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第一章 京
入隊
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やっと、かくれんぼが終わった。近所の子供だろうか、皆、男によく懐いているらしい。
「次、鬼ごっこ!」
と一人が言う。
「ごめんな、ちょっと用があるんだ。今日はここまで」
文句を言う子供たちをなだめ、男は歩き出した。
「明日は、壬生寺で鬼ごっこな」
と言い、手をひらひらと振った。
「壬生寺?」
「ああ、この先の寺です。境内が開けているので、鬼ごっこは壬生寺、かくれんぼは春日神社と決めているんです」
なるほど、開けた境内ではかくれんぼはできまい。それにしても、この男、一見浪人のようだが、何故冬の格好のままなのだろうか。更に、子供らの様子を見るに、相当に遊び慣れた様子であったが、毎日子供と遊んで、何をしているのだろうか。
分からないことだらけだが、下手に質問をするのも気が引ける。
「ところで、平助のお知り合いですか。僕は沖田と言います」
と平べったい顔の美男は言った。
「私は、綾瀬久二郎と申します。この大きいのは、樋口彰介」
「よろしく」
邪気のない笑顔だった。顔立ちや背格好はまるで違うが、藤堂にも同質の笑顔があった。神社から、屯所なる場所までの短い距離の間で、久二郎は簡単に今の状況を沖田に説明した。
「ああ、なるほど。それで平助を頼ってきたんですね。じゃあ、うちに来ればいい」
うちに来ればいい、の意味を、久二郎はあくまで、その屯所なる場所に訪ねて来ればいい、という意味として捉えた。この時点では、ほかに捉えようもない。
この界隈は、壬生村という。京の中心部からほど近いため、村といってもその語感から想像するような景色は無く、都会だった。豪農らしき屋敷が立ち並んでいる坊城通りに、「屯所」はあった。細い石畳の先に、武家風の門構え。そこに、
「壬生浪士組屯所」
の看板が出ている。そこで久二郎は初めて、「とんしょ」の字を頭の中で充てることが出来た。
「ここは」
「私たちの、まぁ、仮住まいみたいなもんですかね」
と言って、沖田は笑った。
「土方さん」
かまちに腰かけて履き物を脱ぎながら、大声で沖田は呼ばわった。
「あれ、いないのかな。ま、どうぞ」
と自分の家のようにさっさと奥へ入っていく。
「こっちです」
奥の部屋の前で、足を止めた。
「土方さん。沖田です。入りますよ」
沖田が開いた障子の先に、肘枕でごろ寝をする男の背中が現れた。それが、肘枕ごしに振り返った。
「おう、総司」
沖田の名は、総司と言うらしい。
「なんだ、そいつらは」
「平助の知り合いで、入隊希望です。とっても困ってるみたいで、平助を頼ってきたんです。入れてあげて下さい」
久二郎には、話が見えない。彰介を振り返ると、苦笑している。どうやら、彰介の方が察しがいいらしい。
平助は、この壬生浪士組なる集団の一員なのだ。沖田は、久二郎らがとうにそのことを知っていて、食い詰めた挙げ句、組に加わろうと訪ねてきたものと思っているらしい。
「入隊?こないだ、斎藤を加えたばかりじゃねぇか。これ以上人が増えりゃ、八木さんが何て言うか」
「まぁ、いいじゃないですか」
沖田は、細かなことに頓着しないらしい。八木さん、というのが何者か分からぬが、恐らくこの家の家主であろう。厚いまぶたの奥で光る眼が、久二郎らを見た。
「お前ら、俺たちが何をしているか、知っているのか」
久二郎は、かぶりを振った。彰介は、庭の松を呑気に眺めている。土方は、興味なさげに、肘枕をもとの向きに戻した。
「ご公儀のため、京を守る。いま、大樹公がこちらにおわすのは、知っていますね」
代わりに、沖田が説明を始めた。
「それを、お守りするのです」
大樹公とは、将軍のことである。だとすれば、とんでもない大役である。
「——の、はずなんですが」
沖田の顔が、急に困ったようになった。土方が、舌打ちをする。
「もともと、浪士組という名で、かなりの大所帯で江戸から上がってきたんですが、我々以外は皆、帰ってしまいまして」
その話なら、瞬太郎から聞いたことがある。わざわざ大挙して江戸から浪士共が上ってきたが、どういうわけか本来の役目を果たすことなく、すぐ江戸に戻っていってしまったという。浪人どもにまで見放された幕府はもう駄目だろう、というようなことを言っていた記憶があるが、その者らの中で京に留まった者がいたということか。
「それで、いちおう大樹公がこちらにいらっしゃる間は、ここに留まって、何かしようと思っているのですが」
土方をあごで指して、
「ごらんの有様です」
と、また苦笑した。これで、久二郎は合点がいった。平助が、暇潰しと言って街をうろうろしていたのは、いちおう名目上の市中警護のためだったのであろう。沖田が、近所の子供と遊んでばかりいるのは、暇だからだ。冬物の着物を未だ着ているのは、正式な御雇いではないため俸給がなく、飯の世話だけは家主の八木さんとやらに頼んでいるが、衣服の調達まで金が回らぬからであろう。
関東の暴れ者と思われていた彼らは、壬生に住む狼、という意味で「壬生狼」と呼ばれていたことは有名であるが、その衣服の粗末なことから、それを文字って「身ぼろ」などと陰口されていたことを、無論、当の本人らは知らない。
「でも、驚いたな。それも知らず、入隊しようと思ったんですか」
「いえ、沖田さん、違うんです」
「まぁ、いいですよ。どうせ、お役目なんてもらえないんだし」
「総司」
土方が、忌々しげに言った。
「腕前だけは、試しておけ。頭もなければ腕もない、では話にならんからな」
「はぁい」
沖田は、間の抜けた返事をした。
「じゃ、付いてきて下さい」
沖田が後ろ手に閉めた障子の向こうに、土方のため息が隠れた。
沖田は、大声で、永倉さん、と呼ばわりながら屋内を回り、土間のかまどの前で炊事をしている屋敷の女を見かけ、それを捕まえた。
「おばさん。永倉さん、見てないですか」
おばさん、の顔には、明らかな嫌悪があった。
「知りまへん。さっき、握り飯作ってくれ言うて、どっか出て行かはりましたえ」
中年の女は、ふん、とため息を吐き出した。
「おかしいな、どこ行っちゃったんだろう」
沖田はそれを気にすることもなくきょろきょろして、しばらく考えた。
「とりあえず、お寺に行きましょうか」
肩をすくめ、言った。
沖田が、鬼ごっこをしているという、壬生寺まで来た。と言っても、屯所を出て南にほんの少し下がっただけである。
本堂に、お参りをする。
「ごめんなさい。また、お騒がせします」
手を合わせながら、沖田は言った。ぱっと久二郎らを振り向くと、おもむろに刀を抜いた。
「さ。抜いて下さい」
「どういうことです」
「いや、ほんとは、こういうのは永倉さんが好きなんですよ。でも、いないみたいだから」
「なぜ、刀を抜くのです」
「土方さんが言ってたでしょ。腕試し。いちおう、形だけ。ね?」
乞われるように言われて、久二郎は仕方なく抜き合わせた。
形だけ、と言ってだらしなく正眼に構える沖田の型は、隙だらけで、ほんとうに戦う気などないことが一目で分かるものだったが、久二郎が抜くと、沖田の二尺四寸ほどの刃から、異様な光が走ったような気がした。
「へえ。なかなか、気組が強いな」
沖田の声は、深く、静かである。久二郎は、得体の知れない威圧感から逃れるため、何か仕掛けなければならないような衝動を、必死で抑えた。仕掛ければ、斬られる。
「うん、いい気組みだ」
沖田は、笑った。身体から、異様な気が漏れ出ている。だらしない正眼の構えが、やや下がった。
瞬間、斬られた。いや、突かれた。鋭い踏み込みと共に、膝を地につけた姿勢を取った沖田の腕が大蛇のように伸び、一直線になった刀で、久二郎は刺し貫かれた。
いや、沖田は実際には、剣先をほんの僅かに下げただけであった。久二郎は、はじめに構えた八相構えのまま、斬られても突かれてもいない。今のは、何だったのか。
沖田は剣を引き、構えを解くと、にっこり笑った。
「すごいな。綾瀬さんは。とっても強そうだ」
「今、凄まじい突きを受けたように思いました」
久二郎の額には、汗がびっしりと浮かんでいる。
「わぁ、そんなことまで分かるんですか。確かに、私は突きを繰り出そうとしましたよ。でも、ほんとうには繰り出しません。腕試しで死んじゃったら、何にもなりませんから」
透き通るような笑顔が、かえって恐ろしいもののように見えた。
「じゃ、次、樋口さんね」
また、沖田が構える。彰介は無言で進み出て一礼すると、三尺の大刀を抜いた。
それもやはり、打ち込むことはできず、ただ息を荒くしている。上背と長い刀を活かし、上段にやっと構え直した。
「樋口さん、大きいなあ。きっと、力も強いんだろうな」
と沖田は笑って、刀を納めた。息をするのも辛いような空気が消え、穏やかな寺の境内の景色が戻ってきた。
「じゃあ、戻りましょうか」
「もう、いいのですか」
「いいも何も、綾瀬さんや樋口さんみたいに強い人、そうそういるもんじゃありませんよ」
沖田は無邪気に笑う。
屯所に、戻った。
「土方さん。戻りました」
土方は、さっきと同じ姿勢で、ん、と喉を鳴らして答えた。
「夜、皆に紹介してあげましょう」
それが、沖田の出した答えである。
「近藤さんが戻ったら、引き合わせる」
「近藤さんは?」
「芹沢さんと、どっか出ていったぜ」
「戻りは、夜かな」
「屯所の中と、この辺りを案内してやれ。部屋は、そうだな。とりあえず、斎藤の部屋でも使わせるか。先に、斎藤に会わせてやれ」
ぶっきらぼうで、冷たい感じのする男だが、以外と細やかなところに眼を配れる男なのかもしれない。
沖田はまた間の抜けた返事をすると、こっちこっち、と先立った。
「綾瀬久二郎です。よろしくお願いします」
「樋口彰介です。よろしくお願いします」
久二郎と彰介は、それぞれ土方の肘枕に向かって、挨拶をした。
腰のあたりをぼりぼりと掻いていた手が一度上がり、ひらひらと揺れた。
これで、とりあえず、将軍が京に滞在する間の食い扶持には困らずに済みそうである。その後、どうするのか。久二郎や彰介は勿論、沖田も土方も、分からない。
「次、鬼ごっこ!」
と一人が言う。
「ごめんな、ちょっと用があるんだ。今日はここまで」
文句を言う子供たちをなだめ、男は歩き出した。
「明日は、壬生寺で鬼ごっこな」
と言い、手をひらひらと振った。
「壬生寺?」
「ああ、この先の寺です。境内が開けているので、鬼ごっこは壬生寺、かくれんぼは春日神社と決めているんです」
なるほど、開けた境内ではかくれんぼはできまい。それにしても、この男、一見浪人のようだが、何故冬の格好のままなのだろうか。更に、子供らの様子を見るに、相当に遊び慣れた様子であったが、毎日子供と遊んで、何をしているのだろうか。
分からないことだらけだが、下手に質問をするのも気が引ける。
「ところで、平助のお知り合いですか。僕は沖田と言います」
と平べったい顔の美男は言った。
「私は、綾瀬久二郎と申します。この大きいのは、樋口彰介」
「よろしく」
邪気のない笑顔だった。顔立ちや背格好はまるで違うが、藤堂にも同質の笑顔があった。神社から、屯所なる場所までの短い距離の間で、久二郎は簡単に今の状況を沖田に説明した。
「ああ、なるほど。それで平助を頼ってきたんですね。じゃあ、うちに来ればいい」
うちに来ればいい、の意味を、久二郎はあくまで、その屯所なる場所に訪ねて来ればいい、という意味として捉えた。この時点では、ほかに捉えようもない。
この界隈は、壬生村という。京の中心部からほど近いため、村といってもその語感から想像するような景色は無く、都会だった。豪農らしき屋敷が立ち並んでいる坊城通りに、「屯所」はあった。細い石畳の先に、武家風の門構え。そこに、
「壬生浪士組屯所」
の看板が出ている。そこで久二郎は初めて、「とんしょ」の字を頭の中で充てることが出来た。
「ここは」
「私たちの、まぁ、仮住まいみたいなもんですかね」
と言って、沖田は笑った。
「土方さん」
かまちに腰かけて履き物を脱ぎながら、大声で沖田は呼ばわった。
「あれ、いないのかな。ま、どうぞ」
と自分の家のようにさっさと奥へ入っていく。
「こっちです」
奥の部屋の前で、足を止めた。
「土方さん。沖田です。入りますよ」
沖田が開いた障子の先に、肘枕でごろ寝をする男の背中が現れた。それが、肘枕ごしに振り返った。
「おう、総司」
沖田の名は、総司と言うらしい。
「なんだ、そいつらは」
「平助の知り合いで、入隊希望です。とっても困ってるみたいで、平助を頼ってきたんです。入れてあげて下さい」
久二郎には、話が見えない。彰介を振り返ると、苦笑している。どうやら、彰介の方が察しがいいらしい。
平助は、この壬生浪士組なる集団の一員なのだ。沖田は、久二郎らがとうにそのことを知っていて、食い詰めた挙げ句、組に加わろうと訪ねてきたものと思っているらしい。
「入隊?こないだ、斎藤を加えたばかりじゃねぇか。これ以上人が増えりゃ、八木さんが何て言うか」
「まぁ、いいじゃないですか」
沖田は、細かなことに頓着しないらしい。八木さん、というのが何者か分からぬが、恐らくこの家の家主であろう。厚いまぶたの奥で光る眼が、久二郎らを見た。
「お前ら、俺たちが何をしているか、知っているのか」
久二郎は、かぶりを振った。彰介は、庭の松を呑気に眺めている。土方は、興味なさげに、肘枕をもとの向きに戻した。
「ご公儀のため、京を守る。いま、大樹公がこちらにおわすのは、知っていますね」
代わりに、沖田が説明を始めた。
「それを、お守りするのです」
大樹公とは、将軍のことである。だとすれば、とんでもない大役である。
「——の、はずなんですが」
沖田の顔が、急に困ったようになった。土方が、舌打ちをする。
「もともと、浪士組という名で、かなりの大所帯で江戸から上がってきたんですが、我々以外は皆、帰ってしまいまして」
その話なら、瞬太郎から聞いたことがある。わざわざ大挙して江戸から浪士共が上ってきたが、どういうわけか本来の役目を果たすことなく、すぐ江戸に戻っていってしまったという。浪人どもにまで見放された幕府はもう駄目だろう、というようなことを言っていた記憶があるが、その者らの中で京に留まった者がいたということか。
「それで、いちおう大樹公がこちらにいらっしゃる間は、ここに留まって、何かしようと思っているのですが」
土方をあごで指して、
「ごらんの有様です」
と、また苦笑した。これで、久二郎は合点がいった。平助が、暇潰しと言って街をうろうろしていたのは、いちおう名目上の市中警護のためだったのであろう。沖田が、近所の子供と遊んでばかりいるのは、暇だからだ。冬物の着物を未だ着ているのは、正式な御雇いではないため俸給がなく、飯の世話だけは家主の八木さんとやらに頼んでいるが、衣服の調達まで金が回らぬからであろう。
関東の暴れ者と思われていた彼らは、壬生に住む狼、という意味で「壬生狼」と呼ばれていたことは有名であるが、その衣服の粗末なことから、それを文字って「身ぼろ」などと陰口されていたことを、無論、当の本人らは知らない。
「でも、驚いたな。それも知らず、入隊しようと思ったんですか」
「いえ、沖田さん、違うんです」
「まぁ、いいですよ。どうせ、お役目なんてもらえないんだし」
「総司」
土方が、忌々しげに言った。
「腕前だけは、試しておけ。頭もなければ腕もない、では話にならんからな」
「はぁい」
沖田は、間の抜けた返事をした。
「じゃ、付いてきて下さい」
沖田が後ろ手に閉めた障子の向こうに、土方のため息が隠れた。
沖田は、大声で、永倉さん、と呼ばわりながら屋内を回り、土間のかまどの前で炊事をしている屋敷の女を見かけ、それを捕まえた。
「おばさん。永倉さん、見てないですか」
おばさん、の顔には、明らかな嫌悪があった。
「知りまへん。さっき、握り飯作ってくれ言うて、どっか出て行かはりましたえ」
中年の女は、ふん、とため息を吐き出した。
「おかしいな、どこ行っちゃったんだろう」
沖田はそれを気にすることもなくきょろきょろして、しばらく考えた。
「とりあえず、お寺に行きましょうか」
肩をすくめ、言った。
沖田が、鬼ごっこをしているという、壬生寺まで来た。と言っても、屯所を出て南にほんの少し下がっただけである。
本堂に、お参りをする。
「ごめんなさい。また、お騒がせします」
手を合わせながら、沖田は言った。ぱっと久二郎らを振り向くと、おもむろに刀を抜いた。
「さ。抜いて下さい」
「どういうことです」
「いや、ほんとは、こういうのは永倉さんが好きなんですよ。でも、いないみたいだから」
「なぜ、刀を抜くのです」
「土方さんが言ってたでしょ。腕試し。いちおう、形だけ。ね?」
乞われるように言われて、久二郎は仕方なく抜き合わせた。
形だけ、と言ってだらしなく正眼に構える沖田の型は、隙だらけで、ほんとうに戦う気などないことが一目で分かるものだったが、久二郎が抜くと、沖田の二尺四寸ほどの刃から、異様な光が走ったような気がした。
「へえ。なかなか、気組が強いな」
沖田の声は、深く、静かである。久二郎は、得体の知れない威圧感から逃れるため、何か仕掛けなければならないような衝動を、必死で抑えた。仕掛ければ、斬られる。
「うん、いい気組みだ」
沖田は、笑った。身体から、異様な気が漏れ出ている。だらしない正眼の構えが、やや下がった。
瞬間、斬られた。いや、突かれた。鋭い踏み込みと共に、膝を地につけた姿勢を取った沖田の腕が大蛇のように伸び、一直線になった刀で、久二郎は刺し貫かれた。
いや、沖田は実際には、剣先をほんの僅かに下げただけであった。久二郎は、はじめに構えた八相構えのまま、斬られても突かれてもいない。今のは、何だったのか。
沖田は剣を引き、構えを解くと、にっこり笑った。
「すごいな。綾瀬さんは。とっても強そうだ」
「今、凄まじい突きを受けたように思いました」
久二郎の額には、汗がびっしりと浮かんでいる。
「わぁ、そんなことまで分かるんですか。確かに、私は突きを繰り出そうとしましたよ。でも、ほんとうには繰り出しません。腕試しで死んじゃったら、何にもなりませんから」
透き通るような笑顔が、かえって恐ろしいもののように見えた。
「じゃ、次、樋口さんね」
また、沖田が構える。彰介は無言で進み出て一礼すると、三尺の大刀を抜いた。
それもやはり、打ち込むことはできず、ただ息を荒くしている。上背と長い刀を活かし、上段にやっと構え直した。
「樋口さん、大きいなあ。きっと、力も強いんだろうな」
と沖田は笑って、刀を納めた。息をするのも辛いような空気が消え、穏やかな寺の境内の景色が戻ってきた。
「じゃあ、戻りましょうか」
「もう、いいのですか」
「いいも何も、綾瀬さんや樋口さんみたいに強い人、そうそういるもんじゃありませんよ」
沖田は無邪気に笑う。
屯所に、戻った。
「土方さん。戻りました」
土方は、さっきと同じ姿勢で、ん、と喉を鳴らして答えた。
「夜、皆に紹介してあげましょう」
それが、沖田の出した答えである。
「近藤さんが戻ったら、引き合わせる」
「近藤さんは?」
「芹沢さんと、どっか出ていったぜ」
「戻りは、夜かな」
「屯所の中と、この辺りを案内してやれ。部屋は、そうだな。とりあえず、斎藤の部屋でも使わせるか。先に、斎藤に会わせてやれ」
ぶっきらぼうで、冷たい感じのする男だが、以外と細やかなところに眼を配れる男なのかもしれない。
沖田はまた間の抜けた返事をすると、こっちこっち、と先立った。
「綾瀬久二郎です。よろしくお願いします」
「樋口彰介です。よろしくお願いします」
久二郎と彰介は、それぞれ土方の肘枕に向かって、挨拶をした。
腰のあたりをぼりぼりと掻いていた手が一度上がり、ひらひらと揺れた。
これで、とりあえず、将軍が京に滞在する間の食い扶持には困らずに済みそうである。その後、どうするのか。久二郎や彰介は勿論、沖田も土方も、分からない。
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