夜に咲く花

増黒 豊

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第八章 戦乱のはじまり

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 新撰組は、慶応四年一月十五日、横浜に上陸した。淀で傷を受けていた監察の山崎丞は、船の中で死んだ。横浜に上陸したのは、結局、四十名にも満たぬ。鳥羽伏見の戦いの前に、土方は隊の金を全て配り、一日、全隊士に暇を与えたという。それきり、戻ってこない者がいたり、戻ってきても戦いで死んだりで、結局これしか残っていない。伏見で募集した最後の隊士達は、見習いとしてこの数には含まぬ。それが二十名余りいる。戦いに敗れたことと慣れぬ船旅で襤褸ぼろのようになった彼らは、一様に品川の宿に一旦入り、五日後の二十日に鍛治橋大名小路の屋敷に入った。
 徳川慶喜は、寺で謹慎している。その警護を、新撰組が行った。土方は、近藤と沖田のいる療養所の寝台に腰掛け、あいつは謹慎するために兵と軍を捨て、逃げたのか。と悪態をついた。それが終わると、新たな任務が与えられた。
「甲陽鎮撫隊」
 と書かれた紙を、土方は久二郎をはじめとした組長格の者に見せた。江戸に着いてすぐに土方は髷を落とし、総髪の撫で付け、現代で言うオール・バックにし、黒地のコートにズボンという洋装になっている。一同は、その姿に見慣れず、こそばゆいような心持ちがまだ取れぬが、ぎらぎらと光る目と子供っぽい口元は、変わらなかった。
「なんです、これは」
「これが、今日から俺達の名になるんだとよ」
 土方は、興無げに、その紙片を畳の上に滑らせた。
「甲陽、ということは、甲府へ?」
 永倉が、言う。
「江戸へ向かって進軍してくる官軍どもを、甲府で迎え撃て、とのことだ。いや、江戸からさっさと出ていけ、の方が正しいかな」
 土方は苦笑した。
「どういうことです」
「俺の、勝手な考えだがな。俺たちが江戸にいては、旧幕府の連中は何かとやり辛い。新撰組という名は、薩長の恨みを買いすぎているからな。だから江戸から出し、名も変える」
「なんと」
「金も、たんまり出た」
「それで、どうするのです」
 土方は、威勢よく笑い、立ち上がった。オール・バックの髪を、ひとつ掻き上げる。
「どうする?妙なことを言うもんだ、新八っつぁん」
 身の丈六尺三寸ほど、当時にすれば背の高い方だから、土方は洋装が似合う。それが障子を開け放ち、縁側に出た。出て振り返り、差し込む冬の日差しを背負って言った。
「俺ァ、鳥羽伏見で戦って、分かった。もう、刀を振り回してちゃ、駄目なんだ。今までも、新撰組は洋式の調練を繰り返してはきたが、駄目だな。これからの戦いは、装備だ。個人の技量じゃあねェ。集団の火力が、重くなってくる」
 戦いのことを、熱っぽく語り出した。
「俺たちは、新しい新撰組になる。お役人の顔色は、気にせぬ。気にせぬからこそ、名など何でもよい。いいか、俺たちは、新撰組だ。例え別れても、そう思う者がある限り。俺は、新撰組を、この国で一番の軍にしてみせる」
 ずっと黙っていた久二郎は、あぁ、自分は、これからの戦いのために生まれ、生き、斬り、殺してきたのだ、と思った。それはまるで、薄紙に水が染み広がるように、久二郎の心に行き届いた。この逆境の中、時代の流れが、自分たちを置いて遥か彼方に過ぎ去ってしまったことくらい、彼には分かる。恐らく、この場にいる誰もが。だからこそ、なんのために生き、戦うのか、個人の心に問わねばならぬ。土方は、たぶん、幕府のため、会津のため、京の安寧のためという行動動機が失われ、悩んだに違いない。隊をどう導いてゆくのか、全責任は彼にある。迂闊なことをして全滅させ、賊軍の悪の根源のような形で新撰組の名を残せば、彼が今まで関わった全ての人間に対し、合わせる顔がない。
 だが、彼は、いつも突拍子のないことを発想する頭脳の持ち主である。その重圧、先の見えぬ闇を払う術を個人個人に委ねたというのも、それと関わりがある。皆が、自分のための戦いをしろ、と彼は言うのである。意地を、正義を、各々、思う様示せ。土方の新撰組の運営方針は、それだけになった。
 まず、形から。おそらく、船の中で、そのようなことをずっと考えていたに違いない。品川に入るや否や、すぐ髪結いのもとに向かい、髷を落とし、洋服を仕立てた。
 これまでの自分との、訣別。そして新たな戦いの、始まり。
 それらを、たった一言で、全員に伝えた。
「俺たちァ、ここからだ」

 三月一日。彼らは、江戸を出立する。江戸の被差別民ら二百名余りを軍に取り入れ、それらにミニエー銃をことごとく持たせた。彼らは血気盛んで、頼れそうな面魂だったが、実戦になればどうなるかは分からない。やはり、核になるのは、本来の新撰組隊士だ。
 東山道を進軍してくる官軍。それより先に、甲府城に入る。それで戦いの勝敗が決まると言っていい。しかし、近藤は、ゆっくりと甲州街道を進んだ。途中の宿場を借り切る勢いで、新たに加わった二百名に女を与え、自らも宴を催した。近藤や土方の故郷である多摩に泊まったときなど、もっと凄い。彼らは地元から出た英雄だけに、多摩の人々が彼らをもてなす様は、尋常ではなかった。
 近藤は、無邪気に立身を喜び、地元の人にそれを見せつけたかったわけではない。彼には、考えがある。いかに人数が増えたとはいえ、この急造の隊を掌握し、戦わねばならぬのだ。それには、新たに加わった者どもに近藤、土方を将として仰がせねばならぬし、心を一つにして戦いに臨まねばならぬ。そのため、近藤は、急ぐことをあえてせず、泊まりを多くし、多摩では大名のような扱いを受け、隊士の心を掌握しようとした。現に、新たに加わった二百名の者どもの間では、近藤を、「殿様」と呼んでいる。
 いよいよ明日甲府に入るというとき、近藤は土方に言った。
「歳、どうだ。勝てるか」
 土方は、あいまいに、微笑わらった。甲府へ放った物見が、そろそろ戻る頃である。土方は、近藤が唱え、実行してきたこの行軍について、何も言わない。彼自身の考えで言えば、さっさと甲府に入り、城を押さえるべきだった。そうすれば、べつに新たな隊士の心がばらばらでも、官軍はそもそも甲府には入れぬのである。
 しかし、土方は、何も言わなかった。何故かは、彼にも分からぬ。決して、官軍を侮っていたわけではない。新撰組のゆく末を、諦めたわけでもない。本来ならば、さっさと行軍して甲府を押さえ、官軍を撃退してからゆっくりと故郷に錦を飾ればよい、と意地でも食い下がったところである。しかし、ただなんとなく近藤の思う通りにしてやりたかったのだ。
 それがため、放っていた物見から、既に官軍は甲府に入っている旨の報告を聞いたときは、やはり、と思った。
「歳、どうする」
 とは、近藤はさすがに隊士の前では言わない。
「どう思う」
 と、ゆったりと言った。土方が何か言う前に、久二郎が立ち上がった。永倉も、原田も、斎藤も。
「戦うまでだ」
 土方も、立ち上がった。
 つい先頃まで、京で威勢を張っていた新撰組も、今は逆境ばかりである。しかし、土方は、もう一度、言った。
「俺たちァ、ここからだ」
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