夜に咲く花

増黒 豊

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第七章 夜

蝉の声

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 六月になった。三年前の元治元年の同じ月、新撰組は池田屋でその勇名を馳せた。あの頃は良かった。などとは、誰も言わぬ。それは、後代になってから彼らの足跡を追う我々が、その頃が一番新撰組が生き生きと働いていたような印象を持つから言えることであって、その日を生きる彼らにとって、そのように思う余地はない。彼らにとっては、いつも今日があり、その続きに明日があるだけである。それほどまでに、世は激しく動き、その脈を早めている。明日、世の中がどうなっているかなど、誰にも分からぬ。薩長同盟を結び、倒幕へと走り出した薩摩、長州ですら、ほんとうに幕府をすぐに無くし、あたらしい国家を作ることができるとは思っていない。幕府が強大であるからこそ激しく抵抗をし、策謀を巡らせるのである。
 時代には、流れというものがある。この時代の、いわゆる志士と呼ばれる人達は、よく本を読む。太平記、東鑑、日本外史、資治通鑑などが特に好まれ、大陸の三國志や兵書の数々なども好まれていたようだが、そのどれにも、時代には、流れというものがある、というようなことが記されている。劣勢、少数であっても、時の勢いの後押しがあれば、寡は多となり、劣は優となることがあることを、先人達の教えにより彼らは知っており、それを信じていた。
 信じるだけでなく、それを実行しようとする気概と、実現させうる知恵と力があった。神風が勝手に吹き、徳川幕府の屋台骨を壊してくれることを期待したわけではない。彼らは、その身を犠牲にしてでも、この国を洗い流す激流たらんとし、古きものを吹き飛ばす風たらんとした。
 
 新撰組の役目は、それらから、守るべきものを守ること。それは人々の暮らしであり、街の安寧であり、世の平穏である。すなわち、薩摩も長州も新撰組も、そこに関しては全く変わりはない。誰も、この国の消滅を望み、全てを滅ぼし、無に帰すことなど望んではいない。
 ただ、民は、国は、守られなければならぬ。それを為すものこそが幕府である、それをたすけることこそ誠、というのが佐幕。いやいや、幕府にはそんな力はもはや無い。無いなら、自分達を守れる仕組みを持つ国を作らねばならぬというのが、倒幕。すなわち、佐幕は固定の手段としての理念があり、倒幕は理念が先にあり、その実現のための手段があるという違いである。
 たったそれだけの違いが、歪みを生み、その真空に向かって時代が吹き込んでいるのだ。時間とはいつも変わらず流れる普遍的なものであるということは疑いようがないが、どうやら、この時代に限っていえば、そのような形而下の概念はどうでもよいらしい。
 たとえば、久二郎にとって、普遍のものと言えば、己を信じる心、誠の一字しかない。そのためになら、彼は鬼になれた。土方しかり、近藤もまたしかり。そういう意味で、彼は、この異常な流れ方をする時間の中に存在する、ごく一般的な存在であった。筆者のひいき目で、久二郎ばかりを格好良く描いてしまいがちであるが、久二郎と他の同時代の人の違いは、剣を向ける相手を前にして、怯まぬかどうかくらいの差しかない。
 久二郎は、蝉の声と川の音を聞きながら、五番組組長である武田観柳斎の死体を、見下ろしている。右手には、つい先程まで武田の体内にあり、命を循環させていた血液が滴る、二尺五寸の刀。銘も、何も無い。しかし、斬れた。当たり前であるが、刀が自発的に敵を斬ることなどない。久二郎が振るうから、斬れるのである。武田を斬ったのは、彼が誠を失ったから。それだけのことであった。

 この頃、薩摩と長州の同盟のことは、既に周知のこととなっている。それに、土佐が絡んでいることも。更に、肥後やその他の反幕的な諸藩が集まれば、それは激しい流れとなる。格好ばかりを気にして人に嫌われる武田でも、己の才知を売って生きている以上、それくらいのことは分かる。その才知が、武田を惑わせた。武田は、自分が隊の中でどのような眼で見られているか無論知っている。山南が死に、伊東が脱盟し、近藤の相談役は自分に回ってくると思った。しかし、近藤、土方は、武田を重用することはなかった。武田には、自らを売り込む才能と容儀を良く見せる能力はあったが、山南のように隊の行く末を案じ、あらゆる可能性を考慮し、何手も先を見据えることはできなかったし、今はそれは土方が行っている。また、伊東のように、あちこちに広い顔を持ち、反幕派を含めたあらゆる立場の者の生の声をもとに時勢を浮き彫りにする分析力と、それを朴念仁の近藤に分かりやすく提示する力もないのだから、仕方ない。
 近藤はとても優しく、隊士思いの男だから、べつに武田を遠ざけたり、邪険にしたりはせぬが、だからといって、情と義理だけで、その器に無いものをその座に据えるようなことはしない。
 ちょうどこのとき、新撰組が、正式に幕府召し抱えとなることが決まった。今までの会津御預から、公儀御直参になったわけである。言い換えれば、もともと士分であった者、脱藩浪士、近藤、土方のような半農半士の身分の者から、久二郎のように生まれながらにして農民の者まで、その出自を問わず、新撰組にいる者は一様に幕臣となった。彼らは、名実ともに侍になったのである。
 実は、これよりも前から打診はあったのだが、伊東の反発によってそれは先送りになっており、実現しなかった。伊東はもうおらぬので、この際に、幕臣取り立ての話が一気に進んだわけである。
 皆、喜んだ。しかし、喜ばぬ者もあった。数名の隊士が、志のために藩をけ、新撰組に入ったのに幕臣に取り立てられては先の主に対し、失礼になると訴えた。それが、隊を脱し、伊東のもとへ走り、断られ、会津に懇願し、それも容れられず、やむなく揃って腹を切るという事件があった。隊の中は、そのことで大いに慌ただしくなり、乱れた。
 武田は、その隙に、脱走した。新撰組の監察とは恐るべきもので、この混乱の中、武田が脱走したその夜のうちに、武田が、御陵衛士が最近移ったばかりの東山の高台寺月真院に向かい、ほうほうの体で追い出されたあと、薩摩藩邸を頼り、長く話し込んでいたことを探り当てている。
 すぐ、組長格のものが集められた。沖田は、いない。このところ、ずっと寝込んだままである。身体が相当に悪いらしい。あの清潔な沖田に死の陰が迫っているのを見るのが、久二郎は辛かった。どれだけ剣が強くとも、どれだけ志を高く持とうとも、斬られれば死ぬし、病を得れば死ぬ。しかし、沖田に迫り来る死は、なにかとても高尚なもののような気がして、それが久二郎は怖かった。死が、高尚なはずはない。死とは、もっと、むごく、惨めで、生臭いものであるはずだ。
 しかし、今、自室で臥せっている沖田は、どうしても透明で、どうしても輝かしい。

 沖田のことは、よい。今は、武田である。土方が命じる前に、久二郎は、剣を執り、立った。
「綾瀬。話は、まだ終わってねェ」
「私に、お命じになるのでしょう」
「以前の、田中の一件もある。お前ばかり、辛い役目を引き受けさせるのも、どうかと思ってな」
 久二郎は、吹き出した。
「副長も、案外、お優しい」
「なんだよ、綾瀬、鬼の副長に絡むとはよ。珍しいじゃねぇか」
 だらしなく着物の前をはだけさせた原田が、面白そうに囃し立てる。いつも、藤堂と二人で馬鹿なことを言い合い、騒いでいたのだが、藤堂と離れてから、火の消えたようになっている。
「そうだ。今回は、俺に代われ」
 田中の件で、久二郎と役目を交代した永倉が、久二郎を気遣い、言った。また、久二郎は吹き出した。
「永倉さんは、人を斬りたいのですか」
「なんだと」
「永倉さんは、自ら進んで、人を斬りたいのですか」
「馬鹿な。そのような者、いるはずがない」
 一座が、緊張に包まれる。永倉は、久二郎の心が壊れようとしているのかもしれぬと、危惧をもった。
「では、綾瀬は、人を斬りたいのか」
 土方が、言った。そちらを向いて、久二郎は、ぱっと笑った。
「まさか。嫌に決まっているではないですか」
「では、今回は」
 それを、遮って、
「だから、私がゆくのです」
 夏用の麻の黒の羽織を身にまとい、久二郎はゆく。潜伏先は、竹田街道の銭取橋。伏見へ抜けて、何をしようとしていたのか。人と会うつもりだったのか、大坂に出るつもりだったのか、伏見の薩摩藩邸に向かうつもりだったのか。それは、もはや、どうでもいい。
 誠に背けば、死。

 こうして、久二郎は、武田の前に立った。夜通し歩き、昇ったばかりの陽の光の中、蝉の音を聞きながら、橋の下の汚れたむしろの上に寝転がる武田を、見下ろしている。久二郎の影に陽射しが遮られ、気持ち良さそうに眠っている。やがてそれは眼を覚ました。
 はらわたが口から飛び出るかと思うほどに武田は驚いた。失意の中、ここまで来て、気にしている身なりを整えることもできず、服は汚れ頭は縮れ、髭も伸びている。明日こそは、と毎晩、願った。昨夜も、そうした。そしてその明日という日が来たとき、死が、目の前に立っていた。
「武田さん。お目覚めですか」
 死そのものが、声をかけてきた。
「お抜きなさい」
 刀を抜く間もなく、斬られると覚悟した。しかし、抜けという。死を乗り越えられれば、生きられる。武田は、ゆっくりと起き上がり、乱れた頭を撫で付け、襟を正した。それから、ゆっくりと、刀を抜いた。
「お待たせ致した」
 鞘が転がる乾いた音が、川原の砂に響いた。油蝉が、いよいよかまびすしく鳴いている。
 武田は、剣など使えぬ。格好ばかりで、全くもって弱い。それでも、死を覚悟し、その先にある生を掴まんとする構えには、それなりの迫力があった。
 武田に死を運んできた久二郎にも、死は見えている。それと眼を合わせながら、ゆっくりと腰を落とした。鯉口を切り、右手は柄に。
 武田が、仕掛ける。真っ直ぐに突き出されてくる刀に向かって、久二郎はむしろ踏み込んだ。落とした腰を、捻る。
 朝の光が、久二郎の腰から、放たれる。
 それは武田の緩慢な突きを弾き、大きく開いた身体を、肩口から割った。
 蝉の声と川の音が、戻ってきた。蝉が、久二郎に何かを急かしている。川の音は、滔々とうとうとして久二郎に急ぐなと訴えかける。それを聞きながら、久二郎は、ただ見下ろしている。自ら作りだした、新たな死を。
 つい先程まで武田の体内にあり、その命を循環させていた血液が滴る、二尺五寸の刀。
 それを、何と形容したらよいものか、久二郎にも、筆者にも、分からぬ。
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