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1章:魔力なしのニナ・アルエ
運命の歯車 1
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パチパチと暖炉の火が爆ぜる音が部屋に響く。私の隣には小さな男の子が、席にはつかずに身を硬くして立っている。
「この子は施設に預けるべきですよ」
しばらく続いた沈黙を緩やかに破ったのは、つい先日までお世話になっていた学校の先生だ。テーブルを挟んだ向かいの席に座り、これまであまり見たことのないような厳しい表情をこちらに向けていた。
「あなたはまだ子どもだと言ってもいい年齢です。ご両親の遺産だって、一人分でも食い扶持が増えればすぐに底をついてしまうでしょう。自分の面倒を見ることすらままならないのに、更に幼い子を育てるなんてどう考えても無理がありますよ」
辛辣だけれど現実的で的を射たその言葉に、私はうつむいて唇を噛みしめた。憐憫や正義感だけでどうにかなる問題ではない、というのは、先生にはっきり言われなくても分かっていた。でも降り積もる雪の中をたった一人、この子は歩いてきたんだ。父親であるバカ兄貴に言われるがまま、きっと私が助けてくれると信じて、たった一人で……。
「この子はあなたにとって唯一と言っていい肉親ですから、傍にいたいと思うのは痛いほど分かります。分かりますが……私は、あなたにそこまで重大な責任を負わせたくない」
「……」
「これからしっかり勉強して、仕事を見つけなさい。今すぐは無理でも、あなたの生活が安定したら迎えに行ってあげることもできるかもしれないでしょう」
先生の言っていることは正しい。今のままの私じゃ、この子に親と同等の責任を果たしてあげることなんてできないだろう。それなら――。
「先生。私、働きます」
顔を上げてきっぱりと告げる。
同級生のほとんどが進学せずに就職するし、私の発言はそこまで突拍子もない、無鉄砲なものではないはずだ。それなのに、何でも挑戦してみなさい、といつも私たち生徒の言葉を肯定し、背中を押してくれていた先生は顔をこわばらせ、首を横に振って私の思い付きを否定した。
「あなたは教師になるために進学するんでしょう。やっとの思いで奨学生枠に入れたというのに、それを蹴ってしまうなんて」
「……先生が色々と手を尽くして下さったことは存じていますし、それをふいにしてしまうのは心苦しく思います。でも、」
「私の助力なんて微々たるものよ。進学する為にわき目も振らずにがんばってきたのは、他でもないあなた自身だわ」
その言葉に、寝る間を惜しんで必死に勉強した日々が蘇った。ひとより優れた何かがあるわけでもない、どこまでも凡庸な私が集団から少しでも抜きんでた存在になるために重ねた、自分の身を削るかのような努力。ささやかでも少しずつ積み上げたそれは、教師の育成学校に進学する権利を得るという結果をもたらしてくれて、費やしたものが明確な形を成して返って来たことの喜びは今でも鮮明に心に残っている。
「あなたには教師になる才能があると、私は信じています。あなたのような人材を埋もれさせたくないの」
努力の結晶と言ってもいいこの結果を手離すだけでなく、こんな風に言ってくれる先生の期待を裏切ることの愚かさは、ちゃんと理解できる。たぶん私は尋常じゃないくらいの後悔に苛まれるだろう。
でも今、震えながら私の服の袖をぎゅっと握りしめるこの子の手を振りほどいてしまったら、二度と会えなくなるにちがいない。
「夢を諦める気はありません。かたちにこだわらなければ、誰かに何かを教えることはできます。教師という肩書きがなくても、学校という場所じゃなくても」
「だけど……」
「今この子を――リュカを見放して”教師になること”を優先してしまったら、私きっと先生みたいないい教師にはなれない気がするんです」
言いながら、私の服を掴んでいたリュカの手をそっと握り、空いた方の手でふわりと柔らかい金の髪を撫でる。リュカが私の動きに反応してこちらに視線を送ることはない。でも体の震えは止まり、敵意を湛えて鋭く光っていた青い瞳はいくぶんか穏やかさを取り戻したように見えた。
先生はそんな私たちの様子をしばらく黙って見つめてから、何か言いたげに口を薄く開いた。まだ私を説得するつもりだったんだろう、でもそこから吐き出されたのは言葉ではなく、大きなため息で。
「これ以上私が何を言っても聞かないわよね、あなたは」
眉を下げ、口元を緩ませて呆れたような表情を浮かべる先生に、私は小さくうなずいて答える。
「ごめんなさい。先生は私が教育学科に進めるよう、色々と手を尽くして下さったのに」
「いいのよ。あなたの人生に私が口を挟むべきではないし、それに夢を諦めるという選択をしたわけではないと言うなら、全力で後押しするわ」
先生はそう言って、テーブルの上でまだ温かい湯気を立ち上らせていた紅茶を飲み干すと席を立った。
「色々とややこしい手続きが必要だろうし、明日は一緒にお役所に行きましょう。それから就職先も紹介してあげるわ」
「い、いえ! お役所には一人で行けますし、仕事なら自分で探します。これまで良くしてもらったのに、そこまでお世話になるわけには」
「教え子の大事な岐路なのよ、これくらいはお手伝いさせてちょうだい。それに、働き口には心当たりがあるの」
その日、うちに来てからずっと険しい表情をしていた先生がようやく見せてくれたいつもの優しい笑顔が、不安でいっぱいだった私の心をずいぶんと軽くしてくれたのをよく覚えている。
あれから3年、本当にいろいろあった。先生の紹介で貴族向けの家庭教師派遣組合に登録させてもらい、経験が無いながらも最初の1年ほどは良い派遣先に恵まれて平和に働くことができた。でもそんな平穏な日々は続かず、とある子爵家で身に覚えのない不手際をでっち上げられて賠償責任を問われ、その派遣組合を追い出されてしまった。職を失っただけじゃない、両親が遺してくれた財産――家を含めた何もかもを、私は手離さざるを得なかった。界隈を漂うありえないほど長い尾ひれをつけた悪い噂は、大した肩書も後ろ盾もない一小市民の小娘では手に負えず、私はリュカと共に逃げるようにして王都を出た。その頃先生は遠く離れた隣国の学校で教鞭をとっていて、相談はできなかった。たとえ近くにいたとしても、多分私は何も話さなかっただろう。濡れ衣を着せられたとは言え、世間から見れば私は子爵のご子息を色仕掛けで誑かし、更に彼の妹御の名誉までいたずらに貶めようとした悪女に過ぎない。そんな人間とつながりがあると分かれば、先生まで色眼鏡で見られるようになってしまう。火のない所からたった煙を先生に浴びせることだけはしたくなかった。
その後いくつか町と職を転々としながらも、私はリュカを学校に通わせ、衣食住には困らせないようになんとかがんばってきた。ひどい嫌がらせに遭っても、劣悪な環境下でのきつい仕事でも耐えてこられたのは、リュカを立派に育て上げることだけを考えていたからだろう。
辛いけれど、こんな私でも何とかやっていけている。やっぱりあの時の選択は間違っていなかったんだと思っていた、その矢先だった。
下町にある掲示板の片すみに貼り付けられていた”住み込みでの働き手募集”の貼り紙。給金の良さに惹かれて向かった先が実は売春小屋で、私だけでなくリュカも売られそうになったのだ。面接の時に舐めるような視線を向けられ、いわゆる男性経験の数を聞かれた時点で辞退すべきだったのに、人の悪意に晒され続けた私の精神はそれくらいのことじゃ危機感を覚えなくなってしまっていて、それどころか私とリュカにそれぞれ個室をくれるということに有難みさえ感じていた。自分がとんでもない場所に足を踏み入れたことに気が付いたのは、あてがわれた小ぢんまりとした部屋に見知らぬ初老の男性がずかずかと入って来た時だ。荷解きをしようとしていたところをベッドへ押し倒されて初めて、「やばい」という感情が湧いた。隣のリュカの部屋からも叫び声が聞こえ、と同時に謎の爆発音が響いた瞬間、私はありったけの力を膝に込めてその男性の急所を蹴り上げた。
その後、私とリュカがどうやってあの売春小屋から逃げおおせたのかは分からない。雪がちらつき始めた、どことも知れない街の大きな通りをリュカと手を繋いで歩きながら、膝の痛みや裸足のせいですっかり冷え切ったつま先の不快感に堪えていた。
また、全部なくしてしまった。王都を追い出されたあの時よりもっとうんとひどい状態で、しかも自分だけならまだしも、リュカにまで怖い思いをさせて。ごめん、ごめん、と呟きながら歩く私の手を、リュカが黙ってぎゅっと握り返してくれたことだけが、あの時の私の心の支えだった。
「ニナ、手が止まってるよ!」
声を掛けられて、慌てて顔を上げる。不機嫌そうな声音で私に注意をしたのは、ブランモワ家の厨房で長年務めているオデットだ。
売春小屋を間一髪で飛び出したあと、当てもなく街を彷徨っていた私たちを拾って下さったのは、ブランモワ伯爵令嬢であるエレーヌ様だった。エレーヌ様は夜会帰りだったらしく、煌びやかなドレスに身を包んで馬車から降り立つ姿は、女神様が降臨なさったと勘違いしたほどお美しかった。
エレーヌ様はドレスが汚れることも気にせず私の体を支えて下さり、優しく馬車に乗せて下さった。素性の知れない私たちを、体力や気力が回復するまで邸で療養させてくれ、その後は私に小間使いの仕事を与えてくれた。
「リュカが心配なのは分かるけど、仕事はちゃんとしてくれなくちゃ困るよ。今日は旦那様の大事なお客が来るんだから」
旦那様というのはエレーヌ様のお父上であるギヨーム・ブランモワ伯爵で、今夜のディナーにアッシ・パルマンティエを出すようにと言付かっている。私たちはその材料の一つであるじゃがいもの皮をむくという作業に取り掛かっていたところだった。
「……あちらさんは許してくれたんだろ、リュカが突き飛ばしちまったこと」
こちらにチラリと視線を送ってからため息交じりに呟くオデットに、私は小さくうなずいて返した。
幼い頃からの質の良い教育は国家の繁栄に通じる、という考えのもと施行された教育法規により、フランメル王国では7歳から12歳までの子どもはどんな身分であれ決められた学校で教育を受ける義務を負っている。希望者は更に3年の無償教育が受けられるし、その後は費用さえあれば専門的な特別教育を受けることができたりもして、いわゆる教科教育においてフランメル王国は手厚いサポートを施していた。
今年9歳のリュカもこのブランモワ伯領の王立学校に通っているのだけれど、クラスメイトとはあまり折り合いが宜しくないらしく、小さなイザコザを起こしては先生に呼び出される、ということを何度も繰り返していた。
嫌な気持ちを発散できなくて授業をサボったり、物に当たって何かを壊してしまうのはいつものことだったけれど、今回は勝手が違う。お互いに、手を出し合ってしまった。
「彼の祖父母が対応してくれたんですけど、逆に頭を下げられました。よその家庭事情に首を突っ込んで余計なことを言ったのはこっちだし、さらに怪我までさせて申し訳ないって」
「リュカはニセモノ家族だって言われた上に、頬に青アザが残るくらい殴られたんだ。どっちかって言うと、先方がアンタに謝りに来なくちゃいけない立場だったと思うけどね」
オデットの眉間に、更に深く険しいしわが刻まれる。オデットは、私とリュカが叔母と甥という関係であること、そしてリュカの実父である私の兄がろくでもない人間であるという事情はよく理解した上でリュカを家族同然に可愛がってくれ、そして私の”保護者”としての苦悩にいつもこうして寄り添ってくれていた。
「何度も言うけどね、リュカなら大丈夫。心配することなんてこれっぽっちもないさ」
「そう……でしょうか」
「そりゃあそうだよ! うちの悪ガキ共なんてそれこそ毎日のようにケンカしてたし、何針も縫うようなケガだって数えきれないくらいこさえたんだからね。それでもあいつらは立派に家庭を持って、いい父親をやってる」
「……」
「人間は変わるもんだよ。いろいろ経験して、大人になってく。ずーっとこの先今のまんま、なんてことはないんだよ」
彼女が私を励まそうと、少しでも安心させようとしてくれているのはよく分かる。分かっていても、その”大丈夫”や”心配ない”という言葉は辛辣な悪意を向けられた時のように辛くて、私は口をつぐんで微笑むしかなかった。
リュカがいわゆる普通の子とは違うことに気付いたのは、ずいぶん早い段階からだった。目が合わない。話さない。いつも同じルーティンワークを繰り返し、それが少しでも崩れると癇癪を起こして訳の分からない叫び声を上げる。もともと繊細な子だったのかもしれないけれど、ここまで悪い状態になったのは、私が不安定な生活を続けさせてしまったせいなんだろう。
私さえもっとしっかりしていれば、そうすればリュカは――。
「それにしても、伯爵家でのディナーだってのにこんな庶民の料理を好んでリクエストしてくるとは。先様はよほど変わった御仁とみえるね」
オデットの呟きが、またつまらない思考回路に陥りそうになった私を現実に引き戻す。私は皮をむき終えたじゃがいもを木のボウルに放り込みながら、苦笑いして肩をすくめてみせた。
「旦那様が嬉々として招待される方は、だいたいが変わり者ですよね」
「本当にねぇ。旦那様の周りにはどうしてこうもおかしな輩が集まるんだか……」
それは多分、類は友を呼ぶ、というやつだろう。
ここに来てまだ半年がたったくらいだけれど、それでも旦那様が本当に変わったお方だというのはすぐに分かった。普段は農作業にでも行くのかと思われるような野良着で過ごしているし、言葉遣いも下町のどうしようもない輩とまではいかなくても、かなり砕けた口調でお話しになる。デスクワークが大嫌いで何かと理由をつけては市井に下りていったり、何に使うのかよく分からない機械を衝動買いして屋敷に持ち込んでみたり。その都度家令のラスペードに大目玉をくらっているのに、懲りずにまた同じことを繰り返すのだ。
地方で領地を持つ貴族は、王都で偉そうに街道を闊歩する宮廷貴族とは毛色が違うとは聞いていたけれど、まさかここまでとは思ってもみなかった。
「ニナ」
厨房の出入口の方から声を掛けられ、顔を上げる。そこにいたのはハウスキーパーのロジェだった。
「厨房の手伝いは切り上げて、そろそろ休憩なさい。リュカが帰ってくるころですよ」
「えっ……あっ!」
慌てて時計に目をやると、昼の2時をとっくに過ぎてしまっていた。
「も、申し訳ありません。すっかり夢中になってしまって」
「皮むきに? それとも、オデットとのおしゃべりかしら」
ロジェは眉を下げて困ったように微笑みながら、私の手から半分皮のむかれたじゃがいもを取り上げた。
「すみません、ミセス・ロジェ。あたしがリュカのことでベラベラと講釈垂れちまったもんだから……今後は気を付けますんで」
「時間の管理は怠らないようにね。私たちの不手際で旦那様のお手を煩わせることがあっては大変ですもの」
柔和な声音で優しくなでられるようにそう言われ、私はオデットと並んで改めて頭を下げた。
「この子は施設に預けるべきですよ」
しばらく続いた沈黙を緩やかに破ったのは、つい先日までお世話になっていた学校の先生だ。テーブルを挟んだ向かいの席に座り、これまであまり見たことのないような厳しい表情をこちらに向けていた。
「あなたはまだ子どもだと言ってもいい年齢です。ご両親の遺産だって、一人分でも食い扶持が増えればすぐに底をついてしまうでしょう。自分の面倒を見ることすらままならないのに、更に幼い子を育てるなんてどう考えても無理がありますよ」
辛辣だけれど現実的で的を射たその言葉に、私はうつむいて唇を噛みしめた。憐憫や正義感だけでどうにかなる問題ではない、というのは、先生にはっきり言われなくても分かっていた。でも降り積もる雪の中をたった一人、この子は歩いてきたんだ。父親であるバカ兄貴に言われるがまま、きっと私が助けてくれると信じて、たった一人で……。
「この子はあなたにとって唯一と言っていい肉親ですから、傍にいたいと思うのは痛いほど分かります。分かりますが……私は、あなたにそこまで重大な責任を負わせたくない」
「……」
「これからしっかり勉強して、仕事を見つけなさい。今すぐは無理でも、あなたの生活が安定したら迎えに行ってあげることもできるかもしれないでしょう」
先生の言っていることは正しい。今のままの私じゃ、この子に親と同等の責任を果たしてあげることなんてできないだろう。それなら――。
「先生。私、働きます」
顔を上げてきっぱりと告げる。
同級生のほとんどが進学せずに就職するし、私の発言はそこまで突拍子もない、無鉄砲なものではないはずだ。それなのに、何でも挑戦してみなさい、といつも私たち生徒の言葉を肯定し、背中を押してくれていた先生は顔をこわばらせ、首を横に振って私の思い付きを否定した。
「あなたは教師になるために進学するんでしょう。やっとの思いで奨学生枠に入れたというのに、それを蹴ってしまうなんて」
「……先生が色々と手を尽くして下さったことは存じていますし、それをふいにしてしまうのは心苦しく思います。でも、」
「私の助力なんて微々たるものよ。進学する為にわき目も振らずにがんばってきたのは、他でもないあなた自身だわ」
その言葉に、寝る間を惜しんで必死に勉強した日々が蘇った。ひとより優れた何かがあるわけでもない、どこまでも凡庸な私が集団から少しでも抜きんでた存在になるために重ねた、自分の身を削るかのような努力。ささやかでも少しずつ積み上げたそれは、教師の育成学校に進学する権利を得るという結果をもたらしてくれて、費やしたものが明確な形を成して返って来たことの喜びは今でも鮮明に心に残っている。
「あなたには教師になる才能があると、私は信じています。あなたのような人材を埋もれさせたくないの」
努力の結晶と言ってもいいこの結果を手離すだけでなく、こんな風に言ってくれる先生の期待を裏切ることの愚かさは、ちゃんと理解できる。たぶん私は尋常じゃないくらいの後悔に苛まれるだろう。
でも今、震えながら私の服の袖をぎゅっと握りしめるこの子の手を振りほどいてしまったら、二度と会えなくなるにちがいない。
「夢を諦める気はありません。かたちにこだわらなければ、誰かに何かを教えることはできます。教師という肩書きがなくても、学校という場所じゃなくても」
「だけど……」
「今この子を――リュカを見放して”教師になること”を優先してしまったら、私きっと先生みたいないい教師にはなれない気がするんです」
言いながら、私の服を掴んでいたリュカの手をそっと握り、空いた方の手でふわりと柔らかい金の髪を撫でる。リュカが私の動きに反応してこちらに視線を送ることはない。でも体の震えは止まり、敵意を湛えて鋭く光っていた青い瞳はいくぶんか穏やかさを取り戻したように見えた。
先生はそんな私たちの様子をしばらく黙って見つめてから、何か言いたげに口を薄く開いた。まだ私を説得するつもりだったんだろう、でもそこから吐き出されたのは言葉ではなく、大きなため息で。
「これ以上私が何を言っても聞かないわよね、あなたは」
眉を下げ、口元を緩ませて呆れたような表情を浮かべる先生に、私は小さくうなずいて答える。
「ごめんなさい。先生は私が教育学科に進めるよう、色々と手を尽くして下さったのに」
「いいのよ。あなたの人生に私が口を挟むべきではないし、それに夢を諦めるという選択をしたわけではないと言うなら、全力で後押しするわ」
先生はそう言って、テーブルの上でまだ温かい湯気を立ち上らせていた紅茶を飲み干すと席を立った。
「色々とややこしい手続きが必要だろうし、明日は一緒にお役所に行きましょう。それから就職先も紹介してあげるわ」
「い、いえ! お役所には一人で行けますし、仕事なら自分で探します。これまで良くしてもらったのに、そこまでお世話になるわけには」
「教え子の大事な岐路なのよ、これくらいはお手伝いさせてちょうだい。それに、働き口には心当たりがあるの」
その日、うちに来てからずっと険しい表情をしていた先生がようやく見せてくれたいつもの優しい笑顔が、不安でいっぱいだった私の心をずいぶんと軽くしてくれたのをよく覚えている。
あれから3年、本当にいろいろあった。先生の紹介で貴族向けの家庭教師派遣組合に登録させてもらい、経験が無いながらも最初の1年ほどは良い派遣先に恵まれて平和に働くことができた。でもそんな平穏な日々は続かず、とある子爵家で身に覚えのない不手際をでっち上げられて賠償責任を問われ、その派遣組合を追い出されてしまった。職を失っただけじゃない、両親が遺してくれた財産――家を含めた何もかもを、私は手離さざるを得なかった。界隈を漂うありえないほど長い尾ひれをつけた悪い噂は、大した肩書も後ろ盾もない一小市民の小娘では手に負えず、私はリュカと共に逃げるようにして王都を出た。その頃先生は遠く離れた隣国の学校で教鞭をとっていて、相談はできなかった。たとえ近くにいたとしても、多分私は何も話さなかっただろう。濡れ衣を着せられたとは言え、世間から見れば私は子爵のご子息を色仕掛けで誑かし、更に彼の妹御の名誉までいたずらに貶めようとした悪女に過ぎない。そんな人間とつながりがあると分かれば、先生まで色眼鏡で見られるようになってしまう。火のない所からたった煙を先生に浴びせることだけはしたくなかった。
その後いくつか町と職を転々としながらも、私はリュカを学校に通わせ、衣食住には困らせないようになんとかがんばってきた。ひどい嫌がらせに遭っても、劣悪な環境下でのきつい仕事でも耐えてこられたのは、リュカを立派に育て上げることだけを考えていたからだろう。
辛いけれど、こんな私でも何とかやっていけている。やっぱりあの時の選択は間違っていなかったんだと思っていた、その矢先だった。
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その後、私とリュカがどうやってあの売春小屋から逃げおおせたのかは分からない。雪がちらつき始めた、どことも知れない街の大きな通りをリュカと手を繋いで歩きながら、膝の痛みや裸足のせいですっかり冷え切ったつま先の不快感に堪えていた。
また、全部なくしてしまった。王都を追い出されたあの時よりもっとうんとひどい状態で、しかも自分だけならまだしも、リュカにまで怖い思いをさせて。ごめん、ごめん、と呟きながら歩く私の手を、リュカが黙ってぎゅっと握り返してくれたことだけが、あの時の私の心の支えだった。
「ニナ、手が止まってるよ!」
声を掛けられて、慌てて顔を上げる。不機嫌そうな声音で私に注意をしたのは、ブランモワ家の厨房で長年務めているオデットだ。
売春小屋を間一髪で飛び出したあと、当てもなく街を彷徨っていた私たちを拾って下さったのは、ブランモワ伯爵令嬢であるエレーヌ様だった。エレーヌ様は夜会帰りだったらしく、煌びやかなドレスに身を包んで馬車から降り立つ姿は、女神様が降臨なさったと勘違いしたほどお美しかった。
エレーヌ様はドレスが汚れることも気にせず私の体を支えて下さり、優しく馬車に乗せて下さった。素性の知れない私たちを、体力や気力が回復するまで邸で療養させてくれ、その後は私に小間使いの仕事を与えてくれた。
「リュカが心配なのは分かるけど、仕事はちゃんとしてくれなくちゃ困るよ。今日は旦那様の大事なお客が来るんだから」
旦那様というのはエレーヌ様のお父上であるギヨーム・ブランモワ伯爵で、今夜のディナーにアッシ・パルマンティエを出すようにと言付かっている。私たちはその材料の一つであるじゃがいもの皮をむくという作業に取り掛かっていたところだった。
「……あちらさんは許してくれたんだろ、リュカが突き飛ばしちまったこと」
こちらにチラリと視線を送ってからため息交じりに呟くオデットに、私は小さくうなずいて返した。
幼い頃からの質の良い教育は国家の繁栄に通じる、という考えのもと施行された教育法規により、フランメル王国では7歳から12歳までの子どもはどんな身分であれ決められた学校で教育を受ける義務を負っている。希望者は更に3年の無償教育が受けられるし、その後は費用さえあれば専門的な特別教育を受けることができたりもして、いわゆる教科教育においてフランメル王国は手厚いサポートを施していた。
今年9歳のリュカもこのブランモワ伯領の王立学校に通っているのだけれど、クラスメイトとはあまり折り合いが宜しくないらしく、小さなイザコザを起こしては先生に呼び出される、ということを何度も繰り返していた。
嫌な気持ちを発散できなくて授業をサボったり、物に当たって何かを壊してしまうのはいつものことだったけれど、今回は勝手が違う。お互いに、手を出し合ってしまった。
「彼の祖父母が対応してくれたんですけど、逆に頭を下げられました。よその家庭事情に首を突っ込んで余計なことを言ったのはこっちだし、さらに怪我までさせて申し訳ないって」
「リュカはニセモノ家族だって言われた上に、頬に青アザが残るくらい殴られたんだ。どっちかって言うと、先方がアンタに謝りに来なくちゃいけない立場だったと思うけどね」
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「何度も言うけどね、リュカなら大丈夫。心配することなんてこれっぽっちもないさ」
「そう……でしょうか」
「そりゃあそうだよ! うちの悪ガキ共なんてそれこそ毎日のようにケンカしてたし、何針も縫うようなケガだって数えきれないくらいこさえたんだからね。それでもあいつらは立派に家庭を持って、いい父親をやってる」
「……」
「人間は変わるもんだよ。いろいろ経験して、大人になってく。ずーっとこの先今のまんま、なんてことはないんだよ」
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私さえもっとしっかりしていれば、そうすればリュカは――。
「それにしても、伯爵家でのディナーだってのにこんな庶民の料理を好んでリクエストしてくるとは。先様はよほど変わった御仁とみえるね」
オデットの呟きが、またつまらない思考回路に陥りそうになった私を現実に引き戻す。私は皮をむき終えたじゃがいもを木のボウルに放り込みながら、苦笑いして肩をすくめてみせた。
「旦那様が嬉々として招待される方は、だいたいが変わり者ですよね」
「本当にねぇ。旦那様の周りにはどうしてこうもおかしな輩が集まるんだか……」
それは多分、類は友を呼ぶ、というやつだろう。
ここに来てまだ半年がたったくらいだけれど、それでも旦那様が本当に変わったお方だというのはすぐに分かった。普段は農作業にでも行くのかと思われるような野良着で過ごしているし、言葉遣いも下町のどうしようもない輩とまではいかなくても、かなり砕けた口調でお話しになる。デスクワークが大嫌いで何かと理由をつけては市井に下りていったり、何に使うのかよく分からない機械を衝動買いして屋敷に持ち込んでみたり。その都度家令のラスペードに大目玉をくらっているのに、懲りずにまた同じことを繰り返すのだ。
地方で領地を持つ貴族は、王都で偉そうに街道を闊歩する宮廷貴族とは毛色が違うとは聞いていたけれど、まさかここまでとは思ってもみなかった。
「ニナ」
厨房の出入口の方から声を掛けられ、顔を上げる。そこにいたのはハウスキーパーのロジェだった。
「厨房の手伝いは切り上げて、そろそろ休憩なさい。リュカが帰ってくるころですよ」
「えっ……あっ!」
慌てて時計に目をやると、昼の2時をとっくに過ぎてしまっていた。
「も、申し訳ありません。すっかり夢中になってしまって」
「皮むきに? それとも、オデットとのおしゃべりかしら」
ロジェは眉を下げて困ったように微笑みながら、私の手から半分皮のむかれたじゃがいもを取り上げた。
「すみません、ミセス・ロジェ。あたしがリュカのことでベラベラと講釈垂れちまったもんだから……今後は気を付けますんで」
「時間の管理は怠らないようにね。私たちの不手際で旦那様のお手を煩わせることがあっては大変ですもの」
柔和な声音で優しくなでられるようにそう言われ、私はオデットと並んで改めて頭を下げた。
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3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
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