夜に咲く花

増黒 豊

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第七章 夜

お天道様を道標に

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 彰介は、とても嬉しかった。今、自分は、久二郎と対等だ。
 幼い頃から、久二郎は、いつも彰介の一歩前にいた。寺で書を読むにしても、彰介の読めぬ字を久二郎は読めたし、大人達と話すのも、久二郎は上手かった。彰介は、いつもその影で、大きな身体をもじもじさせていた。
 それは、新撰組に入ってからも続いた。同じように久二郎は彰介の先に立ち、彰介は久二郎の影にいた。
 伊東に出会ってから、それが変わった。今、久二郎に剣を向けているのは、伊東のためだ。自分を、久二郎と対等の者として、向き合える場を与えてくれた、伊東のため、彼は戦う。いや、それは違う。ほんとうのところは、彼自身のためだった。彼は、彼のために戦う。久二郎の屍のその先に、彼の誠があるからだ。
 粉雪が、月を吸って光っている。美しい、と彰介は思った。自分と久二郎との間にある粉雪の数を、数えてみたくなった。それが舞い、踊り、揺れ、乱れ、吹かれ、運ばれ、そして落ち、融ける。
 思えば、生きるということも、このようなことではなかったか。生きているということは、このようなことではなかったか。分からぬが、なんとなく、そう思った。

 久二郎は、動かない。いや、動けない。彰介は、これほどまでに大きかったか。久二郎は、べつだん背は高い方ではない。しかし、彰介を今目の前にして、彼はその大きさに驚いていた。それは、久二郎が、彰介を対等の者として見ているからなのか。彰介が、自分の姿の向こうに何を見ているか、知っているからか。
 その大きな体と久二郎との間には、雪。雪は、雪。しかし、落ちれば、水になる。雪は、舞っている間だけ、雪でいられる。落ちて水になった雪は、果たして幸福なのか、不幸なのか。たぶん、雪の間は、早く水になりたいと思い、いざ水になれば、雪を見上げ、羨ましく思うのかもしれぬ。
 思えば、生きるということも、このようなことではなかったか。生きているということは、このようなことではなかったか。分からぬが、なんとなく、そう思った。

 二人は、一つだった。久二郎は、彰介をとても好きだったし、とても信頼していた。彰介もまた、そうであった。剣は、互角。棒切れ遊びも、竹刀も、ほとんど互角。真剣では、やったことがないから、分からない。今日、たぶん、それが分かる。
 勝った方の勝ちではない。勝った方は、死んだ方が抱いていた誠を背負い、更なる旅に出なければならない。これまで、久二郎も、彰介も、そうしてきた。新撰組とは、そうやって、ここまで来たものなのだ。
 不思議と、久二郎は、今から彰介を斬るということに対して、納得していた。たぶん、彰介も納得している。二人の間に、何故、はない。今、こうして、剣を向け合っている悲劇を、彼らは気にも止めない。あるのは、対等の者として、互いの前に立つ喜び。
 その証拠に、彰介は、笑っている。久二郎も、笑った。

 剣。ぶつかり合い、明るく夜に咲いた、火の花。
 大上段に構えた彰介の、強烈な振り落とし。それを、久二郎が擦り上げた。
 彰介の体が、開く。
 その開きに、久二郎は、必ず、刀を入れてくる。彰介には、それが分かった。久二郎が刀を振る前から、その軌跡が見えた。
 その気になれば、足の裏同士であっても、会話ができる自信がある。
 だから、彰介には、久二郎の剣が見えた。
 それが来る前に、むしろ踏み込む。
 頭突き。
 久二郎が、下がる。
 下がって、正眼。
 痛みは、感じていないらしい。
 やや、腰が落ちているか。
 雪も、月も、周りで争う新撰組と御陵衛士の命の声も、消えた。二人だけが、この世にあった。もっと言えば、二人は、一つだった。
 ただ一字、誠。
 久二郎は彰介に己を見、彰介は久二郎に己を見た。
 互いの屍の背後に伸びる、誠の道を。
 それに、互いが、同時に踏み出した。
 また、鉄の花が一瞬だけ咲いた。
 斬られたかどうかは、分からぬ。
 斬った感触は、互いにあった。
 彰介の、振り落とし。
 それが、久二郎の左肩口に来た。
 来たが、久二郎が避けた。
 久二郎が、応じて薙ぐ。
 それを嫌い、彰介が受け流す。
 流れた刀の筋を定めるため、久二郎が、一歩、出る。
 身体が、ぶつかる。
 ぶつかって、離れた。
 汗。流れ落ちて、雪が融けた水の中に、混ざった。
 それを、二人が見ることはない。
 二人が見るのは、前。
 そして、その向こう。
 剣は交差し、血は飛び、肉は斬れた。
 とてもゆっくりと、時は流れた。
 毎日が、あれほど慌しく過ぎるくせに、今二人が過ごしているこの時は、とてもゆっくりと流れていた。
 これまで二人が過ごしてきた時間よりももっと長い時間が、二人の間を流れているようだった。
 満ちては、引いてゆく。
 引いては、満ちてゆく。
 それは、月の光の中に消えてゆく、二人の息。
 久二郎からは、彰介を通り過ぎた向こうの闇の中に、それが白く見えた。
 彰介からは、久二郎の長く伸びた影の上を通るとき、それが白く見えた。
 勢い。
 呼吸の、溜め。
 それを、放つ。
 渾身の一撃。
 互いに繰り出す、必殺の。
 笑っていた。
 彰介の、血を浴びながら。
「お天道様を、道標みちしるべに」
 彰介は、言った。久二郎は、頷いた。
「彰介」
 彰介の名を、呼んでやった。今から、この最も愛しい男は、死ぬのだ。
「彰介。俺は、ゆく。お前の、向こう側へ」
「久二郎」
 彰介も、同じようにした。
「久二郎。俺は、先に、ゆく。そこで、お前を、待つ」
 久二郎の握る二尺五寸の光が、彰介の肩を、肩甲骨かいがらぼねを、背骨を、臓腑を、その命を、断ち割った。
 彰介は、手を伸ばしながら、膝をついた。
 久二郎の方へ、その向こうへ、手を伸ばしながら。
 月と雪が、二人を慰めるように、ことほぐように、降った。降って、落ちて、そして、止んだ。
 樋口彰介は、死んだ。

 争闘は、終わった。結局、服部、毛内、藤堂、彰介の四人が死に、半数は逃げた。それを無理に追うことを、土方は命じなかった。ただ、藤堂の亡骸の方に歩いてゆき、その眼を閉じてやりながら、何か声をかけてやった。それが済むと、彰介の亡骸の前に座り込む久二郎の方に歩いてきて、その肩に手をそっとかけた。
「よく、やったな」
 なんとなく、引き上げになった。土方は、隊士を率い、屯所へと戻っていった。永倉も、原田も、斉藤も、井上も、それに続いた。永倉がちらりと久二郎を振り返ったが、久二郎が動く様子はない。
「綾瀬」
「先に、行っていて下さい」
 久二郎の声は、思ったよりもずっと、はっきりとしていた。
 ただ、泣いていた。
 なんのために流す涙か。
 久二郎は、泣いていた。友のために。自分のために。今は、泣くことしか、できなかった。
 久二郎は、彰介の誠を背負い、生きてゆかなければならない。
 だから、今くらい、泣いても咎める者などない。
 雪の止んだ土の上は、今なお、濡れ続けている。

 久二郎が、彰介のそばを離れたのは、それからしばらく経ってからだった。血振りをし、納刀する。立ち上がり、彰介に背を向け、歩いた。少し歩いて立ち止まり、口の中だけで言った。
「俺は、ゆく。お天道様を、道標に」
 歩き出した。
「さらば、彰介」
 そのまま、久二郎は屯所に戻らず、自宅に戻った。起き出してきた春は、傷だらけ、血塗れの久二郎を見て、驚いた。
「お怪我を?大事は、ありませんか」
 久二郎は、柔らかに微笑わらった。
「大したことはない」
「こんな時間まで、お勤め、ご苦労様でした」
 久二郎は、着替え、布団に潜り込んだ。春の体温が、冷え切った身体に心地良い。
「春」
 春は、久二郎の傷に触れぬよう、その身体に手を添えた。
「彰介が、死んだよ」
 春に、彰介の死について久二郎が言ったのは、それだけだった。
 もう、涙は、流していない。
 あの涙は、久二郎と彰介の、二人だけのものであるから。
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