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珠玉の友⑤
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五、
陽が落ちる頃にはだいぶん雨も小降りになり、当初の予定通り今晩は己煥の宅で会読がおこなわれていた。明るいうちから己煥の雑務を手伝わされていた朝明が文字と向き合うことに飽き、話題が少々横道に逸れた時頃で夕餉が饗される。
運ばれてきた味噌煮の手引や辛物の豚はいずれも過度な甘味や辛さは抑えつつも濃い仕上がりで、さらに酢の効いた湯膾が拍車をかけて三人の飯をすすませており、とくに聡伴は焦る胃袋をたしなめ、品を欠かぬようにえらく気を遣って箸を動かしていた。
その分厚さに相反した柔らかい手引の肉は、いとも簡単に口の中でとろけて喉の奥へ消えていく。
「己煥様は意外にもしっかりお食事とられる方なんですね。お身体が細くていらっしゃるのでてっきり食も細いほうかと」
日頃身に着ける官衣や平服の着物はどれも緩く幅を持たせたものが多いが、結局帯を締めてしまえば己煥の細身は一目瞭然である。五尺を超えるうえに筋骨隆々とした朝明より少しばかり高い背丈もあいまって、なおのこと曲がることを知らぬ竹のような風貌が際立つ。
「最近まではそうではなかったのだが」
そういえば、いつからそれなりの量を腹のなかに収めきれるようになったのだろうかと己煥は考えた。とはいっても、澄ました顔をしていくらでも食事と酒に興じられる朝明や、小さい体のどこに収める場所があるのか皆目見当がつかないほど箸を動かし続けられる聡伴には、まったくもってかなわないが。
己煥は胃が音を上げるまえに箸を置き、残りをふたりにまかせて茶を運ばせる。よく温められた唐物の茶碗からは、湯気とともに爽やかな香ばしさが漂い、ひとくち啜ったそれは腹のなかをだんだんと落ち着かせていった。
空いた膳を下げさせていると、使用人らと入れ替わるように己煥の妻が客間に顔を出す。子どもたちを寝かしつけたのであろう。
「真蜃那殿、ご馳走になりました」
「アラ、とんでもない。台所の彼女たちにも伝えておくわ」
真蜃那は満足げに口元を綻ばせて聡伴に礼を返す。
夏の半ば、はじめてここを訪れたときから毎度のように馳走の振る舞いをうけているが、どれもとても美味であった。
「そうだな、お前は作ってないだろう」
「当たり前でしょ?黙ンなさい。次から旦那様の残り物だけお召し上がりなさいな」
そしてこれも毎度のことであるが、彼女と朝明は犬と猫のような仲で、顔を合わせれば嫌味の応酬がはじまるのである。
「常々思ってはいたがお前、失礼なやつだな」
「貴方が最初に失礼なのよ、魏徳賢」
声こそ張り上げていないものの、闘鶏のようにお互い首を突き出していがみ合っている。これが元服前からの付き合いだというのだから驚きだ。そして、己煥はそんなふたりの様子を面白そうに眺めながら三杯目の茶を啜っていた。
「これでも朝明の別れた妻とは仲が良いのだ。よく子らを連れて遊びに行っている」
「左様でございますか……」
確か、真蜃那と朝明の妻―――今はそうではないが―――は己煥と同じ唐栄の出だったはずだ。朝明の一人息子も妻側の家で育てられているというから、子を持つ女子同士自然と付き合いが深まったのであろう。聡伴は朝明の妻であった女と顔を合わせたことはないが、己煥からは彼にはもったいないほど申し分のない女子であったと聞いている。
徐々に言い争いも鎮まりはじめ、朝明も茶を所望する。真蜃那は二つの碗にそれぞれ茶を注ぎ、聡伴へ出したあとに苦虫を噛み潰したような顔で朝明のほうへも寄越した。
「蜃娘、手間をかけたな。夜も遅いから休みなさい」
「それでは、あとはお好きになさって」
「酒くらい注いでくれないのか」
「旦那様にしか入れてあげないわよ。貴方はそのへんの遊女にでも御取持ちしてもらいなさいな」
席を立った真蜃那は部屋を出ようと襖を開ける。すると、彼女の足元からぬるっと茶色い毛玉が飛び出してきた。
「おや、デーデーも来たのかい?」
デーデーと呼ばれた猫はのそのそと己煥のほうへ歩いていき、膝や背に身体を擦りつけながらぐるぐると体をうねらせる。帰帆の船に乗っていたあの悪戯な大猫だ。橙と名付けたのは聡伴で、その名づけどおり、大きな体を丸めて寝ている様は臭橙の実にそっくりであった。
「おい、ちょっと飯を与えすぎなんじゃあないか?橙どころかこれでは俵のようだぞ」
「私たちがあげなくても勝手にどこかへ行ってもらってくるンだから仕方ないじゃない」
ごろり、と畳に体を横たえたデーデーはうごうごと寝返りを打っている。とっぷりとした体はまさに俵で、そのままごろごろと部屋の隅まで転がっていきそうな気さえした。船のなかで持ち上げたときは、それほど重さがあるとは感じなかったが、今はとてもじゃあないが持ち上げる気にはなれない。名は体を表すというが、これでは名前のほうがすっかり負けてしまっている。
「名前、変えたほうがいいですかね?」
俵。
「いまさらだろう……」
朝明はデーデーの側にしゃがみ込んで背中や腹をつつく。己にわちゃくしている朝明に気づき、反撃を繰り出そうと前脚を顔の下で揃えて構えていた。
「そのうち尻尾が一本増えているかもしれないぞ」
「可愛いデーデーになンてこというのよ」
「尻尾が増えるだけならさして問題ないのではなかろうか」
喉を擽ってやろうと己煥はデーデーの顎に手を伸ばす。
すると、先程から朝明にちょっかいをかけられて気が高ぶっていた彼は、「んめ゛ぇ!」と不満げな鳴き声をあげて、勢い良くその太い前脚で己煥の指先を払いのけた。
「デーデー、痛いじゃないか」
ただの拳かと思いきや、爪をしまうのが上手くないデーデーは己煥の細く白い指の腹に一筋の朱を拵えてしまっていた。落ち着かせるように首のうしろを撫でてやると、少し耳を寝かせてすまなそうに己煥の指先をちびちびと舐め、自ずから手の上に顎を乗せてぐるぐると音を鳴らす。
「まったく狂暴な猫になったものだ。己煥、こやつを甘やかしすぎただろう」
「どうしようもないのだよ、なかなかに可愛いのだから。それに引搔かれたといってもさほど……」
今しがたデーデーが拵えた傷を確かめようと右の中指をひっくり返す。一直線に細く伸びた血を親指で軽く拭って傷の程を、見み―――
「―――いや、傷になるほどではなかったから」
「あれ?さっき爪、食い込んでいませんでしたっけ?」
「気のせいだったようだ。デーデーも爪を仕舞うのが上手くなったものだ」
己煥は素知らぬ振りで乾きはじめた血をそっと着物の袖口で拭い去った。ほら、傷なんてないだろう、と顔の前で両手を広げてみせる。猫の引搔き傷など、浅いものでは血さえ出ないことだってあるのだ。なんら不思議ではない。
「そうだとしても、あとでかならず水で流してくださいな。この子どこほっつき歩いているのかわからないンですから」
「そうだな、蜃娘。そうしよう」
それじゃあ、私は奥へ引っ込みますから、と真蜃那は男三人と猫を客間に残して裏座へと下がっていった。己煥も土間で手を流しに行くといって部屋を出る。
「律儀ですね」
「あれは尻に敷かれているのだ」
やや眉間にしわを寄せた朝明の、その片頬が少し膨れていたのは気のせいだろう。
「どうして朝明様は真蜃那殿とはあんなに仲がお悪くて?」
「えらく明け透けに問うな、聡伴」
食事をとるために部屋の隅に寄せておいた卓を中央に戻し、雑に片付けていた書物を引き寄せ、夕刻まで読んでいた箇所をあらためて開く。夕刻まで小降りになっていた雨は、ふたたび雨戸を打ちつけている。
「この率直な疑問を口に出すまで半年もかかりました」
書物を開いてはみたものの、すっかり腹が膨れたふたりは会読の続きをする気なぞまったく起きなかった。朝明は開いた頁の右上の角を、人差し指で弾きはじめる。
「己煥と先に出会ったのは真蜃那ではなく俺だ」
「なるほど?」
朝明―あの頃はまだ王家支流の幼き末子、五良―がこれまた唐栄の麗しき童であった紅己煥と出逢ったのは、康熙二年の冬、互いに齢九つのときである。
元服前の子息らしくたっぷりと結い上げられた髪は玻璃のように透き通り、唐物であろう凝った簪が悪目立ちすることなく映えていた。形付で染め上げられた鮮やかな縮緬の振袖を揺らしながら歩む様は、それはそれはヒトにあらず―――まるで羽衣を纏った天女を思わせる美しさだった、と朝明は記憶している。
「それを、ぽっと出のどこの馬の骨ともしれない女にとられたのだ」
面白くないわけがない。
「そのうえ、あの女は俺が面白くないことに気づいていて、いちいち挑発してくる」
おおいに解せない。
「大の大人の焼きもちは見苦しいのではありませんか、朝明様」
「なんて生意気なんだ、聡伴。これは嫉妬なんかではないぞ、決して。それに―――」
あの女がこの国に来たのは、朝明と己煥が十二になる時分だったのではないだろうか。彼女の親は海の向こうからやってきた商人で、この国の近くの海で船とともに流されてしまった。漂着した彼女は唐栄の梁氏に娘として引き取られたが、蘇州碼のみならず仮名や漢字を解し、やたらと頭の回る真蜃那は、明らかに浮いた存在で、それが美しく聡明だと評判の己煥の傍にいるのだと思うと―――
「誰が何に嫉妬をしているのだ?」
廊下の方から衣擦れの音が聞こえたかと思うと、静かに障子が開き己煥が戻ってくる。
「いやぁ、朝明様が、」
「聡伴に!もう一人子が生まれると聞いてだな!」
羨ましい限りだ、と朝明は聡伴を遮って思い切り話を逸らした。なんら気づくことのない己煥は、めでたいな、いつ生まれるのだ、と顔を綻ばせて訊いてくる。子が生まれるのはまことであるが、なぜそれを朝明の知るところとなったのか、聡伴にはさっぱりであった。
「年が明けて、おそらく夏の前くらいでしょうか」
旅役に行っているあいだに生まれた上の息子はすっかり歩きはじめ、幼子の言葉ではあるものの随分と口も達者になった。元服の烏帽子親は朝明か己煥に頼むつもりでいる。もし下の子も男子であれば、ひとりずつ双方に烏帽子親となってもらうことができるだろう。
「楽しみだな」
「ええ、生まれるまでに私もさらに出世できるよう努力せねば」
位階というのはある程度家柄で決められるきらいがある一方、落ちるのは至極簡単で、親の代で功績がなければ子の出世の道は絶たれてしまう。その親を超える働きをみせ、里之子親雲上の位を手に入れた聡伴は大層な人間だと、朝明はつくづく思うのであった。
「さて、聡伴も身重な妻がいるということであるし、今日のところはここまでとしよう」
明らかに書物に目を通していない朝明に言い聞かせるような己煥の一言で、本日の会読は御開きとなった。
外へ出るために雨戸を開くと、先刻より雨の量が増していた。これ以上大降りにならないうちに帰るのが賢明だろう。
「己煥、俺の馬置いていって良いか?」
「問題ないが、お前どうやって家まで……ああ、郭所で寝るのか?」
朝明は是というかわりに、ついでに聡伴を送っていくと返事をする。
ふたりが話している隙に、傘を持って廊下を渡ってきた真蜃那が聡伴にこっそりと耳打ちをする。
「旦那様にあなたのような朋友ができて嬉しいわ」
幼少から元服してしばらく、ほとんどを床に臥せっているか学問をしているかのどちらかであった己煥に、朝明以外の友人はなかった。出仕し公務に携わるようになっても、その特異な容貌と抜きんでた才ゆえ、周りの者たちからは遠巻きにされていた。
「魏徳賢は良い人。でもお友達とは少し違うのよ」
いつでもいらしてくださいな、と真蜃那は聡伴に傘と灯りを手渡した。
「そういえば朝明様はいったいどこで私の妻が身籠った話を?」
帰り道、地面を跳ね返す雨が強まっているなかを、朝明と聡明は並んで傘を差して歩く。大降りになってきたからであろうか、ときたまあらわれる浅い水溜まりをさばく足音は、一人分多く音を立てているような気すらする。
「市場で小魚を売っていた可愛い娘だ。親がお前の家の使用人をしているそうだぞ」
この村は、この国は狭い。あるいは朝明の情報網がとてつもなく広いのだろうか。城下に居住を置く朝明は毎日とまではいかないが、市の娘たちに顔を覚えられる程度には四町を歩き回っているようである。大抵はその近くの己煥の宅や郭所に用があるのだろうが。
「朝明様、もしかしてお暇なんですか?」
「そんなわけは、ないだろう」
「本当ですか?怪し―――」
聡伴が言いかけたそのとき、うしろから地面の水を蹴る音がふたりのほうへ近づいてきた。夜分に何事かとふたりが足を止めて振り返ったときには、走ってきた人影はすでに間合いを詰め―――。
「え?」
頭巾で隠された顔の横で高く構えた両腕には、鈍色を照り返す長い刀が握られている。
刀はさらに高く掲げられ、そして、勢いよく振り下ろされた―――
陽が落ちる頃にはだいぶん雨も小降りになり、当初の予定通り今晩は己煥の宅で会読がおこなわれていた。明るいうちから己煥の雑務を手伝わされていた朝明が文字と向き合うことに飽き、話題が少々横道に逸れた時頃で夕餉が饗される。
運ばれてきた味噌煮の手引や辛物の豚はいずれも過度な甘味や辛さは抑えつつも濃い仕上がりで、さらに酢の効いた湯膾が拍車をかけて三人の飯をすすませており、とくに聡伴は焦る胃袋をたしなめ、品を欠かぬようにえらく気を遣って箸を動かしていた。
その分厚さに相反した柔らかい手引の肉は、いとも簡単に口の中でとろけて喉の奥へ消えていく。
「己煥様は意外にもしっかりお食事とられる方なんですね。お身体が細くていらっしゃるのでてっきり食も細いほうかと」
日頃身に着ける官衣や平服の着物はどれも緩く幅を持たせたものが多いが、結局帯を締めてしまえば己煥の細身は一目瞭然である。五尺を超えるうえに筋骨隆々とした朝明より少しばかり高い背丈もあいまって、なおのこと曲がることを知らぬ竹のような風貌が際立つ。
「最近まではそうではなかったのだが」
そういえば、いつからそれなりの量を腹のなかに収めきれるようになったのだろうかと己煥は考えた。とはいっても、澄ました顔をしていくらでも食事と酒に興じられる朝明や、小さい体のどこに収める場所があるのか皆目見当がつかないほど箸を動かし続けられる聡伴には、まったくもってかなわないが。
己煥は胃が音を上げるまえに箸を置き、残りをふたりにまかせて茶を運ばせる。よく温められた唐物の茶碗からは、湯気とともに爽やかな香ばしさが漂い、ひとくち啜ったそれは腹のなかをだんだんと落ち着かせていった。
空いた膳を下げさせていると、使用人らと入れ替わるように己煥の妻が客間に顔を出す。子どもたちを寝かしつけたのであろう。
「真蜃那殿、ご馳走になりました」
「アラ、とんでもない。台所の彼女たちにも伝えておくわ」
真蜃那は満足げに口元を綻ばせて聡伴に礼を返す。
夏の半ば、はじめてここを訪れたときから毎度のように馳走の振る舞いをうけているが、どれもとても美味であった。
「そうだな、お前は作ってないだろう」
「当たり前でしょ?黙ンなさい。次から旦那様の残り物だけお召し上がりなさいな」
そしてこれも毎度のことであるが、彼女と朝明は犬と猫のような仲で、顔を合わせれば嫌味の応酬がはじまるのである。
「常々思ってはいたがお前、失礼なやつだな」
「貴方が最初に失礼なのよ、魏徳賢」
声こそ張り上げていないものの、闘鶏のようにお互い首を突き出していがみ合っている。これが元服前からの付き合いだというのだから驚きだ。そして、己煥はそんなふたりの様子を面白そうに眺めながら三杯目の茶を啜っていた。
「これでも朝明の別れた妻とは仲が良いのだ。よく子らを連れて遊びに行っている」
「左様でございますか……」
確か、真蜃那と朝明の妻―――今はそうではないが―――は己煥と同じ唐栄の出だったはずだ。朝明の一人息子も妻側の家で育てられているというから、子を持つ女子同士自然と付き合いが深まったのであろう。聡伴は朝明の妻であった女と顔を合わせたことはないが、己煥からは彼にはもったいないほど申し分のない女子であったと聞いている。
徐々に言い争いも鎮まりはじめ、朝明も茶を所望する。真蜃那は二つの碗にそれぞれ茶を注ぎ、聡伴へ出したあとに苦虫を噛み潰したような顔で朝明のほうへも寄越した。
「蜃娘、手間をかけたな。夜も遅いから休みなさい」
「それでは、あとはお好きになさって」
「酒くらい注いでくれないのか」
「旦那様にしか入れてあげないわよ。貴方はそのへんの遊女にでも御取持ちしてもらいなさいな」
席を立った真蜃那は部屋を出ようと襖を開ける。すると、彼女の足元からぬるっと茶色い毛玉が飛び出してきた。
「おや、デーデーも来たのかい?」
デーデーと呼ばれた猫はのそのそと己煥のほうへ歩いていき、膝や背に身体を擦りつけながらぐるぐると体をうねらせる。帰帆の船に乗っていたあの悪戯な大猫だ。橙と名付けたのは聡伴で、その名づけどおり、大きな体を丸めて寝ている様は臭橙の実にそっくりであった。
「おい、ちょっと飯を与えすぎなんじゃあないか?橙どころかこれでは俵のようだぞ」
「私たちがあげなくても勝手にどこかへ行ってもらってくるンだから仕方ないじゃない」
ごろり、と畳に体を横たえたデーデーはうごうごと寝返りを打っている。とっぷりとした体はまさに俵で、そのままごろごろと部屋の隅まで転がっていきそうな気さえした。船のなかで持ち上げたときは、それほど重さがあるとは感じなかったが、今はとてもじゃあないが持ち上げる気にはなれない。名は体を表すというが、これでは名前のほうがすっかり負けてしまっている。
「名前、変えたほうがいいですかね?」
俵。
「いまさらだろう……」
朝明はデーデーの側にしゃがみ込んで背中や腹をつつく。己にわちゃくしている朝明に気づき、反撃を繰り出そうと前脚を顔の下で揃えて構えていた。
「そのうち尻尾が一本増えているかもしれないぞ」
「可愛いデーデーになンてこというのよ」
「尻尾が増えるだけならさして問題ないのではなかろうか」
喉を擽ってやろうと己煥はデーデーの顎に手を伸ばす。
すると、先程から朝明にちょっかいをかけられて気が高ぶっていた彼は、「んめ゛ぇ!」と不満げな鳴き声をあげて、勢い良くその太い前脚で己煥の指先を払いのけた。
「デーデー、痛いじゃないか」
ただの拳かと思いきや、爪をしまうのが上手くないデーデーは己煥の細く白い指の腹に一筋の朱を拵えてしまっていた。落ち着かせるように首のうしろを撫でてやると、少し耳を寝かせてすまなそうに己煥の指先をちびちびと舐め、自ずから手の上に顎を乗せてぐるぐると音を鳴らす。
「まったく狂暴な猫になったものだ。己煥、こやつを甘やかしすぎただろう」
「どうしようもないのだよ、なかなかに可愛いのだから。それに引搔かれたといってもさほど……」
今しがたデーデーが拵えた傷を確かめようと右の中指をひっくり返す。一直線に細く伸びた血を親指で軽く拭って傷の程を、見み―――
「―――いや、傷になるほどではなかったから」
「あれ?さっき爪、食い込んでいませんでしたっけ?」
「気のせいだったようだ。デーデーも爪を仕舞うのが上手くなったものだ」
己煥は素知らぬ振りで乾きはじめた血をそっと着物の袖口で拭い去った。ほら、傷なんてないだろう、と顔の前で両手を広げてみせる。猫の引搔き傷など、浅いものでは血さえ出ないことだってあるのだ。なんら不思議ではない。
「そうだとしても、あとでかならず水で流してくださいな。この子どこほっつき歩いているのかわからないンですから」
「そうだな、蜃娘。そうしよう」
それじゃあ、私は奥へ引っ込みますから、と真蜃那は男三人と猫を客間に残して裏座へと下がっていった。己煥も土間で手を流しに行くといって部屋を出る。
「律儀ですね」
「あれは尻に敷かれているのだ」
やや眉間にしわを寄せた朝明の、その片頬が少し膨れていたのは気のせいだろう。
「どうして朝明様は真蜃那殿とはあんなに仲がお悪くて?」
「えらく明け透けに問うな、聡伴」
食事をとるために部屋の隅に寄せておいた卓を中央に戻し、雑に片付けていた書物を引き寄せ、夕刻まで読んでいた箇所をあらためて開く。夕刻まで小降りになっていた雨は、ふたたび雨戸を打ちつけている。
「この率直な疑問を口に出すまで半年もかかりました」
書物を開いてはみたものの、すっかり腹が膨れたふたりは会読の続きをする気なぞまったく起きなかった。朝明は開いた頁の右上の角を、人差し指で弾きはじめる。
「己煥と先に出会ったのは真蜃那ではなく俺だ」
「なるほど?」
朝明―あの頃はまだ王家支流の幼き末子、五良―がこれまた唐栄の麗しき童であった紅己煥と出逢ったのは、康熙二年の冬、互いに齢九つのときである。
元服前の子息らしくたっぷりと結い上げられた髪は玻璃のように透き通り、唐物であろう凝った簪が悪目立ちすることなく映えていた。形付で染め上げられた鮮やかな縮緬の振袖を揺らしながら歩む様は、それはそれはヒトにあらず―――まるで羽衣を纏った天女を思わせる美しさだった、と朝明は記憶している。
「それを、ぽっと出のどこの馬の骨ともしれない女にとられたのだ」
面白くないわけがない。
「そのうえ、あの女は俺が面白くないことに気づいていて、いちいち挑発してくる」
おおいに解せない。
「大の大人の焼きもちは見苦しいのではありませんか、朝明様」
「なんて生意気なんだ、聡伴。これは嫉妬なんかではないぞ、決して。それに―――」
あの女がこの国に来たのは、朝明と己煥が十二になる時分だったのではないだろうか。彼女の親は海の向こうからやってきた商人で、この国の近くの海で船とともに流されてしまった。漂着した彼女は唐栄の梁氏に娘として引き取られたが、蘇州碼のみならず仮名や漢字を解し、やたらと頭の回る真蜃那は、明らかに浮いた存在で、それが美しく聡明だと評判の己煥の傍にいるのだと思うと―――
「誰が何に嫉妬をしているのだ?」
廊下の方から衣擦れの音が聞こえたかと思うと、静かに障子が開き己煥が戻ってくる。
「いやぁ、朝明様が、」
「聡伴に!もう一人子が生まれると聞いてだな!」
羨ましい限りだ、と朝明は聡伴を遮って思い切り話を逸らした。なんら気づくことのない己煥は、めでたいな、いつ生まれるのだ、と顔を綻ばせて訊いてくる。子が生まれるのはまことであるが、なぜそれを朝明の知るところとなったのか、聡伴にはさっぱりであった。
「年が明けて、おそらく夏の前くらいでしょうか」
旅役に行っているあいだに生まれた上の息子はすっかり歩きはじめ、幼子の言葉ではあるものの随分と口も達者になった。元服の烏帽子親は朝明か己煥に頼むつもりでいる。もし下の子も男子であれば、ひとりずつ双方に烏帽子親となってもらうことができるだろう。
「楽しみだな」
「ええ、生まれるまでに私もさらに出世できるよう努力せねば」
位階というのはある程度家柄で決められるきらいがある一方、落ちるのは至極簡単で、親の代で功績がなければ子の出世の道は絶たれてしまう。その親を超える働きをみせ、里之子親雲上の位を手に入れた聡伴は大層な人間だと、朝明はつくづく思うのであった。
「さて、聡伴も身重な妻がいるということであるし、今日のところはここまでとしよう」
明らかに書物に目を通していない朝明に言い聞かせるような己煥の一言で、本日の会読は御開きとなった。
外へ出るために雨戸を開くと、先刻より雨の量が増していた。これ以上大降りにならないうちに帰るのが賢明だろう。
「己煥、俺の馬置いていって良いか?」
「問題ないが、お前どうやって家まで……ああ、郭所で寝るのか?」
朝明は是というかわりに、ついでに聡伴を送っていくと返事をする。
ふたりが話している隙に、傘を持って廊下を渡ってきた真蜃那が聡伴にこっそりと耳打ちをする。
「旦那様にあなたのような朋友ができて嬉しいわ」
幼少から元服してしばらく、ほとんどを床に臥せっているか学問をしているかのどちらかであった己煥に、朝明以外の友人はなかった。出仕し公務に携わるようになっても、その特異な容貌と抜きんでた才ゆえ、周りの者たちからは遠巻きにされていた。
「魏徳賢は良い人。でもお友達とは少し違うのよ」
いつでもいらしてくださいな、と真蜃那は聡伴に傘と灯りを手渡した。
「そういえば朝明様はいったいどこで私の妻が身籠った話を?」
帰り道、地面を跳ね返す雨が強まっているなかを、朝明と聡明は並んで傘を差して歩く。大降りになってきたからであろうか、ときたまあらわれる浅い水溜まりをさばく足音は、一人分多く音を立てているような気すらする。
「市場で小魚を売っていた可愛い娘だ。親がお前の家の使用人をしているそうだぞ」
この村は、この国は狭い。あるいは朝明の情報網がとてつもなく広いのだろうか。城下に居住を置く朝明は毎日とまではいかないが、市の娘たちに顔を覚えられる程度には四町を歩き回っているようである。大抵はその近くの己煥の宅や郭所に用があるのだろうが。
「朝明様、もしかしてお暇なんですか?」
「そんなわけは、ないだろう」
「本当ですか?怪し―――」
聡伴が言いかけたそのとき、うしろから地面の水を蹴る音がふたりのほうへ近づいてきた。夜分に何事かとふたりが足を止めて振り返ったときには、走ってきた人影はすでに間合いを詰め―――。
「え?」
頭巾で隠された顔の横で高く構えた両腕には、鈍色を照り返す長い刀が握られている。
刀はさらに高く掲げられ、そして、勢いよく振り下ろされた―――
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