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1章:魔力なしのニナ・アルエ

フレイヴァ 1

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 翌日は全身が痛くて、寝ることすら辛いほどだった。トイレや食事のために起き上がるたびに体の関節がギシギシと軋んで、何なら当日の夜より状況はひどくなったように感じていた。
 それは次の日も続き、もしかしたら一生このままかもしれない、なんて恐怖心がふつふつと湧き上がってきた。その時のことはあまりはっきりと覚えていないのだけれど、私はさめざめと泣きながら、もうダメだ、自分は死ぬんだと繰り返していたらしい。大げさな弱音を吐く私に、大丈夫、僕がついてると何度もリュカが励ましていた、とマノンから聞かされた時は羞恥と申し訳なさで嫌な汗が止まらなかった。
 4日目以降は熱も下がり、体もすっかり軽くなって、自分の身の回りのことならいつも通り……と言うにはまだ若干不安が残るけれど、それなりに整えることができた。この調子なら明後日くらいには仕事に戻れそうだ。そう思って、様子を見に来てくれたロジェに明日から仕事復帰したいと伝えたけれど、それは却下されてしまった。

「軽い作業でもいいんです。お給料も満額頂こうとは思っていません。でもこれ以上休んでしまうと、仕事の勘が鈍ってしまいそうで」
「気持ちは分かるけれど、従ってちょうだい。旦那様……というよりこれはお嬢様のご意向なのよ」
「お嬢様の、ですか?」
「ずいぶん心配なさっていたわよ。顔を見に行きたいけれど、きっと余計な気を遣わせてしまうからって、お見舞いも我慢なさったりして」

 お優しい方だわ、と感心したような呟きを付け加え、ロジェは頬に手を当てて深く息をついた。

「それに、あなたがここで無理を通してしまえば旦那様がまたお可哀想なことになってしまう。だから……ね?」
「あー……」
 
 ギヨーム様がお可哀想なことになる、という不穏な言葉をきっかけに、ある情景を思い出した私はつい苦笑いを零した。
 ホールに足を折りたたんで座っていらっしゃるギヨーム様、そしてそれを見下ろす仁王立ちのエレーヌ様。ギヨーム様は、遠い国からやってきたという大道芸人から大きな飾り面を購入し、そのことについてエレーヌ様からものすごく叱られていた。
 それは不気味な顔が描かれたアーモンド形の木のお面で、私の腰の高さほどはあろうかという大きさだった。そんな代物を、ギヨーム様はなんと十数個も購入したのだそうだ。それらがいきなり邸に運び込まれ、しかも置く場所がないからという理由でエレーヌ様の部屋まで浸食されそうになったとあれば、エレーヌ様が怒るのも無理はない。一つは置いて構わないから残りはどうにかしろ、と怒鳴られて小さく縮こまっているギヨーム様は、まるで道端で拾った子猫を元の場所に返して来いと母親に叱られる子供みたいだった。
 私がひどい目に遭ったのはともかくとして、ご自身の結婚が賭けの道具に使われたと知れば、エレーヌ様はあの時よりももっと激しくお怒りになったに違いない。きっとギヨーム様は背中を丸めてしょんぼりしながら、エレーヌ様からの説教を受けたことだろう。ここで私が我を通せば、ギヨーム様だけでなくエレーヌ様にもご負担をかけることになってしまう。
 私はロジェの言うお嬢様のご意向を、小さくうなずいて受け入れた。

「ああ、そう言えば」

 部屋を出ようとこちらに背を向けたロジェが、ふと思い出したように声を上げて振り返った。

「フレイヴァ様が、あなたに会いにいらしているわよ」
「えっ、私にですか?」
「あなたへのお見舞いの花とお菓子を持って来て下さってね。今は旦那様がお相手をしていて、まだ万全の状態ではないと伝えたのだけれど、少しでもニナと話せないかって仰っていて……」

 こんな言い方は失礼かもしれないけれど、フレイヴァ様は私の体調を心配してお見舞いに来て下さるような気配りができる方だとはとても思えない。つまり、彼が私に会いに来る目的なんて、リュカの魔術訓練に関することくらいしか思い浮かばない。

「分かりました。身支度も済んでいますし、すぐに伺います」

 私がまだ完全回復していない状態だということは分かっていらっしゃるとは思う。それを承知の上で訪ねていらしたのなら、何か緊急を要する用件があるのかもしれない。やはり訓練の話はなかったことに、なんていう内容なら、リュカがまだ学校から帰っていない今の内に聞いておいた方がいいだろう。

「今日のところはお断りしてもいいのよ? 旦那様のご友人だからって、無理にお相手をすることはないわ」
「大丈夫です、無理はしていません。先日助けて頂いたお礼もきちんとしておきたいですから」

 私の返答にロジェは少し眉根を寄せてこちらを見つめていたけれど、やがて、分かったわ、とため息交じりに言った。

「じゃあ、フレイヴァ様にはこちらの別館の応接室に来て頂きましょう。あなたが本館をウロウロしているところをお嬢様に見られでもしたら、大変ですからね」







 元気そうだな、と言われて、つい条件反射でおかげさまで、と返したのが良くなかったのだろうか。いや、そもそもこうして顔を合わせるべきじゃなかったのかもしれない。ロジェの言う通り今日お会いするのは断れば良かったと、ローテーブルの上に置かれた、開くのも億劫に感じるほどの分厚い”指導計画書”を見つめながら激しく後悔した。

「あのう……もしかして、なんですけど。私がなぜ仕事を休んでいるか、お分かりでなかったりします?」
「まだ体調が万全じゃないんだろ。ブランモワ卿から聞いたよ」
「私の状態をご承知で、その上で尚、今日からリュカに稽古をつけると、そう仰るのですか」

 わざとらしく言葉を切りながらやや低い声でそう言うと、さすがのフレイヴァ様もそこに織り交ぜた嫌味にはお気づきになったらしい。きれいな形の眉をやや歪め、不愉快そうな表情を浮かべながら視線を横へと滑らせた。

「体調不良で伏せっている、つまり、仕事は休み。とりあえず行ってみて、それなりに動けそうなら今日から指導を始めよう。……フレイヴァ様の脳内を要約するとこういう感じでしょうか」
「俺は別にそんな事ばかり考えているわけじゃないぞ。他にも色々と」
「そんなん百も承知だわ」

 つい、カッとなって。
 そんな文言が頭を過る。
 ギヨーム様のご友人に対する態度ではないことは分かっているのに、バカじゃないのと付け加えなかった自分エライ、なんて考えが自然と浮かんでしまうほど、私はイライラを募らせていた。

「何を怒っているんだ。君との取り決めはちゃんと守っているだろう」

 私の目の届かないところで指導をしない、私にも指導内容を説明する、指導を行なうのは私の仕事が休みの時だけ。あの夜、フレイヴァ様と取り付けた約束はその3点だった。今のところは体験期間中みたいなもので、その間に私はフレイヴァ様のひととなりを見極め、信頼できると判断すれば本格的にリュカに指導をお願いしようと考えていた。
 取り決めは守っている、というフレイヴァ様のお言葉通り、確かに私は休みだし、指導計画書も持参して下さっているし、私が見ている中で指導をするためにこうしてわざわざ訪ねて来て下さってもいる。
 でも私、まだ回復しきってないんですけど? こんな細かい文字が並んだ分厚い冊子なんて、読み切れる気がしないんですけど? そもそもここはブランモワ伯爵邸の敷地内であって、私が自由にしていい場所なんてどこにも無いんですけど?
 取り交わした約束の文字面だけはしっかりなぞれていても、そこに付随しているなんやかんやの事情は全く汲み取られていない。
 私は額に手を当てて深くため息をついた。
 頭が痛い。比喩じゃなく、本当に頭痛がする……気がする。こないだ話した時もちょっと感覚が嚙み合わないと感じていたけれど、まさかこんなにズレているとは……。

「確かに取り決めはしましたが、それが全てというわけではありません。状況次第ではその通りにいかないことだってあるでしょう」
「言われなくても察して対応しろと?」
「そうです。その通りです。分かってらっしゃるじゃないですか」
「それは無理だ」

 フレイヴァ様はそう言いながらソファの背もたれにどっかりと体重を預け、腕を組んで窓の方に顔を向けた。

「君にいろいろ言われて俺は何か間違ったんだと思ったが、何をどう間違ったのかということはちっとも分からない。俺は1と言われてちゃんと1の対応をしたんだぞ。なのに、どうしてその1の周りに何かがくっついていることを後出しするんだ」

 ちゃんと座ってこっちを見なさい、という言葉が出そうになったのを、今日何度目かになる盛大なため息でごまかす。
 リュカと一緒だと思った。宿題をやれと言われたらちゃんとやるけれど、その時に使ったえんぴつ、本、ノートは自主的に片付けない。徹底的に教育しまくったこともあって、今は散らかしっぱなしにすることはなくなったけれど、私に注意されるたびにリュカは不満気な顔をして、「そんなこと言われてない」と唇をとがらせていた。
 感情や立場、取り巻く状況なんていう目に見えないものを想像するのが苦手な人には、現実的で物理的、かつ細やかで簡潔な説明をしてあげないといけない。やんわりとオブラートに包んだ遠回しな表現じゃなくて、無機質でドストレートな言葉がいちばん効果的に伝わるんだ、ということは、リュカと何年も向き合ってきた中で理解したことだった。
 ギヨーム様のご友人、という立場はいったん忘れて、とにかく今日はお引き取り頂くために説得しよう。
 私はリュカを説教する時と同じ思考回路に切り替え、姿勢を正した。

「いくら快方に向かっているとは言え、まだ体は重いし痛みが残っているところもあります。お見舞いにいらしたというだけならこうして応対もできますが、リュカの指導に付き合える程の体力は、今の私にはありません」

 少し驚いたような表情でこちらに視線を戻すフレイヴァ様。肩の力はわずかに抜け、組んだ腕も緩んでいる。何が彼の関心を引いたのかは分からないけれど、こちらを拒絶して硬くなっていた態度がほぐれた様子の今なら、私の言いたいことをちゃんと受け入れてくれそうだ。

「それにここは、あくまでブランモワ伯爵に雇われて身を置かせて頂いているだけの場所です。所有者である旦那様に何の許可も得られていないのに、魔術の訓練のために使うなんて勝手なことはできません。指導計画書に関しても、じっくり読ませて頂いて吟味する時間が欲しいです。とにかく、まだ私の方の準備が何一つ整っていないので、今日から指導を始めるというのはとてもじゃないけど無理なんですよ」
「……計画書の内容なら、今すぐ全てを検めなくても今日の指導内容を把握するだけでもいいじゃないか」

 軽く腰を浮かせて座り直してから、フレイヴァ様が口を開いた。

「この邸で魔術の指導をする許可も、俺から卿に話を付ければ済むだろう。あの方ならきっと快く場所を貸してくれるはずだ。それにここで訓練を始めようとしたのは、君がゆっくり体を休めながら見学できるようにと思ってのことだ。この先もずっとここで続けるつもりはない」

 自分の都合だったり感情だったりが最優先、私自身に関しては全く無関心なのかと思っていたけれど、ちょっと尊大な口ぶりはともかくとして、彼なりに配慮をしてくれていたらしい。
 ただその気遣いが私にとって有益であるかどうか、というのは残念ながら別の話で、そもそも私を慮る気持ちがあるなら、ゴリ押しで今日から指導を始めようとしていること自体が不自然でしかない。

「何か隠していらっしゃいますね」

 ”フレイヴァ”という姓についての件なのか、それともまた違った何かなのか、隠し事の正確な内容までは分からない。でも人が不自然な行動を取る時は必ず何か裏がある、というパターンに基づいて聞いてみたその質問は核心をついていたようで、フレイヴァ様は目を一瞬大きく見開き、誤魔化すようにそっぽを向いて咳ばらいをした。

「指導の開始を急いでいらっしゃるのは、その隠し事のせいですか」
「……確かに話していないことはある。だがそれは別に君たちには何の関係もないことだ」
「つまり、今日から始めなくとも問題はないということですね。でしたらお引き取り下さい。私が完全回復した時に、また連絡致します」
「いや、ほら、リュカは魔術の勉強を楽しみにしていただろ? 善は急げとも言うし、だからできれば今日から始めたいと」
「……」
「思っているんだが……」

 言いながら、フレイヴァ様は視線をあちこちにうろつかせている。
 その場しのぎの思い付きでどうにかしようとしていることがバレバレなその態度に、私は思わず脱力した。まだ私からの信頼を得られていないのは分かっているのに、自分の都合を通すための正当性のある強めの言い訳は準備してこなかったらしい。いや、準備はしたつもりだったけれどこのクオリティにまでしか仕上げられなかったとか? それだと尚のことダメじゃなかろうか。
 フレイヴァ様の今後の態度や言動を観察して、少しでもおかしなところがあれば逐一指摘、確認をして……なんて真剣に考えていたけれど、何だかそれも無駄のような気がしてきた。

「分かりました」
「えっ」

 気の抜けた声を上げるフレイヴァ様。あれだけ頑なに拒絶していた私が急に受け入れたのだから、驚くのも無理はないだろう。
 声色と同じく、締まらない表情で私をまじまじと見つめるフレイヴァ様のその姿が何だか可笑しくて、私は笑いを堪え切れずに肩を揺らした。

「何か疚しいことにリュカを利用しようとしてるんじゃないかとか、いろいろ警戒してたんですけど。フレイヴァ様はそういうずる賢いことを企むのは無理そうですね」
「……バカにしているのか」

 確かに、聡明そうな顔立ちからは想像できないほど、駆け引きをする能力はアレなんだなという思いは脳裏をかすめてはいるけれど、これ以上機嫌を損ねるのわけにはいかないので首を横に振る。
 実際バカにしたわけじゃなく、それなりに尤もらしい理由を上げられていたら、たぶんこの先もずっと私はフレイヴァ様を懐疑的な目で見ていたに違いない。そういう狡猾な立ち回りが不得手な方だと分かったからこそ信頼できると考えるに至った、ということを説明したけれど、

「どう答えようか、あたふたしていただけなのに? 君の判断基準はよく分からないな」

 フレイヴァ様は怪訝な顔をしてそう答えるのみで、納得してもらえた様子は感じられなかった。

「まあ、いいです。とりあえず今日お持ち下さったカリキュラムは確認させて頂きますが、リュカの指導には私は同伴しません。私の仕事の都合にも合わせて頂かなくて結構です」
「……ということは、つまり」
「はい。体験期間云々はもうナシにして、本格的にご指導いただきたいと思います。ですので今後のスケジュールなんかはフレイヴァ様に全てお任せして……あ、でも指導料が嵩むとこちらの台所事情もあるので、むやみに詰め込まないで頂けると助かるんですが」
「料金は取らないよ」
「え」

 今度はこっちが締まらない表情を晒す番らしい。思いがけない申し出に、私はぽかんと口をあけてフレイヴァ様を見つめた。

「無償で、ということですか? ちょっと待って下さい、それなら若干雲行きが怪しくなるんですけど」

 タダより高いものはないという言葉もある。もしかしたらさっきの稚拙とも取れる立ち回りは、私に”フレイヴァ様は駆け引きが下手”というミスリードをさせるための演技だったとかいう可能性も無きにしも非ずなわけで、

「変に勘繰らなくても大丈夫だ。君の言う通り、俺は隠しごとができるような器量は持ち合わせていないから」

 私の思考を遮るようにフレイヴァ様はそう言った。
 自虐的な発言のようにも聞こえたけれど、その表情はずいぶんと晴れやかだ。それにさっきまでの前のめりの姿勢はなくなって、むしろ落ち着き払った雰囲気さえ感じられる。

「正直に話すよ。信頼に報いたいし、それに君なら分かってくれそうな気がする」

 言いながら、フレイヴァ様は両手を覆っていた黒い革手袋を外し始めた。





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