夜に咲く花

増黒 豊

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第六章 乱れ

三条制札

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 その後、なにか事件があったとするならば、まず七月に将軍徳川家茂が死んだことであろう。その衝撃は、新撰組を、幕府を、そして国を揺るがした。折しも、長州征伐のため、将軍自ら出陣の機会を待ち、大坂に滞在しているときであった。
 既に六月から戦闘は始まっており、しかも幕府に不利な戦況であった。長州の軍備は幕府の連中が驚くほどに整えられ、しかも幕府方の巨魁である薩摩がいっこうに動こうとしないという状態である。その中、将軍が死んだわけだから、幕府もつくづく運がない。死んだ将軍の跡を継いだのが、一橋姓を持ち、最後の将軍として有名な徳川慶喜である。早くから、水戸の一橋公と呼ばれ辣腕を振るってきた、やり手の男である。才知に長け、複雑に様々な要因の絡み合う時勢の糸の本筋を見事なまでに掴み、ほどくことができる力量があった。しかし、気にむらがあるのか、たびたび前言を翻すことが玉に傷であった。
 このときも、先代の意志を継ぎ、自ら先陣に立って長州を撃滅せんと息巻いて、一度はそのように宣言したが、いち戦局において幕府軍が撤退をしたという報せを聞くや、兵糧の消費による諸藩の米価の高騰による一揆や打ち壊しなどの世の乱れを理由に、取り止めてしまった。

 もし、この慶応二年に流行語大賞を設けるとするならば、間違いなく、「世直し」であろう。皆が、世直し世直しと口々に叫びながら、農民は農具を手に暴れ、町人は米屋を打ち壊したり、火をかけたりした。
 いよいよ、世は混沌としている。新撰組のこの期間の目立った活動は、特に記されていない。世がこれほど乱れていたから、暇であったはずはない。たぶん、誰それが逃げたとか、長州の大物を捕らえたとか、そのような暇もないくらい、かといって大きく歴史に残るほどでもないような細かな事象に、日々忙殺されていたに違いない。
 久二郎の十一番組にも、ひっきりなしに出動命令が下る。どこそこで町人が暴れているとか、どこそこで火が出たから住民を避難させろとか、その内容をいちいち書いても、きりがない。
 久二郎にとっては、これでは世が治まったら一緒になるどころか、春と二人で過ごす時もない。久二郎だけでなく、ぜんざい屋の花といい仲の藤堂、その他永倉、原田など京に女のいる者皆がそうであった。彰介などは、菊のことがあって以来枯れたようになり、飲みにも行かず、ただ隊務に励み、暇な時間があれば書見などをして過ごしているが。
 近藤も、京に女がいる。しかも、一人二人ではない。あちこちに女を囲い、どうやら子までいるらしい。その子も、父の顔をいつになったら見れるのやら、と隊の者が噂するほど忙しい。
 一つ、書き応えのありそうな事件があるとすれば、三条大橋の西詰にある制札場という幕府からのお達しなどが書かれた札を掲げる――よく時代劇で町人が寄り集まって見上げている立て札である――場所から札が抜かれ、鴨川に捨てられるということが頻発した。三度目で、新撰組に制札場の守備要請が来た。
 出動したのは、二番組、三番組、十番組、十一番組。すなわち、永倉、斎藤、原田、久二郎の組である。選りすぐりの精鋭と言っていい。
「どこの悪餓鬼が、そんな馬鹿なことをするのか」
 永倉が、面倒そうに溜め息をつく。東詰の料亭を借り切り、二階の座敷から、久二郎と共に橋の上の往来を眺めている。西詰めでは、斎藤と原田が同じようにしていることであろう。
 夜になっても、とくに怪しい者は通らぬ。しかし、戌の刻過ぎに、ばたばたと三条大橋を西に向かって駆けてゆく人影があった。数えれば、八名。
「綾瀬」
 久二郎を促し、二人、店を出る。二組の隊士はあらかじめ決めた通り、店の前で待機。呼子の音がすれば、一斉に橋向こうの制札場に駆け付ける。
 西詰では、早くも三番組、十番組が戦闘を開始している。敵は八人とはいえ手強いようで、なかなか包囲できずにいる。
 二番組、十一番組が駆け付けると、敵は散った。一人、久二郎と同年代と思われる若い男が、二番組と十一番組の方へ駆けてくる。散った浪士どもが、その後ろに続く。
 若い浪士が、久二郎と永倉に刀を向けてきた。
「大人しく、縄につけ」
 久二郎は、刀を正眼に。永倉も、同じようにしている。
「皆、行きや!」
 土佐弁。土佐の、浪士である。しかも、恐ろしく強い。久二郎と永倉の二人がかりでも、容易にその身を斬らせぬ。攻めては防ぎ、防いでは攻めして、近寄ることができない。しかも、橋の上のことである。新撰組の数が、活かせぬ。
 制札場の前では、二人の浪士が、原田、斎藤の隊と戦っている。その間を、浪士どもは通り抜け、夜の中に散ってゆく。
 逃げた者を追うのに、三番組、十番組の隊士も散った。
「馬鹿、散らすな」
 永倉が叫ぶ。しかし遅い。五人までは、逃げたか。残るは、三人。
「藤崎吉五郎」
 そこで、はじめて久二郎、永倉と向き合っている男が、名乗った。
「彰介」
 久二郎は、祇園の方へ抜けられぬように橋をふさいでいる彰介に、声をかけた。
「東は、もうよい。西に逃げた者共を追うのを、手伝え」
 彰介は、黙って頷き、西の木屋町方面へ駆けてゆく。二番組の隊士も、永倉が同じようにさせた。
「新撰組、十一番組組長、綾瀬久二郎。参る」
 久二郎が、一歩前に出る。永倉は、刀を構えたまま、退がる。
 トントンと橋板を踏むと、久二郎は仕掛けた。
「綾瀬。池田屋にいた、綾瀬か」
 藤崎と名乗った男が口を開いた。相当な使い手であるが、緊張を隠せぬのか、綾瀬。のところで声が裏返った。
「いかにも、いた」
「藤崎八郎という名を、知らんか」
「知らぬ」
「池田屋でおまんに斬られた、わしの兄じゃ」
「そうか」
「斬った相手の名ァくらい、覚えちょけや」
「いちいち、覚えていない」
 鴨川の上を滑る風が、橋の上に駆け上がってきた。
「おまんら、狂っちょる」
 狂っているのは、反幕派の連中である。何故、この国難のときに、幕府をたすけず、困らせるようなことばかりをするのか。そのようなことを、久二郎は言った。
「ま、お互い、話しても分かり合うことはできぬから、こうして剣を向け合っているのだな」
 永倉が、呑気な口調で言った。西詰で戦う浪士二人のうち一人が、原田の槍にかかるのが見えた。
「何故、お前の兄を俺が斬ったと思う」
「瀬尾さんが、言うちょったわ。八郎も、綾瀬いう奴に斬られた、とな」
「瀬尾瞬太郎のことか」
「知っちゅうがか」
 いかに土佐者でも、ここまで丸出しの土佐弁で、他国者に話すことはまずない。この憐れな弟は、兄の死に触れて急ぎ京に上って間もないか、よほど激昂しているかのどちらかであった。
「瀬尾は、今、どこにいる」
「知らん」
「では、坂本は、どこにいる」
 久二郎は、この眼の前の男の向こうに、斬るべき相手を見ていた。瞬太郎との決着は、つくのだろうか。
「知らん」
 気合いと共に、斬りかかってきた。その刀を、久二郎は受けた。永倉が、開いた脇腹を斬ろうと踏み出す。それを、
「永倉さん、手出しは無用」
 と制した。
「この男の兄を斬ったのが私ならば、この男には私と戦う理由がある。私は、それに応える」
 鍔競り合い。鉄が、臭う。久二郎が、押した。
 押したところで、藤崎は退がった。そのまま飛んで、橋の欄干の上に立った。猫のような身のこなしである。
「驚いた。まるで、牛若丸だな」
 久二郎も、義経記や御伽草子くらいは読んでいる。
「さながら綾瀬は、千人斬りの弁慶か」
 後ろで永倉が、笑った。強敵を前にし、捕らえるはずの浪士を五人まで逃がしても、余裕を失わないのが永倉という男である。
「これで、千人目です」
 久二郎も、応じてやった。欄干の上の牛若丸が、跳躍した。叫びながら、刀を振り下ろしてくる。
 また、風。
 久二郎の視界が、夜とは別の昏さに覆われる。
 ゆっくりと、刀が、久二郎の脳天目掛け、降りてくる。
 藤崎の身体も、降りてくる。それを、見た。
 地に降り立ったとき、藤崎は、死骸になっていた。
 股ぐらから斬り上げられ、はらわたを飛び出させた死骸を見下ろし、久二郎は、刀にこびりついた赤黒い何かを懐紙でぐいと拭い、捨てた。
 ちょうど、風がまた駆け上がってきて、それを川へと運んだ。
 また、夜に花が咲いた。
「牛若丸が弁慶に斬られておれば、頼朝公も楽であったろうな」
 納刀。
 べつに、いつも冷静な久二郎が、急に冗談を覚えたわけではない。久二郎ですら、このような軽口を叩かねばやっていられないほど、人を斬っている。ふつう、一人でも斬れば、もとの生活には戻れぬという。久二郎は、これまで、一体何人斬ったのだろうか。それが、徐々に、久二郎の心を蝕んでいるのかもしれない。
 それでも、久二郎は剣を置くことはない。この世が、治まるまで。この世に、新撰組がある限り。彼の愛する女が、彼の帰りを待つ限り。
 久二郎は、戦う。あるのは、腰間の一剣。そして、誠の一字。
 新撰組十一番組組長、綾瀬久二郎は、斬った死骸を乗り越えて、三条大橋の西に広がる、行灯の光に濡らされた薄い闇の中へ早足で歩いてゆく。
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