夜に咲く花

増黒 豊

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最終章 夜に咲く花

下手くそ

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 大鳥が、敗れた。
 それ以前に木古内を放棄したのを、土方は二股口の戦場で聞いた。聞いたのは、土方と、新撰隊から引き抜いて側役にしていた市村鉄之助の二人のみ。そのことは、前項にて書いた。
 市村は、引き抜いたというより、久二郎から預けられたと言った方が正しい。

「市村を?」
 会津の戦線を放棄し、北へ向かう船の中で、はじめての洋装に包まれた久二郎から、土方にその話があった。
「構わぬが、何故」
「あれは、とても良い男になります」
「ならば、しっかりと育ててやってくれ。少し若いのが、気になるが」
「私が、あの者を死なせてしまうような気がして、怖いのです」
 冷たい潮風に吹かれる土方が、ちらりと久二郎を見た。首の向きを変えたため、オール・バックの髪が少し崩れ、それを撫で付けた。
「正直だな」
「ええ。市村は、ほんとうの戦いを知らない。その怖さも。人の命を奪うことを。自らの命を奪おうとする者を殺すということを」
 土方は、答えない。ただ、鼻をひとつ、啜った。寒いらしい。
「そして、それを、知らぬままでいて欲しいと思ったのです」
 土方は、わかった、とだけ言った。
「我々も知らぬ、新たな生き方をしてほしい。そう思ったのです。彼が背負うべきは、別のものであるべきだと」
 久二郎は、重ねて言った。
「綾瀬」
 冷たい風に鼻を赤くしながら、土方は言った。尖った波を、見ている。
「その格好、やっぱり様になってるぜ」

 その市村を、土方は、鉄、と呼んで可愛がった。
「大鳥奉行の隊が」
 木古内のことを、二股口の戦いの最中聞いたとき、市村が、驚きを隠せぬ様子で言った。
「鉄。誰にも言うな。ここを守らねば、それこそ終わりだ」
「全軍の、士気に関わりますね」
 ちょっと才気走ったところがあるが、嫌いではない。
「鉄。俺は出る」
 戦いには、市村は参加しない。本営や拠点などに留め置く。市村は戦いたがったが、土方は決してそれを許さなかった。
 そして、二股口での二度目の戦いである。それが終わり、傷ついた各隊の兵や久二郎ら指揮官らが、疲労の中で倒れこみそうになりながら荒れた陣地や胸壁の修復を行っているとき、その報がもたらされた。
 大鳥が、敗れた。木古内を放棄し、矢不来という不利なところに陣を敷いたとき、嫌な予感はしていた。しかし、それが現実となるとは、どうしても思えなかった。現実になると分かっていても、二股口を放棄するわけにはゆかず、どうしようもなかったが。その矢不来が、四月二十九日、新政府軍の猛攻を受け、大鳥は撤退したという。
 箱館に、直接新政府軍が攻めて来るということになる。せっかく守り切った二股口も、何の意味もなくなった。
 土方は、二股口を放棄し、五稜郭への退却を命じた。

 崩れるときは、一気に崩れるものだ。ついこの間まで、必ず勝てると確信していた。しかし、ほんの小さな綻びが、取り返しのつかぬ敗けとなることがある。
 まだ、敗けたわけではない。しかし、おそらく、敗ける。誰よりも戦い、誰よりも勝ち負けに詳しい土方には、そして久二郎には、それが分かった。
 では、どうするか。
「綾瀬」
 土方が、新撰隊の陣を訪れた。
「土方奉行」
「少し、話さないか」
 土方が促し、久二郎は撤収作業を隊士に任せ、隊を離れた。
「これは、どうも、いけない」
「そのようです」
「お前は、逃げろ」
「まさか」
「お前まで、死ぬことはない」
「死ぬかどうか、まだ分かりません。敗けるかどうかも」
「分かるまで、戦うというのか」
「ええ」
「それが分かったとき、お前は死んでいる」
「ならば、それまでのこと」
 土方は、悲しそうな顔をした。何故土方がそのような顔をするのか、久二郎には分らなかった。なんとなく、コートの破れを、指でなぞった。
「迷いは、ありません」
 久二郎は、言い切った。嘘である。できれば、逃げたい。京にこっそりと戻り、春を迎えにゆき、どこかで静かに暮らしたい。

 五月に入り、新政府軍は、大挙して函館に押し寄せようとする構えを見せた。大鳥、土方は、各方面の陣に執拗なほど夜襲をかけ、なかには総裁である榎本自ら出陣して指揮を執ったものもあったが、そのどれも、失敗に終わった。また、海でも、戦況は不利になっている。遂に、箱館の海に敵艦隊が乗り込んできた。台場からの砲撃に加え、回天、蟠竜などから艦砲射撃を行うが、甲鉄を加えた新政府軍の艦隊の前には非力であった。土方や久二郎も乗り込んだことのある主力艦の回天は被弾し、機関が破損したために、わざと浅瀬に乗り上げさせて、海に浮かぶ砲台にした。湾の中を駆け回る蟠竜が敵の戦艦を一隻撃沈はしたが、それでも押されている。
 五月十日。いよいよ、新政府は陸、海からの両面作戦で、一気に箱館を落としにかかろうとしていた。
 夜、久二郎は、五稜郭の士官室に、土方と市村の三人でいた。
「いよいよらしい」
 いよいよ、というのは、敵のことか、戦いのことか。それとも、死のことか。
「副長」
 久二郎は、奉行、とは呼ばなかった。呼びなれた、副長。
「日野のことは、よいのですか」
 土方は、その意味を察した。立ち上がり、机の引き出しから、薄い油紙の包みを取り出した。
「鉄」
 市村が、直立する。
「命令だ」
「はっ」
 土方は、油紙の包みを、手渡した。
「これを、武州多摩郡、日野石田というところに、届けるのだ」
 市村は、その意味が分からないらしく、黙った。
「そこに、佐藤という家がある。俺の姉が嫁いだ家だ」
 市村が、震えだした。
「どうした、復唱せぬか」
 上官からの命令は、必ず復唱しなければならない。それをせぬことで、市村は拒絶を示した。
 すると、土方の全身から、凄まじい殺気が溢れ、腰から光が放たれた。市村は、死んだ、と思った。しかし、死ななかった。
 その光は、蝋色の鞘にゆっくりと納められ、市村の腕に預けられた。
「これも頼むぞ、鉄」
 市村の顔が真っ赤になり、可愛い瞳からは、涙が溢れそうになっている。
「私は」
 言おうとした市村を、久二郎が制した。
「副長が、どのようにして戦い、生きたか。お前が、伝えるのだ」
 市村は、押し付けられた土方の佩刀を、抱きしめるようにしている。
「その中を、見てみろ」
 久二郎が、促す。市村は、無言で油紙の包みを開いた。そこには、箱館に来て冬の間に撮った、土方のがあった。ほとがら、とは、写真のことである。photographが訛ったものであろう。独特の質感の紙の中に、分厚いコートに大層なチョッキを着て軍靴を履き、今市村が片腕に抱いている和泉守兼定を持った土方が眠ったような顔で座っていた。
「覚えろ」
 土方は、ガラスが張られた窓の外の夜を見た。何も見えない。蝋燭に照らされた、自分が見えているだけである。
「たとひ身は」
 ぽつりと、言った。
「蝦夷の島根に朽ちるとも、魂は東の君や守らん」
 それを聞いた久二郎が、行け、と促すと、市村は、土方の背に深々と一礼し、久二郎にも礼をし、飛び出した。
 土方は、窓の外を見たまま。あとになって、市村が回想している。
「土方さんは、とても恐ろしい剣幕で、私に刀を突き付けました。私は恐ろしくて、土方さんの頼みを引き受けました。建物を飛び出し、振り返ると、窓のところに、こちらを見守るように人影が見えました。あれは、土方さんであったと思います」

「それで、お前は、どうする」
 土方は、窓に映る久二郎と目を合わせ、言った。
「私は、戦いますよ」
「馬鹿。死ぬぞ」
「私も、本当は、迷い、苦しみました」
 土方が振り返り、窓に映らぬ久二郎の実体と目を合わせた。
「しかし、私は、退くわけにはいかぬのです」
 久二郎は、笑っていた。
「私の後ろには、私が歩んできた道があります。それを戻っても、仕様がないのです。私は、ずっと、進むため、歩んできたのですから。敵も味方も、友でさえも、踏み越えて。彼らが生きるはずであった生を背負って。私には、戦うことでしか、それを越えることはできぬのです」
 土方は、苦笑した。
「下手くそめ」
「彰介を、斬りました。瀬尾瞬太郎も。私は、死ななかった。代わりに、彼らが、死んだ」
「そうだな。芹沢、山南、伊東」
 土方も、名を挙げた。
「松原、谷、武田。名も知らぬ、敵。彼らの生を奪うに値するものを得ぬ限り、私は、戦いをやめることはできません。今ここで、私がやめれば、私が奪った全ての者の生を否定することになります。私が、ほんとうに生きることができるのは、その後になってからです」
「綾瀬」
「俺も、同じことを考えていた」
 近藤の顔。近藤の声が、土方の頭の中に浮かんでいる。
「死にません。必ず。戦い、勝ちます」
「綾瀬」
 久二郎が、拳を握り締めたまま、土方と同じオール・バックにしている頭を上げた。
「下手くそ」
「副長の辞世よりは、ましです」
「てめェ、もういっぺん、言ってみやがれ」
「近藤局長も、びっくりしておられますよ。あまりに正直だから」
 笑い合う二人の男が、窓に映っている。
 そこへ、五稜郭の背後の箱館山に、敵が登りつつあるという急報がもたらされた。
 春に、会いたい。生きたい。それを、掴みたい。だから、戦う。
 もはや、迷わぬ。示すのみ。
「新撰隊、出る」
 久二郎の強い声が、夜に咲いた。
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