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2章:青空とリンゴの木

チェンバー・メイドの心得 3

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 エレーヌ様とのお茶の時間を終え、自室の片づけを何とか終えて顔を上げた時には、日はもう西の方へと傾き始めていて、ビンの底みたいなガラスをいくつも連ねて構成された窓からは、オレンジ色の光が柔らかく差し込んでいた。
 静まり返った見慣れない部屋をいったんぐるりと見渡し、深く吸い込んだ息を細く吐き出す。鳥の羽毛と羊の毛がたっぷり詰め込まれた自分のベッドに背中から沈みこみ、天井からぶらさがる鹿の角型をしたシャンデリアを眺めながら、私はゆうべのことをぼんやりとした頭の中で回想させた。
 数年ぶりに再会したフィルは、姿も名前も変わってしまってはいたけれど、ナターク共和国の人間として大道芸団を率い、それなりに落ち着いた生活を送っているように見えた。もう私やリュカに会うつもりはない、なんて言っていたけれど、父さんとの約束を果たすために律儀に私の前に姿を現したくらいだから、きっと状況が良くなればまたゆっくり話せる日が来ると信じてはいる。
 でも、そのフィルを取り巻く状況というのは、私が思っているよりも深刻で、もっと大きな力がうごめいているような気がした。キアンがフレイヴァの刑を科された罪人であることを知っていたり、彼の本来の名前を把握していたりと、他国の情報にも通じているらしい様子だったのも気になるし、何より、魔力はほとんどないはずなのに、キアンと渡り合えるくらいの魔術を使いこなしていたことが不可解だった。
 フィルは本当にただの大道芸団の団長なのだろうか。フィルが逃げているのは、本当に裏社会の人間からなのだろうか。ゆうべ、何気なく言っていた「両親を亡くしたお前から逃げた」という言葉――フィルは、本当に私の……

「やめよう。考えたって分からないことを考えても、時間の無駄だ」

 まるで自分に言い聞かせるようにそう声に出し、私は勢いをつけてベッドから起き上がった。
 キアン達が迎えに来る時間に間に合うよう、そろそろ準備をしておこう。そう思い、着替えるために何気なくクローゼットの扉の取っ手に手をかけた私は、そういえば自分がこれまで来ていた私服はけっきょく全てクレティエンの采配によって没収されたから、ここを開けるのは今が初めてだということに気が付いた。
 着替えるものがないのならこのままでいいか、そんな風に思ったけれど、こないだ買ったばかりのリネンのブラウスと深いネイビーのスカートについてはかなり食い下がったので、もしかしたら密かに返してもらえているかもしれない。クレティエンからの温情があることを期待しつつ、取っ手を握った手をゆっくりと引いた。
 クローゼットの左側に並んでいるのは仕事着で、午前用、午後用、訪問用の3種類が2着ずつあり、それに対応したブーツが用意されていた。クレティエンやロジェが着ているものと同じなので、ここまでの風景には特に感情が波立つことはない。問題はそこから少し右へと視界を移した箇所だ。そこにぶら下がっているのは、上質な布で仕立て上げられたワンピースやブラウス、スカートで、私なんかがおいそれと買えるような代物ではないものばかりだった。
 エレーヌ様は背が高く、12、3歳になるころにはすでに今の私くらいの身長があったそうだ。さっき採寸されていた時、その当時に着ていたものも譲って下さると仰っていたから、このきれいな衣装はたぶん、エレーヌ様がそのお年頃に着ていらしたものに違いない。
色合いや意匠は限りなく地味にシンプルに抑えられているけれど、気軽に着ていいタイプの服ではないことは明らかで、私はそのラインナップを一通り視線で撫でてから、クレティエンの予定調和ともいえる非情さに嘆いた。
 分かってる。ブラウスは胸元の切り返しが素敵だと思って買ったけれど、そこに施されていた、素人が暇つぶしに編んだみたいな雑な出来のレースが認められなかったってことくらい。スカートだって、3分の1は同じ色合いの違う素材の布が使われていたし、十中八九、返してくれないというのは分かっていた。
 でもこんなに高価そうな服に、おおざっぱにまとめただけの髪とナチュラルと言えば聞こえのいいただのスッピン顔が釣り合うわけがなく、つまりこれを着て行くなら私は今から自分でヘアメイクをしなければいけなくなってしまうのだ。まとめ髪なんて三つ編みをぐるぐる巻いただけのお団子しかできないし、メイク道具なんて持ってすらないというのに……。

「……もう、いいや。やっぱりこのまま出かけよう」

 チェンバー・メイドとしての仕事は明日からが本番だ。下級メイドは仕事着で出かけることを許されているし、それを盾にすればクレティエンに文句を付けられることも――

「いいわけがないでしょう。たとえ行き先がフォーミダーブルだとしても、その格好で外出することは許しません」

 夕方4時、早朝番の業務終了の合図である鐘と共に部屋にやってきたクレティエンに、下級メイド用の仕事着を返却するように言われ、この後出かけるから明日まで待ってほしいと頼んだらこの返答だ。それなら今日だけでいいから没収された服のどれかを返してくれないかとも頼んでみたけれど、ぴしゃりとお断りされてしまった。

「確かに、本格的な仕事は明日からと言ったけれど、主人であるエレーヌお嬢様から“ミセス”と称されたのなら、その瞬間からあなたの立場は小間使いなどではなくチェンバー・メイドなのよ。そのことをしっかり肝に銘じておきなさい」
「……」
「いいですね、アルエ」

 クレティエンは、さっきのお茶の時間でしたエレーヌ様とのやりとりを把握しているらしい。今までどおりの“ニナ”ではなく“アルエ”という呼び方に変える念押しまでされ、

「分かりました……」

 小さく肯定の返事をするしかなかった。
 いつものクレティエンなら、こちらの様子なんて歯牙にもかけずさっさと部屋を後にしていただろう。でも、今日はこれだけでは終わらなかった。

「……どなたと出かける予定なの」

 まさかまだ話が続くとは思わず、慌てて視線を上げる。クレティエンの表情は相変わらず無機質なものだったけれど、差し込む夕焼けの色がその頬に色どりを与えているせいか、普段より人間味のある面差しのように感じた。

「リュカと、フレイヴァ様、あとはブライト様と……」
「ああ、先日こちらにお見えになった方々ね。旦那様のご友人がお相手なら、やはりそれなりに身なりは整えるべきだわ」

 クレティエンはそう言うと、私の部屋のベッドサイドに設えられた小さなドレッサーの方へと向かった。

「こちらへ来なさい。わたくしが教えます」
「へっ? あの……何を、ですか」
「上級使用人の装いに決まっているでしょう。正しい知識もないまま自己判断でおかしな格好をされるのは困るのよ」

 厳しく寄せられるその眉間のしわは、いつも私の胃をつねり上げていたけれど、今日に関してはそういう感覚は全くない。圧も感じないし、反発心だって湧いてこないし、何と言うか、むしろ……

「ありがとうございます! 勉強させていただきます!」
「声が大きい!」

 口元で人差し指を立て、眉をさらに吊り上げるクレティエンの頬が赤いのは、夕焼けのせいだけじゃないような気がした。







 さすがとしか言いようがない。ボサボサ赤毛とそばかすの浮いた頬を恥ずかしげもなく晒していた田舎娘を、ここまで洗練させることができるなんて。

「自分で言うのはなんですが、すごくきれいです私。魔術なんかよりもすごい技術ですよ、これ」

 鏡に映る自分に見とれつつ、すごいすごいと連呼したことなんて、これまで生きてきた中で一度でもあっただろうか。
きれいな人は素地がいいからお化粧をしても映えるんだと思ってきたけれど、一概にはそうとは言えないことが自分を見て分かった。たとえ土台が残念でも、それをカバーする腕前があれば、見た目なんてどうとでも操作できるのだ。

「こ、こんなのはレディーズ・メイドとして当たり前の技量よ。お嬢様を美しく、さらに魅力的に飾るのも、大事な役割の一つなのだから」

 そう言って、いつも通りの固い表情を崩さないようにしているけれど、唇の端が一瞬だけわずかに上がったのは見逃さなかった。

「服まで選んで頂いて、本当にありがとうございます。この装いなら、フォーミダーブルでも浮かないと思います」
「ブランモワ家の為です。旦那様やお嬢様の顔に泥を塗るわけにはいかないというだけで、別にあなたの為なんかじゃ」
「それでもうれしいです、ありがとうございます」

 畳みかけるようにそう続けると、クレティエンは口元をゆがませてそっぽを向いてしまった。
 ブラウンの縦じまが入った詰襟のコットンブラウスと、セットアップになっている足首より少し上の丈のスカート。ブラウスの襟元や前立て部分を縁取る刺繍が、上品さと上質さを表現してくれているけれど、過度な高級感や豪華さは感じられない。
 きっとクレティエンは、行き先や一緒に出掛ける相手、時間帯その他もろもろの事情を考慮してこれを選んだんだろう。

「本来は自分でやるべきことなのよ、分かっているの?」
「はいっ、しっかり頭に叩き込ませて頂きました!」
「……ヘアセットをするから、姿勢をまっすぐ鏡の方に向けなさい」

 脱力しながら指示をするクレティエンに、素直に従う。シニヨンキャップは外され、雑に編み込んだ髪が背中に垂れ下がった。毛先から丁寧にほぐし、うねうねとした妙な癖を落ち着かせるように櫛で梳いていくその手の動きを、私は鏡越しにじっと見つめた。

「マクシミリアン様のことだけれど」

 思いがけない話題に、意図せず視線が下方へと向かう。
 思いがけない、と感じたのは、きのう私が頭突きを食らわせたせいでバランド子爵が倒れてしまったことを、忘れていたからとかではない。……本当に忘れていないから。

「あ、えっと……聞いちゃいけないと思っていたんですが、実はずっと気になっていたんです。バランド様の具合はいかがなんですか?」

 白々しさを感じさせないよう、なるべく落ち着いたトーンでそう尋ねると、クレティエンは小さく首を横に振った。

「まだ目を覚まされないのよ」
「えっ……」

 私はこんなにピンピンしているのに、と言いそうになる口を真一文字に引き結び、不自然に力の入った唇を隠すべく手を当てた。
 たかが小娘の頭突きを食らったくらいで卒倒したことすら不思議でならなかったのに、そのうえ丸一日たっても起きないなんて、いくら何でもおかしすぎる。あの時は適当に、フライパンが頭に当たったかも、なんて誤魔化したけれど、実はそれは本当のことで、打ち所がかなり悪かったことが原因だったり、なんてことは……。

「や、やっぱり、頭を打ったせいでしょうか」

 恐るおそる尋ねてみると、クレティエンは再び首を横に振った。

「お医者様は、怪我は大したことはないと仰っていたわ。呼吸も心音も問題ないそうよ」
「それじゃ、どうして」
「魔力の枯渇が原因かもしれないらしいの」
「魔力の、枯渇……」

 掠れた声でクレティエンが言ったことをもう一度くり返しながら、私はバランド子爵が倒れる寸前のことを頭の中で思い浮かべた。
 バランド子爵はあの時、私を操作するために呪術をかけようと何度も試みていたし、最終的には攻撃魔術を放とうともしていた。攻撃魔術に関しては、私の物理攻撃が先に決まったおかげで発動はされなかったから無関係として、呪術って数回発動させるだけで底をつくほど魔力を使うものなんだろうか。
 分からない。こればかりは経験のある人に確認してみないと……。

「ニナ」

 苗字ではなく名前を呼ばれたことにドキリとして、いっしゅん視線を泳がせてしまう。鏡に映るクレティエンは、髪を梳く手を止めて私をじっと見つめていた。

「本当に、あなたは何も……」
「……?」

 そこまで言ってから、クレティエンははっとした表情で言葉を切り、目を軽く伏せて薄い唇を噛みしめた。その様子は、私から真実を聞き出すことを迷っているのではなく、本当は聞きたいけれど何か別の抑止力が掛かっているせいでこれ以上は口を開けない、そんなもどかしさを感じているように見えた。

「あの、」
「いいわ、何でもない。さ、続きをするからしっかり見ておいて頂戴。明日から自分ひとりでできるようにするのよ」

 小さく息をついてから、再び櫛を持つ手を動かし始めるクレティエン。それから後、鏡越しに彼女と目が合うことは、一度もなかった。







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