夜に咲く花

増黒 豊

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最終章 夜に咲く花

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 京で。たぶん、久二郎が会津を脱した頃。春は、変わらず千の面倒を見ている。千の腹はすっかり大きくなり、今にもはち切れそうになっている。人一人分重くなった身体を起こすことも苦しいようであった。
 春はいつも、卵の入った粥を作ってやる。藤堂の女であった花に手解きを受け、料理はだいぶできるようになったが、上手いというわけではない。花は藤堂の死後、いちど畳んだ店を再び開き、ぜんざい屋に戻っている。その話も、粥を作りながら、千にしてやった。千は、ただ、黙って聞いている。
 久二郎は、春に、いろいろな話をした。決して、言葉数の多い男ではなかったが、それでも、春は、それで久二郎がどのようにして生き、何に願いをかけ、明日を迎えるのかを知ることができた。そして、明日に何かを願って眠る顔は美しいということも知った。
 たまに千も、瞬太郎のことを話した。久二郎から聞いたことのある瞬太郎と少し違う印象であったが、千もまた、愛されていたのだ。
 たぶん、誰もが皆、苦しみ、それでも、何か喜ぶべきことを見つけようと、生きているのだ。今日、どれだけ苦しみが強くとも、明日待つ喜びと悲しみの数が減るわけではない。それを掴めるか否かは、己次第なのだ。だから、彼らは、剣を執り、戦うのだ。なんとなく、二人でそのような話もした。孤独は、なくなった。その代わり、卵の入った粥が、でき上がった。塩で少し漬けただけの壬生菜も添えてやる。粥は、あまり上手くはないかもしれない。
 久二郎は、それでも、温かな食事を喜び、美味い美味いと食ってくれた。しかし、千は、美味いとも不味いとも言わない。ただ、
「ありがとう」
 と言って、涙をこぼした。
「泣かないで、お千さん」
 春は、その涙を、拭ってやった。
「お春さんは、兄様を、ずっと、待っているの」
「ええ」
「そう」
 千の顔が、翳った。依然、千の身体を蝕む病は衰えず、むしろなお盛んになっている。
「お千さんは、どう」
「わたしには、待つ人も、待ってくれる人も、いない」
 春は、少し微笑わらった。これほどまでに温かな笑顔を持つ女が、いるものなのか。千は、ちょっと引け目に感じると共に、その陽射しの温もりに、もっと触れたいような気持ちになった。
「あなたを、その子が、待っているわ」
 と、春は言った。千の涙が混じり、卵の粥の塩味が、少し強くなったかもしれない。
「お春さん」
 千は、またぽつりと言った。
「ありがとう」
 春は、また微笑った。
「お千さん」
 千の痩せた顔が、春の方を向いた。その顔を見て、春は、はっとした。
「お粥、美味しい?」
 千は、何も答えず、先程の春の顔を真似て微笑った。

 さて、慶応四年九月の久二郎のことである。土方から蝦夷地と聞いたとき、なんのことか分からぬ思いであった。
「俺は、ゆく。兵が欲しい。それも、ありったけの。そして、強い者が。お前が必要だ」
 まだ、京以来の隊士は、島田、尾関、蟻通ありどおし、山野がいるが、もう、組長格であった者は、久二郎一人になっている。
「ちょっと剣と射撃ができるからといって、そのような大きな志のお役に立てるものでしょうか」
 と、久二郎は素直に疑問を打ち明けた。
「強いとは、武器の扱いが上手いということには限らぬ。敵を倒す力だけが、強さではないと俺は思うようになった」
 昔、京に上ったばかりの頃、世話になった北野の道場の大政老人の言葉を、思い出した。もしかしたら、剣も銃も用いずとも、強くあれるのかもしれぬ。
「お前は、強い」
 土方は、少しまぶしいような顔で久二郎を見た。久二郎は、土方の言うような、そして大政老人の言ったような意味で自分が強いとは思えない。ただ、苦笑するしかない。
「どこまでやれるか分かりませんが、やってみます」
 それが、久二郎の返答であった。
 間もなく、大鳥が、会津の戦線を放棄してやってきた。榎本、土方の三人で会合を持ち、幕府の直轄であったはずが今新政府に与しようとしている箱館を奪い、なおかつ江差、松前なども制圧し、蝦夷地を自らの新天地とする計画について話し合った。
 榎本は、大きな骨組みと、情勢分析を。それにより取るべき兵の配置、戦闘方法などは土方が。そして、それらが食う兵糧や、行軍にかかる経費、日数などの計算は、大鳥が行った。
 この新しい生の中においても、土方はであった。それを茶化して、榎本が、
「流石、天下の副長だ」
 と笑った。すると土方は、
「いいえ、俺は、新撰組の隊長です」
 と答えた。それには、榎本も大鳥も、意外な顔をした。
「今は、京からずっと俺と共に戦い、他の者が死に、欠けてなお戦い続ける馬鹿が、副長です」
 と言った。
「そして、その者は、隊長になる」
「どういうことかね、土方君」
「俺は、新撰組を、手放す。あの新しい大地で、奴らは奴らの戦いをし、生きればよい」
「それでは、君は」
「俺は、ただの土方さ」
 また、笑った。近藤は、もういない。無論、近藤のことを終生忘れることなどないが、早く側に行きたい、と思うのはやめた。
 なにしろ、土方は、一人の戦争屋として生きて行くと決めたのだ。戦争が終わり、何になるかは、そのとき決めればよい。
 近藤の側には、まだゆかぬ。近藤と共に、生きて行く。そう決めた。
「この場に、新撰の隊長を、呼んでもいいか」
「構わんが」
 久二郎が、呼ばれた。
「紹介する。新撰隊隊長、綾瀬久二郎だ」
 榎本と大鳥の前で立礼をしている久二郎は、目から脳が飛び出るかと思うほど驚いた。
「ほう、彼が」
 新撰隊でひときわよく戦う者として、大鳥はこの物静かな侍を見知っていた。榎本は、はじめて見た。
「お前、新撰隊の隊長をやれ」
「ちょっと、待って下さい。副長は、どうなさるのです」
「俺は、あたらしい国の兵のことがある。いつまでも、新撰組の土方では、おれぬのだ」
「そういうことらしい。彼にも、思うところがあるのだ。汲んでやれ、隊長」
 榎本が、言った。
「わかりました。お受けします」
 と久二郎は答えざるを得ない。自分が、という思いはある。しかし、新しいことを始めるのだ。自分も、今まで以上に何かに取り組まなくては、という思いが強い。
「それと」
 と土方が、笑いながら言った。
「お前、新撰隊の隊長が、そんな粗末な身形でどうする。髷を落とせ。それに、洋服が要る」
「ちょっと、待って下さい」
 久二郎は、また同じことを言った。
「待たぬ。仙台ここを出るまでに、準備をしろ」
 新撰組ではなくなったとはいえ、土方は土方である。逆らうことなどできるはずもない久二郎は直立するとすぐ退室し、その日のうちに城下の反物屋と呉服屋を回り、生地を購い、洋服を仕立てるべく注文をした。
 明治元年十月十二日、彼らが仙台を出港して更に北の地へ向かうとき、その船に乗り組む新撰隊の新たな隊長は、黒羅紗のコートに軍靴を穿き、髷を落とした堂々とした洋装であったという。
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