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第十章 会津から
母成峠の戦い
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会津の比較的みじかい夏が過ぎ、秋の兆しが出始める頃。慶応四年、八月二十一日。
これより一月ほど前、新撰組は出戦していないが、二本松の戦いと後に言われる戦いにより、二本松藩が陥落した。二本松藩とは、会津の東にあたる。白河も取り返せていないから、これによって南と東から会津は攻められることになる。新政府軍は、奥羽越列藩同盟軍の中でも強力な兵力と国力を持つ会津を潰し、一気にこの厄介な集合体を枯らそうと考えた。
当然、会津の本国を攻める。それには、複数の経路が考えられた。新政府軍でも、会津の中でも、どこから攻めるか、あるいは攻めてくるか、揉めに揉めた。結局、表題にある母成峠から新政府軍は来る。母成峠とは、会津の国内へ至るのにあまり主要な経路とは言えない。会津の者は、母成峠から新政府軍が来ることは、まずないと考えた。取ったばかりの二本松から、主要な街道を通って来る。と考えた。実際、その経路が最も合理的で、進軍もしやすい。
そう会津が予想すると新政府軍は踏み、裏をかいた。土方は、それを更に予見していた。
「白河の二の舞になるぞ、大鳥さん。必ず、敵は搦め手から来る。こちらの軍に正面から突っ込んで来たことが、今まで一度でもあったか。そういう奴らだ」
「人を放ってみるか、土方君」
「もう、放ってある」
ちょうど、島田が戻って来た。流石、京にいた頃は監察方であっただけあり、農夫に化け、ほぼ完璧な会津弁を使い、母成峠から向こうの様子を探ってきている。怪しいと思われる経路には、すべて、そのようにして人を放っていた。
実は、大鳥は、この前日、新政府軍と二本松の奪還を巡り、交戦している。伝習隊ほか旧幕府陸軍はたいへんな働きであったが、肝心の会津兵が先に壊走してしまった。伝習隊が殿軍となり、なんとか壊滅は避けられたが。その勢いに、乗ってくる。来るなら、搦め手。そう、戦い慣れた土方は考えたわけである。
「このまま、また二本松口までのこのこ兵を出せば、必ず負けるぞ、大鳥さん。会津の連中を、説得してくれ」
「無駄だ。彼らは、もう既に、二本松口に兵を発している」
「では、伝習隊と新撰組で、せめて」
「やれるかね」
「やるのだ。戦いが始まれば、さすがに会津の連中も母成まで駆けつける」
「わかった、土方君。会津の者に、そう言おう」
大鳥が刀を執り、立ち上がった。それに、土方の冷たい笑顔が刺さった。
「大鳥さん、しっかりしてくれ。旧幕府軍の総帥は、あんただ。あんたが、決めればいい」
それが、大鳥の感情を刺激した。が、色には出さず、口を開けて大鳥は笑った。
「俺も出る」
「しかし、傷は」
「大したことはない」
「大丈夫かね」
「くどいな」
もともと、母成峠に置かれた兵は、僅か二百ほど。そこに、伝習隊や新撰隊などが加わり、八百ほどの守備隊が出来上がった。
母成峠には、砲台を据える台場が複数ある。土方はそれらに、あえて少ない兵力を分散し、たとえば現代風に言うとミルフィーユのように陣を敷くよう、大鳥に進言した。軍事用語で言う、重深陣地である。敵がひとつ陣を破れば、次の一つ。前線対前線という形ではなく、敵の前線が常に新手に晒される形での戦いとなる。土方は新撰隊と共に、大鳥は伝習隊の一部隊を連れ、常に敵と交戦を続ける陣の指揮をする。実際、この近代的な作戦を土方が言い出したのか大鳥が言い出したのかは分からぬが、おそらく、土方の発案ではないかと思う。
敵は、おそらく二千ほど。一つ目の台場は、旧式の木の筒がくりぬかれただけの木砲という大砲が据えられているだけである。簡単に、破られた。二つ目の台場には、少しはましな砲が据えられている。伝習隊と新撰組は、そこで激しい抵抗を示し、顔を出しては小銃を撃ち、撃っては退いた。なかには、撃ちすぎて銃身が真っ赤になる者まで出るほど激しい射撃と砲撃を行った。
やがて、会津の兵が加勢に来た。まだ二本松から本軍が来ることを恐れているのか、派遣してきた兵はわずかで、迫りくる新政府軍に、とうてい敵う数ではない。
「駄目だ、大鳥さん。敵の勢いが強すぎる。三つめの台場まで、退く」
土方が、発砲の轟きの中、叫んだ。久二郎、斉藤は、すぐに指揮下の兵に射撃の停止を命じた。
敵の砲からの弾が、どんどん降ってくる。さらに、横合いからも攻撃が来る。陣地に火がつき、燃え広がった。そこで、三つめの台場へ、炎を背負うようにして撤退する。
第三の台場には、比較的あたらしい型の砲が五門据えられている。そこから、猛烈な砲撃を新政府軍へ加えた。目に見える敵には、これでもかというほどの鉛弾を。
「鉄之助、大事ないか」
久二郎は、自分の隊の鉄之助を気遣った。いちおう、見習い隊士という扱いである。本来ならば、土方の小姓あたりが順当なところを、それにも銃を持たせ、戦わせている。
なんとなく、久二郎は、それを死なせてはならぬと思っていた。いや、誰も、死なぬ方がいいに決まっている。だから、鉄之助を特別扱いしているわけではない。それでも、気になった。
「なんの、これしき」
鉄之助の左手の皮は、銃身の熱で火傷を負い、破れてしまっている。それでも、鉄之助は銃を握る。久二郎に教えられた通り、射撃する。
照星に、敵の姿を。引金に、指を。細く息を吐き、暗夜に霜の降りるがごとく、そっと絞る。これは、久二郎の独創ではない。古く、たとえば戦国時代の、鉄砲傭兵集団である雑賀集などのときから射撃の基本とされており、近代になってからも帝国陸軍などでそう教えたという。久二郎がどのようにしてそれを知ったのかは分からぬが、鉄之助には、久二郎がそう言うなら、それが一番上手いやり方だ。と信じて疑わぬようなところがあった。実際、久二郎は、射撃が上手く、百発百中と言ってもよい。距離に応じ、弾道を読み、瞬時に狙いを定める。どこか、真剣の戦いに似ているのかもしれない。己の手に伝わるのが、肉や骨を断つ感触か、銃がその身を震わせる激しい振動と轟音の違いか、くらいのものである。
「無理はするな」
「無理ではありません」
「後列へ」
「まだ、戦えます」
「組長の命に背くか、市村鉄之助」
久二郎が見据えると、鉄之助はあっと息を飲み、少しの間、全ての思考を停止させた。そののち、弾かれたように直立し、
「申し訳ありません」
と言い、銃を立てた。その瞬間、久二郎の左の二の腕を、弾が貫いた。
「綾瀬組長!」
鉄之助が叫ぶ。
「馬鹿、騒ぐな。周りの者の士気に関わる」
久二郎は、ちょっと顔をしかめただけで、平然としていた。痛みは、あまりない。骨もやられず、弾も抜けたらしい。
京で戦っていたときの方が、よほど危ない。久二郎の身体には、無数の刀傷の痕が刻まれている。春がよく暗闇の中でその傷痕に指を這わせ、久二郎がくすぐったがるのを面白がったものである。
久二郎は、右手の銃を振り上げた。
「休むな!撃て!ここから、一人も生かして通すな!」
湾曲して切り立てられた崖のような場所に据えられた砲からは、なおも弾が飛び、敵を粉砕する。小銃でもって砲隊を潰そうとする者は、全て新撰隊と伝習隊の弾にやられた。
戦いが始まったのが、夜が明けて空気が暖まる頃だから、サラリーマンの我々が会社に到着するくらいの時刻であろうか。そしてそのサラリーマンの一日の勤務の定刻よりも早く、戦いは終わる。
炎上し、放棄した第二の台場。そこに、新政府軍はなんと二十もの砲を据え、信じられないほどの数の砲弾を第三の台場に向けて放ってきた。見る見る守備隊がやられてゆく。しかし、足元にひたひたと迫る敵が、撤退を許さない。撤退すれば、あの火力の砲弾の雨の中、敵の追撃を受けることになる。
それに、ここを放棄すれば、会津を守るものがなくなる。それはすなわち、会津藩府である若松へ敵がなだれ込んで来ることを意味するのである。
「土方君、どうする」
大鳥が、蒼白な顔をした。土方は、答えない。
「若松城まで退き、籠るか」
「それを、誰が、助けに来るというのだ」
今度は、大鳥が黙った。援軍のない籠城ほど、無意味なことはない。
そこへ、第三の台場の背後に回り込んだ敵が、奇襲をかけてきた。まず、会津兵から崩れた。まっさきに、若松めがけて逃げようとする。土方は、内心舌打ちをした。それに二本松、仙台などの藩兵が引きずられ、回天隊、伝習隊と続いた。
「大鳥さん。こうなっちゃ、全軍撤退しかない。撤退命令を」
大鳥が、全軍撤退、の合図を出したが、それが伝わらぬほど連合軍は混乱していた。
「新撰組の斎藤、綾瀬を呼べ」
土方は、手近な者に、二人を呼びに行かせた。
「退く」
「どこへです、副長」
「ここにいる者共は、若松城へ」
「私達は、違うと?」
斎藤が、言葉を発した。土方の思考を、読んだらしい。
「今は、細かい話をしている暇はない。全軍が撤退できるよう、俺たちが」
二人は頷き、前線に戻った。
連合軍の前線の射撃が弱くなり、やがて静止した。敵は勢いづいた。敵の挟撃は、もはや包囲となっており、残った連合軍を揉み潰そうとしていた。大鳥は、先に離脱していた。
敵は、勝ちを確信した。しかし、その歩みを、一瞬止めた。死神を見たからである。
秋めいた風は、山中においてなお強い。それに、汚れた旗が翻った。
誠。
その旗の根本から、黒い死神どもが涌き出た。手に手に、白刃を携えて。
現代においても、超接近戦においてはライフルよりも拳銃、拳銃よりも刃物が有利とされる。新撰組の距離に持ち込まれては、新政府軍はたまったものではない。山道を駆け降りて来る死神に向け、一斉に小銃を発射した。
銃口が向くと、死神は滑るように木立や藪に身を隠す。新政府軍はその軽妙な動きを捉えることすらできない。あっという間に、死神の方から距離を詰めた。
死神は、僅か三十人ほど。しかし、坂の上に翻る誠の旗は、大砲十門くらいの威圧感があった。
ここにいる新政府軍の者は、長州、土佐の者も多い。京の街で、実際に新撰組の恐怖を味わった者も少なくない。あの悪夢が、再び目の前にあるのだ。その動揺が、少なからず伝わった。特に、先頭を駆けてくる洋装の男。そして、その両脇の二人。
「新撰組副長」
知らず、土方はそう名乗っていた。
「土方歳三」
一人を、鮮やかに斬り倒した。
「新撰組、十一番組組長、綾瀬久二郎」
「新撰組、山口二郎」
次々と名乗りを上げる死神の刃に、新政府軍は成す術もなく倒れてゆく。ほんとうに、彼らは強かった。
たとえば、久二郎。左腕を撃たれ、右腕一本で戦っている。
大刀を振り回す。倒した敵の身体を盾にし、弾を避ける。久二郎とて、右腕だけで人を斬るのは、初めてであった。一太刀目の感触で、いかぬ、と思い、納刀した。
盾にしている敵の死骸の腰から太刀を抜き、次の敵に斬りかかる。
やはり刃筋が立たず、敵の身体に太刀が食い込んでしまう。
柄から右手を離し、その敵の太刀をまた抜く。
そして、次の敵へ。
蝶が花から花へ飛び移るように、久二郎は敵の太刀を抜き、戦った。
山口と名乗った斎藤は、相変わらず黙々と敵を葬っている。
土方も、近藤に、お前の剣は粗い。と言われ舌打ちをしていた太刀筋で、敵を斬り続けている。頭突き、柄打ち、足払い、土方の剣は敵を倒せさえすれば何でもありだった。
さんざん斬るだけ斬ると、銃に持ち替えた。十歩駆けては振り返って撃つ。そのようにして、撤退した。
斬り合いは時代劇の花ではあるが、この時代において、既にそれはにっちもさっちもいかないときの最後の手段になっている。また、新撰組だからそれができたとも言える。
そして、その最後の手段を使うような機会が、多すぎる。
「また、負けた。無様なもんさ。なぁ、近藤さん」
土方は、思った。思わず、口に出てしまってはいないか、と一瞬不安になったが、周りの隊士は、ただ戦い疲れた顔をしながら、若松を目指しているだけであった。
これより一月ほど前、新撰組は出戦していないが、二本松の戦いと後に言われる戦いにより、二本松藩が陥落した。二本松藩とは、会津の東にあたる。白河も取り返せていないから、これによって南と東から会津は攻められることになる。新政府軍は、奥羽越列藩同盟軍の中でも強力な兵力と国力を持つ会津を潰し、一気にこの厄介な集合体を枯らそうと考えた。
当然、会津の本国を攻める。それには、複数の経路が考えられた。新政府軍でも、会津の中でも、どこから攻めるか、あるいは攻めてくるか、揉めに揉めた。結局、表題にある母成峠から新政府軍は来る。母成峠とは、会津の国内へ至るのにあまり主要な経路とは言えない。会津の者は、母成峠から新政府軍が来ることは、まずないと考えた。取ったばかりの二本松から、主要な街道を通って来る。と考えた。実際、その経路が最も合理的で、進軍もしやすい。
そう会津が予想すると新政府軍は踏み、裏をかいた。土方は、それを更に予見していた。
「白河の二の舞になるぞ、大鳥さん。必ず、敵は搦め手から来る。こちらの軍に正面から突っ込んで来たことが、今まで一度でもあったか。そういう奴らだ」
「人を放ってみるか、土方君」
「もう、放ってある」
ちょうど、島田が戻って来た。流石、京にいた頃は監察方であっただけあり、農夫に化け、ほぼ完璧な会津弁を使い、母成峠から向こうの様子を探ってきている。怪しいと思われる経路には、すべて、そのようにして人を放っていた。
実は、大鳥は、この前日、新政府軍と二本松の奪還を巡り、交戦している。伝習隊ほか旧幕府陸軍はたいへんな働きであったが、肝心の会津兵が先に壊走してしまった。伝習隊が殿軍となり、なんとか壊滅は避けられたが。その勢いに、乗ってくる。来るなら、搦め手。そう、戦い慣れた土方は考えたわけである。
「このまま、また二本松口までのこのこ兵を出せば、必ず負けるぞ、大鳥さん。会津の連中を、説得してくれ」
「無駄だ。彼らは、もう既に、二本松口に兵を発している」
「では、伝習隊と新撰組で、せめて」
「やれるかね」
「やるのだ。戦いが始まれば、さすがに会津の連中も母成まで駆けつける」
「わかった、土方君。会津の者に、そう言おう」
大鳥が刀を執り、立ち上がった。それに、土方の冷たい笑顔が刺さった。
「大鳥さん、しっかりしてくれ。旧幕府軍の総帥は、あんただ。あんたが、決めればいい」
それが、大鳥の感情を刺激した。が、色には出さず、口を開けて大鳥は笑った。
「俺も出る」
「しかし、傷は」
「大したことはない」
「大丈夫かね」
「くどいな」
もともと、母成峠に置かれた兵は、僅か二百ほど。そこに、伝習隊や新撰隊などが加わり、八百ほどの守備隊が出来上がった。
母成峠には、砲台を据える台場が複数ある。土方はそれらに、あえて少ない兵力を分散し、たとえば現代風に言うとミルフィーユのように陣を敷くよう、大鳥に進言した。軍事用語で言う、重深陣地である。敵がひとつ陣を破れば、次の一つ。前線対前線という形ではなく、敵の前線が常に新手に晒される形での戦いとなる。土方は新撰隊と共に、大鳥は伝習隊の一部隊を連れ、常に敵と交戦を続ける陣の指揮をする。実際、この近代的な作戦を土方が言い出したのか大鳥が言い出したのかは分からぬが、おそらく、土方の発案ではないかと思う。
敵は、おそらく二千ほど。一つ目の台場は、旧式の木の筒がくりぬかれただけの木砲という大砲が据えられているだけである。簡単に、破られた。二つ目の台場には、少しはましな砲が据えられている。伝習隊と新撰組は、そこで激しい抵抗を示し、顔を出しては小銃を撃ち、撃っては退いた。なかには、撃ちすぎて銃身が真っ赤になる者まで出るほど激しい射撃と砲撃を行った。
やがて、会津の兵が加勢に来た。まだ二本松から本軍が来ることを恐れているのか、派遣してきた兵はわずかで、迫りくる新政府軍に、とうてい敵う数ではない。
「駄目だ、大鳥さん。敵の勢いが強すぎる。三つめの台場まで、退く」
土方が、発砲の轟きの中、叫んだ。久二郎、斉藤は、すぐに指揮下の兵に射撃の停止を命じた。
敵の砲からの弾が、どんどん降ってくる。さらに、横合いからも攻撃が来る。陣地に火がつき、燃え広がった。そこで、三つめの台場へ、炎を背負うようにして撤退する。
第三の台場には、比較的あたらしい型の砲が五門据えられている。そこから、猛烈な砲撃を新政府軍へ加えた。目に見える敵には、これでもかというほどの鉛弾を。
「鉄之助、大事ないか」
久二郎は、自分の隊の鉄之助を気遣った。いちおう、見習い隊士という扱いである。本来ならば、土方の小姓あたりが順当なところを、それにも銃を持たせ、戦わせている。
なんとなく、久二郎は、それを死なせてはならぬと思っていた。いや、誰も、死なぬ方がいいに決まっている。だから、鉄之助を特別扱いしているわけではない。それでも、気になった。
「なんの、これしき」
鉄之助の左手の皮は、銃身の熱で火傷を負い、破れてしまっている。それでも、鉄之助は銃を握る。久二郎に教えられた通り、射撃する。
照星に、敵の姿を。引金に、指を。細く息を吐き、暗夜に霜の降りるがごとく、そっと絞る。これは、久二郎の独創ではない。古く、たとえば戦国時代の、鉄砲傭兵集団である雑賀集などのときから射撃の基本とされており、近代になってからも帝国陸軍などでそう教えたという。久二郎がどのようにしてそれを知ったのかは分からぬが、鉄之助には、久二郎がそう言うなら、それが一番上手いやり方だ。と信じて疑わぬようなところがあった。実際、久二郎は、射撃が上手く、百発百中と言ってもよい。距離に応じ、弾道を読み、瞬時に狙いを定める。どこか、真剣の戦いに似ているのかもしれない。己の手に伝わるのが、肉や骨を断つ感触か、銃がその身を震わせる激しい振動と轟音の違いか、くらいのものである。
「無理はするな」
「無理ではありません」
「後列へ」
「まだ、戦えます」
「組長の命に背くか、市村鉄之助」
久二郎が見据えると、鉄之助はあっと息を飲み、少しの間、全ての思考を停止させた。そののち、弾かれたように直立し、
「申し訳ありません」
と言い、銃を立てた。その瞬間、久二郎の左の二の腕を、弾が貫いた。
「綾瀬組長!」
鉄之助が叫ぶ。
「馬鹿、騒ぐな。周りの者の士気に関わる」
久二郎は、ちょっと顔をしかめただけで、平然としていた。痛みは、あまりない。骨もやられず、弾も抜けたらしい。
京で戦っていたときの方が、よほど危ない。久二郎の身体には、無数の刀傷の痕が刻まれている。春がよく暗闇の中でその傷痕に指を這わせ、久二郎がくすぐったがるのを面白がったものである。
久二郎は、右手の銃を振り上げた。
「休むな!撃て!ここから、一人も生かして通すな!」
湾曲して切り立てられた崖のような場所に据えられた砲からは、なおも弾が飛び、敵を粉砕する。小銃でもって砲隊を潰そうとする者は、全て新撰隊と伝習隊の弾にやられた。
戦いが始まったのが、夜が明けて空気が暖まる頃だから、サラリーマンの我々が会社に到着するくらいの時刻であろうか。そしてそのサラリーマンの一日の勤務の定刻よりも早く、戦いは終わる。
炎上し、放棄した第二の台場。そこに、新政府軍はなんと二十もの砲を据え、信じられないほどの数の砲弾を第三の台場に向けて放ってきた。見る見る守備隊がやられてゆく。しかし、足元にひたひたと迫る敵が、撤退を許さない。撤退すれば、あの火力の砲弾の雨の中、敵の追撃を受けることになる。
それに、ここを放棄すれば、会津を守るものがなくなる。それはすなわち、会津藩府である若松へ敵がなだれ込んで来ることを意味するのである。
「土方君、どうする」
大鳥が、蒼白な顔をした。土方は、答えない。
「若松城まで退き、籠るか」
「それを、誰が、助けに来るというのだ」
今度は、大鳥が黙った。援軍のない籠城ほど、無意味なことはない。
そこへ、第三の台場の背後に回り込んだ敵が、奇襲をかけてきた。まず、会津兵から崩れた。まっさきに、若松めがけて逃げようとする。土方は、内心舌打ちをした。それに二本松、仙台などの藩兵が引きずられ、回天隊、伝習隊と続いた。
「大鳥さん。こうなっちゃ、全軍撤退しかない。撤退命令を」
大鳥が、全軍撤退、の合図を出したが、それが伝わらぬほど連合軍は混乱していた。
「新撰組の斎藤、綾瀬を呼べ」
土方は、手近な者に、二人を呼びに行かせた。
「退く」
「どこへです、副長」
「ここにいる者共は、若松城へ」
「私達は、違うと?」
斎藤が、言葉を発した。土方の思考を、読んだらしい。
「今は、細かい話をしている暇はない。全軍が撤退できるよう、俺たちが」
二人は頷き、前線に戻った。
連合軍の前線の射撃が弱くなり、やがて静止した。敵は勢いづいた。敵の挟撃は、もはや包囲となっており、残った連合軍を揉み潰そうとしていた。大鳥は、先に離脱していた。
敵は、勝ちを確信した。しかし、その歩みを、一瞬止めた。死神を見たからである。
秋めいた風は、山中においてなお強い。それに、汚れた旗が翻った。
誠。
その旗の根本から、黒い死神どもが涌き出た。手に手に、白刃を携えて。
現代においても、超接近戦においてはライフルよりも拳銃、拳銃よりも刃物が有利とされる。新撰組の距離に持ち込まれては、新政府軍はたまったものではない。山道を駆け降りて来る死神に向け、一斉に小銃を発射した。
銃口が向くと、死神は滑るように木立や藪に身を隠す。新政府軍はその軽妙な動きを捉えることすらできない。あっという間に、死神の方から距離を詰めた。
死神は、僅か三十人ほど。しかし、坂の上に翻る誠の旗は、大砲十門くらいの威圧感があった。
ここにいる新政府軍の者は、長州、土佐の者も多い。京の街で、実際に新撰組の恐怖を味わった者も少なくない。あの悪夢が、再び目の前にあるのだ。その動揺が、少なからず伝わった。特に、先頭を駆けてくる洋装の男。そして、その両脇の二人。
「新撰組副長」
知らず、土方はそう名乗っていた。
「土方歳三」
一人を、鮮やかに斬り倒した。
「新撰組、十一番組組長、綾瀬久二郎」
「新撰組、山口二郎」
次々と名乗りを上げる死神の刃に、新政府軍は成す術もなく倒れてゆく。ほんとうに、彼らは強かった。
たとえば、久二郎。左腕を撃たれ、右腕一本で戦っている。
大刀を振り回す。倒した敵の身体を盾にし、弾を避ける。久二郎とて、右腕だけで人を斬るのは、初めてであった。一太刀目の感触で、いかぬ、と思い、納刀した。
盾にしている敵の死骸の腰から太刀を抜き、次の敵に斬りかかる。
やはり刃筋が立たず、敵の身体に太刀が食い込んでしまう。
柄から右手を離し、その敵の太刀をまた抜く。
そして、次の敵へ。
蝶が花から花へ飛び移るように、久二郎は敵の太刀を抜き、戦った。
山口と名乗った斎藤は、相変わらず黙々と敵を葬っている。
土方も、近藤に、お前の剣は粗い。と言われ舌打ちをしていた太刀筋で、敵を斬り続けている。頭突き、柄打ち、足払い、土方の剣は敵を倒せさえすれば何でもありだった。
さんざん斬るだけ斬ると、銃に持ち替えた。十歩駆けては振り返って撃つ。そのようにして、撤退した。
斬り合いは時代劇の花ではあるが、この時代において、既にそれはにっちもさっちもいかないときの最後の手段になっている。また、新撰組だからそれができたとも言える。
そして、その最後の手段を使うような機会が、多すぎる。
「また、負けた。無様なもんさ。なぁ、近藤さん」
土方は、思った。思わず、口に出てしまってはいないか、と一瞬不安になったが、周りの隊士は、ただ戦い疲れた顔をしながら、若松を目指しているだけであった。
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それを志すには、蜀漢はあまりに小さく、弱き国である。
国を、民を背負い、後の世で暗君と呼ばれることになる劉禅。
そして、若き天才として国の期待を一身に受ける事になった姜維。
二人は、沈みゆく祖国の中で、何を思い、何を目指し、何に生きたのか。
志は同じであっても、やがてすれ違い、二人は、離れていく。
これは、そんな、覚めゆく夢を描いた、寂しい、物語。
【 毎日更新 】
【 表紙は hidepp(@JohnnyHidepp) 様に描いていただきました 】
魔斬
夢酔藤山
歴史・時代
深淵なる江戸の闇には、怨霊や妖魔の類が巣食い、昼と対なす穢土があった。
その魔を斬り払う闇の稼業、魔斬。
坊主や神主の手に負えぬ退魔を金銭で請け負う江戸の元締は関東長吏頭・浅草弾左衛門。忌むべき身分を統べる弾左衛門が最後に頼るのが、武家で唯一の魔斬人・山田浅右衛門である。昼は罪人の首を斬り、夜は怨霊を斬る因果の男。
幕末。
深い闇の奥に、今日もあやかしを斬る男がいる。
2023年オール讀物中間発表止まりの作品。その先の連作を含めて、いよいよ御開帳。
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