上 下
8 / 11
1682

珠玉の友④

しおりを挟む
四、

「えぇっと……林宗信リンソウシン―――名我山ながやま筑登之ちくどぅん殿、何か良い薬をお持ちではないですか?たとえば酔い止めのような、気付けのようなものでも」

 福州から出帆した翌日、宗信に声をかけてきたのは梅氏バイうじ永波間はざま筑登之ちくどぅん親雲上ぺーちん聡伴ソウハン―――今は里之子さとぬし親雲上ぺーちんへ出世している―――であった。同じ船に乗っているとはいえ、宗信のような買い物役と行動をともにしていた従人と、事務や秘書方として動いていた筆者である聡伴ではほとんど関わり合いを持つことなく帰帆に至っていた。

「なぜ私に?」
「名我山殿は北京において内々でいろいろとお買い求めになられていたと聞き及び……通事つうじの紅己煥様が体調を崩されておりまして」

 紅己煥―――宗信と同じ唐栄の士族だ。もっとも、同じといえども、宗信の場合は林氏の養子で、いっぽうあちらは家格に恵まれ幼少より学と才に秀でた生粋の良人であるが。

「恐れながら、内々とはいえこちらも事情がございます。おいそれと分け与えるわけにはいきません」
「おいくらで?」

 まったく、銀子を出せばなんでも手に入ると思っているのか。これだから四町の人間は。
 身体を崩した紅己煥は気の毒だが、船に乗る以上は体への負荷というのは誰しも同じことであり、耐えるほかないだろう。

「いくらであっても差し控えさせていただきたく存じます」
「いやぁ、そこをなんとか……あの、帰帆したあとでも異国経由で流れてくる薬とか、代りにお渡しいたしますよ?」
「やみくもに買い付けたのではなく薬を飲ませたい者のために選びに選んだものですので」

 そのへんのありきたりな薬に替えられては意味がない。

「左様でございますか……それは致し方ありません」

 手間を取らせましたね、と聡伴は残念そうに眉を下げて一礼し、去っていった。

 このあとのことである。
 宗信が船室に持ち込んだ行李こうりが荒らされ、なぜか船底の積荷のなかに紛れ込んだ大切な「仙肉」は、すっかり残り一切れとなってしまっていた。


 あれから半年。

 文字通り切るに切れず、仕方なくまな板から小箱へ戻した一片の肉。
 塩に漬けることもなく放っておいたにもかかわらず、「仙肉」は相も変わらず美しい光沢をおび、食指を動かすような芳香を漂わせている。

 宗信は蓋をした小箱を抱え、火をくべていないかまどにもたれかかり腰を下ろして両足を放り出した。
 帰帆したばかりの夏は「仙肉」以外に持ち帰った薬で母と妹の体調も落ち着いていたが、ちょうどそれらが底を尽きる頃に冬がやってきてしまった。脆い体が寒さと冷えに耐え切れるわけがなく、この二月ふたつきばかり、宗信は仕事の合間を見ては二人の世話をするためにこの実家を訪れていた。
 随分な繁多はんたに疲れた頭を少しでも休ませようと目を閉じたが、昨晩、兄が狂ったように刀を振り回していた姿が頭によみがえり、落ち着かない。

武樽ンダルー?」

 床から起き上がってきた母親が宗信に気づき、板間の上から声がかかる。
 土間の台所にだらしなく体を投げ出している己の格好に気づき、慌てて体を起こす。隠すように箱を己のかかとのうしろに置き、立ち上がって着物の裾についた埃を払った。

「母上……お加減は?」
「気にすることはないよ。それより、アンタのほうが不摂生なんじゃないのかい?」

 母親―――実母は、隈をたたえた宗信の顔を覗き込み怪訝な顔をする。もしかすると、昨晩、兄に詰められていた様子も聞かれていたのかもしれない。

「そんなことありません。仕事が……少々忙しいだけで」
「嘘言うんじゃないよ」

 宗信のあからさまな言い訳に、母は呆れ顔で溜息をつく。

「武樽、アンタの気持ちは嬉しいよ」

 仕事以外の人付き合いが薄い宗信の童名わらびなを呼ぶのは今や母と妹だけで、不意に、とくに母親にそう呼ばれると、なぜか情も嘘も隠しがたくなる。

「わざわざ、こんなにもたくさんの薬を、海の向こうからもって帰ってきてくれた」

 板間の端に腰かけた母が、宗信を見上げる。
 五十を過ぎた母の背中は、とても小さく丸く見えた。

「けれども、アンタはアタシらのことより、もっと自分を大切にしなさいな」

 かつては黒々と艶やかに結い上げられていた豊かな髪は、今では薄墨のように色が抜けて乾ききり、頭のうしろで低く素味そみまとめられている。

「せっかく林氏の子になったのだから」

 宗信は土間に立ったまま、じっと俯いて母の言うことを聞いていた。


 布団に戻ろうとする母の腕を支えて立たせて寝床へ連れていったあと、土間へ戻り竈のそばに放っておいた小箱を拾い上げる。
 蓋を取ると、さんざん見飽きた美しい肉切れがこちらを見つめていた。

 薬を買い付けてきたのは、決して兄に言いつけられたからではない。
 己の股肉を割いて与えることができれば、どんなに良かっただろうか。

「梅永繁……」

 彼が盗みを働くような人間であるとは聞いたことがないが、如何せん、時宜じぎが良すぎるのだ。

 本来、あの箱に入っていた四切れすべてが手元になくたって良かったのだ。欲張りすぎた罰なのかもしれないが、せめて母と妹のぶんだけはこの手に取り戻したかった。

「もう、口に入れてしまったのだろうか?」

 もし、梅永繁が肉を盗ったのなら、一枚目はすぐさま紅己煥に食わせただろう。そして彼があの肉を三切れも口に入れるような欲深い者でなければ……

「あとの二切れは」

 己の股肉を割けば母や妹は悲しむだろうが、それにを手に入れることはできる。

 肉を入れている小箱のなかから、水が跳ねるような音が、聞こえた気がした。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

羽黒山、開山

鈴木 了馬
歴史・時代
 日本の古代史は改竄された。  いや、正史「日本書紀」は、史実を覆い隠すために作られたと言ってもいい。  ただ、そもそも「歴史」というものは、そのようにしてできるものかもしれないのだが。  ーー崇峻天皇は暗殺された。  ーー崇峻崩御に伴う「殯」の儀式を行わず、死後すぐに赤坂天王山古墳に埋葬された。  正史、日本書紀はそのように書く。  しかし、それが真実である可能性は、10パーセントもあろうか。  むしろ、「殯」がなかったのだから、天皇ではなかった。  すなわち、即位すらしていなかった、と考えるほうが自然ではないのか。  その議論で、鍵となるのは泊瀬部皇子=崇峻天皇の「生年」であろう。  他方、崇峻天皇の第一皇子、蜂子皇子はどうだ。  崇峻天皇の崩御後、皇子は都を逃れ、出羽に赴いた、という伝説が残り、その後1400年、その蜂子皇子が開祖とされる羽黒信仰は脈々と続いてきた。  日本書紀にこそ書かれてはいないが、蜂子皇子伝説が史実である可能性は決して低くないだろう。  そして、蜂子皇子の母である、小手姫の伝説はどうか。  なぜ、587年に福島県の女神山で亡くなったという伝説が残るのか。  日本書紀が、崇峻天皇の崩御年とする、592年よりも、5年も前である。  謎は深まるばかりである。  読み解いても、日本の古代史は、決して真実を教えてはくれない。  数々の記録、伝承の断片をつなぎ、蜂子皇子にまつわる逸話に、一つの流れを持たせるために、筆者はこの物語を編んだ。  なお、この作品で、出羽三部作は完結する。

蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 五の巻

初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。 1941年5月、欧州大陸は風前の灯火だった。 遣欧軍はブレストに追い詰められ、もはや撤退するしかない。 そんな中でも綺羅様は派手なことをかましたかった。 「小説家になろう!」と同時公開。 第五巻全14話 (前説入れて15話)

武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり

もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。 海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。 無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。

幕末博徒伝

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
江戸時代、五街道の内の一つ、甲州街道が整備され、宿場町として賑わった勝沼は、天領、つまり、徳川幕府の直轄地として代官所が置かれていた。この頃、江戸幕府の財政は厳しく、役人の数も少なかったので、年貢の徴収だけで手がいっぱいになり、治安までは手が回らなかった。その為、近隣在所から無宿人、博徒、浪人などが流れ込み、無政府状態になっていた。これは、無頼の徒が活躍する任侠物語。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

Dear sword

香月 優希
ファンタジー
銀髪の魔術剣士イルギネスは二十四歳。 弟を病で亡くしてから一年が経とうとし、両親や周りに心配をかけまいと明るく振る舞う一方、自らの内に抱える苦しみをどうすることも出来ずに、気づけば夜の街に繰り出しては酒を煽り、時には行きずりの出会いに身を投げ出して、職務にも支障が出るほど自堕落になりかけていた。そんなある日、手入れを怠っていた愛剣を親友に諌(いさ)められ、気乗りしないまま武器屋に持ち込む。そこで店番をしていた店主の娘ディアにまで、剣の状態をひどく責められ──そんな踏んだり蹴ったりの彼が、"腑抜け野郎"から脱却するまでの、立ち直りの物語。 ※メインで連載中の小説『風は遠き地に』では、主人公ナギの頼れる兄貴分であるイルギネスが、約二年前に恋人・ディアと出会った頃の、ちょっと心が温まる番外短編です。 <この作品は、小説家になろう、pixiv、カクヨムにも掲載しています>

【完結】『口口口 -ろろろ-』 ~江戸西国、妖怪ファンタジー~ 

白楠 月玻
歴史・時代
外の世界にあこがれる臆病な少年と、幕府の命令を受けて旅をする少女の出会いの物語。 舞台は江戸時代中期の小さな山村。 乱世が終わり、庶民文化が花開く裏側で世界を蝕むモノがいた。 あの世とこの世の境目がほつれ、交わり、侵入してきた「怪異」たち。 少年が出会った少女の使命は、人々をあの世へ誘う怪異を退治すること。 呪われた少年と呪われた少女の妖怪ファンタジー開幕!

処理中です...