夜に咲く花

増黒 豊

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第三章 法度

思い定める前に

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 木屋町まで、戻ってきた。土方には、知り合いから誘いを受けたので、ちょっと会いに行ってくる、とだけ言って出てきた。
「よし沼」
 と掲げられた提灯の店の、暖簾をくぐった。
「綾瀬という者ですが」
 と言っただけで、仲居はすぐに奥に通してくれた。
「失礼します」
 案内された部屋の、襖の前で声をかけた。
「おう、来たかい」
 中から、坂本の声。襖を開き、久二郎はまず部屋の中の様子を瞬時に見てとった。床の間には、季節の掛け軸と花活け。素朴に、菜の花が活けられているのが趣深いらしいが、久二郎の生まれた村などにはどこにでもあるもので、それをわざわざ飾るというありがたみが分からない。奥は障子が閉められているが、縁側があり、庭になっているらしい。上座に、坂本。昼間の、気の強そうな女もいる。その隣に、瞬太郎の顔があった。右側に、太刀と脇差しが置かれている。そしてその隣に、別の女。
 そこで、久二郎の目が、止まった。
「――せん?」
 たいそう着飾り、美しくしているが、それは紛れもなく、妹の千だった。つるりとした肌には白粉を塗り、素朴な線を持つ唇は、紅で彩られていた。一本だけ挿さった丹塗りのかんざしが、なんとなく悲しい。
「なんだ、知り合いか」
 坂本の声で、久二郎は我に返った。
「坂本さん。今宵は、お招きいただき、ありがとうございます」
「なんの、ゆっくり飲もうじゃないか、なあ、瀬尾瞬」
「久二郎、久しぶりだ」
 昨年、瀬尾と坂本が連れ立って歩いているとき、ばったり出くわして以来である。
「瀬尾さん、その女」
「ああ、千、と言っていたが、お前、まさか」
 千が、久二郎の方を見て、指を突いた。
お兄にい、お久しぶり」
 紛れもなく、千であった。
「何てこった。こいつが、お前が探してた妹だってのか」
「おうおう、何じゃ。俺にも分かるよう、話せや」
 坂本が、身を乗り出してきた。瞬太郎が、久二郎がもともと、妹を探すため京に上ってきたことを話した。
「瀬尾さん、千とは、どこで」
「いや、なに。すぐ近くの置屋にいてな。一目で気に入った。それ以来、いつもこうして飯を食う度に呼ぶのさ」
 坂本が、代わりに説明した。
「千」
「いまは、違う名です。千菊せんぎく、です」
 その名に、どうしても久二郎は馴染めない。
「なんだ、その取って付けたような名は」
「綾瀬、待て」
「瀬尾さん」
「千菊が、お前の探していた妹であったのは、まず良かった。しかしな、千菊は、俺の女でもあるんだ」
 久二郎は、二人を交互に見た。千が、困ったように眼を伏せた。
「それで、どうしはるん?」
 坂本の隣から、声がした。坂本の連れの、気の強そうな無愛想な女だ。当時、女が男に礼をせぬとか、男の会話に割って入るなど考えられぬことであったが、それは歴とした武家階級の話であるから、久二郎はべつに変だとは思わない。遊女であるならその辺りも厳しく教育されるはずであるから、もしかしたら、この女は、ただの町の娘なのかもしれない。身なりは、たいして良くはないが、普通の町娘の格好である。
「あなたは」
りょう、言います。それで、綾瀬さんは、どうしはるん?」
「どう、とは」
「あんた、新撰組なんやろ?簡単に抜けられへんて聞いたえ。この千菊ちゃんも、置屋におる。あんた、新撰組抜けて、千菊ちゃんを落籍くお金払ろて、家まで二人で帰れるん?」
 久二郎は、言葉に詰まった。たしかに、新撰組を抜けることは許されない。千を、ふつうの娘に戻してやるような金も、ない。
「まぁまぁ、龍。言い過ぎだぞ。まだお前、酒が入ってないじゃないか。せっかく、兄妹が会ったんだ。ほれ千菊、綾瀬に酒を注いでやれ」
 千菊の細い指が、慣れた様子で久二郎に酒を注ぐ。それすらも、久二郎は忌々しかった。
「千。お前は、どうする」
「わたしには、決められません」
「何故だ」
「ここに今いることも、わたしには、決めることなんかできませんでした」
 千は当人の言う通り、ただ流され、運ばれ、ここにたどりついただけの存在であった。
「お兄――」
 目を伏せ、上げて、
「――また、会いに来て」
 悲しいほど、愛らしい笑顔だった。久二郎には、どうすることも出来ぬ。無論、千にも。
「いい?瀬尾さん」
 ちらりと瞬太郎の顔を、見た。
「会ってやってくれ、綾瀬」
 その言い方も、久二郎の癪に障る。まるで、それでは千が瞬太郎のものになったようではないか。
 いや、実際、そうなのかもしれぬ。自分は、もう、千の人生に、立ち入ることなどできないのかもしれないとすら思った。
 離れてからの二年ほどの間、久二郎は必死に千を探した。だが、ほんとうに必死になって探したか。千のように流されに流された挙句、抜けることのできない新撰組の副長助勤となったのは、仕方のないことであったのか。そして、紛れもなく、それを自らの生きる道であると思い定めようとしている。
 小春の知り合いの、千によく似た千代なる遊女が死んだという話を聞いたとき、自分はどこかで、諦めはしなかったか。新撰組隊士として生きてゆくことを、深く決意はしなかったか。
 考えても、詮ないことである。久二郎は、新撰組副長助勤で、千は、瞬太郎の女である、千菊なのだ。
 考えても、詮ないことであるし、どうにも仕様がないということを、りょう、という「龍」の西国読みの名を持つ女は、どうしはるん?という一言で片付けたのかもしれない。
 
 まことにどうでもいいことではあるが、「龍」を、りょう、と読むのは、上方や西国ではよくあることである。たとえば、京のはるか西、観光地として賑わう嵐山に、「龍安寺りょうあんじ」という、世界遺産にもなっている有名な寺がある。あの有名な石庭がある寺である。
 わりあい近くに、「天龍寺」もあるが、こちらの読みは、てんりゅうじ、である。
 龍安寺の開基は応仁の乱で有名な細川勝元で、彼は摂津、土佐、讃岐、丹波の守護であったから、彼は龍と見てりょうと読んだであろう。
 しかし天龍寺の開基は足利尊氏で、紛れもなく彼は東国の人である。だから、龍、と書き、りゅう、と読む。

 それはさておき、久二郎は、酒を飲んだ。飯を一通り食い終わったくらいで、彼が最も気になっていること坂本に尋ねた。
「どうして、私を招いて下さったのです」
「なんだ。まだそんなことを言っているのか。立場に囚われ、馴染みの連れにも会えぬ。お互い、可哀想だと思っただけだ」
「いかに、一人の男としてここに来ようとも、私は、新撰組なのです」
「違うな。一人の綾瀬という男が、新撰組にいるのだ」
「分かりません」
「だろうな。急ぐことはない」
「それに」
 久二郎が、瞬太郎を見た。千菊が、こわばったような視線でそれを伺っている。
「瀬尾さんを見つけ次第、捕殺するよう、言われています」
「それについては、心配ない」
 瞬太郎が、杯を置き、久二郎を見た。
「俺が、お前に斬られることなど、万に一つも、ない」
 久二郎は、はじめて、瞬太郎の放つ、押し潰されそうになるほどに強い殺気に気づいた。この部屋の襖を開けたときから、いや、北野の大政道場ではじめて会ったときから、それはいつもあった。ただ、あまりに自然であり、しかも自分に向けられたものではないため、気付かなかった。
 瞬太郎の纏う死の気配が、久二郎をめ据えている。それが分かるのは、久二郎自身もまた、人の死を生む剣を振るうからであろうか。久二郎は、汗が流れてくるのをこらえようとしたが、汗をどうすれば止められるのか、知らぬ。
 坂本の、開けっ広げな声が、それを打ち消した。
「おいおい、芝居を見ているみたいだ。なぁ、龍」
 龍も、くすくすと笑っている。
「斬り合いをしに、そして死にに、わざわざ来たのか。綾瀬。変な奴だな」
「それでも、私は」
「まぁ、お前は、今日は、妹に会いにきたのだ。そういう風に、思っておけ」
「坂本さん」
「なんだ」
「もう、失礼します」
「そうかい」
「このままここにいても、私はたぶん、瀬尾さんを捕らえようとすることしかせぬでしょう。そう思い定めてしまう前に、失礼します」
 刀を執り、立ち上がった。
「あくまで、新撰組として、生きるか。綾瀬」
 瞬太郎が、声をかけてきた。
「私は、新撰組ですから」
 背中越しに、言った。視界の端にうつる千の顔が、見知らぬ女のように思えた。

 今日、誰にも会わなかった。そう思うことにした。
「次は、捕らえます」
 四条通りに出てから、背後の暗闇に向け、久二郎は言った。
「なんです、お気づきやったんですか」
 その暗闇から、山崎が現れた。
「もちろん、気付いていましたよ。副長のことだ、ただ知り合いに合いに行っただけとは、思って下さらないと思っていましたよ」
「失礼ながら、お話、ずっとうかごうてました。お察しします」
「次は、捕らえる。副長には、それだけ伝えてくれれば結構です」
「そういうわけにはいきません。ありのままを、お伝えします」
 そうすれば、意外と気の利く土方なら、事情を考慮してくれることであろう。
「見たまま、聞いたままをお伝えする。それが、私の仕事ですから」
 と大坂訛りの強い言葉で山崎は言い、また暗がりに消えていった。
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