ルントラント物語

No.37304

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3.幼い女王

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 ルントラント王国。オーストリアとイタリアとスイスの狭間に位置する、小国である。いや、鉤十字をかかげたドイツがついに戦争の火蓋を落とした今となっては、小国であった、というのが正しいところであろう。古来、人の住む地ではあったものの特に資源や戦略的価値のある場所ではなかったことから権力者に存在を見過ごされていた一種の「隠れ里」であり、十三世紀半ば、政争に負け現在の首都ロイテンゲンに入った元神聖ローマ帝国貴族フランツ・フォン・フェーンブルクが同地の開墾に尽力、ついに王として迎えられたことで生まれた国だと伝えられている。
 一九三九年九月、ドイツがポーランドへ侵攻、これを受けポーランドの同盟国であった英仏がドイツに対して宣戦を布告をした。第二次世界大戦のはじまりである。以降一九四五年に至るまで、ドイツは欧州じゅうを焼き尽くし、最後には自らも灰燼に帰すこととなる。
 だが、今はまだ一九四〇年の六月に入ったところだ。ドイツはまさに快進撃を続け、ベルギーを道路代わりとばかりに蹂躙し、フランスを攻め落とさんとしているころである。オーストリアとイタリアとスイスの狭間という立地にあったルントラント王国もまた、同様の運命を辿ったことは言うまでもない。首都ロイテンゲンにはいまや、石畳の街路のあちこちに赤白黒の鉤十字が翻り、あろうことか、王宮たる古い城塞の大拱門の両脇にすらも巨大な旗印バナーが掲げられている始末だ。
 鉤十字に覆われた二つの防衛塔の合間を抜け、数台の軍用車が王城へと入っていった。先頭のトラックの助手席には、見覚えのある姿がある。猛禽にも似た仮面の親衛隊大佐、シュナーベルだ。
 重ね稲妻の親衛隊徽章が描きぬかれた車列の帰還は、城内にすぐ知れ渡った。往時であれば城の本来の主やその係累の帰還を知らせる喇叭が響き渡っていたであろう中世の石城には、いまやエンジンの音が嫌というほど響き渡っていたためだ。城を我が物顔で闊歩するドイツ兵や親衛隊員らは例の右手を掲げる敬礼でシュナーベルを迎えてみせたが、無論、城内のすべてが同様の行動をとったわけではない。
「陛下、陛下! 居室へお戻りください!」
 城塞を見下ろす塔の螺旋階段を、声を上げながら駆け上る侍女がいた。向かう先は塔の屋上だ。
 中世に建造された王宮は、元来は外敵から身を護るための要塞として作られたものとあってどこも無骨な作りとなっている。塔の最上部にもうけられた胸壁は、装飾のためではなく実際に戦に投入されることを前提に作られたものだけあって、凸部分は大人の背丈ほどもあり、凹部分はごく狭い。
 侍女が階段を登りきったとき、せまい狭間からは細い煙が見えていた。胸壁の手前に立つ小さな背中は、狭間に身を乗り出してその光景を食い入る様に見つめている。
「フィーネさま、どうぞ居室の寝台へお戻りください、あの男が帰ってまいりました。恐らく、今日も陛下を脅そうとしてくるはずです。いましばらく、大臣や将軍がたが対策を練ることができるまで、陛下はご病気ということにしなければならないのです」
 遠く西方の森より昇る煙を眺めていた少女、ヨゼフィーネ・フォン・フェーンブルクはゆっくりと振り向いた。赤みがかった金髪に縁取られた可愛らしい顔にはしかし、子供らしからぬ険しい表情が浮かんでいる。
「そのように言って、はや一ヶ月ほどが過ぎています。その間にも、わが国の民には幸運ならざる出来事が降り掛かりつづけているではありませんか」
「なにぶん相手はあのドイツ国、それもナチなどという野蛮人共に率いられたものでございますから、なかなかに我が国のような小国では有効な手立てがなく……」
「有効な手立てとは、無いのではありませんか。ラジオで、先日ベルギーが占領されたと聞きました。わずか数日でのことだったとも。いまは、あのフランスへ攻めかかっているそうですね。それほど強大な国を相手に、わがルントラントほどの小国が交渉をする余地など存在しているのですか」
 侍女は口をつぐんだ。彼女の仕える幼い女王が聡明なことは分かっていたが、限られた情報でこれほど的確に現状を把握しているとは思っていなかったのだ。
「──おっしゃる通りです。ですが、このような場合においては、交渉を延期し続けるのもひとつの交渉手段とご承知ください、その間に戦局が変わればまた手立ても──」
「ふむ。そういうことだったか」
 と、フィーネの説得を試みる侍女の声に、くぐもった声が被さった。
「いや、女王陛下のご容態が悪くないのならば何よりだ。なにしろフィーネさまは、我がドイツ国の子供であればドイツ女子連盟BDMで健やかに活動していてしかるべき年頃、それがひと月近く臥せり続けていては心配になるというもの」
 想像に違わず、軍靴の音をことさらに響かせながら螺旋階段の暗がりより現れたのは、猛禽を思わせる異形の仮面姿であった。くぐもった笑い声が小さく響いたのは、とっさに侍女がフィーネの前に立ちふさがったその姿に思わず笑いを漏らしたものであるらしい。
「素顔を見せぬまま、女王陛下に謁見をするなど非礼にもほどがあります」
 シュナーベルと対峙しようとするフィーネと、回り込んでフィーネに近付こうとしようとするシュナーベルの双方を引き離そうとしながら、侍女は声を上げた。りんと声を張って言い放っていたならばこの上なく凛々しいシーンであっただろう。けれど、残念ながら、その語尾は彼女の全身と同じく震えていた。
 しかし、勇気を振り絞って告げた言葉は、仮面姿の親衛隊大佐にはそれなりの効果があったらしい。
「これはまた、怯えられたものだな。安心したまえ、仮面の下に化物が隠れてなどはいないよ」
 シュナーベルは制帽を脇に抱え、頭の後ろへと両手をやった。小さな金属音とともに、不気味な仮面が顔の位置からずれ、外れて落ちる。
ルントラントの支配者たるフェーンブルク家のヨゼフィーネ女王ヨゼフィーネ・ケーニギン・フォン・フェーンブルク・ウント・ツー・ルントラント、貴国の今後について話し合うべく、ぜひとも謁見の場をいただければ恐悦至極」
 わざとらしく跪き、仰々しい言い回しでシュナーベルはフィーネ女王に語りかけた。その顔は、鳥ににた仮面にも覆われておらず、無論当人が言ったとおり化物の顔などでもない、ごく普通の人間の顔だ。いや、仮面の革ベルトに押されてやや乱れた金髪のかかった白皙の顔は、よく通った鼻筋や青く涼し気な目元、薄い唇、細く流線的な顎、どれをとってみても「整った」という形容が成されてしかるべきものだった。美貌、とすら言えるほどだろう。
 だと言うのに、薄い唇に微笑みを浮かべたシュナーベルの顔は、不気味な仮面に覆われているときよりもどこか禍々しく、恐怖を感じるものだった。その正面に立っていた侍女が、彼女の仕える幼い女王を思わず抱きしめたのは、主君を守るためと言うよりも当人の恐怖に突き動かされたための行動であったやもしれない。
「無論、公的なものではなくただのお話です、紅茶やお菓子も用意しましょう」
 黒衣の男は、侍女の存在を完全に無視して少女の前に膝をつき、手を差し伸べた。笑顔を浮かべ、口調も穏やかであるのに、その姿は総体としてやはりどこか空恐ろしい。
 差し出された手を前に、フィーネは無論、怯えを隠せてはいない。だが、やがて何かを決意したように侍女の手をそっと押しのけ、前へと進み出た。
「陛下、駄目です」
 侍女が慌てて止めようとするが、もう遅い。少女の手はすでに手術用手袋に覆われたシュナーベルの手に重なり、引き寄せられていた。
「なかなか、女王陛下は他の大臣や将軍がたと違って話のわかるお方だ」
 シュナーベルは再び仮面を着用するとフィーネを抱き上げ、侍女の声を振り切って螺旋階段を降り、執務室へと向かった。執務室の壁には、歴代の王たちの古い肖像画と並んでヒトラーの肖像画と、ハーケンクロイツの旗が掛けられている。本来は王が執務を行うための部屋もいまやドイツ人たちに接収され、彼らの仕事場になっているのだった。
 ハーケンクロイツが存在を主張する部屋の中、ロイテンゲンの街を見下ろす窓際で、山盛りの菓子と紅茶のポットの置かれたテーブルを間に挟み、征服者と被占領国の小さな女王との「お話」は始まった。意外なことに、話の口火を切ったのは少女の方だった。
「昨晩、西方の森から火の手が上がっておりました。シュナーベル親衛隊大佐、あなたが諸用で城を開けているときのことです。あれは、我が国の国民に対して何らかの危害を成すものではありませんでしたか」
 フィーネが言う火の手とは、まさにシュナーベルが命じてツィゴイネルたちの集落を焼き払わせた時のものだ。シュナーベルの目が、仮面の奥で2つほど瞬いた。
「さすがに、女王陛下はよく国民のことを案じておられる。ですが、ご安心ください。あそこにいたのは、出頭命令に従わず隠れ住んでいたツィゴイネルたち、ジプシーたちです。その家屋が大変不衛生な状況になっていたため疫病が流行る前に焼き払わせた、それだけのことです」
 ルントラントに駐留する親衛隊は、ほかの被占領国で行われているものと同様の民族政策を行おうと画策している。つまりは、ロマ、ユダヤ人、その他劣等民族とみなされたものは抹殺の対象とし、残る住民のうち民族ドイツ人と見られるものを積極的に支配層に登用していく、というものだ。元々、ルントラントは民族的にはドイツ系であるために主要な国民は難を逃れているが、そうでないものがこれからたどるであろう運命については、昨晩行われた蛮行がすべてを物語っているだろう。
「そこに住んでいた者たちはどうしたのです」
「専用の施設に収容し、労役に就かせております」
 堂々と欺瞞を口にしたシュナーベルを前に、フィーネは眉根をひそめた。
「我が国は元来が流民の集まり、ゆえに、我が国に生まれ育ったものはみなルントラントの国民です。それを民族で選別し、労役を課しているのですか」
 シュナーベルにしてみれば、殺したものを殺していないとごまかしたつもりであったろうが、フィーネにしてみれば民族によって人を選別して施設に収容する時点で異様な扱いである。紅茶のカップを手にしたまま、少女は険しい顔でケーキスタンドの向こうにあるシュナーベルを見据えた。けれど、仮面に覆われたシュナーベルからは、いかなる動揺も伺えはしない。
「ルントラントの感覚においては異質に思えるやもしれませんが、これは、我がドイツ国における標準的な扱いなのです。そして、それは今後の世界において標準的な扱いになるということ」
 フィーネが、驚いた顔をして首を傾げた。それを、言葉の内容に興味を持ったと見たシュナーベルは身を乗り出した。
「無論、我々とて良心が傷まぬわけではありません。ですがそれは、彼らを同じ人間と見ているがゆえのこと。つまりは、古い考え方が刷り込まれているからなのです」
 フィーネがコクコクとうなずいた。わずかに見えるシュナーベルの目が細められる。自分の言葉で少女を説得し、あらたな価値観を植え付けることに成功していると思っているのは間違いない。
 けれど、フィーネの視点に立ってみれば、事態は全く違っている。というのも、シュナーベルの真後ろ、石を四角くくり抜いて作られた窓の外に、必死で口の前に指を立て、首を振り、「静かにしてくれ」とジェスチャーで伝える人間が居るのだ。執務室は、小高い丘のうえに作られた城塞の中程、地上からは数十メートルほどの位置にある。もちろん、外にいる人物もロープで外からぶら下がっている状態でのことだ。不安定な状態のなか、必死に身振りで伝えたいことを伝えようとする金髪の大男を前にしては、フィーネが驚いたのも、何度もうなずいたのも無理はあるまい。
「で、ですが──彼らは、ドイツ人ではなく、ルントラント国民です。わたしは、国民がひどい扱いを受けるのを見過ごせはしません」
 ふとシュナーベルが振り向こうとして、慌ててフィーネが言葉を継いだ。シュナーベルの後ろでは、金髪の大男──〈ちとせ〉が必死で上に向かって何かを合図している。このとき、城の屋根の上を見張っているものが居たならば、壊れたウィンチを必死で叩いたり、人力でロープを引き上げようとしたりするミラン・トリエスティの姿を見つけることができただろう。だが、屋根を見張っていた歩哨は、その横で昏倒させられている。
 シュナーベルは、まっすぐに少女を見た。
「女王陛下は実に気高く、責任感のある方だ。しかし、その姿は痛ましくもあります」
 フィーネも、眉間にシワを寄せてシュナーベルを真っ直ぐに見返す。──そうしないと、その後ろで必死にロープをよじ登る〈ちとせ〉の姿に思わず笑ってしまいそうだったのだ。
「早くにご両親をなくし、幼い身で国家元首などという重責を背負わされ、その責任に応えようとする精神は、まことに美しく、りっぱなものです。しかし、本来あなたのような年齢の少女は、友人とともに学校に通い、団体活動を通じて自らの成長に専念するものなのです。私は、フィーネさま、あなたに他の少年少女のように、正しくアーリア民族の子供として教育を受け、健やかに育っていただきたい、そう考えています」
 少女は大きく深呼吸をして、手元のカップの中身を飲み干した。〈ちとせ〉は、どうやら自力での登坂に成功したらしく、窓の外から姿を消している。同時に、カップの中身とともに、フィーネも笑いを飲み込むことに成功していた。
「ん、ええ、そう思っていただくのはありがたいことですわ。ですが、そも、私はアーリア民族ではなく、ルントラント人です。我が国では、その……民族で人を量るということは、あまりしません」
「いえ、あなたは間違いなくアーリア民族です。その青い瞳、赤を帯びた金の髪、白く透けるような肌、そして聡明な頭脳、どれを取ってみても間違いなく世界の支配民族たるアーリア民族の特徴なのです」
 シュナーベルの語る声が熱を帯び始め、フィーネが目を見開いて口元を覆った。無論、今度フィーネが示した反応もまた、窓の外に起因するものだ。
「アーリア民族とは、かつてアトランティスに住み、優れた文明を築き上げた太古の種族の末裔。ですから、我らはまず自らの血統をほかの種族からより分け、より純粋で優れたものへと変えるとともに、劣等種族を隷属させねばならないのです」
 熱っぽく語る仮面の男の後ろでは、窓枠の上から逆さ吊りになる形で浅黒い肌の少年が室内を覗き込んで、こちらもぎょっとした顔を浮かべている。無論、覗き込んでいるのはミランだ。フィーネは何度もまばたきをして窓の外へ意識を向けないようにしながら、その表情を返答を考え込んでいるがゆえのものに偽装するべくややうつむいてみせた。
「優れたなにかを持つものは、弱いものを慈しみ、すくい上げるためにその力をつかわねば、たちまち滅びることになる。それが我がフェーンブルク家に伝わる、ひいてはルントラント人が尊ぶべき精神です」
「美しい精神です、しかし、属国の王族が言ったとてなんの意味もなさない言葉だ」
 シュナーベルを見る──ふりをして、フィーネは再び視界の端で窓の外を見やった。けれど、そこにはすでにミランの姿はなかった。どうやら、今度は比較的短期間で引き上げていったらしい。
「あなたの国は弱く、自らを守る力すらも持たなかった。あなたはもはや、家訓に従うための力すら持っていない」
 意識を窓からシュナーベルとの対話へともどしたフィーネは、はっと息を呑んだ。対話の相手の声色にはいつしか、仮面の中でくぐもっていても分かるほどに、明確な侮蔑が乗せられていたのだ。
「ですが、女王陛下。もしあなたの願いを叶えたいのならばただ一つだけ、方法があるのです」
 侮蔑を顕にしながら、絶対的な強者は立ち上がって身を乗り出し、わざとらしい猫なで声を出した。すっかり冷えたカップを両手でぎゅっと握りしめたまま、フィーネは震える声を出した。
「方法、とは」
 窓の外に広がるよく晴れた青空を背に、シュナーベルの姿は逆光で黒い影となっている。黒い影の中、仮面のガラスの奥の目が、すっと細められた。
「あなたの国は、わが国に併合された暁にはひとつの行政地域、大管区となる予定です。無論そうなれば、大管区長は私だ。──と、なれば、話は簡単だ。あなたは、私の妻となれば良い」
「えっ」
 驚愕を張り付かせたフィーネ女王の頬へと、小さなテーブルに載った無数のケーキやクッキーを超えて、シュナーベルの手が伸ばされた。けれど、この場合の驚愕は、半ばほどはもちろんシュナーベルの提案に対するものであったが、残り半分はそうではない。フィーネを本当に驚かせたのは、窓の外でロープにぶら下がった〈ちとせ〉とミランが、外壁を蹴って一旦窓から離れたあと、ターザン式のやりかたでいままさに室内へと飛び込もうとしていた光景であったからだ。

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