女王の名

増黒 豊

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第十二章 絡め火

海と空と雨

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 敵は、一万五千ほどか。いや、それほどは多くない。自らの前に、当たり前のような顔をして、堂々と立ちはだかる死というものが、敵を不必要に多く見せているだけだ。
 馬上から見ていると、海のようだ。その波と波がぶつかり合っている場所が、コウラが戦っているところか。カイは、腰の剣を確かめた。主に用いているやや長い剣の他に、細く、少し短い剣を二本、予備として携えている。
 三本の剣で、一万五千人。剣一本当たり、五千人。
 ――無理だ。
 カイは、苦笑した。そうなったとき、彼は諦念に支配されることなく、行動の目的を別のものに変換した。
「よし、お前ら。休息は十分だろう。前のコウラと代わって、奴らを休ませてやれ」
 と、明るく自軍に伝えた。兵が声を上げ、前進する。
 前列まで来た。いかに小さく固まっているとはいえ、この数の差をどうすることもできない。コウラは、最前線で、一人、また一人と倒れる左右の部下を気にしながら、ただ悲壮な面持ちで戦っていた。
 それが、退がってくる。すれ違うとき、コウラに、
「俺に、策がある。どのような指示であっても、俺を信じて、従え。ある程度敵を乱れさせたら、退く。ヤマトの地の入り口のぎりぎりのところまでだ。あちらがどうなっているのか分からぬが、そこまで退く。いいな」
「はい」
 とやり取りをした。
「じゃあ、コウラ。ちょっと、死んでくる」
 そう言って、へらへらと笑い、カイは馬を進めた。歩兵の前衛を避けるようにして、人の海から五十の騎馬隊が横に出た。そのまま、野を駆ける。
 一万を越える歩兵に、たった五十の馬で、どうすると言うのか。コウラは、両軍を一つにまとめるべきだ、と思った。しかし、カイには策があるという。自分の危機感だけで、それを台無しにすることはできない、と、拳を握りしめて、カイの動きを追った。
 騎馬隊は、行き、そして戻り、前衛の横腹に右から突き入った。明らかに、敵の前衛に衝撃が走っている。暫くして、カイが左から飛び出してくる。
 また、突っ込む。兜を付けた敵の首が宙を舞い、旗が倒れるのが見えた。それで、敵の前衛の押しは一気に弱くなった。カイが、前線の指揮官を討ったのか。
 先程まで、呼吸を合わせたかのような戦いを見せていたカイとコウラである。コウラには、カイの心積もりが分かったような気がした。
 ここで、コウラの軍に、一気に押せ、と指示が飛ぶはずだ。カイが前衛に出て、僅かな馬で無謀な突撃をしたのは、敵の指揮官の一点を突くためだったのだと思った。
 しかし、その指示は来ない。コウラは、伯父を待った。その騎馬隊は、どこにも見えない。

 カイは、最後の望みを懸けた。騎馬で敵中に突き入り、その前衛の指揮官の首を飛ばした。そこでコウラを投入すれば、確かに前衛を崩すことはできる。しかし、まだ後ろには一万を越える人の海が待っているのだ。
 それを、丸ごと押し返し、散らせるには、一つしかなかった。
 人の海の、後ろ。最も後ろに、突くべき点があった。
 先程の騎馬隊のうち、百だけ残った者共。そこを、カイは突くつもりだった。なぜか、そこにこそ、狙うべき敵がいるものと確信していた。全速力で、馬を走らせた。
 こんな戦い。
 カイは、また苦笑した。彼がまだ何にも縛られない立場であった頃、敵わぬ。と見れば、すぐ逃げればよかった。しかし、今、彼の背中には、彼を逃がしてはくれぬ大きなものがある。それを守ることこそ、自らの役割であると思った。
 ずっと、逃げながら戦い、生き延びてきた。
 父も、兄も、前に進み、敵に向かい、そして死んだ。
 自らはそれをせず、右に左に敵を翻弄し、ときには背中を見せて逃げ、生き延びてきたのは、今日、ここにいるためだったのだ、とカイは思った。先程までの心境とは、全く違う。
 カイの眼に、火が燃えた。敵軍の集団の脇をかすめるようにして、狂ったように駆けてゆく五十の騎馬を、敵の中軍、後軍とも、どうしていいのか分からないらしい。あり得ぬことであるから、それが敵なのかどうかも分からないのだろう。カイは、馬上で剣を納め、分銅鎖ふんどうさを腰から取り出した。
 駆ける。
 風になった。
 敵の集団が、一個の大きな塊のように、後ろへ流れてゆく。
 見えた。一列に、馬が並んでいる、百五十から、二百ほど。はじめに戦った騎馬隊も、そこに収容されているらしい。
 馬上の敵どもが、驚いているのが分かった。
 中心を守るようにして、集まってゆく。
 武器を構え、こちらに向ける敵に、カイは大声で叫んだ。
「本国より参りました。危急の事態です」
 馬鹿馬鹿しいほど稚拙な策だが、分からぬことが立て続くと、人の思考は、一瞬、真空になる。
 それを、カイは人の海の中で過ごしてきた長い経験で、知っていた。ヤマトには海がないから、カイは、海になど潜ったことはない。だが、潜れば、きっとこのような感じなのであろう。手足が重く、陸とは動き方が違う。陸と同じようにしていては、たちまち溺れる。そのためには、海に合わせて、自らを変えてやらねばならない。姿勢も、動き方も、息の仕方でさえも。そうすれば、泳げる。
 敵の騎馬隊が、騒いでいる。
「本国より参りました。危急の事態です」
 もう一度、カイは叫んだ。敵の騎馬がカイらを通そうと、中心を守るような形を崩し、左右に割れた。
 割れたところから、知った顔が二つ出てきた。一つは、あの縮れ毛の、唇の厚い、肌の色の濃い男。名前は、セイといったはずだ。
 もう一つは、もっとよく知った顔であった。厚ぼったい一重の瞼の下に、冷たい光を放つ瞳。蛇のように長い手足は、彼がとてもよく知っている人のそれであった。
「カイ」
 その男は言った。声まで、カイがよく知る男のものであった。
「ここまで、来たのか」
 カイは、信じられなかった。信じたくもなかった。やはり、という思いもある。
「どうして」
 ただ、それだけが、口からこぼれるようにして出た。
 信じられぬまま、分銅鎖を繰り出した。
 弾かれる。兄や父やマヒロのほかに、自分の分銅鎖を見切れる者など、いるはずがない。この分銅鎖が見切れるということは、それはヤマトの者であるということだ。
 弧を描くようにして分銅が宙を舞い、手元に戻ってくる。
 戦い方を、変えねばならない。カイは、その鎖を左右に振り回した。男の周りの騎馬が、倒れてゆく。
 セイと、男は、ただそれを見ていた。
 カイの騎馬隊が、一斉に突撃を開始する。
 強い。敵はどんどん倒れてゆき、その数を減らしている。
 しかし、カイの騎馬隊も大きく数を擦り減らしている。
 それは、中心の二人の男に向かった者が、全て死骸になるからであった。
 カイは舌打ちをし、また分銅を繰り出した。敵の馬の足に絡み付かせ、倒す。そのまま、カイの馬が鼻息を荒くし、倒れた馬を引っ張りだす。それに、別の馬がつまづいて足を折り、転んだ。カイが手首を返すと、分銅が馬の足から離れ、よく懐いた鳥のようにもどって来る。
 味方が、半分になった。これはまずい、とカイは判断した。
「タク様」
 カイは、そこに存在することを認められない、認めてはならない男の名を呼んだ。タクが、こちらを見ている。
「今ここで、殺してやりたいところだが、俺には秘めた策がある。せいぜい、驚け」
 大声で言った。策とは何だ、とタクがこちらに向け、小首を傾げるような仕草をした。
「知れたこと――」
 カイは、左右の者を見た。
「――それ、者ども、逃げろ!」
 セイと、タクに背を向け、一目散に駆け戻っていく。

「あれは、どういう者だ」
 セイは、タクに聞いた。
「ユウリの子、ハラ候カイです」
「それは、知っているが」
「ただの、阿呆です」
「追い、殺すか」
「それには、及びません。放っておけばよろしい」
「変わった者だ。ヤマトには、あのような者が多くいるのか」
「おりません。あのような者が何人もいて、たまるものですか」
 タクは、苦笑した。分銅を弾いた矛が、曲がっていた。

 どうする。
 どうする。
 どうする。
 最後の一策であった敵の総指揮官を討つことも、叶わなかった。このまま、無駄死にするのか。
 昔、リュウキが、何かの折に、強大な敵に無理に立ち向かうことを「石の壁に卵を投げつけ、崩そうとするようなもの」と例えた。大陸の有り難い書物とやらに、そう書かれているらしい。今、自分がしていることは、まさにそれではないか。
 どうする。
 どうする。
 どうする。
 目の前に、敵の最後列が迫っている。それを避け、右に進路を取った。
 後列で騎馬隊同士の交戦があり、そこから逃げてきたわけだから、行きのようにすんなりとは通してくれない。カイは大きく迂回するようにして、前衛に戻る。
 まだ持ちこたえている自分の軍の中に戻った。それを、歩兵を預けた副官のサワが迎え入れた。
「サワ。済まぬ。駄目であったわ」
 傷だらけになりながら戦うサワが、笑った。
「それはもう。この戦い、どうしても駄目なようですな」
 眼の光が、異様である。カイは、サワがとうに死線を越え、戦っていることを知った。
「サワ。ここで、死ねるか」
「無論」
 カイは頷き、馬から降りた。
「後列、コウラ、さらに少し下がれ」
 音と光で、それが伝達される。マヒロが考案した伝達方法は、このような混乱の中でも情報が伝えられた。
「サワ。ゆくぞ」
 今度はサワが、頷いた。
「押せ!押しまくれ!」
 カイは分銅鎖を捨て、剣を抜いた。その刃を捉えることは、誰にも出来ない。
 カイが剣を振ると、ほとんど消えたようにしか感じない。次の瞬間、敵は首や脇腹などの柔らかい部位から、生暖かい血液を吹き出し、死ぬ。
 身を捻る。
 跳躍する。
 突進する。
 カイの一挙動ごとに、敵が一人か二人死ぬ。
 その鮮やかな戦いぶりに味方も力を取り戻し、一気に押し出した。
 どんどん、敵を倒し、進んでゆく。
 突き出されてきた矛を掴み、それを滑るようにして間合いを詰め、斬り倒す。
 隣で戦っていたはずのサワが、やや離れてしまっている。四人から振り降ろされる矛を、一人で受け止めている。
 カイは、火そのものになった。
 そこまで駆けていくと、サワを襲う四人を、瞬時に斬り倒した。そのとき、剣が折れた。
 腰の二本の短い剣を、二本とも抜いた。
 更に襲いかかる敵を、踊るようにして全て倒した。
 カイは、歌や躍りが好きであった。民の間に混じり、身に付けた身のこなしが、彼の戦い方になった。
「私ごときに構っていては、なりません」
 完全に息の上がってしまっているサワが、言った。
「済まぬ。先に行ってくれ。俺もすぐに行く」
 カイは、サワの肩を一つ叩いてやり、進んだ。
 サザレの地での戦いと、同じであった。あのときは、兄がいた。しかし、今は甥がいる。その甥は、生かさねばならない。次の世代へ、その甥が、何かを継いでゆくのだ。
 だから、カイは、なおも舞った。蝶が、花から花へ渡るように。揺れる恋の心のように。水のように。風のように。
 そして、火のように。
 カイは、自らの血と返り血で、ずぶ濡れになっている。その血の舞いの起こるところ、必ず敵の死骸が生まれた。空けた空白を、後ろから歩兵が押し込み、かなり進んだ。
「コウラへ伝えろ。持つ限りの矢を、全て放て。矢が尽きれば、ヤマトの入り口の縁まで、退け」
 光と、音が戦場を走る。
 カイは、疲労と手傷のために重く粘りつくようになっている腕を、なおも振った。身体は重く、死が自らの足を、暗い世界へと引きずり込もうとしている。それでも敵が打ちかかってくると、それに無意識に反応して、受け、流し、斬った。
 カイよりも前方で、戦う者がいた。自分が一番前で戦っているはずなのに。長い白髪をなびかせ、矛を振るう父。それを守るように、戦う兄。父と兄ならば、自分より前に出ていても、仕様がない。

「そんな、馬鹿な」
 コウラは、音と光で伝えられてきた指示を、疑った。ためらった。
 前線で戦う味方ごと、矢で射ろと言う。そこには、その指示を出しているはずのカイがいるのである。
 ためらった。しかし、俺を信じろ、と言うカイの姿を思い出した。
 あの冗談ばかり言っていつもへらへらとしている叔父は自らに、生きよと言うのか。生きて退き、ヤマトを守れと。そして、何かを継げと。どうやって、守ればよいのか。何を、継げばよいのか。分からぬが、生きねばならない。
「散開。弓だ」
 歩兵が、指示の通りに動く。誰の顔にも、痛みがあった。傷と、心の痛みが。
 サザレの地での、オオミの決死の策を、今、カイが行おうとしている。
「放て」
 コウラが号令した。涙が溢れた。
 二千本以上の矢が、空を埋めた。それが、敵味方の区別なく、地に降り注いでゆく。
「次の矢。放て」
 また、空を矢が埋めた。

 カイは、立ち止まった。両手に、剣をだらりと提げている。
 前方から、敵。打ちかかってくる。
 それを、当人も自覚のないまま斬った。皮一枚でつながった首が、垂れた。
 また、敵。今度は、数が多い。カイは、その敵すらも見ていない。息をしているのかどうかも、分からない。
 剣が、一本折れている。折れた剣を、新たな敵の喉に力任せに突き刺した。
 もう一本の剣で、剣を振りかぶり横から襲ってくる一人の脇腹を刺した。
 そのまま回転すると、二人の敵は血を噴き出しながら倒れた。
 また、敵。
 その敵が、カイのところに来る前に、のけぞり、倒れた。矢を受けている。
 カイの世界に、色彩と音が蘇った。
「そうか。コウラ。やってくれるか」
 口の中で、呟いた。自らの肩にも、矢は来た。その雨を、カイは眺めていた。
 海に、雨が降り注いでいる。
 父と、兄が、足を止めた。
 こちらを振り返り、笑った。
 また、身体に衝撃が走る。どこかに、矢が刺さったらしい。
「やめるな、押せ!」
 咆哮。
 死の雨に打たれながら、なお歩兵は前進し、敵を殺した。途中、雨に打たれた者は、ばたばたと倒れてゆく。一度雨が降り、少しの間止む度ごとに、立っている者の数は減ってゆく。
 カイは、駆けた。
 一本しかない剣で、身体に何本もの矢を受けながら、なお舞った。
 敵が、混乱している。
 また、雨が降る。敵が、とうとう崩れた。
 立っている味方は、もう数えるほどしかいない。
 逃げる敵の上に、また雨が降る。
 カイは、進むのをやめた。息をしようとしたが、ごぼごぼと妙な音が鳴るだけであった。
 世界が、遠くなってゆく。
 彼を育んだヤマトの山河を、思い出した。
 共に悪さをした仲間の顔を、思い出した。
 長じてから共に戦った者の顔を、思い出した。
 多くいる妻の顔を、子の顔を、思い出した。
 皆、いずれ死ぬ。
 このヤマトの地こそが、彼が生きた証であった。
 父の顔と、兄の顔は、思い出さない。なぜなら、すぐそばにいるからだ。
 敵は、もう見えない。ただ、正面を、雲が一つ、流れている。
 海にいると思っていたら、いつの間にか、空にいたのだ。その空が狭くなってゆき、そして閉じた。
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