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魔力なしのニナ・アルエ

ガレネル・フェーケルに馳せる思い 5

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 かなり遠回りしたにもかかわらず、出発してから10分ほどでブランモワ邸に到着した。あっという間だったけれど、すごく楽しい時間を過ごせたと思う。
 ちょっとだけ名残惜しさを感じつつ、キャビンから降りようと腰を上げかけたところに、スチームバイクで先に現地に着いていたアレックスが、邸の方から慌ててこちらに駆け込んできた。

「キアン、新たな商談がまとまったぞ! ブランモワ卿は私が乗ってきたバイクの方も買い取ってくれるらしい!」
「いいのか? お前のお気に入りだったんじゃ」
「いい! 金に目が眩んだ!」

 守銭奴みたいな発言をしながらも、アレックスはこちらに手を差し出して、キャビンから足を下ろしかけた私を補助してくれようとしている。

「大丈夫、自分で降りられるから」
「どんな時でも女性を手助けするのが紳士としての嗜みというものだよ。さあニナ、この手を取って私を男にしてくれたまえ」
「いちいち発言が怪しいのはどうにかならないの?」

 そんな風に言いつつも、せっかくの厚意を無下にするわけにはいかない。私はアレックスの手に自分のそれを乗せ、開けてもらったドアから静かに足を下ろした。

「へえーっ、これが噂のスチームビークルか!」

 リュカがキャビンから勢いを付けて飛び降りたところで、背後から声がしたので振り返る。子どもみたいに瞳を輝かせてはしゃいでおられるギヨーム様と、少し離れた後ろからエレーヌ様がこちらに向かっていらっしゃるのが目に入って、私はアレックスの手を慌てて離すと深く頭を下げた。
 ギヨーム様は一瞬こちらに目をやり、何か言いたげになさったけれど、結局何も仰らずに軽く手を上げてお応えになるのみだった。そしてそのまま流れるように操縦席に乗り込むと、キアンやカルロに操縦方法を尋ね始めた。

「お帰りなさい」

 そうお声を掛けて下さったのは、エレーヌ様だ。リュカが驚いたように肩をびくりと上げて私の背後に逃げ込む。いつもなら私のスカートを握りしめたままそこから出てこないのに、今日はそっと顔を覗かせて「ただいま」と応えたので、エレーヌ様はとても驚いたお顔をなさった。

「今日は楽しかった?」
「うん。あっ、あの……はい」
「良かったわね」

 リュカは小さくうなずくと、宿題をしてくる、と一言残して邸の方へと駆け出して行った。その後ろ姿が見えなくなってから改めてエレーヌ様に向き直ると、私は再び頭を下げた。

「遅くなってしまい申し訳ございません。すぐに戻るつもりだったのですが……」
「気にしないで、お父様から事情はうかがっているわ。なんでも、リュカに魔術を教えて下さるんだとか」

 凛とした声が、私の隣に立っていたアレックスの方に向けられる。それに答えるかのように、アレックスは胸に手を当てて恭しくお辞儀をした。

「これはこれは、レディ・エレーヌ。ご機嫌麗しゅう存じます」
「あら、わたくしをご存じでいらっしゃるなんて光栄ですわ、フレイヴァ様」
「えっ……あっ」

 どうやらエレーヌ様はアレックスをキアンだと誤って認識なさっているようだ。間違いを改めようと口を開きかけたところ、アレックスはそれを制するように一歩前に進み出てエレーヌ様の手を取って跪くと、そっと口づけた。

「”スイレンの咲く泉”……ブランモワ嬢はあの絵画に描かれた美姫と瓜二つだという噂を耳にしておりましたので、ぜひともお会いしたいと存じておりました」
「まあ、その絵をご覧になったということは、王都にいらしたことがおありなのですね。それで、実物と相対したご感想は?」
「瓜二つなどととんでもない、さらにお美しくあられて……。女神と見まごう程の美しさに、私はいま感動で胸を打ち震わせております」

 アレックスは背筋を綺麗に伸ばしたままゆっくりと立ち上がり、にこりともしない無表情のエレーヌ様と向き合うと、薄い笑みを浮かべた。

「こういった世辞はお気に召しませんか? 王都で出会ったご婦人方は皆、かんたんに舞い上がって下さったんですがね」

 挑戦的なアレックスの態度に、邸の門扉にあるガス灯で照らされたエレーヌ様の横顔が、一瞬険しくゆがむ。見てはいけないものを見てしまった、そんな気がして、私は慌てて視線を足元に落とした。

「どなたにでもそのような気障なことを仰っているなんて、お伺いしていたよりもずいぶん無節操で不実なお方ですのね。わたくし、がっかり致しましたわ」
「期待を裏切ってしまったようで申し訳ございません。言葉を交わす前からこちらにずいぶん強い敵意を抱いておられるご様子だったので、それを和らげようとしたのですが」
「……何を仰っているの? わたくしはあなたに敵意など」
「魔力の揺らぎが顕著になりましたね。心情を見抜かれて焦っていらっしゃる」
「……」

 笑顔を向け合っているというのに、殺伐としたこの雰囲気。この場を流れる冷ややかな空気感に、私は思わず身震いをした。

「私に嘘や取り繕いは通用しませんよ、レディ・エレーヌ。どんな理由があるにせよ、そのような敵愾心を抱いて近づいたということは何かしら害をなすおつもりだったんでしょう」
「バカバカしい。害をなすなんて、女のこの細腕で何ができるというのです」
「人を傷つけるのに腕っぷしなど必要ありません。とにかく、貴女がキアンに対してそのように攻撃的に練り上げた魔力を向けるおつもりなら、覚悟なさった方がいい。思いを果たす前に、このアレックス・ブライトが容赦なく叩き潰して差し上げますゆえ」
「な……っ!」

 目の前にいる相手がキアンではないことを明かされ、エレーヌ様は今度は露骨に怒りの色をそのかんばせに浮かべてアレックスを睨みつけた。

「あなた、わたくしを謀るつもりだったのね」
「謀るも何も、自らフレイヴァと名乗ったことはございません。貴女が勝手に勘違いなさったのでは?」
「勝手に、ですって? よくもまあいけしゃあしゃあと言えたものね。わたくしが”フレイヴァ様”とお呼びしても、あなたは否定なさらなかったではないの」
「おや、そうだったのですか。貴女の手に口づけをすることに夢中で、その部分は聞き逃していたようですね」
「っ、ほんっとうによく回る舌ですこと……!」
「お褒めにあずかり至極光栄に存じます」

 ジャケットの襟元を正し、改めてお辞儀をすると、アレックスは踵を返してキアン達のいる方へと向かった。
 背中を見送るエレーヌ様の肩は小刻みに震えており、その震えが寒さとは違った理由からくるものであることは、火を見るより明らかだった。

「……ニナ」
「は、はい」
「邸に戻りましょうか」

 こちらに向き直ったエレーヌ様の表情は、いつも通りの柔らかなものに戻っている。でも、邸の方へと歩を進めた時にエレーヌ様がふと零された物騒な独り言を、私は聞き逃さなかった。

「あのアレックスとかいう優男……次会ったら首を絞めてやる」

 邸の正門から本館へ向かうレンガの小径を、靴のかかとをわざと踏み鳴らすように歩くエレーヌ様。クレティエンが傍に付いていないこともあって、その所作は普段と比べてずいぶん乱暴だ。
 怒り心頭、そんな言葉がぴったりのご様子のエレーヌ様の後ろを、私は釈然としない思いを抱きながら付いて歩いていた。
 エレーヌ様がキアンに対して敵意を抱いたのは、自分との結婚をかけた勝負をギヨーム様に持ち込んだ張本人だから、ということは理解できる。それについて何か一言物申したい、というお気持ちもあっただろう。ただ、まさか本当に危害を加えるおつもりはなかったにせよ、アレックスに警戒されるほどの鮮明で苛烈な怒りをエレーヌ様が今も持ち続けていらっしゃるのは、なんだか不自然な気がした。
 危険な賭けだったとはいえ、こちらにとって全て良いかたちで事態はすでに収束している。どちらかと言えば非生産的なことを嫌うタイプでいらっしゃるから、丸く収まったものを無暗にひっかき回すようなことをすれば、余計な諍いが生まれるかもしれない、というお考えは当然あっただろう。
 それでも尚、あのように振舞ったのはなぜなんだろうか。もしかして、何かもっと別のことで怒っていらっしゃる? あの件に関する、ご自分のこと、もしくはそれ以外での、別の事情……。

「いや……まさかね」

 ふと思いついた考えを即座に否定する。
 と、突然、エレーヌ様が立ち止まってこちらを振り返った。

「ニナ、あなたが決めたことだからとやかく言うことはしないけれど。もしリュカやあなたにフレイヴァ様がたが何か危害を加えることがあれば、どんな小さなことでもわたくしに報告して頂戴」
「は、はあ……」
「いい、どんな小さなことでもよ。わたくし、あなたを失ってしまうんじゃないかとずっと気が気でなくて……もう、あのような思いはしたくないの」

 私の手を握り、今にも泣きそうなお顔で仰るエレーヌ様。その表情が物語っているのは、さっき私が打ち消したはずの考えが正しいものである、ということだった。

「あの日のことはあなたも望まないだろうから、不問に付すことにする。でも、」
「……」
「次があれば、絶対に許さない」

 まだここで働き始めて間もないただの使用人になぜここまで入れ込んでいらっしゃるのか、不思議に思う気持ちはある。でもエレーヌ様が今もキアンに対して激しい怒りを抱いていらしたのは、私を死の淵に追いやったからだということは間違いないらしい。
 私はエレーヌ様の意に従う所存であることを、何度も大きくうなずくことで表した。ただ、今日、もう既にアレックスによってひどい目に遭わされ済みであることは黙っておこうと思った。






 エレーヌ様を本館まで送り届けた後すぐに別館に戻り、自室へと向かう。薄暗い部屋の中では、卓上のオイルランプの明かりを頼りにリュカが机に向かって宿題をしている姿が目に入った。夕飯は食べたのかと声をかけると、これが終わったら、と答えが返って来たので、私は先に食堂に降りて準備をしておくことにした。

「あ、ねえ、ニナ。さっきさぁ」

 部屋を出ようした時、声を掛けられて振り返る。
 リュカは何か言いかけて小さく口を開いたけれど、そのまま言葉を飲み込むように唇を引き結んで視線を下に落とした。

「どうしたの?」
「んー……。んーん、やっぱいい。何でもない」

 何か言いたいことがあっても、それをうまく文章にできない時にリュカはこういう態度を取ることがある。でも今の表情や声の感じからして、いつもとは違って伝えたい気持ちもそれに沿った言葉も、リュカはちゃんと用意できているように思えた。
 ちょっと食い下がれば、もしかしたら話してくれるかもしれない。そんな風に思ったけれど、私は敢えてそれ以上は踏み込まなかった。リュカが言いかけた「さっき」という言葉に、スチームビークルでキアンの腕にしがみついていた所を見られた時の、何とも気まずい空気感が不意に蘇ってきたのだ。
 リュカが話そうとしたのがその件についてだと断定できたわけじゃないけれど、万が一今あのことを話題にされたら、たぶん私はおかしな言動をしてしまうだろう。

「じゃあ、終わったら降りといで。下で待ってるから」

 そう言い残して部屋を出る。リュカの顔をまっすぐ見られなかったことにリュカが気付いていないことを祈りながら階段を降り、食堂奥にあるキッチンへと向かった。
 キッチンストーブに火を入れ、お昼の休憩の時にオデットが仕込んでいた賄いのシチューを小さなミルクパンに取り分けて、温まったコンロの上に置く。籐カゴに盛られていた、今朝焼いた黒パンを二人分お皿に乗せ、水差しとコップを準備したりしていると、マノンが食堂に入ってきたのが見えた。

「あっ、ニナ!」

 私の姿を見止める否や、普段では見られないくらいの俊敏な動きで私の方へと駆け寄るマノン。そう言えばこっちの面倒ごとも片付けなくてはいけなかったんだということを思い出し、私は密かにため息をこぼした。

「へーぇ、リュカに魔術を、ねえ……」

 時間が経ってすっかり固くなった黒パンをシチューに浸しながら、マノンはそう呟いて私とリュカを交互に見比べた。

「どういういきさつでそうなったの? ニナがお願いした?」
「あちらが進言してくださったの。なんか、リュカに可能性を見出したとかなんとかで」
「そうだったんだぁ。人の才能を見抜けるなんて、ご本人もきっと才能にあふれたお方なんでしょうね……なんだか素敵~」
「……マノン、フレイヴァ様が初めていらした時、あの方のこと変人だとか言ってなかった?」
「あの時はあの時! 人の心は移ろいやすいものなのよ」

 頬に手を当ててうっとりとした表情を浮かべるマノンに、向かいに座っていたリュカが少しだけ嫌そうな顔を向けた。

「ちらっとお見かけしただけだけど、フレイヴァ様ってカッコイイと思わない? 丈の短いフロックコートとか、細身のスラックスとか、黒革のハイカットブーツとか……ここいらではあまり見ないファッションがすごくスタイリッシュでさぁ」

 ちらっとお見かけしただけにしてはずいぶんよく観察しているようだと思ったけれど、苦笑いを浮かべて曖昧にうなずいておくに留める。この話をこれ以上弾ませてしまうと、余計なことを頼まれてしまいそうな気がしたのだ。

「一緒にいらしたお二人も素敵だったけれど、やっぱりダントツなのはフレイヴァ様よね!」
「ああ、うん……。そう、かな……」
「いいなぁ、ニナ。私もお近づきになりたいなぁ」

 恍惚とした目つきを私の方に向けるマノンの様子を目の端でとらえつつ、思案する。
 これに反応して目を合わせてしまえば、マノンは仲を取り持ってくれだとか言い出すに違いない。人間関係、特に恋愛感情の絡んだそれについて深く関われば、その後の展開次第ではものすごく面倒なことになることは大いにあるし、何よりキアンが抱えているものがあまりに重すぎる。マノンには申し訳ないけれど、その熱い眼差しには気付かない振りをするのがベストだろう。

「ねーえ、ニナ。できればでいいからさあ、」
「そりゃおめえ、無理な話だってんでよ、俺ァはっきりと断ってやったんだよ!」

 とつぜん、玄関ホールの方から、まるで私の心情をそのまま言語化したような騒がしい話し声が響いてきた。どうやら夜間の見回り勤務の男性陣が出勤してきたらしい。

「あれ、もうそんな時間? 給仕の準備しなくっちゃ!」

 このチャンスに乗じるしかない。私はわざとらしくそう言うと、残ったシチューとパンを急いで掻き込んだ。

「えぇっ、ニナは休んでなよー。ちゃんと回復するまでは仕事するなってミセス・ロジェに言われてるでしょう?」
「大丈夫、今日だって外出して何ともなかったんだし。あ、リュカはゆっくり食べてていいからね」
「ホンット仕事人間だよねぇ、ニナ……。私だったらお言葉に甘えまくって休むけどなあ」

 空になったシチューボウルとスプーンを持ち、張り切って立ち上がった私に、マノンは呆れたような言葉を投げかけた。
 今回のところは免れたけれど、いつ何時マノンから紹介してくれ攻撃を受けるか分からない。マノンのこの熱が冷めるまでは、なるべく彼女と二人きりにならないようにしようと強く心に誓った。






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