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4.仮面の男
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「……はあ、それで、国軍のフォン・ゾンマー中佐から依頼されて、その〈契約の石〉とやらを取り戻しに来たと」
「そのとおりです。女王陛下にはたいへんご迷惑をおかけして申し訳のしようもない……おい、ミラン、何をしてるんだ」
「えっ? ついでだからこの鳥頭野郎、二、三発殴っとこうと思って」
「起きられると面倒だ、デコにロリコン大佐って書くぐらいに留めておけ」
「あら、やっぱりシュナーベル親衛隊大佐はロリコンさんなんですか」
「いや、僕に聞かれても……まあ、そうでなきゃあ自分の娘くらいの年の子供に求婚はせんだろうしなあ」
執務室の中では、〈ちとせ〉を結節点として会話が錯綜している。主要な会話は〈ちとせ〉によるフィーネ女王への状況説明であるのだが、その横で執務机の足に気絶したシュナーベルを縛り付けつつ額に落書きをするミランがいるのでどうにも話が逸れていきがちなのだ。
「ミラン、落書きが終わったら〈石〉……きみの振り子を探してくれよ。落書きじゃあなく、あれが目的なんだ」
〈ちとせ〉は話しながらも執務机の引き出しをひっくり返し、中に入っていた書類だのインク壺だのをばらまき続けている。〈契約の石〉を探しているのだ。シュナーベルをいたぶるのに夢中になっていたミランは、そう言われて初めて〈ちとせ〉が〈石〉を探していることに気づいたらしい。その顔に、キョトンとした表情が浮かんだ。
「俺の振り子なら、その後ろ、ちょび髭の肖像画を除けたら小さい金庫があるだろ。その中だよ」
訝しげな表情を浮かべていた〈ちとせ〉の表情が驚きへと変化するまでは、そう時間はかからなかった。ミランの言ったとおりの場所にはたしかに金庫があり、鍵を破ると幾つかの古文書とともに〈契約の石〉がしまい込まれていたのだった。
「まあ、まあ、こんなところに金庫があったなんて、わたくし知りませんでしたわ。一体どうしてわかったんです?」
驚いたのは〈ちとせ〉だけではなく、フィーネも同じであるようだった。なにしろ、部屋にターザンまがいの方法で突入してからこちら、ミランはその肖像画を触ってもいない。もちろん王宮の執務室になど入ったことのあるわけもないミランが、そこに金庫があることを知るよしなどありそうにもないのだ。
「はい、ええと、女王陛下。あの……俺は占い師の家系で、その振り子はうちで代々占いに使ってきたものなので、多少離れてもちょっとぐらいなら場所がわかるんです」
「占い師ってすごいんですねえ、先生たちは占いの本なんてくだらないと言うのですが、あなたのことを言ったらきっと見直してくれますよ」
「えへへ、ありがとうございます。でもすごいのは俺じゃなくて振り子の方で、あんまり自分の力を過信しちゃ駄目だって言われてて──」
子供たちは、同じ年頃ということもあってかすぐに打ち解け、話に花を咲かせはじめている。けれど、その内容はにわかには信じがたいものだ。──いや、信じない訳にはいかないことは、実のところ〈ちとせ〉も認めざるを得ない。何しろ、〈石〉を奪還する算段を立て始めたとき、迷うことなく〈石〉が王宮にあるといい、いざ王宮にまで連れてきたところ、この執務室に置かれていると迷いなく言い当てたのだ。
「〈契約の石〉。眉唾ものだと思っていたが、この調子じゃあ存外に、洒落にならんのじゃあないか?」
金庫にしまい込まれていた古文書を眺めながら、〈ちとせ〉はつぶやいた。〈契約の石〉は太古の昔に神とひとつの種族とが契約を結んだ証であり、正しい血筋の持ち主であれば契約に基づいて神の力を履行できる。その古文書を読み解いて、シュナーベルが達したのがそのような結論であったことを〈ちとせ〉は思い出していた。
ミランとフィーネの話し声を背に、〈ちとせ〉が〈石〉と一緒に古文書や、めぼしい研究資料類をバックパックに詰め込んでいるときのことだった。
「すみません、シュナーベル親衛隊大佐!」
慌ただしいノックの音とともに、親衛隊員の声が執務室に響き渡った。少女たちの声がやみ、室内の空気は一気に張り詰める。
「──なんです、いま親衛隊大佐は、女王たるわたくしと話をしているのですよ」
答えを返したのは、フィーネだった。分厚い扉の向こう低い声がかわされたのは、どうしたものかを話し合ったものだろう。つまり、ドアの外にいる親衛隊員は複数人。まともに鉢合わせるのは得策ではない。すぐさま〈ちとせ〉はバックパックを背負い、ミランとともに窓辺に駆け寄った。フィーネにはすでに、侵入者に脅されたと言うようつたえてある。いま〈ちとせ〉たちが逃げても問題はないはずだった。
だが、〈ちとせ〉がロープを再び掴もうとしたときのことだ。
「はい、フィーネ女王陛下には大変失礼をいたします。ただ、屋上にて何者かが侵入した形跡を発見いたしまして、緊急事態につき、ぜひともシュナーベル親衛隊大佐にご報告の必要があるのです」
扉の向こうから新たな声がかかり、〈ちとせ〉とミランは窓の前で顔を見合わせた。
「まあ、それは大変。親衛隊大佐、どうぞおいでになってください。あら、だけれどあのマスクを付けなければならないんですよね、ええと、何処においたのかしら」
ふたたび、フィーネが応答する。応答しながら、幼い女王はシュナーベルのマントと、シュナーベルの顔に落書き擦るために床に投げ捨てられたペストマスクを指さした。その意図するところは、明らかだった。
一分ほどの後、執務室の扉が開いた。
「侵入者だと? 一体何者が侵入したというのだ」
ペストマスクごしの、くぐもった声が廊下に響く。待機していた親衛隊員たちは一斉に右手を伸ばし、かかとを打ち鳴らした。ペストマスクにマント姿の、彼らの上官が現れたのだ。
「は、まだ侵入者は見つかっていないのです」
「侵入の目的も不明、ですが残されていたロープからして、執務室の真上に侵入した可能性が高いと──」
そりゃあ、見つかるわけがない。口々に伝えられる報告を聞きながら、ハーブ臭い仮面の内側で〈ちとせ〉は小さく呟いた。何しろ、侵入者は今、ここに居るのだ。
「ならば、すぐに城内に警戒態勢を取らせろ。紛れられると厄介だ、極力非戦闘員は室内に留まり、何かがあったらすぐに内線で報告をするよう通達を出せ」
数人の隊員が、すぐさま命令を伝達すべく駆けていった。ぶっつけ本番での演技だが、一年ほど部下をやっていただけあってなかなか上手く口調を真似ることはできている。声も、仮面越しとあって多少音程を寄せるだけでそれなりに似てくれるものだ。と、思わず〈ちとせ〉が内心自画自賛をしたのが悪かったのかもしれない。
「親衛隊大佐どの、着替えでもなさったのですか」
とっさに着用した乗馬ズボンの裾が、革の長靴にしっかりと収まりきっていなかったのを見咎めるものが現れた。元々、シュナーベルが制服を厳格すぎるほどにきっちりと着用するタイプであったので余計に目立ったものだろう。どう答えるのが最も怪しまれないか、一瞬の間に〈ちとせ〉の脳内は高速で回転した。
「──野暮なことを聞くものじゃあない、ホップ中尉。私は、未来の妻と二人きりになっていたのだよ。することなど決まっているだろう」
「へ、はっ!? いえ、これは……失礼いたしました。えっ妻って、えぇ……?」
問いかけた中尉だけでなく、その場に居た他の隊員らの間にも動揺が広がり、執務室の戸を開こうとして咎められるものまで現れた。いま、背中に受ける視線がひどく痛いが、それは自分ではなくシュナーベルに向けたものなのだ、何も問題はない。〈ちとせ〉はそう考えて、自分に向けられる氷のような視線をやり過ごすことに努めた。
シュナーベルのふりをしたまま、〈ちとせ〉は侵入者捜索の陣頭指揮を取り、親衛隊員を自ら配置し、侵入経路の推測までやってのけた。元々がシュナーベルの側近であり、その部下や部隊の構成についても把握していたぶん、このあたりは得意なものだ。
「……親衛隊大佐どの、この配置だと地下ががら空きになっておりますが……」
城の配置図を囲む緊急警戒の指揮チームのひとりが、おずおずと手を上げた。そう、〈ちとせ〉の指示通りに人を配置すると、下水道へと続く地下室ががら空きになるのだ。
「分かっている。そうしておけば、侵入者は地下室に行くほかなくなるだろう。ならば、あとは王宮より出る下水道を押さえればいいだろう」
「ああ、そうか。すみません、思い至らず」
「構わんよ。では、次は下水道の警戒についてだ。これは現地に向かったほうが良いな、だれか車を用意して──」
あまりにも順調に事は進んでいた。そのままの調子で手っ取り早い脱出を図るべく、〈ちとせ〉が車の手配を命じようとした、その時のことだ。
ノックの音が、臨時指揮室に響き渡った。
「すみません、ちょっと」
と、顔を出した隊員は、ちらりとペストマスクにマント姿の〈ちとせ〉を見やったあと、近くに居た他の隊員を呼び寄せて、廊下へと連れ出すと何やら話し込みはじめた。そのうちに、話に参加した他の隊員もまた廊下から部屋を覗き込み、また引っ込み、を繰り返しはじめた。
これは、まずい流れだ。というか、バレた。
事態を理解した〈ちとせ〉は、無言のままに部屋の窓へと近づき、窓枠へと飛び乗った。
「──取り押さえろ! そいつが侵入者、ハルト・シュラーだ!」
叫び声が廊下から〈ちとせ〉の背を追ったが、もう遅い。すでに〈ちとせ〉は窓枠を蹴り、窓の外すぐに生える糸杉の枝をへし折りながら、地上へと落下し始めているところだった。臨時指揮室の場所を指定したのも〈ちとせ〉だ。はじめから、その場ですぐに逃げ出す事を考えた配置にしていたのだ。無論、入り組んだ中世の城塞の中をくまなく捜索にあたっている隊員たちが、すぐに逃亡者の追跡に当たれないことも織り込み済みだ。
「馬鹿な! 貴様らの目は節穴か!? 逃げ回っていたのならばともかく目の前に居て、なぜ気づかなかった!!」
短期間に複数の命令が行き交って混乱の広がる城の中、執務室には怒号が響き渡っていた。無論、怒鳴っているのはいましがた発見され、拘束を解かれたばかりのシュナーベルだ。その前でホップ中尉が顔を伏せたまま怒鳴られるに任せているのは、合わせる顔がないというより、上官の顔に書かれた『ロリコン大佐』との文字がまだ落ちていないことによるものだろう。
「いや、私の存在に気づかないのは百歩譲って許すとしよう、女王の姿が見えないことに誰一人気づかなかったなど有り得んだろう!」
「んっ、いや、それは……はい、申し訳ございません」
〈ちとせ〉の出任せの内容を口にして火に油を注ぐ気にはなれないらしく、ホップ中尉は黙って頭を下げ続けている。だが、彼の忍耐のときもそう長い時間ではなかった。アルコールを染み込ませた布で執拗に顔を拭い続けて、落書きが落ちきるとともにシュナーベルの怒りも下火になってきたと見える。
「……ハルト・シュラーめ、おそらくは国内の抵抗組織にでも拾われて女王を誘拐に来たのだろう。だが、詰めが甘いな。地下に人を配置していなかったと言ったな、──」
シュナーベルの言葉が一旦途切れた。一度に怒鳴りすぎたためか、咳き込んで言葉を続けられなくなったのだ。
「──ならば、女王をつれた共犯者が地下経由で脱出を図ったに違いない。すぐに市内の下水道を捜索にあたらせろ」
一通り咳き込み終わった後、続けて命令を下した声は、革の仮面ごしのくぐもったものであった。シュナーベルは、あの不気味な仮面を再び着用し、立ち上がったのだ。ホップ中尉はようやく顔を上げ、かかとを打ち鳴らして直立不動の姿勢をとってみせた。その表情は、上官をようやくまともな目で見ることの出来る開放感に満ちている。
「は、了解いたしました。ただ、下水道の捜索に充てるには少々人員が足りませんが、国防軍にも協力を仰ぎますか」
「要らぬ貸しは作りたくないところだな。ハルト・シュラーを追う人員を回せ」
「よろしいので? 取り逃がせば何をしでかすか」
「構わん、私の足元どころか眼の前で女王をみすみす奪われるほうがよほどの名折れだ。それに……」
と、鳥頭のマスクが窓際の小さなテーブルへと向いた。小さなテーブルは、〈ちとせ〉たちがシュナーベルの後頭部を蹴り飛ばして室内に突入するとともに、満載していた菓子類をぶちまけて倒れたままになっている。
「それに、ヨゼフィーネ・フォン・フェーンブルクは、私の妻にふさわしい存在だからな」
どこか遠い場所へと語りかけるような口調で、シュナーベルがつぶやいた。ホップ中尉が、笑いと驚愕と嫌悪とその他諸々の思いを一緒くたにして、それを無理に押さえつけようとしたかのような甲高い奇声を発したのはその直後のことだった。
「そのとおりです。女王陛下にはたいへんご迷惑をおかけして申し訳のしようもない……おい、ミラン、何をしてるんだ」
「えっ? ついでだからこの鳥頭野郎、二、三発殴っとこうと思って」
「起きられると面倒だ、デコにロリコン大佐って書くぐらいに留めておけ」
「あら、やっぱりシュナーベル親衛隊大佐はロリコンさんなんですか」
「いや、僕に聞かれても……まあ、そうでなきゃあ自分の娘くらいの年の子供に求婚はせんだろうしなあ」
執務室の中では、〈ちとせ〉を結節点として会話が錯綜している。主要な会話は〈ちとせ〉によるフィーネ女王への状況説明であるのだが、その横で執務机の足に気絶したシュナーベルを縛り付けつつ額に落書きをするミランがいるのでどうにも話が逸れていきがちなのだ。
「ミラン、落書きが終わったら〈石〉……きみの振り子を探してくれよ。落書きじゃあなく、あれが目的なんだ」
〈ちとせ〉は話しながらも執務机の引き出しをひっくり返し、中に入っていた書類だのインク壺だのをばらまき続けている。〈契約の石〉を探しているのだ。シュナーベルをいたぶるのに夢中になっていたミランは、そう言われて初めて〈ちとせ〉が〈石〉を探していることに気づいたらしい。その顔に、キョトンとした表情が浮かんだ。
「俺の振り子なら、その後ろ、ちょび髭の肖像画を除けたら小さい金庫があるだろ。その中だよ」
訝しげな表情を浮かべていた〈ちとせ〉の表情が驚きへと変化するまでは、そう時間はかからなかった。ミランの言ったとおりの場所にはたしかに金庫があり、鍵を破ると幾つかの古文書とともに〈契約の石〉がしまい込まれていたのだった。
「まあ、まあ、こんなところに金庫があったなんて、わたくし知りませんでしたわ。一体どうしてわかったんです?」
驚いたのは〈ちとせ〉だけではなく、フィーネも同じであるようだった。なにしろ、部屋にターザンまがいの方法で突入してからこちら、ミランはその肖像画を触ってもいない。もちろん王宮の執務室になど入ったことのあるわけもないミランが、そこに金庫があることを知るよしなどありそうにもないのだ。
「はい、ええと、女王陛下。あの……俺は占い師の家系で、その振り子はうちで代々占いに使ってきたものなので、多少離れてもちょっとぐらいなら場所がわかるんです」
「占い師ってすごいんですねえ、先生たちは占いの本なんてくだらないと言うのですが、あなたのことを言ったらきっと見直してくれますよ」
「えへへ、ありがとうございます。でもすごいのは俺じゃなくて振り子の方で、あんまり自分の力を過信しちゃ駄目だって言われてて──」
子供たちは、同じ年頃ということもあってかすぐに打ち解け、話に花を咲かせはじめている。けれど、その内容はにわかには信じがたいものだ。──いや、信じない訳にはいかないことは、実のところ〈ちとせ〉も認めざるを得ない。何しろ、〈石〉を奪還する算段を立て始めたとき、迷うことなく〈石〉が王宮にあるといい、いざ王宮にまで連れてきたところ、この執務室に置かれていると迷いなく言い当てたのだ。
「〈契約の石〉。眉唾ものだと思っていたが、この調子じゃあ存外に、洒落にならんのじゃあないか?」
金庫にしまい込まれていた古文書を眺めながら、〈ちとせ〉はつぶやいた。〈契約の石〉は太古の昔に神とひとつの種族とが契約を結んだ証であり、正しい血筋の持ち主であれば契約に基づいて神の力を履行できる。その古文書を読み解いて、シュナーベルが達したのがそのような結論であったことを〈ちとせ〉は思い出していた。
ミランとフィーネの話し声を背に、〈ちとせ〉が〈石〉と一緒に古文書や、めぼしい研究資料類をバックパックに詰め込んでいるときのことだった。
「すみません、シュナーベル親衛隊大佐!」
慌ただしいノックの音とともに、親衛隊員の声が執務室に響き渡った。少女たちの声がやみ、室内の空気は一気に張り詰める。
「──なんです、いま親衛隊大佐は、女王たるわたくしと話をしているのですよ」
答えを返したのは、フィーネだった。分厚い扉の向こう低い声がかわされたのは、どうしたものかを話し合ったものだろう。つまり、ドアの外にいる親衛隊員は複数人。まともに鉢合わせるのは得策ではない。すぐさま〈ちとせ〉はバックパックを背負い、ミランとともに窓辺に駆け寄った。フィーネにはすでに、侵入者に脅されたと言うようつたえてある。いま〈ちとせ〉たちが逃げても問題はないはずだった。
だが、〈ちとせ〉がロープを再び掴もうとしたときのことだ。
「はい、フィーネ女王陛下には大変失礼をいたします。ただ、屋上にて何者かが侵入した形跡を発見いたしまして、緊急事態につき、ぜひともシュナーベル親衛隊大佐にご報告の必要があるのです」
扉の向こうから新たな声がかかり、〈ちとせ〉とミランは窓の前で顔を見合わせた。
「まあ、それは大変。親衛隊大佐、どうぞおいでになってください。あら、だけれどあのマスクを付けなければならないんですよね、ええと、何処においたのかしら」
ふたたび、フィーネが応答する。応答しながら、幼い女王はシュナーベルのマントと、シュナーベルの顔に落書き擦るために床に投げ捨てられたペストマスクを指さした。その意図するところは、明らかだった。
一分ほどの後、執務室の扉が開いた。
「侵入者だと? 一体何者が侵入したというのだ」
ペストマスクごしの、くぐもった声が廊下に響く。待機していた親衛隊員たちは一斉に右手を伸ばし、かかとを打ち鳴らした。ペストマスクにマント姿の、彼らの上官が現れたのだ。
「は、まだ侵入者は見つかっていないのです」
「侵入の目的も不明、ですが残されていたロープからして、執務室の真上に侵入した可能性が高いと──」
そりゃあ、見つかるわけがない。口々に伝えられる報告を聞きながら、ハーブ臭い仮面の内側で〈ちとせ〉は小さく呟いた。何しろ、侵入者は今、ここに居るのだ。
「ならば、すぐに城内に警戒態勢を取らせろ。紛れられると厄介だ、極力非戦闘員は室内に留まり、何かがあったらすぐに内線で報告をするよう通達を出せ」
数人の隊員が、すぐさま命令を伝達すべく駆けていった。ぶっつけ本番での演技だが、一年ほど部下をやっていただけあってなかなか上手く口調を真似ることはできている。声も、仮面越しとあって多少音程を寄せるだけでそれなりに似てくれるものだ。と、思わず〈ちとせ〉が内心自画自賛をしたのが悪かったのかもしれない。
「親衛隊大佐どの、着替えでもなさったのですか」
とっさに着用した乗馬ズボンの裾が、革の長靴にしっかりと収まりきっていなかったのを見咎めるものが現れた。元々、シュナーベルが制服を厳格すぎるほどにきっちりと着用するタイプであったので余計に目立ったものだろう。どう答えるのが最も怪しまれないか、一瞬の間に〈ちとせ〉の脳内は高速で回転した。
「──野暮なことを聞くものじゃあない、ホップ中尉。私は、未来の妻と二人きりになっていたのだよ。することなど決まっているだろう」
「へ、はっ!? いえ、これは……失礼いたしました。えっ妻って、えぇ……?」
問いかけた中尉だけでなく、その場に居た他の隊員らの間にも動揺が広がり、執務室の戸を開こうとして咎められるものまで現れた。いま、背中に受ける視線がひどく痛いが、それは自分ではなくシュナーベルに向けたものなのだ、何も問題はない。〈ちとせ〉はそう考えて、自分に向けられる氷のような視線をやり過ごすことに努めた。
シュナーベルのふりをしたまま、〈ちとせ〉は侵入者捜索の陣頭指揮を取り、親衛隊員を自ら配置し、侵入経路の推測までやってのけた。元々がシュナーベルの側近であり、その部下や部隊の構成についても把握していたぶん、このあたりは得意なものだ。
「……親衛隊大佐どの、この配置だと地下ががら空きになっておりますが……」
城の配置図を囲む緊急警戒の指揮チームのひとりが、おずおずと手を上げた。そう、〈ちとせ〉の指示通りに人を配置すると、下水道へと続く地下室ががら空きになるのだ。
「分かっている。そうしておけば、侵入者は地下室に行くほかなくなるだろう。ならば、あとは王宮より出る下水道を押さえればいいだろう」
「ああ、そうか。すみません、思い至らず」
「構わんよ。では、次は下水道の警戒についてだ。これは現地に向かったほうが良いな、だれか車を用意して──」
あまりにも順調に事は進んでいた。そのままの調子で手っ取り早い脱出を図るべく、〈ちとせ〉が車の手配を命じようとした、その時のことだ。
ノックの音が、臨時指揮室に響き渡った。
「すみません、ちょっと」
と、顔を出した隊員は、ちらりとペストマスクにマント姿の〈ちとせ〉を見やったあと、近くに居た他の隊員を呼び寄せて、廊下へと連れ出すと何やら話し込みはじめた。そのうちに、話に参加した他の隊員もまた廊下から部屋を覗き込み、また引っ込み、を繰り返しはじめた。
これは、まずい流れだ。というか、バレた。
事態を理解した〈ちとせ〉は、無言のままに部屋の窓へと近づき、窓枠へと飛び乗った。
「──取り押さえろ! そいつが侵入者、ハルト・シュラーだ!」
叫び声が廊下から〈ちとせ〉の背を追ったが、もう遅い。すでに〈ちとせ〉は窓枠を蹴り、窓の外すぐに生える糸杉の枝をへし折りながら、地上へと落下し始めているところだった。臨時指揮室の場所を指定したのも〈ちとせ〉だ。はじめから、その場ですぐに逃げ出す事を考えた配置にしていたのだ。無論、入り組んだ中世の城塞の中をくまなく捜索にあたっている隊員たちが、すぐに逃亡者の追跡に当たれないことも織り込み済みだ。
「馬鹿な! 貴様らの目は節穴か!? 逃げ回っていたのならばともかく目の前に居て、なぜ気づかなかった!!」
短期間に複数の命令が行き交って混乱の広がる城の中、執務室には怒号が響き渡っていた。無論、怒鳴っているのはいましがた発見され、拘束を解かれたばかりのシュナーベルだ。その前でホップ中尉が顔を伏せたまま怒鳴られるに任せているのは、合わせる顔がないというより、上官の顔に書かれた『ロリコン大佐』との文字がまだ落ちていないことによるものだろう。
「いや、私の存在に気づかないのは百歩譲って許すとしよう、女王の姿が見えないことに誰一人気づかなかったなど有り得んだろう!」
「んっ、いや、それは……はい、申し訳ございません」
〈ちとせ〉の出任せの内容を口にして火に油を注ぐ気にはなれないらしく、ホップ中尉は黙って頭を下げ続けている。だが、彼の忍耐のときもそう長い時間ではなかった。アルコールを染み込ませた布で執拗に顔を拭い続けて、落書きが落ちきるとともにシュナーベルの怒りも下火になってきたと見える。
「……ハルト・シュラーめ、おそらくは国内の抵抗組織にでも拾われて女王を誘拐に来たのだろう。だが、詰めが甘いな。地下に人を配置していなかったと言ったな、──」
シュナーベルの言葉が一旦途切れた。一度に怒鳴りすぎたためか、咳き込んで言葉を続けられなくなったのだ。
「──ならば、女王をつれた共犯者が地下経由で脱出を図ったに違いない。すぐに市内の下水道を捜索にあたらせろ」
一通り咳き込み終わった後、続けて命令を下した声は、革の仮面ごしのくぐもったものであった。シュナーベルは、あの不気味な仮面を再び着用し、立ち上がったのだ。ホップ中尉はようやく顔を上げ、かかとを打ち鳴らして直立不動の姿勢をとってみせた。その表情は、上官をようやくまともな目で見ることの出来る開放感に満ちている。
「は、了解いたしました。ただ、下水道の捜索に充てるには少々人員が足りませんが、国防軍にも協力を仰ぎますか」
「要らぬ貸しは作りたくないところだな。ハルト・シュラーを追う人員を回せ」
「よろしいので? 取り逃がせば何をしでかすか」
「構わん、私の足元どころか眼の前で女王をみすみす奪われるほうがよほどの名折れだ。それに……」
と、鳥頭のマスクが窓際の小さなテーブルへと向いた。小さなテーブルは、〈ちとせ〉たちがシュナーベルの後頭部を蹴り飛ばして室内に突入するとともに、満載していた菓子類をぶちまけて倒れたままになっている。
「それに、ヨゼフィーネ・フォン・フェーンブルクは、私の妻にふさわしい存在だからな」
どこか遠い場所へと語りかけるような口調で、シュナーベルがつぶやいた。ホップ中尉が、笑いと驚愕と嫌悪とその他諸々の思いを一緒くたにして、それを無理に押さえつけようとしたかのような甲高い奇声を発したのはその直後のことだった。
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