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珠玉の友①

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老いを是とせず

死を退け

希求するは涯なき生

古より万人は仙薬を追い求めて蓬莱を探し、ときに現世の果てへ消えていった―――


一、

 西に傾く陽の光が弱まり、人がまばらになった市中には濃く長い影が落ちはじめている。伸びた影の先には、天蓋を差し、白衣装に身を窶した一行と、そのうしろから運ばれる真っ赤ながんがあった。鳴り続ける鉦鼓しょうこと弔いの哭泣こっきゅうを引き連れて干潮の浜へとむかう葬列を、静かに見送った。

 大清康熙暦二十一年、冬。

 冬至も過ぎたこの頃、雪こそ降らないこの国だが、陸を吹き抜ける乾いた海風はさすがに身に染みる冷たさにかわっていた。昨年までいた福州に比べればなんとも生易しい気候ではあるが、それでも四肢の末端はすっかり冷え切り、足袋が欠かせない。いつもより厚手の羽織を重ね着てかじかんだ指を𠮟咤して筆を動かし、子弟たちを指導しながら漢文の組み立てなどをしていると、あっという間に昼八つ時を大きく過ぎていた。

「今度は丁越市テイエツシだそうです……絶対おかしいですよ」

「まあ、多少気味は悪いが」

 夜詰めをほかの講師に引き受けてもらった己煥ジーファンは、唐栄とうえいの大門付近で聡伴ソウハンと落ち合い、ふたりで城下へむけて浮道を歩いていた。このあと城下の近くで朝明チョウメイと合流し、今夜は漢籍の会読をする予定だ。 数町ほど歩けば座り仕事で冷え切った身体も暖まるだろうと思っていたが、逆に冷え切った夜風が容赦なく吹きつけ歯を鳴らしそうになる。己煥は重ね着をした袖のなかで腕を組み、辛うじて暖を取っていた。 

 寒空のもと、ふたりが歩く路肩の松並木のあいだ、その遠く向こうに死者を乗せた朱塗りのそれが目に入ったのはその途中のことである。

 夏以来、 城下とその先へ下った四町や港では、先の旅役にかかわった者たちには災厄が降りかかるという噂が巡っていた。来る年に清からの使節を迎え入れる準備に追われている王府は完全に無視を決め込んでいたが、尾ひれがつき這うように官吏たちのあいだで話が広がる様はなんとなく不気味なものである。

「はじめはちょっとした偶然だと思ったんですけど」

 偶然、先の旅役に同行した某氏が原因不明の病に臥せった。

 偶然、先の旅役で才府を務めた者の室がお産で命を落とした。

 偶然、先の旅役で水夫務めた者が薩州へ向かう途中、大風で流された。

 そして昨晩、偶然、先の旅役で五主を務めた丁越市が知人と争った末に死亡した―――

「偶然じゃないか?」

「四人が偶然なわけないじゃないですか!四人なんて片手で数えていられるのもあと少しですよ?己煥様は他人事のようにおっしゃいますけど、私たち一緒に船に乗りましたからね!」

「葬式なんて最低でも月一はどこかの村で出ることだろう」

 聡伴は一生懸命恐怖を訴えてわめいてみたが、己煥の反応は今ひとつである。生まれた時分からたびたび生死をさまよっていたと聞くこの御仁にとっては、すべからく平等に訪れるものに対して、何をいまさら、という感じなのだろうか。

「私は帰国以来大きく体を壊したこともないし、朝明は……相変わらずだ。よほど痴情のもつれにでも巻き込まれない限り死にはしないだろう」

「そういう前振りが余計に怖いんですって!」

「―――左様、これから年の|瀬にむけて冷え込みますゆえ……調子が良いなど大層なことをおっしゃっておられるとあとが怖いですよ、短命二才タンメイニサイ様?」

 九町ほど歩いた、寺の門前に続く橋の前、唐突に背後から投げかけられた言葉に、聡伴は顔をしかめて勢いよく首をうしろに回した。

 ―――、この渾名あだなで己煥を呼ぶ者で碌な奴はいない。

「どこの者だ?」

 うっとおしく思った己煥は、ゆっくりと声のほうへ体を向きなおす。すると、己煥らよりも五、六は歳が上のようにみえる、赤帕あかはちまちを巻いて煙管キセルを吹かしている男と、その脇に付き人らしき振袖の若衆がおり、こちらへ近づいてくる。少し体を横に傾けると、隣の聡伴が、赤冠の青年は某氏某家の子息・茂部之子モブノシーだと耳打ちしてくれた。その家名は三十六姓のうちのひとつで、己煥にも聞き覚えがある―――同籍の士だ。

 王府に仕える士族は、その出自と住まいから籍を四つに分けられている。

 朝明のような王族に縁ある家柄の者が住まうが城下、そこを下った先一帯に広がる四町には聡伴のような中級の士、さらに北側の港町には下級の士、そして四町と北の港のあいだが、己煥らが籍を置いている唐栄の村である。

「貴方より名声は劣りますが、この私も唐栄の出であり進貢使節の一員だったというのに寂しいことをおっしゃいますなぁ」

 吐き出された煙草の煙が、この男の周りを取り囲むように漂っている。

 己煥は深く息を吸い込ぬよう着物の袖で口元を抑えていたが、次第にあたりの空気も燻されたように乾き、咳き込みそうになる。

「なぁにが使ですか。あなたが心汚く縁を頼って船に乗り込んだことくらい周知の事実ですよ?用があろうがなかろうが失礼させていただきます」

 こんなやつと話す必要はありません、と聡伴は己煥をうながして右へ回ろうとした。

「なにか良い薬でもお召しになりましたか?」

「どういうことだ?」

 唐突な問いに、立ち去ろうとしていた己煥と聡伴はうっかり足を止めた。

 道行く人々がこちらの様子を窺いながら通り過ぎていく。士族の子弟らしき若者が路上で剣呑な雰囲気で言い合いをしているのだ。目立たないはずがない。茂部之子の傍で控えている若衆も困り顔で黙り込んでいる。

「いやぁ、不思議なこともあるものですなぁ。あれほど御身体が弱く上天妃の宮で教鞭を執られるのも稀といわれていた貴方が、今年は講解師に任じられたうえ冠船の諸事まで手伝っているというではないですか」

 来年は清から冊封使節が訪れるため王府のありとあらゆる役所がすでに大忙しであるが、海の向こうとの窓口になっている三十六姓の官吏はいっとう多忙を極めていた。唐栄の子弟が集まる講堂で教鞭を執っている己煥も、例外なくせわしない日々を送っている。

「そこの推参すいさんな小童は私の縁故を心汚いと宣ったが、短命二才様が口にされたのはとてつもない良薬であらせられるようだ」

 なるほど、と己煥は静かにため息をつく。結局はいつものくだらない突っかかりである。一人のときは適当に口を閉ざしてその場をやり過ごすのが常だった。煙たさが治まってきた己煥は、口元から袖を離す。 この先で待たせているであろう朝明のことを思案して腕を組み直した。

「あなたにもそのうち素晴らしい効能を持った薬が見つかりますよ、多歳赤冠出世できない年寄り殿?」

「このッ……」

 ふたりを睨みながらも、無理に口の端を釣り上げ表情を取り繕う様は、なんとも品がなくみえる。あれほど分厚くとぐろを巻いていた紫煙は、今や線香ほどのか細い煙のスジとなって漂いながら、大人しく煙管に納まろうとしていた。

 年長の者をためらいなく挑発する聡伴に感心していると、なかなかあらわれない己煥たちに待ちくたびれたのか、朝明が橋を渡りこちらへ下ってくるのがみえる。己煥と聡伴が己のうしろを見やっていることに気がついた茂部之子も、つられてうしろを向いた。

「そうだそうだ。薬なら四町の市のほうが取り揃えが良い。さっさと下って行っちまえ」

 軽快な笑みを浮かべた朝明は、手首で軽く追い払うしぐさを見せる。若年にもかかわらず己より官位が高い聡伴や朝明に逆捩じを食らわされる恰好となった茂部之子は、あからさまに唇を噛みしめ吐き捨てる言葉を探していた。側に控えていた若衆は、これ以上この主人の口を開かせまいと、彼に去り際であることを小声で訴えている。

 茂部之子が動くよりも先に、朝明は己煥の上腕を軽く掴んで橋のほうへ上がるように導く。思ったより力を入れて組んでいた袖下の両腕を解くのに手間取りながら、己煥は朝明に従った。

「……災いは平等だ」

 茂部之子は取り繕ったしたり顔で言い放つ。

「家柄の良い才府も、優秀な五主も、不幸には抗えない。五本目の指を数えるのが貴方がたのうち誰か一人でなければ幸いですな」

「あなたはご自分の心配をなさったほうがよろしいですよ!そろそろ寒さが堪える御老体であらせられますしね!では失礼!」

 聡伴は今度こそ足を止めまいと、慌てて朝明と己煥を追いかける。

 橋を下った先では、大股で容赦なくひたすら前を歩く朝明に引っ張られて、足をもつれさせた己煥が待ったをかけていた。寺の門前を過ぎたあたりには馬を待たせてくれているのだろう。ここから城下へ少し上がったところに、朝明の別邸がある。

「朝明様!」

 ふたりに追いついた聡伴は、時間を取らせてしまったことを朝明に詫びるが、馬に乗りながら垂れ流すのは先程の愚痴であった。

「なんですかあいつ!己煥様が口利きで職位をもらったかのような言い方」

「それなりの位に就けば、私でなくとも下の者からの妬みや嫉妬は誰だってかっている」

 身体が弱く、これまでたいして仕事を抱えてこなかった己の名が聞こえるのが面白くない下級官吏が多いのは致し方ないことだろうと己煥は思っている。

「それでも言わせすぎだ。少しは周りを黙らせる努力をしろ」

「なんだお前まで」

「せっかく才能と実績は折り紙付きなんですから、御身体崩されてたときのことなんて気にしなくていいんですよ」

「この調子じゃあ小賢しい出世の競り合いで潰されちまうぞ。とくにお前んところは」

 同籍同士の出世争いが著しい唐栄に生まれながらも、己煥はどうも控えめで気が柔い。己と立場が逆であったほうが過ごしやすかったのではないかとすら朝明は思ってしまう。

「己の沈黙は是の証で」

「他の妄言こそが真とされるんだぞ」

 お前の将来に係ることなんだから、と朝明は念を押す。

  官吏という職は、謹厳実直に仕事をこなすだけでは立身の道は拓けないし、従順で馬鹿正直では勤めをまっとうすることはかなわない。頭だけではなく、気と口もよく回さなければ生き残れないのだ。己煥とてそれがわからないわけではないのだが。

 強く言い聞かせてくるふたりに気圧された己煥は、結局のところ、朝明しかわからない程度に頬を膨らませてふたりから目を逸らし、相変わらず黙っておくことしかできなかった。

 

「ところで朝明様、あの噂は……」

「いいか聡伴、進貢船の員数は二百余名だ。それが全員死んだらがんは出ずっぱりだぜ?」

 荼毘だびのさいに遺体を納めて運ぶ龕は、各村にひとつずつしかない大切な共有物だ。月に何度も葬式を出されてはたまったものではない。

「そりゃあ、まぁそうですけど……あ、お刺身美味しかったです」

 すっかり陽が落ちたころに到着した朝明の別邸で、ふたりに散々窘められ、供される料理に鼓を打っていても、聡伴はどうにも噂が気にかかって仕方がない。腹に流し込んだ汁物の温かさが、少しだけ気を軽くさせた。

「船旅は死に近い。船をおりてもそれの気配はなかなか離れぬだろう」

 そして、その心懸かりは吐き出されるにつれて尾ひれをまとい、村を流れ、町へ飛び、やがて大きな噂となる。

 屋敷の使用人に獲らせてきたのだという玄翁げんのうに、 己煥もありがたく一切れ、箸をつけた。 血色の良い白身は厚めに切りおろされ、ほんの少し加えた酢が身そのものの淡い味を引き立てている。

  見目のためにうっすらと残された皮がおびる青い濃淡は、薄明りのなかで鈍く光り、とても美しかった。
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