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2章:青空とリンゴの木
青空とリンゴの木
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キアンをビゼー道具店まで送って行った後、お昼ごはんにはまだ早い時間に再びマルシェに戻った私は、さっきの屋台で串焼き肉を買った。おじさんは、あんな口約束をちゃんと守って戻って来た奴は初めてだ、とか何とか言って3本もおまけにつけてくれたのだけれど、1本だけでもかなりのボリュームだったこともあって、1人で全てを食べきることはできなかった。
「うう……やっぱりキアンもお昼に誘えば良かったかな」
そうすれば、2人でシェアすることもできたはず。八つ当たりをした上に気を遣わせてしまった自分に後ろめたさを感じて、ガスパルにジスランの紹介を受けたとだけ伝えてそそくさと退散してしまったことを後悔しつつ、何とか2本分を収めたお腹をさする。
残りの2本は、草抜きを押し付けることになってしまったバスチアンにおすそ分けしよう。リュカへのお土産にしても良かったけれど、マルシェで買ったネクタリーヌやジスランにもらったロクムがあれば、あの子には充分なはずだ。
そんなことを考えながら帰り道を急ぎ、ようやくブランモワ邸のオレンジ色の屋根が見える辺りまで来たところで、ふと帰り際のルータム通りの光景を思い出した。
通りではタープ張りが始まっていて、ナタークの大道芸人たちが奏でるにぎやかな音楽の中、作業が行なわれていた。屋根と屋根の間、常人なら尻込みしてしまいそうな距離を難なく飛び越えたり、ハシゴを使ったバランス技や連続宙返りなどのアクロバットな芸を披露していることもあって、そこはいつもとは違った賑わいを見せていた。私も見学して行こうかと思ったけれど、何となくあの人――団長と呼ばれていたローブの男性――に近づくのは避けたくて、結局ルータム通りは通らずに少し遠回りして帰ることにした。
あの人の雰囲気や口調はフィルとはぜんぜん違ったし、キアンに言った通りあれはただの私の勘違いだったと結論付けたのだから、気にせず堂々と通っても良かっただろう。でも、あの時聞いた声を頭の中でリフレインしてみると、やっぱりフィルだったんじゃないかと思い直してしまう自分もいたりして……。
本人かどうかはこの際もうどちらでも良くて、あの声を聞いてしまうことで、心がひどくかき乱されるのはごめん被りたかった。
ブランモワ邸の正門を通り過ぎ、敷地の裏側にある通用門をくぐって中に入る。別館に向かう前に庭の方を覗いてみると、私が出掛ける前は規則正しい間隔で並んでいた草の山はきれいに片付けられていて、バスチアンはもうそこにはいなかった。
「1人で全部終わらせたのかな……」
ひと気のない静かな庭をしばらく見つめてから、その場を後にする。今はちょうどお昼時だから、別館の控室で休憩しているに違いない。油紙に包まれた串焼き肉はまだ少し温かいから、早い内にバスチアンに渡してあげれば……
「あら、ニナじゃない。帰って来ていたのね」
急に後ろから声を掛けられて、思わず肩を跳ね上げさせる。振り返ると、そこにはほうきを手にしたロジェがこちらに微笑みかけていた。
「クレティエンに聞いたら、昼過ぎまで戻らないって言っていたけれど……用事はもう済んだの?」
「はい、ちゃんと終わらせてきました」
「仕事が早いのは良いことだわ。クレティエンも助かったでしょうね」
そう言われて苦笑いを返す。だって、ジスランの昨夜の食事よりもどうでもいい書類を届けただけなのだ。私の働きがクレティエンの助けになったとは到底思えなかった。
「じゃあこのままお昼の休憩に入りなさいな。午後からはいつも通り、厨房の手伝いをしてちょうだいね」
「あ、でも……」
「あら、他に何か用事が?」
「ミセス・クレティエンからお聞きではないですか? 私、お客様と顔を合わせちゃいけないからって別館で待機するように指示されているんです」
「それは初耳ねえ」
ロジェは眉を下げ、首を傾げて手を頬に当てた。
「ハウスメイド達を統括している家政婦長は私なのに、レディーズ・メイドが勝手に指示を出すなんて……困ったものだわ」
ロジェの言う通りだと思った。家政婦長と侍女は上下関係にはなく、序列で言えばほぼ同等と言っていいだろう。でも私の直属の上司は家政婦長のロジェであって、クレティエンではない。つまり、クレティエンが私の仕事の采配を振ることは、本来はできないはずなのだ。
「てっきり、ミセス・ロジェも承諾しているものだと思っていたんですが……」
「お手伝いを頼みたいとは聞いていたけれど、その後のことは何も。一体何を考えているのかしら、クレティエンは」
「……」
いつも通りの柔らかな口調と仕草ではあるけれど、ほんのわずかに苛立ちが含まれているような気がして、思わず視線を少し下へとずらす。ロジェは小さくため息をついてから、仕方ない人ね、と呟いた。
「いいわ、この件に関しては私が彼女に話しておきます。あなたはクレティエンの指示は気にせず、時間になったら厨房の準備を始めておいてちょうだい」
「……分かりました」
いいんですか、と聞き返しそうになった言葉を飲み込み、指示を受け入れてから頭を下げると、ロジェは、頼んだわよ、と言い残して本館の方へ向かった。
クレティエンの横暴ともとれる指示に対して、ロジェが助け舟を出してくれたのはとても有難かった。これまで長く休んでしまっていたし、仕事もせずに部屋に引きこもるだけの時間を過ごすのは、正直後ろめたさや居場所を失う不安感を覚えるだけでなく、嫌気がさしていたから。
だけど、言葉に上手く表せない何かが、心の中の屈折率を変えているような気がした。今日の仕事を取り上げられずに済んだのは、ロジェが私を守ってくれたからだというのは事実だ。感謝もしているし、クレティエンざまあみろという気持ちも湧いていたりする。でもその感情をかすかに遮るものは確かに心の中にもやもやと漂っていて、凪いで落ち着いているはずの心の底の方をわずかに波立たせていた。
不安、と言うほどでもない何か。でも気のせいだと切り捨てるにはやけに存在感のあるそれが何なのか、けっきょく解明できないまま、休憩時間の終わりを知らせる鐘の音を聞くことになった。
◇
「私、魔術の適性がないって言われた」
「ふーん、良かったな。おめでとう」
「……それは……どういう意味で言ってる?」
「こないだお前、父さんみたいに賢くない、母さんみたいに美人でもない自分は拾われっ子なんだって嘆いてただろう。魔術の適性がないのはアルエ家の特徴だ。ちゃんとアルエ家の血を引き継いでいることが分かって良かったなと言っているんだ」
嫌味にしか聞こえないよ、と呟きながら、学校指定のカバンをベッドに勢いよく放り投げた私に、
「ガサツだな。頭や顔うんぬんではなく、お前がダメなのはそういうところだと思うぞ」
サラサラの金髪を優雅になびかせながらそう嘲笑したフィル。あのとき全力を込めて食らわせたゲンコツの感触は、未だに忘れていない。
フィルは、いい兄ではなかった。遠い東の国の磁器みたいになめらかな白い肌や、晴れ渡る空のように深い青の瞳、太陽の光を反射してキラキラと輝く金髪を自慢し、その日学校であったモテエピソードの披露に加えて満点のテストやレポートを見せびらかすというルーティンを毎日必ずこなしては、私の悔しがる様子を見て喜ぶような奴だった。
「フィルとは違う美しさをお前はちゃんと持っている。そして父さんたちはそれを誇りに、自慢に思っているんだよ」
「……本当に? 私にもちゃんといいところ、ある?」
「その緑の瞳や赤い髪、小麦色の肌は、まるで豊穣の神から加護を与えられたリンゴの木のようで、私も父さんも大好きなのよ。きっとフィルは空に、ニナは大地に愛された子なのね」
自分も青い目と白い肌が欲しかった、金色のまっすぐな髪が良かったと泣く私に両親がそう言って抱きしめてくれていなかったら、私はきっと自分のことを嫌いになっていただろう。
「フィルには分かんないよ! だって、魔術を使える程じゃなくても魔力はあるんでしょう? 私にはないんだよ。みんなが話してるような体の中の感覚なんて何も感じない、温度みたいなものもない」
「……」
「神様は私のことなんて見えてなかったんだ。だから魔力を与えるのを忘れて……からっぽ人間なんて造っちゃったんだよ、きっと」
「たかだか魔力がないくらいでなんだ。お前はそれによって困ったことはあるのか」
ひじ掛けのついた椅子にふんぞり返りながら私の嘆きを聞いていたフィルは、低く重い声でそう呟いた。
「将来、魔術兵団に入りたいとかいう夢があったのなら落ち込むのは当然かもしれない。でもそうじゃないだろう。だったら、空っぽだなんて言うな。自分の価値を魔力の有る無しで決めるんじゃない」
「でも」
「自分にできること、人より秀でたものは何かよく考えろ。他の奴らも、僕ですらも持っていないものがお前にはあるはず」
「……そんなのあると思う?」
「あるから僕はお前に嫉妬して意地悪をするんだろ。いい加減に気付けよ、バカ妹め」
そう言って見たこともないくらいに頬を赤くして、私の頭を乱暴にくしゃくしゃとかき混ぜたフィルのあの時の顔は、今でもはっきり覚えている。
「どうしたの、その怪我」
「うるさいな。お前には関係ないだろう」
「ユーグ? ジョアキム? それともマルセル?」
「……」
「分かった、ジョアキムね。私に任せといて」
「お、おい、相手はバルテレミー伯爵家の長男だぞ。暴力に訴えるのは」
「今週末の乗馬レースに、ジョアキムは選手として出るのよね? それに私も飛び込みで参加して、優勝してきてあげる」
フィルは包帯の巻かれた自分の腕をそっと抑え、唇を噛みしめた。
「あいつは何か月もレースのために練習してきているんだぞ。何も準備をしていないお前が勝てるわけない」
「そうだよねぇ、なーんにも練習してないお遊び感覚で参加したヤツに負けたら、それこそ自尊心くじかれちゃってめちゃくちゃ悔しい思いするよねぇ」
「……本気でやるのか?」
「当たり前! 鼻っ柱バキバキに折ってきてやるわ」
腕まくりしてガッツポーズをしてみせた私に、力無いながらも笑顔を返したフィル。
容姿端麗で頭脳明晰、女の子からも非常にモテるということもあり、同性の敵が多かったフィルはたびたび嫌がらせを受けていて、こうして怪我をして学校から帰ってくることもあった。相手が貴族だという理由でフィルに対するいじめはいつも暗黙の内に葬られてしまい、まともに解決したことなんて一度もなかった。
その週末、約束通りに優勝メダルを持ち帰って見せつけた時に、フィルと一緒に大笑いをしたことは、きっとこのさき一生、忘れることはないと思う。
決していい兄ではなかった。体は弱いし走るのは遅いし木登りも下手くそだし泳ぎもからっきしダメだし、達者なのは脳みそと見てくれだけという、いわゆる男らしさの欠片もないへなちょこだ。
だけど、私を救ってくれた。私に道を示してくれた。絶望した私に光を与えてくれた。私にとっては大事な、何よりも大事な兄だった。
だから尚のこと、私を独りにしたことが許せなかった。
両親を立て続けに亡くして、それでも2人でやっていこうと決心した矢先に失踪したフィル。私を失意のどん底に叩き落としたあの裏切り者にいつか仕返ししてやるんだと誓ったことは、目的を果たすまでは何があっても忘れてやらないと心に決めていた。
それなのに、今日マルシェでそれらしき人を見つけた時、その人を追いかけることができなかった。恨み言しか言えないから、なんてキアンには言い訳したけれど、私はその恨み言をずっとずっとフィルにぶつけたいと思っていたはずなのに。
「ああ、もう。考えないようにしなくっちゃ」
銀食器を磨く手を止める。誰もいない静かな厨房を見渡し、自分が今さっき呟いた独り言をもう一度心の中で唱え直してから、首を横に振って深くため息をついた。
正直、少し後悔する気持ちは……いや、少しじゃない、めちゃくちゃ後悔している。だってあの後すぐに追いかけていれば、少なくともあの人がフィルかどうかの確認くらいはできたはずで、本人じゃなければそれはそれで良し、本人ならば全力でぶん殴って恨みを晴らしてやることができたのだ。そのどれも選ばず、何もしなかったせいで私はこうして悶々としながら仕事をする羽目に、今だけじゃない、この先ずっとこんな気持ちを抱えて過ごしていかなくてはいけなくなった。
なぜあの時動かなかったのか、自分でもよく分からない。ずっと抱えてきた思いを精算する絶好のチャンスだったかもしれないのに、それをふいにしてしまうなんて……。
「ずいぶん暗いお顔ですね。何か嫌なことでもあったのかな?」
とつぜんすぐ近くで穏やかな声がして、私は驚いて顔を上げた。
人が近づいてくるような気配は全く感じなかった。さっき厨房を見渡した時も本当に静かで足音ひとつ聞こえなかったし、入口には人影も見えなかったはずだ。でも今、作業台を挟んですぐ目の前には確かに一人の男性が立っていて、私のことをじっと見つめている。
「あ、あの……」
「ああ、ご挨拶がまだでしたよね。私はマクシミリアンといいます、以後お見知りおきを」
血の気が引く、というのはこのことだと思った。
胸に手を当ててこちらに柔らかな笑みを向けているのは、私が一番相対したくない人物、マクシミリアン・バランド子爵その人だったからだ。
「うう……やっぱりキアンもお昼に誘えば良かったかな」
そうすれば、2人でシェアすることもできたはず。八つ当たりをした上に気を遣わせてしまった自分に後ろめたさを感じて、ガスパルにジスランの紹介を受けたとだけ伝えてそそくさと退散してしまったことを後悔しつつ、何とか2本分を収めたお腹をさする。
残りの2本は、草抜きを押し付けることになってしまったバスチアンにおすそ分けしよう。リュカへのお土産にしても良かったけれど、マルシェで買ったネクタリーヌやジスランにもらったロクムがあれば、あの子には充分なはずだ。
そんなことを考えながら帰り道を急ぎ、ようやくブランモワ邸のオレンジ色の屋根が見える辺りまで来たところで、ふと帰り際のルータム通りの光景を思い出した。
通りではタープ張りが始まっていて、ナタークの大道芸人たちが奏でるにぎやかな音楽の中、作業が行なわれていた。屋根と屋根の間、常人なら尻込みしてしまいそうな距離を難なく飛び越えたり、ハシゴを使ったバランス技や連続宙返りなどのアクロバットな芸を披露していることもあって、そこはいつもとは違った賑わいを見せていた。私も見学して行こうかと思ったけれど、何となくあの人――団長と呼ばれていたローブの男性――に近づくのは避けたくて、結局ルータム通りは通らずに少し遠回りして帰ることにした。
あの人の雰囲気や口調はフィルとはぜんぜん違ったし、キアンに言った通りあれはただの私の勘違いだったと結論付けたのだから、気にせず堂々と通っても良かっただろう。でも、あの時聞いた声を頭の中でリフレインしてみると、やっぱりフィルだったんじゃないかと思い直してしまう自分もいたりして……。
本人かどうかはこの際もうどちらでも良くて、あの声を聞いてしまうことで、心がひどくかき乱されるのはごめん被りたかった。
ブランモワ邸の正門を通り過ぎ、敷地の裏側にある通用門をくぐって中に入る。別館に向かう前に庭の方を覗いてみると、私が出掛ける前は規則正しい間隔で並んでいた草の山はきれいに片付けられていて、バスチアンはもうそこにはいなかった。
「1人で全部終わらせたのかな……」
ひと気のない静かな庭をしばらく見つめてから、その場を後にする。今はちょうどお昼時だから、別館の控室で休憩しているに違いない。油紙に包まれた串焼き肉はまだ少し温かいから、早い内にバスチアンに渡してあげれば……
「あら、ニナじゃない。帰って来ていたのね」
急に後ろから声を掛けられて、思わず肩を跳ね上げさせる。振り返ると、そこにはほうきを手にしたロジェがこちらに微笑みかけていた。
「クレティエンに聞いたら、昼過ぎまで戻らないって言っていたけれど……用事はもう済んだの?」
「はい、ちゃんと終わらせてきました」
「仕事が早いのは良いことだわ。クレティエンも助かったでしょうね」
そう言われて苦笑いを返す。だって、ジスランの昨夜の食事よりもどうでもいい書類を届けただけなのだ。私の働きがクレティエンの助けになったとは到底思えなかった。
「じゃあこのままお昼の休憩に入りなさいな。午後からはいつも通り、厨房の手伝いをしてちょうだいね」
「あ、でも……」
「あら、他に何か用事が?」
「ミセス・クレティエンからお聞きではないですか? 私、お客様と顔を合わせちゃいけないからって別館で待機するように指示されているんです」
「それは初耳ねえ」
ロジェは眉を下げ、首を傾げて手を頬に当てた。
「ハウスメイド達を統括している家政婦長は私なのに、レディーズ・メイドが勝手に指示を出すなんて……困ったものだわ」
ロジェの言う通りだと思った。家政婦長と侍女は上下関係にはなく、序列で言えばほぼ同等と言っていいだろう。でも私の直属の上司は家政婦長のロジェであって、クレティエンではない。つまり、クレティエンが私の仕事の采配を振ることは、本来はできないはずなのだ。
「てっきり、ミセス・ロジェも承諾しているものだと思っていたんですが……」
「お手伝いを頼みたいとは聞いていたけれど、その後のことは何も。一体何を考えているのかしら、クレティエンは」
「……」
いつも通りの柔らかな口調と仕草ではあるけれど、ほんのわずかに苛立ちが含まれているような気がして、思わず視線を少し下へとずらす。ロジェは小さくため息をついてから、仕方ない人ね、と呟いた。
「いいわ、この件に関しては私が彼女に話しておきます。あなたはクレティエンの指示は気にせず、時間になったら厨房の準備を始めておいてちょうだい」
「……分かりました」
いいんですか、と聞き返しそうになった言葉を飲み込み、指示を受け入れてから頭を下げると、ロジェは、頼んだわよ、と言い残して本館の方へ向かった。
クレティエンの横暴ともとれる指示に対して、ロジェが助け舟を出してくれたのはとても有難かった。これまで長く休んでしまっていたし、仕事もせずに部屋に引きこもるだけの時間を過ごすのは、正直後ろめたさや居場所を失う不安感を覚えるだけでなく、嫌気がさしていたから。
だけど、言葉に上手く表せない何かが、心の中の屈折率を変えているような気がした。今日の仕事を取り上げられずに済んだのは、ロジェが私を守ってくれたからだというのは事実だ。感謝もしているし、クレティエンざまあみろという気持ちも湧いていたりする。でもその感情をかすかに遮るものは確かに心の中にもやもやと漂っていて、凪いで落ち着いているはずの心の底の方をわずかに波立たせていた。
不安、と言うほどでもない何か。でも気のせいだと切り捨てるにはやけに存在感のあるそれが何なのか、けっきょく解明できないまま、休憩時間の終わりを知らせる鐘の音を聞くことになった。
◇
「私、魔術の適性がないって言われた」
「ふーん、良かったな。おめでとう」
「……それは……どういう意味で言ってる?」
「こないだお前、父さんみたいに賢くない、母さんみたいに美人でもない自分は拾われっ子なんだって嘆いてただろう。魔術の適性がないのはアルエ家の特徴だ。ちゃんとアルエ家の血を引き継いでいることが分かって良かったなと言っているんだ」
嫌味にしか聞こえないよ、と呟きながら、学校指定のカバンをベッドに勢いよく放り投げた私に、
「ガサツだな。頭や顔うんぬんではなく、お前がダメなのはそういうところだと思うぞ」
サラサラの金髪を優雅になびかせながらそう嘲笑したフィル。あのとき全力を込めて食らわせたゲンコツの感触は、未だに忘れていない。
フィルは、いい兄ではなかった。遠い東の国の磁器みたいになめらかな白い肌や、晴れ渡る空のように深い青の瞳、太陽の光を反射してキラキラと輝く金髪を自慢し、その日学校であったモテエピソードの披露に加えて満点のテストやレポートを見せびらかすというルーティンを毎日必ずこなしては、私の悔しがる様子を見て喜ぶような奴だった。
「フィルとは違う美しさをお前はちゃんと持っている。そして父さんたちはそれを誇りに、自慢に思っているんだよ」
「……本当に? 私にもちゃんといいところ、ある?」
「その緑の瞳や赤い髪、小麦色の肌は、まるで豊穣の神から加護を与えられたリンゴの木のようで、私も父さんも大好きなのよ。きっとフィルは空に、ニナは大地に愛された子なのね」
自分も青い目と白い肌が欲しかった、金色のまっすぐな髪が良かったと泣く私に両親がそう言って抱きしめてくれていなかったら、私はきっと自分のことを嫌いになっていただろう。
「フィルには分かんないよ! だって、魔術を使える程じゃなくても魔力はあるんでしょう? 私にはないんだよ。みんなが話してるような体の中の感覚なんて何も感じない、温度みたいなものもない」
「……」
「神様は私のことなんて見えてなかったんだ。だから魔力を与えるのを忘れて……からっぽ人間なんて造っちゃったんだよ、きっと」
「たかだか魔力がないくらいでなんだ。お前はそれによって困ったことはあるのか」
ひじ掛けのついた椅子にふんぞり返りながら私の嘆きを聞いていたフィルは、低く重い声でそう呟いた。
「将来、魔術兵団に入りたいとかいう夢があったのなら落ち込むのは当然かもしれない。でもそうじゃないだろう。だったら、空っぽだなんて言うな。自分の価値を魔力の有る無しで決めるんじゃない」
「でも」
「自分にできること、人より秀でたものは何かよく考えろ。他の奴らも、僕ですらも持っていないものがお前にはあるはず」
「……そんなのあると思う?」
「あるから僕はお前に嫉妬して意地悪をするんだろ。いい加減に気付けよ、バカ妹め」
そう言って見たこともないくらいに頬を赤くして、私の頭を乱暴にくしゃくしゃとかき混ぜたフィルのあの時の顔は、今でもはっきり覚えている。
「どうしたの、その怪我」
「うるさいな。お前には関係ないだろう」
「ユーグ? ジョアキム? それともマルセル?」
「……」
「分かった、ジョアキムね。私に任せといて」
「お、おい、相手はバルテレミー伯爵家の長男だぞ。暴力に訴えるのは」
「今週末の乗馬レースに、ジョアキムは選手として出るのよね? それに私も飛び込みで参加して、優勝してきてあげる」
フィルは包帯の巻かれた自分の腕をそっと抑え、唇を噛みしめた。
「あいつは何か月もレースのために練習してきているんだぞ。何も準備をしていないお前が勝てるわけない」
「そうだよねぇ、なーんにも練習してないお遊び感覚で参加したヤツに負けたら、それこそ自尊心くじかれちゃってめちゃくちゃ悔しい思いするよねぇ」
「……本気でやるのか?」
「当たり前! 鼻っ柱バキバキに折ってきてやるわ」
腕まくりしてガッツポーズをしてみせた私に、力無いながらも笑顔を返したフィル。
容姿端麗で頭脳明晰、女の子からも非常にモテるということもあり、同性の敵が多かったフィルはたびたび嫌がらせを受けていて、こうして怪我をして学校から帰ってくることもあった。相手が貴族だという理由でフィルに対するいじめはいつも暗黙の内に葬られてしまい、まともに解決したことなんて一度もなかった。
その週末、約束通りに優勝メダルを持ち帰って見せつけた時に、フィルと一緒に大笑いをしたことは、きっとこのさき一生、忘れることはないと思う。
決していい兄ではなかった。体は弱いし走るのは遅いし木登りも下手くそだし泳ぎもからっきしダメだし、達者なのは脳みそと見てくれだけという、いわゆる男らしさの欠片もないへなちょこだ。
だけど、私を救ってくれた。私に道を示してくれた。絶望した私に光を与えてくれた。私にとっては大事な、何よりも大事な兄だった。
だから尚のこと、私を独りにしたことが許せなかった。
両親を立て続けに亡くして、それでも2人でやっていこうと決心した矢先に失踪したフィル。私を失意のどん底に叩き落としたあの裏切り者にいつか仕返ししてやるんだと誓ったことは、目的を果たすまでは何があっても忘れてやらないと心に決めていた。
それなのに、今日マルシェでそれらしき人を見つけた時、その人を追いかけることができなかった。恨み言しか言えないから、なんてキアンには言い訳したけれど、私はその恨み言をずっとずっとフィルにぶつけたいと思っていたはずなのに。
「ああ、もう。考えないようにしなくっちゃ」
銀食器を磨く手を止める。誰もいない静かな厨房を見渡し、自分が今さっき呟いた独り言をもう一度心の中で唱え直してから、首を横に振って深くため息をついた。
正直、少し後悔する気持ちは……いや、少しじゃない、めちゃくちゃ後悔している。だってあの後すぐに追いかけていれば、少なくともあの人がフィルかどうかの確認くらいはできたはずで、本人じゃなければそれはそれで良し、本人ならば全力でぶん殴って恨みを晴らしてやることができたのだ。そのどれも選ばず、何もしなかったせいで私はこうして悶々としながら仕事をする羽目に、今だけじゃない、この先ずっとこんな気持ちを抱えて過ごしていかなくてはいけなくなった。
なぜあの時動かなかったのか、自分でもよく分からない。ずっと抱えてきた思いを精算する絶好のチャンスだったかもしれないのに、それをふいにしてしまうなんて……。
「ずいぶん暗いお顔ですね。何か嫌なことでもあったのかな?」
とつぜんすぐ近くで穏やかな声がして、私は驚いて顔を上げた。
人が近づいてくるような気配は全く感じなかった。さっき厨房を見渡した時も本当に静かで足音ひとつ聞こえなかったし、入口には人影も見えなかったはずだ。でも今、作業台を挟んですぐ目の前には確かに一人の男性が立っていて、私のことをじっと見つめている。
「あ、あの……」
「ああ、ご挨拶がまだでしたよね。私はマクシミリアンといいます、以後お見知りおきを」
血の気が引く、というのはこのことだと思った。
胸に手を当ててこちらに柔らかな笑みを向けているのは、私が一番相対したくない人物、マクシミリアン・バランド子爵その人だったからだ。
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