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第三章 法度
遠雷
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原田が、気分が悪いと騒ぎ出した。
「大丈夫ですか、原田さん。飲みすぎですって。ちょっと、風に当たったらどうです」
「風ぇ?お前、俺を舐めてんじゃねぇぞ」
「はいはい。いいから、外に行きましょうよ」
沖田が、足元の怪しくなった原田を連れ出した。すぐに、廊下で原田の怒声が響く。
「原田君は、大分飲んだようだ。沖田君一人では心許ない」
山南が、立ち上がる。
「綾瀬君」
久二郎を、見下ろしてきた。久二郎は、一瞬、眼を閉じた。
それを開き、立ち上がった。山南が、頷きかけてくる。
「ちょっと、沖田さんを手伝ってくる」
彰介に声をかけ、襖を開けた。振り返ることはなかった。
店の前で、一同は待っていた。
「来たか。綾瀬」
先程までの酔いはどこに行ったのか、原田が槍を脇に挟みながら声をかけてきた。
「各々、手順は分かっているな」
「土方さんに、嫌というほど言い聞かされましたから。子供じゃあるまいし、あの人もしつこいんですよね」
「では、ゆく」
静かに、堀川通りを上がる。高辻で西に折れ、坊城通りでまた北へ。遠雷が、響いている。
余談である上、さいきんは比較的有名なことだから言うまでもないかもしれないが、京では、今でも、北へゆくことを「上がる」、南へゆくことを「下がる」という。京の街の碁盤の目を往来するにおいて、これは欠かせぬ感覚であるから、今後もこの言い方を用いてゆく。高速道路の上り、下りのようなものと思えばよい。
これは御所が京の区画の最も北にあることから始まった言い方で、それならば御所より北の区域(御所より北になれば京ではなく、壬生村のように何々村、という呼び方がある)になれば、南に行くことを上がると言わねばおかしいが、長い年月の中で、街の者の中で、御所を基準としているということが薄れ、単に北へ向かえば上がる、南へ向かえば下がる、という単純な概念をもって受け入れられ、用いられている。今でも、北へゆけば「北上」、南へゆけば「南下」と言うが、これは地図上分かりやすくするためのものであって、幕末においては進んだ測量技術などにより、北が上と記されることが一般的になってはいたが、京の街の上がる下がるは、地図上の話とは関係ない。
その証拠に、京の東の地域を「左京」、西の地域を「右京」と言う。地図を広げれば、右側が左京で左側が右京と、頭がおかしくなりそうになるが、これも簡単なことで、帝は必ず南向きに座する(もともと、我が国にあった太陽信仰と、大陸の、天子南面す。という慣例とが合わさった)ため、帝から見れば西が右、東が左である。
こんにちの京都市という市政になり、政令指定都市かつ県庁所在地として区を設ける必要にかられても、右京区といえば西、左京区と言えば東である。
さて、坊城通りを上がった一行は、屯所の前にたどり着いた。八木家の門をくぐり、芹沢がいる母屋の様子を庭から伺った。中からは、男女の笑い声がする。土方が、芹沢と共に先に帰り、芹沢、平間、平山の馴染みの女を呼び、部屋で飲んでいる。
声がやめば、土方が、雨戸をそっと外し、そこから久二郎らはなだれ込む。
さっきまで遠かった雷の音が力強くなり、雨が降りだした。その雨を受けながら、一同は待った。
なおも待った。
芹沢は上機嫌な様子で、中からさかんに笑い声を響かせている。
その笑い声が、止んだ。雨は、強くなっている。
全身がずぶ濡れになっても、微動だにせず待った。
雨戸が一枚、外された。
原田が立ち上がり、その場に残った。その雨戸の隙間から飛び出てくる者があれば、原田が刺し殺す。
雨を蹴るようにして、山南を先頭に、沖田、久二郎が屋内に駆け込む。雨戸の陰では、土方が既に抜刀し、雷光の中に浮かび上がっていた。
布団の中に、人の体の盛り上がりが、二つ。一つは女、もうひとつは、芹沢。沖田と山南がそっと近付いて、素早く刀を突き立てた。沖田が突いた女は、即死した。山南が突いた芹沢は、急所を外したらしく、叫び声を上げて跳ね起きた。沖田と山南が、左右に分かれ、芹沢と対峙する。枕元に転がった刀を執り、芹沢はゆっくりと抜刀した。久二郎と土方は、階段を警戒している。
雷光。
芹沢の刀の弧が、白く浮かび上がった。
また雷光。
そこに、一瞬、芹沢の笑った不敵な顔が、あった。
「斬るかね、俺を」
芹沢の声。
「斬るさ。あんたを」
土方が、応じる。
「斬られてやってもいいが、ただでは斬られねぇ」
芹沢が突いてくるのを、沖田が受けた。
「若造。俺を、殺せるのか」
「たぶん、大丈夫だと思いますよ」
沖田は平然としている。一体、どういう心の働きをしているのか。そのまま、剣を合わせた。
騒ぎを聞き付けたのか、二階から足音がする。平山、平間、野口が駆け降りてきた。
「綾瀬」
土方は、久二郎にそれらに当たらせ、自らは芹沢の方へ向かった。
応じようとした芹沢が沖田を突き放し、刀を振り被った。それが、鴨居に食い込んだ。
抜けない刀から手を離し、芹沢は隣の部屋に駆け込んだ。
沖田と、土方で、それを追う。
室外では、山南と久二郎で、三人に向き合った。眼帯の平山が、逃げ出した。外には、原田が控えている。
平間、野口の二人も、身を翻して逃げた。久二郎と山南が、追う。
「おい、こんなに逃げてくるなんて、聞いてねぇぞ」
原田が一人で槍を振り回しながら言う。その脇を潜るようにして、平間と野口の二人が門から駆け出した。
「原田君。追うぞ」
山南と原田の二人が、追った。その場には、久二郎と平山。
「てめえ、よくも」
平山が、眼帯の無い右目の方を久二郎に向け、あごを少し上げた。花火の事故で潰れたという、見えぬ左目を庇う癖であった。
「来いよ。若造が」
ゆっくりと、剣を正眼に置く。神道無念流の使い手である。田舎で棒を振り回していただけの久二郎とは、わけが違う。
久二郎も、応じて構えた。京に来たばかりに見た、大政老人の剣。それを思い出した。
その言葉を、思い出した。
心が、降り続く雨の中に、溶けてゆく。
「なんだ、その構えは。腰がなってねえぞ」
平山が嘲笑ったが、久二郎は答えない。すっと、虚ろな視線を投げ掛けている。
「気に入らねえな」
母屋から、芹沢の叫び声が聞こえてきた。土方と沖田が、やったらしい。
「よくも」
遂に、平山が踏み込んだ。
雷光。
互いの身体の位置が、入れ替わる。
久二郎は、右下から左上に、斬り上げたままの姿勢で、静止している。
平山の足元に、どさりと何かが落ちた。腸だった。
口を開けたり閉めたりしながら、ゆっくりと振り返る。足に、腸が絡み付いていた。
息を、吸った。
それを吐いたとき、久二郎の剣が凄まじい速さで、平山の肩口から胸までを断ち割った。
雨が、剣についた血を、流している。
我に返った久二郎は、抜き身を握ったまま母屋の中へと戻った。
芹沢の寝室の隣の部屋で、芹沢は仰向けに倒れていた。
「綾瀬」
そのまま二階に上がり、部屋の隅で震えている平間、平山の女を、刺し殺した。
「行きましょう。姿を見られては、まずい」
三人、刀を納め、雨の中を歩いてゆく。今ごろ、二軒目の店に移っていることであろう。
雷は、だいぶ遠ざかっているらしい。雷が光ってから、音が鳴るまでの間、なんとなく、数を数えながら歩いた。
「大丈夫ですか、原田さん。飲みすぎですって。ちょっと、風に当たったらどうです」
「風ぇ?お前、俺を舐めてんじゃねぇぞ」
「はいはい。いいから、外に行きましょうよ」
沖田が、足元の怪しくなった原田を連れ出した。すぐに、廊下で原田の怒声が響く。
「原田君は、大分飲んだようだ。沖田君一人では心許ない」
山南が、立ち上がる。
「綾瀬君」
久二郎を、見下ろしてきた。久二郎は、一瞬、眼を閉じた。
それを開き、立ち上がった。山南が、頷きかけてくる。
「ちょっと、沖田さんを手伝ってくる」
彰介に声をかけ、襖を開けた。振り返ることはなかった。
店の前で、一同は待っていた。
「来たか。綾瀬」
先程までの酔いはどこに行ったのか、原田が槍を脇に挟みながら声をかけてきた。
「各々、手順は分かっているな」
「土方さんに、嫌というほど言い聞かされましたから。子供じゃあるまいし、あの人もしつこいんですよね」
「では、ゆく」
静かに、堀川通りを上がる。高辻で西に折れ、坊城通りでまた北へ。遠雷が、響いている。
余談である上、さいきんは比較的有名なことだから言うまでもないかもしれないが、京では、今でも、北へゆくことを「上がる」、南へゆくことを「下がる」という。京の街の碁盤の目を往来するにおいて、これは欠かせぬ感覚であるから、今後もこの言い方を用いてゆく。高速道路の上り、下りのようなものと思えばよい。
これは御所が京の区画の最も北にあることから始まった言い方で、それならば御所より北の区域(御所より北になれば京ではなく、壬生村のように何々村、という呼び方がある)になれば、南に行くことを上がると言わねばおかしいが、長い年月の中で、街の者の中で、御所を基準としているということが薄れ、単に北へ向かえば上がる、南へ向かえば下がる、という単純な概念をもって受け入れられ、用いられている。今でも、北へゆけば「北上」、南へゆけば「南下」と言うが、これは地図上分かりやすくするためのものであって、幕末においては進んだ測量技術などにより、北が上と記されることが一般的になってはいたが、京の街の上がる下がるは、地図上の話とは関係ない。
その証拠に、京の東の地域を「左京」、西の地域を「右京」と言う。地図を広げれば、右側が左京で左側が右京と、頭がおかしくなりそうになるが、これも簡単なことで、帝は必ず南向きに座する(もともと、我が国にあった太陽信仰と、大陸の、天子南面す。という慣例とが合わさった)ため、帝から見れば西が右、東が左である。
こんにちの京都市という市政になり、政令指定都市かつ県庁所在地として区を設ける必要にかられても、右京区といえば西、左京区と言えば東である。
さて、坊城通りを上がった一行は、屯所の前にたどり着いた。八木家の門をくぐり、芹沢がいる母屋の様子を庭から伺った。中からは、男女の笑い声がする。土方が、芹沢と共に先に帰り、芹沢、平間、平山の馴染みの女を呼び、部屋で飲んでいる。
声がやめば、土方が、雨戸をそっと外し、そこから久二郎らはなだれ込む。
さっきまで遠かった雷の音が力強くなり、雨が降りだした。その雨を受けながら、一同は待った。
なおも待った。
芹沢は上機嫌な様子で、中からさかんに笑い声を響かせている。
その笑い声が、止んだ。雨は、強くなっている。
全身がずぶ濡れになっても、微動だにせず待った。
雨戸が一枚、外された。
原田が立ち上がり、その場に残った。その雨戸の隙間から飛び出てくる者があれば、原田が刺し殺す。
雨を蹴るようにして、山南を先頭に、沖田、久二郎が屋内に駆け込む。雨戸の陰では、土方が既に抜刀し、雷光の中に浮かび上がっていた。
布団の中に、人の体の盛り上がりが、二つ。一つは女、もうひとつは、芹沢。沖田と山南がそっと近付いて、素早く刀を突き立てた。沖田が突いた女は、即死した。山南が突いた芹沢は、急所を外したらしく、叫び声を上げて跳ね起きた。沖田と山南が、左右に分かれ、芹沢と対峙する。枕元に転がった刀を執り、芹沢はゆっくりと抜刀した。久二郎と土方は、階段を警戒している。
雷光。
芹沢の刀の弧が、白く浮かび上がった。
また雷光。
そこに、一瞬、芹沢の笑った不敵な顔が、あった。
「斬るかね、俺を」
芹沢の声。
「斬るさ。あんたを」
土方が、応じる。
「斬られてやってもいいが、ただでは斬られねぇ」
芹沢が突いてくるのを、沖田が受けた。
「若造。俺を、殺せるのか」
「たぶん、大丈夫だと思いますよ」
沖田は平然としている。一体、どういう心の働きをしているのか。そのまま、剣を合わせた。
騒ぎを聞き付けたのか、二階から足音がする。平山、平間、野口が駆け降りてきた。
「綾瀬」
土方は、久二郎にそれらに当たらせ、自らは芹沢の方へ向かった。
応じようとした芹沢が沖田を突き放し、刀を振り被った。それが、鴨居に食い込んだ。
抜けない刀から手を離し、芹沢は隣の部屋に駆け込んだ。
沖田と、土方で、それを追う。
室外では、山南と久二郎で、三人に向き合った。眼帯の平山が、逃げ出した。外には、原田が控えている。
平間、野口の二人も、身を翻して逃げた。久二郎と山南が、追う。
「おい、こんなに逃げてくるなんて、聞いてねぇぞ」
原田が一人で槍を振り回しながら言う。その脇を潜るようにして、平間と野口の二人が門から駆け出した。
「原田君。追うぞ」
山南と原田の二人が、追った。その場には、久二郎と平山。
「てめえ、よくも」
平山が、眼帯の無い右目の方を久二郎に向け、あごを少し上げた。花火の事故で潰れたという、見えぬ左目を庇う癖であった。
「来いよ。若造が」
ゆっくりと、剣を正眼に置く。神道無念流の使い手である。田舎で棒を振り回していただけの久二郎とは、わけが違う。
久二郎も、応じて構えた。京に来たばかりに見た、大政老人の剣。それを思い出した。
その言葉を、思い出した。
心が、降り続く雨の中に、溶けてゆく。
「なんだ、その構えは。腰がなってねえぞ」
平山が嘲笑ったが、久二郎は答えない。すっと、虚ろな視線を投げ掛けている。
「気に入らねえな」
母屋から、芹沢の叫び声が聞こえてきた。土方と沖田が、やったらしい。
「よくも」
遂に、平山が踏み込んだ。
雷光。
互いの身体の位置が、入れ替わる。
久二郎は、右下から左上に、斬り上げたままの姿勢で、静止している。
平山の足元に、どさりと何かが落ちた。腸だった。
口を開けたり閉めたりしながら、ゆっくりと振り返る。足に、腸が絡み付いていた。
息を、吸った。
それを吐いたとき、久二郎の剣が凄まじい速さで、平山の肩口から胸までを断ち割った。
雨が、剣についた血を、流している。
我に返った久二郎は、抜き身を握ったまま母屋の中へと戻った。
芹沢の寝室の隣の部屋で、芹沢は仰向けに倒れていた。
「綾瀬」
そのまま二階に上がり、部屋の隅で震えている平間、平山の女を、刺し殺した。
「行きましょう。姿を見られては、まずい」
三人、刀を納め、雨の中を歩いてゆく。今ごろ、二軒目の店に移っていることであろう。
雷は、だいぶ遠ざかっているらしい。雷が光ってから、音が鳴るまでの間、なんとなく、数を数えながら歩いた。
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