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2章:青空とリンゴの木
華麗なるお誘い
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「キアン」
静まり返った空気を割って、小さく呼びかける。
「何だ。今ならまだ追いつけるぞ」
「……そうじゃなくて。フィルが父親だってこと以外で、リュカから何を聞いたの」
私の問いかけに、キアンは明らかに動揺した表情を浮かべて目をそらした。
今朝フィルらしき人を見かけた後、追いかけて確かめるように勧めたり、私が頼みもしないのに、勝手にゼキ・アルビールのことを調べたり……。キアンがここまで熱心に動いてくれるのには、何かきっかけがあったに違いないのだ。
私からはフィルについてのことは何も話していない。となると、リュカが何かしらの事情や、それに対する心の内を話したとしか考えられなかった。
「言いにくいこと? それとも、私には教えるなって言われた?」
「……」
「へえ、口止めなんて、リュカもなかなか一丁前なことするようになったなあ」
「ち、ちょっと待ってくれ。俺は何も言ってないのにどうして」
「なるほど、口止めされてるのね」
「あ……」
しまったと言わんばかりに、キアンは口元を手で押さえている。分かりやすくて助かるけれど、この人こんなチョロイ感じでどうやって生きてきたんだろうと、少し心配になってしまった。
「……君が聞いておいた方がいいと思うなら、ちゃんと話すよ。だが、」
「いいよ、内緒にしておいてあげて」
意を決した様子で口を開いたキアンの言葉を遮り、私は苦笑いを浮かべてそう言った。
「キアンのことを信頼しているからいろいろ打ち明けたんだろうし。安心できる逃げ場を作っておいてあげなきゃ、リュカも息苦しいでしょ」
キアンがホッとしたように表情を緩めてうなずくのを見て、私の掛ける圧力はそんなにも強いものだったかと、思わず肩を揺らして笑ってしまった。
「なんか……ホント今日はいろいろとゴメン。すごくいっぱい迷惑をかけたよね」
「迷惑だなんて思っていない。俺の方こそ、勝手に突っ走ってすまなかった」
「リュカのためと思ってやってくれたのは分かってる。まあ、事前に一声かけてくれる方が心の整理も付けられるし有難いけどさ、でも今日に関してはキアンが動いてくれてなかったら、たぶんこの先もずっと何も変わらなかったと思うから」
だから、ありがとう。
一つ息をついてからそう続けると、キアンはなぜかすごく驚いたように目を見開いて私をじっと見下ろした。
「えっ……なに?」
「いや。君は本当に、不思議な人だなと思って」
今のやり取りの中で、私の不思議っぷりが発揮された箇所はあったかとちょっと真剣に考えてみたけれど、思い当たる節はない。
「えっと、ちなみに私のどの辺に不思議さを感じたかな……」
少しおかしいという風に思われている可能性は無きにしも非ずということで、いちおう、念のため、万が一のことを考えて今後の参考のために聞いてみる。
キアンはわずかに首を傾げ、少しの間考える仕草をしてから、うまく表現できないが、と言った。
「その……上辺だけのなにがしやら回りくどい口上やら、世間にはよく分からない言葉が溢れているだろう。まあ、君もそういう言い回しをすることはあるけれど、ちゃんと俺に合わせて表現を変えてくれるから……。君の言葉は、いつものように余計なことに気を回さずに済むせいか、素直に受け取れるんだ」
ゆっくり言葉を選びながらそう話すキアン。
彼はたぶん、善意を装った悪意に足元を掬われたり、他愛なさを装って施された善意に気づけず相手に嫌な思いをさせたり、人との関わりにおいていろいろと苦労をしてきたんだろう。
言葉は額面通りに受け取ってはいけない、という知識は、相手の機微を正確に読み取ることができないキアンにとって、全てに対して疑心暗鬼を起こさせる弊害になってしまっているようだった。
「本当にすごいと思う。君は魔術も使わず、俺が何に困っているか、何を必要としているかを瞬時に見抜いて最適解を出してくれる。俺には一生かかっても手に入れられない能力だよ」
「そんな……そこまで褒められることでもないってば」
分かりすぎるせいで、知らなくていい事情や感情に気付いてしまうこともある。助けられる場面もあったけれど、どちらかと言うと自分の心をすり減らすことの方が圧倒的に多くて、私としてはキアンの鈍感さがちょっと羨ましかったりもするのだけれど。
「まあ、とりあえず今日は本当にありがとね。キアンのお陰で道が拓けたよ」
鈍感さなんていう、一般的にはマイナスの資質を羨むようなことを言えば、またバカにしたとキアンの機嫌を損ねてしまうような気がして、あえて話題をそらしておいた。
「……フィルのことは、本当にもういいのか」
その問いかけに、一息ぶんだけ間を置いてから、小さくうなずいて答える。
「でも諦めたわけじゃないよ。ただ、今は……まだ時期じゃないと思うってだけ。“ゼキ”なんて名乗らなくていい時が来れば、フィルはきっと私やリュカの元に戻ってくれるって信じてるから」
リュカのことが引っかかるのか、キアンはまだ少し何か言いたげにしていたけれど、そうか、とだけ呟いて、それ以上このことについて踏み込んではこなかった。
「じゃあ……私、そろそろ部屋に戻るね。明日はちょっといろいろ忙しいから、早起きしないと」
少しだけ流れた沈黙を合図に、そう切り出す。
いつまでもフィルとの再会の余韻に浸っている暇はない。部屋の片づけ、引っ越し作業、新しい仕事の確認、それにクレティエンとの打ち合わせも入るかもしれないから、今夜はちゃんと寝て英気を養っておかないといけないのだ。
「リュカには朝から来いと伝えたんだが、大丈夫か」
「そういえばさっき、そんなこと話してたね」
片付けについては本当はリュカにも手伝ってもらいたかったけれど、可愛さに流されて思わず了承してしまったんだった。
まあ、手伝ってもらったところで一つの作業をお願いするたびにいちいち指示を出さなきゃいけないだろうから、その手間を考えれば私一人の方がスムーズに捗るだろう。キアンがリュカを預かってくれるというのは逆にありがたい申し出だったかもしれないと思いなおし、それは大丈夫だと答えた。
「もし手間でなければ、お昼ご飯をそっちで食べさせてやってほしいんだ。あ、もちろんご飯代はちゃんとリュカに持たせるから」
「分かった、任せてくれ。ところで君の方は、夕方には時間は取れるかな」
「あー……うん、そうだね。それまでにはちゃんとこっちの用事は終わらせておくよ」
その頃にリュカを帰してくれるつもりなのだろうと思い、何の気なしにそう答えたところ、
「じゃあ君を迎えに行くから、そのまま一緒に食事に行こう。何か食べたいものがあるならリクエストしてくれ」
「っ!?」
さすがと言うべきなんだろうか、なんてサラッと自然に夕食のお誘いをこなしてしまうんだろう、そんな風に感心してしまった。絶対に断られないこと前提のその口調なんてもう、その道の手練れと表現したって過剰じゃないと思えるほどだ。
ただそのターゲットとしてなぜ私が選ばれたのかが理解できず、私は小さく半歩うしろに下がると、キアンをじとりとした目つきで見上げた。
「あの、キアン。し、食事って……」
「できれば席の多い店がいいと思っているんだ。俺たちとリュカだけでなく、アレックスとカルロも一緒に来ると言っていたから」
「……っなるほど! 分かった、じゃあおすすめのお店がルータム通りにあるから、そこにしよう!」
無意味に元気よく提案した私の声が、静かな夜の空気に響き渡る。あまりに不自然だったせいかキアンの表情が一瞬いぶかしげなものになったけれど、それはすぐに苦笑いに変わった。
「君が店を見繕ってくれるんだな?」
「あっ、うん、えっと……。仕事仲間の弟さんがやってるブラッスリーがあるんだけど、そこのチキン・フリカッセがすごく人気でおいしいんだ」
「大衆酒場にリュカを連れて行って平気なのか」
とんでもない勘違いをしていた自分を恥じつつ、何とか平静を装って返した答えに、キアンが少し眉を顰めてそう尋ねた。
「大丈夫、どっちかっていうと家族連れで来ている人の方が多いお店だから」
ブラッスリーとは銘打っているものの、そこは私の感覚ではどちらかというとビストロに近い雰囲気のお店で、時間帯にもよるかもしれないけれど、ガラも酒癖も悪そうな輩が客として来ているところなんて見たことがない。店主曰く、“ビストロ”と言ってしまうと少しばかり敷居が高くなり、気のいい常連たちの足が遠のく気がして嫌なんだそうだ。
「それならそこに決めよう。案内は頼んでいいんだよな」
「うん、任せて。……あ、そうだ。明日、マルシェに買い出しに行く子がいたら、店に寄って席をリザーブしておいてもらうよう頼んどくよ。学校やお役所の休暇日はいつも混んじゃうから」
「……何から何まですまないな。俺が誘ったのに、結局ぜんぶ君に任せきりになってしまった」
「キアンたちはまだこっちに来て日が浅いし、この辺の店なんてよく知らないでしょ。ドリンク1杯分くらいおごってくれればそれでチャラにしとくよ」
冗談めかして言ってから、そういえばキアンにはこういうおふざけが通じないんだったと思い出したけれど、少し遅かったらしい。
「ドリンク1杯分だな。分かった」
神妙な面持ちで受け入れられてしまい、私は額に手を当ててがっくりとうなだれた。
静まり返った空気を割って、小さく呼びかける。
「何だ。今ならまだ追いつけるぞ」
「……そうじゃなくて。フィルが父親だってこと以外で、リュカから何を聞いたの」
私の問いかけに、キアンは明らかに動揺した表情を浮かべて目をそらした。
今朝フィルらしき人を見かけた後、追いかけて確かめるように勧めたり、私が頼みもしないのに、勝手にゼキ・アルビールのことを調べたり……。キアンがここまで熱心に動いてくれるのには、何かきっかけがあったに違いないのだ。
私からはフィルについてのことは何も話していない。となると、リュカが何かしらの事情や、それに対する心の内を話したとしか考えられなかった。
「言いにくいこと? それとも、私には教えるなって言われた?」
「……」
「へえ、口止めなんて、リュカもなかなか一丁前なことするようになったなあ」
「ち、ちょっと待ってくれ。俺は何も言ってないのにどうして」
「なるほど、口止めされてるのね」
「あ……」
しまったと言わんばかりに、キアンは口元を手で押さえている。分かりやすくて助かるけれど、この人こんなチョロイ感じでどうやって生きてきたんだろうと、少し心配になってしまった。
「……君が聞いておいた方がいいと思うなら、ちゃんと話すよ。だが、」
「いいよ、内緒にしておいてあげて」
意を決した様子で口を開いたキアンの言葉を遮り、私は苦笑いを浮かべてそう言った。
「キアンのことを信頼しているからいろいろ打ち明けたんだろうし。安心できる逃げ場を作っておいてあげなきゃ、リュカも息苦しいでしょ」
キアンがホッとしたように表情を緩めてうなずくのを見て、私の掛ける圧力はそんなにも強いものだったかと、思わず肩を揺らして笑ってしまった。
「なんか……ホント今日はいろいろとゴメン。すごくいっぱい迷惑をかけたよね」
「迷惑だなんて思っていない。俺の方こそ、勝手に突っ走ってすまなかった」
「リュカのためと思ってやってくれたのは分かってる。まあ、事前に一声かけてくれる方が心の整理も付けられるし有難いけどさ、でも今日に関してはキアンが動いてくれてなかったら、たぶんこの先もずっと何も変わらなかったと思うから」
だから、ありがとう。
一つ息をついてからそう続けると、キアンはなぜかすごく驚いたように目を見開いて私をじっと見下ろした。
「えっ……なに?」
「いや。君は本当に、不思議な人だなと思って」
今のやり取りの中で、私の不思議っぷりが発揮された箇所はあったかとちょっと真剣に考えてみたけれど、思い当たる節はない。
「えっと、ちなみに私のどの辺に不思議さを感じたかな……」
少しおかしいという風に思われている可能性は無きにしも非ずということで、いちおう、念のため、万が一のことを考えて今後の参考のために聞いてみる。
キアンはわずかに首を傾げ、少しの間考える仕草をしてから、うまく表現できないが、と言った。
「その……上辺だけのなにがしやら回りくどい口上やら、世間にはよく分からない言葉が溢れているだろう。まあ、君もそういう言い回しをすることはあるけれど、ちゃんと俺に合わせて表現を変えてくれるから……。君の言葉は、いつものように余計なことに気を回さずに済むせいか、素直に受け取れるんだ」
ゆっくり言葉を選びながらそう話すキアン。
彼はたぶん、善意を装った悪意に足元を掬われたり、他愛なさを装って施された善意に気づけず相手に嫌な思いをさせたり、人との関わりにおいていろいろと苦労をしてきたんだろう。
言葉は額面通りに受け取ってはいけない、という知識は、相手の機微を正確に読み取ることができないキアンにとって、全てに対して疑心暗鬼を起こさせる弊害になってしまっているようだった。
「本当にすごいと思う。君は魔術も使わず、俺が何に困っているか、何を必要としているかを瞬時に見抜いて最適解を出してくれる。俺には一生かかっても手に入れられない能力だよ」
「そんな……そこまで褒められることでもないってば」
分かりすぎるせいで、知らなくていい事情や感情に気付いてしまうこともある。助けられる場面もあったけれど、どちらかと言うと自分の心をすり減らすことの方が圧倒的に多くて、私としてはキアンの鈍感さがちょっと羨ましかったりもするのだけれど。
「まあ、とりあえず今日は本当にありがとね。キアンのお陰で道が拓けたよ」
鈍感さなんていう、一般的にはマイナスの資質を羨むようなことを言えば、またバカにしたとキアンの機嫌を損ねてしまうような気がして、あえて話題をそらしておいた。
「……フィルのことは、本当にもういいのか」
その問いかけに、一息ぶんだけ間を置いてから、小さくうなずいて答える。
「でも諦めたわけじゃないよ。ただ、今は……まだ時期じゃないと思うってだけ。“ゼキ”なんて名乗らなくていい時が来れば、フィルはきっと私やリュカの元に戻ってくれるって信じてるから」
リュカのことが引っかかるのか、キアンはまだ少し何か言いたげにしていたけれど、そうか、とだけ呟いて、それ以上このことについて踏み込んではこなかった。
「じゃあ……私、そろそろ部屋に戻るね。明日はちょっといろいろ忙しいから、早起きしないと」
少しだけ流れた沈黙を合図に、そう切り出す。
いつまでもフィルとの再会の余韻に浸っている暇はない。部屋の片づけ、引っ越し作業、新しい仕事の確認、それにクレティエンとの打ち合わせも入るかもしれないから、今夜はちゃんと寝て英気を養っておかないといけないのだ。
「リュカには朝から来いと伝えたんだが、大丈夫か」
「そういえばさっき、そんなこと話してたね」
片付けについては本当はリュカにも手伝ってもらいたかったけれど、可愛さに流されて思わず了承してしまったんだった。
まあ、手伝ってもらったところで一つの作業をお願いするたびにいちいち指示を出さなきゃいけないだろうから、その手間を考えれば私一人の方がスムーズに捗るだろう。キアンがリュカを預かってくれるというのは逆にありがたい申し出だったかもしれないと思いなおし、それは大丈夫だと答えた。
「もし手間でなければ、お昼ご飯をそっちで食べさせてやってほしいんだ。あ、もちろんご飯代はちゃんとリュカに持たせるから」
「分かった、任せてくれ。ところで君の方は、夕方には時間は取れるかな」
「あー……うん、そうだね。それまでにはちゃんとこっちの用事は終わらせておくよ」
その頃にリュカを帰してくれるつもりなのだろうと思い、何の気なしにそう答えたところ、
「じゃあ君を迎えに行くから、そのまま一緒に食事に行こう。何か食べたいものがあるならリクエストしてくれ」
「っ!?」
さすがと言うべきなんだろうか、なんてサラッと自然に夕食のお誘いをこなしてしまうんだろう、そんな風に感心してしまった。絶対に断られないこと前提のその口調なんてもう、その道の手練れと表現したって過剰じゃないと思えるほどだ。
ただそのターゲットとしてなぜ私が選ばれたのかが理解できず、私は小さく半歩うしろに下がると、キアンをじとりとした目つきで見上げた。
「あの、キアン。し、食事って……」
「できれば席の多い店がいいと思っているんだ。俺たちとリュカだけでなく、アレックスとカルロも一緒に来ると言っていたから」
「……っなるほど! 分かった、じゃあおすすめのお店がルータム通りにあるから、そこにしよう!」
無意味に元気よく提案した私の声が、静かな夜の空気に響き渡る。あまりに不自然だったせいかキアンの表情が一瞬いぶかしげなものになったけれど、それはすぐに苦笑いに変わった。
「君が店を見繕ってくれるんだな?」
「あっ、うん、えっと……。仕事仲間の弟さんがやってるブラッスリーがあるんだけど、そこのチキン・フリカッセがすごく人気でおいしいんだ」
「大衆酒場にリュカを連れて行って平気なのか」
とんでもない勘違いをしていた自分を恥じつつ、何とか平静を装って返した答えに、キアンが少し眉を顰めてそう尋ねた。
「大丈夫、どっちかっていうと家族連れで来ている人の方が多いお店だから」
ブラッスリーとは銘打っているものの、そこは私の感覚ではどちらかというとビストロに近い雰囲気のお店で、時間帯にもよるかもしれないけれど、ガラも酒癖も悪そうな輩が客として来ているところなんて見たことがない。店主曰く、“ビストロ”と言ってしまうと少しばかり敷居が高くなり、気のいい常連たちの足が遠のく気がして嫌なんだそうだ。
「それならそこに決めよう。案内は頼んでいいんだよな」
「うん、任せて。……あ、そうだ。明日、マルシェに買い出しに行く子がいたら、店に寄って席をリザーブしておいてもらうよう頼んどくよ。学校やお役所の休暇日はいつも混んじゃうから」
「……何から何まですまないな。俺が誘ったのに、結局ぜんぶ君に任せきりになってしまった」
「キアンたちはまだこっちに来て日が浅いし、この辺の店なんてよく知らないでしょ。ドリンク1杯分くらいおごってくれればそれでチャラにしとくよ」
冗談めかして言ってから、そういえばキアンにはこういうおふざけが通じないんだったと思い出したけれど、少し遅かったらしい。
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