が、無刀の手を汚す。
「……、むと、………」
父親は顔を歪め、苦しそうに無刀を睨み付けた。
なにも感じない自分に違和感と少しの安堵を覚えつつ無刀は包丁を父の腹部から引き抜いた。と同時に血が勢いよく吹き出す。父が膝をつく音をどこか遠くで聞きながら、無刀は目を閉じた。
これでいいのだ。
これで――
腹部に鋭い痛みが走った。
「……!?」
喉の奥から熱いものがこみ上げてきたと思ったら、口内に血の味が充満する。とうとう口の中には収まりきらず、唇の端から血が滴り落ちた。
自分の腹部には、折りたたみ式の小型なナイフが刺さっている。
「……父さん、……」
最後の抵抗、と言ったところか。
幸いナイフを抜く前に父は完全に崩れ落ちたので、まだ慌てる状況ではない。
それとも自分の感覚が麻痺しているのか。
それでもまだ自分は動ける。このまま自分で救急車を呼ぶことだって勿論できる。
だが――
「………………」
無刀はふらふらと壁に寄りかかって、そのまま激しい音を立てて倒れた。
実の父が自分達を殺そうとしていたこと。
実の父を手にかけたこと。
実の父に殺されかけたこと。
――無理に大人になろうとしたこと。
他に方法はあったはずだった。千鬼に事情を話して二人で逃げることだって出来た。
しかしその方法達は、全て千鬼の中の父親像を壊すもののみだ。
自分だけが背負って済むのならそれでいい。
犠牲者は、最低限でいい。
「兄ちゃん!父さん!?」
無刀が倒れた音を聞きつけて、千鬼が慌てて階段を降りてきた。無刀には、その音が頭の中で反響して聞こえる。
被害者は、あくまで被害者だ。
犠牲者は――ある意味、加害者の方なのかも知れない。
目を覚ますと病院にいた。
「……!兄ちゃん……」
無刀のベッドのすぐ横に千鬼が座っている。
「……千鬼、心配かけたね。…さて、警察はどこかな?」
傷口を庇いながらゆっくりと体を起こす。
父親を刺した自分はまず間違いなく牢獄行きだろう、と無刀は思った。裁判でも、あの時の電話の内容は話さないつもりでいた。「母さんのところに皆で行きたかった」と、無理心中を図ったことにしよう。それなら千鬼もそこまで傷つかないはずだ――と。
「け、警察…?あぁ、確かに来てるけど…事情聴取って言ってたぜ」
「…?事情聴取?」
逮捕ではないのか?と無刀は不思議そうに部屋の入口を覗き込んだ。…と、その瞬間、タイミング良く扉が開いて数人のいかつい顔の警察官とおぼしき人物達が入ってきた。
「…橘無刀君、だね?目が覚めたばかりなのにすまない。ついては――」
署まで同行願う。の言葉が来ると思い、無刀は身構えた。
「君の家に入った強盗についてなんだが」
無刀の思考がフリーズした。
「………………強盗…ですか……」
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…何故?
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……何故。
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「すまない、すまない、千鬼、すまない」
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『ごめん兄ちゃん、ごめん、ごめんなさい…』
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誰も傷つかずにすむように、嘘を。
自分だけが傷つけばそれですむように。
「…父、さんを、まもれなかった」
その言葉に、千鬼が目を細めて歯を食いしばった。その目は怒りに燃えている。
感情をむき出しにして怒るその姿は、無刀には一生することのできない芸当だ。
「……っお前のせいだ!!」
千鬼の拳が、無刀の頬に強く当たる。鈍い痛みと熱さが走った。
無刀は抵抗しない。自分が悪いと解っているから。
「お前のせいだっ、お前のせいだっ、お前のせいだ、お前のっ、お前がっ!!」
そのまま無刀の顔や肩をひとしきり殴り、とうとうやりきれなくなったのか床に崩れ落ちてベットサイドの手すりに拳を突き立てる。
「……お前のっ………!」
あぁ、千鬼、私もあの時そう言いたかったよ。
母さんが死んだのも、あんな大怪我をしたのも、父さんに認めて貰えなかったのだって全部、ぜーーーーんぶお前のせいだと言ってやりたかったよ。
でも言えなかった。
だって私達、たった二人の兄弟じゃないか。
ただでさえ苦しんで泣いている君を見たくはないのに、そこに私がとどめを刺すなんて残酷すぎる。
…もっと他に手段があったのだろうか。
私が愚かだっただけなのだろうか。
私は、思いつくだけの最善を尽くしたはずなんだが。
私は――…
……愛して、欲しかったなぁ…。
* * *
母さんが死んでから、兄ちゃんはじわじわと蝕まれていくようにおかしくなった。
急激に大人になった、というか。
俺より一つ上な訳だから、まぁ自分よりも先に大人になるのは当たり前なのだが。
…先に行ってしまったような気がした。
いや、もっと適切に言えば、置いて行かれた気がしたのだ。
故意に。作為的に。――わざと、俺を置いていったかのような。
兄ちゃんは俺を頼らない。頼ってくれない。
料理のことになると別だが――他のところで一切俺に負担をかけようとしない。その理由が、俺にはなんとなく分かる気がした。
だから必死に自分に出来ることをこなし、兄ちゃんが見てないところで兄ちゃんの仕事を勝手に片付けたりもした。少しでも兄弟の負担を減らしたいと思うのは、兄も弟も同じなはずだ。
……兄ちゃんはまるで、いついかなる時も本当の自分を見せないように振る舞っている。
それは俺にも同じ。母さんの葬式以降、俺は兄ちゃんの本当の顔を見ていない。
気のせいなのだろうか?
…どちらにせよ、兄が辛いときは支えなくては。それが兄弟なのだから。
次、何か良くないことが起こったら今度は俺が助けてやるんだ。
兄弟として。
ほんの少し自分の口元が緩んだのがわかった。
ガタン。
大きめの物音で目が覚めた。
中学三年生の――夏から秋になりかけの頃だっただろうか。その日は朝から晩まで少し肌寒くて、時期的に少し早いけれど毛布を出して寝ていた気がする。
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別に明日の朝でもよかったのだが、なんとなく気になって、起き上がって下に様子を見に行った。
すると――
「なっ………」
血の海に沈む、兄と父の姿が目に映った。
あの時と。
あの時と、同じ――
「兄ちゃん!父さん!?」
慌てて駆け寄り、階段から転げ落ちそうになりながらもなんとか二人の元まで走る。…この状況は、二回目だ。大丈夫、今回はちゃんと、冷静に対処できる。
…兄ちゃんはナイフが腹部に刺さったままだから、出血が酷くない。これならすぐ救急車を呼べば助かるはず――!
「…っ父さ」
待て。
この血の量で、兄の出血は少ないと言うことは、つまり――父の出血量は――
「ぐっ……」
止血だ。急いで止血をしなくては。
いや、その前に救急車を。救急車を呼んで、待っている間に止血をしよう。
そう思って、電話を取りに振り返ったとき。
一番に目に飛び込んできたのは、兄の姿――ではなく――
血に濡れた、我が家の包丁。
「…は?」
その包丁は無刀の手に直前まで握られていたようで、無刀の掌の下に包丁の柄がある。
まさか、と思って兄の腹部に刺さったナイフを確認すると、父が護身用にと言って携帯していた折りたたみ式ナイフと全く同じだった。
「……………」
殺し合い。
何らかの理由で、自分の兄と父は殺し合ったのであろう。この状況を見るに、そうとしか思えなかった。
思考が、どんどん真っ白になっていく。
「……兄ちゃん」
驚いたことに頭は非常に冴えていて、頭の中で一つ一つ事実が明らかになっていく。
父はこのナイフを携帯していたが、兄が包丁を携帯するなど有り得ない。つまり、この包丁は兄が自分の意思で手に取ったもの。
激しい乱闘の後が無いことから、恐らく奇襲してその場でどちらかが反撃を喰らった。
――どちらか、というのは勿論――
「兄ちゃん?」
兄は答えない。
しかし、確信はしていた。
兄ちゃんが、父を刺した犯人なのだ――と。
一瞬、本当に一瞬、兄に対する殺意が湧いた。
しかし考え直す。あんなに優しく、しっかり者だった兄がなんの理由もなしに父を殺したりするだろうか?
………駄目だ、考えている暇はない!
「兄ちゃんは悪くないっ!」
自分を奮い立たせるようにそう叫び、千鬼は父の書斎に踏み込むと中を荒らし始めた。父はこの部屋に金庫を隠していると言っていた。それを探そうと強盗犯が暴れ回った――そんなシナリオだ。
次に兄の腹部に刺さったナイフをゆっくりと引き抜き、無刀が持っていた包丁も一緒に洗面台で血を洗い流す。包丁はいつもいれている場所に戻し、折りたたみ式ナイフは――自分のポケットに入れた。
自分がしていることの意味なんて、とうにわかっている。
それでも、兄は悪くない。そう信じる。
次は、自分が助ける番だから――
救急車のサイレンが聞こえ出す頃には、現場はただの強盗殺人未遂現場となっていた。
兄ちゃんが目を覚ますまで、頭を冷やして考えた。
やっぱり、兄ちゃんが全部悪いとはどうしても思えない。弟の自分になら全てを話してくれるだろうと思い、兄を信じて待つことにした。
…現場を荒らしたからって、悪くないと信じたからって、父さんを殺したのを許すわけにはいかない。
だというのに。
「…父、さんを、まもれなかった」
この期に及んでまだ嘘をつくのか。
やっぱり兄ちゃんは俺に本当の顔なんて見せたことなどないのではないか。
どうして、どうしてそんなに俺を信用できない。これからは二人きりだというのに。話してくれると信じていたのに。
信じていたのに。
……そうか、兄ちゃんはあの時死んでしまったんだ。
ならここにいるのは兄ちゃんじゃない。
「お前のせいだ!お前のせいだ!お前のせいだ!お前のせいだ!」
いつの間にかとんでもないことを口走っていた。挙げ句の果てに手まで上げてしまった。しかし、後悔はなかった。
「このっ………クソ兄貴っ……!」
お前が自分を偽り続けるなら。
もう俺は、お前を兄ちゃんとして受け入れない。
* * *
「……………」
血が芝生に落ちる。
しかし、その血は想像したものよりは遙かに少なく――
「…千鬼、」
血を流していたのは、千鬼の掌だった。
――無刀が首を斬る直前、千鬼が刀を直で掴み引き剥がしたのだ。
芝生に倒れ込む音は、勢い余って二人が転倒した音だった。
「……っのクソ兄貴」
千鬼は俯いたまま、ぼそりと呟く。
「兄貴はいっつもそうだ、全部全部自分一人で解決しようとする――自己犠牲だけで解決しようとする」
その声はどこか震えていた。
無刀はそれどころではないと言うように、血を流す千鬼の掌を執拗に気にしていた。早く止血しなくては、というような目で。
しかし千鬼はそれに構わず、むしろ余計に刀を握るその手の力を強めた。
「…なぁ兄貴、俺、兄貴が隠してること知ってるんだ」
その言葉に、無刀は少し息を呑んだ。
「全部じゃない。説明して欲しいことだって山ほどある。その全てを知る覚悟は出来てるし、それに――一緒に背負う覚悟も出来てる」
千鬼は淡々と、こみ上げる何かを押さえつけるように、静かにゆっくりと言葉を紡いだ。
…無刀の瞳が、揺らぐ。
「……言うのが遅くなって、ごめん」
鼻をすする音。
「今までずっと一人で背負わせてごめん。辛いこと全部任せてごめん。兄貴のせいだなんて言ってごめん。許せなくて、ごめん」
まるで子供のように、親にわがままを言う子供のように、千鬼は泣きじゃくり兄の肩に顔を埋めた。刀を握っていた手は力を失ってだらんと地面に落ちている。
無刀はぼぉっと、空を見上げている。
千鬼の言葉が意外すぎたのか、脳に届いて理解するまで多少の時間を要しているようだ。
「…………兄貴、詳しいことは、あとでしっかり話す」
震える声で、それでもはっきりと力強く千鬼は言った。
「兄貴が背負ってるものは、俺も一緒に背負わなくちゃいけないものだ。兄弟だとか、関係なく」
だから。
だから――
「置いてくなよぉ…兄ちゃん……」
耐えきれなくなった、というように千鬼は嗚咽を漏らし始めた。それ以上は言葉にならなかったらしい。
無刀の目が、ゆっくりと、段々とくすんだ世界が色づいて見えだしたかのように開かれていく。
そして――
「……っあぁぁぁぁあぁぁああぁあ!うわぁあぁあぁぁぁ、あぁぁあぁあーー!」
まるで子供のように。
「ばっ、せんっ、きのっ、ばかぁぁぁあ!なんで今更っ…っうぁあぁぁぁあぁぁ」
兄弟喧嘩の後に、拗ねて泣きじゃくる子供のように。
「う、うぁ、っ、ゔっ、ごめんなさっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさいっごめんなざっ」
「……っう…」
今まで兄弟の間に開いていた溝が。今まで二人がつけていた仮面が。
――音を立てて割れたような気がした。
* * *
「…いい話じゃねぇか…ぐすっ」
「えっ…真里、お前も泣くの?私も泣きそうなんだけど誰が慰めてくれるって言うんだよ」
「ふぇぇ~……」
「すぐるに至ってはすでに号泣じゃん嘘でしょ私どうしたら良いの?」
いやだって、仕方が無いだろう。目の前でこんな兄弟愛を見せつけられてしまったら。
「……ほらほら、皆、もう行こう」
ハッカー先輩が俺達の背中をぽんと押して、帰るよう促す。
「もう今日は解散。真里君のことは、皆で家に送ってあげるよ。だからほらもう行こう」
「ちょ、先輩、そんなに急かさなくても…」
確かに俺らがここにいたら邪魔だろうが…
すると、ハッカー先輩はふっと笑って言った。
「…無刀、あぁ見えてプライド高いんだ。明日は、何でもない顔して「何も見てない」って言ってやってよ」
少し悪戯っぽく笑ったハッカー先輩の目尻に、ほんの少しだけ涙が滲んでいた。
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トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
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