女王の名

増黒 豊

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第十一章 噴き火

サナとタク

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 タクは、もはや悩みはせぬ。ただ、己の目指す事業の成功のため、走ることにした。今回のクナのことが、彼の背中を強く押した。
 この騒ぎがあったから、大陸への使節は、今年は送らぬことになった。しかしタクは、方々に使いを発した。無論、隠密に、である。
 傘下の諸地域で、タクの意のままに動く吏のいる所。それは数えれば十を越えた。この時代、大陸の文献に記録されているだけで、三十から四十ほどのクニがあったというが、実際はもっと多かったと考えられる。それにしても、個人の力が及ぶクニが十を超えて存在するというのは、並のことではない。
 半分はクナ、半分はヤマトであったとしても、タクの息のかかった地域が十あれば、それはすなわちヤマトの半分か、それ以上を動かす力を持っているということである。なおかつ、彼はヤマトが海上に出るための要衝、オオトの候である。その気になれば、諸地域を寝返らせ、海を塞ぎ、山向こうのヤマトの地を全方位から攻めることもできる。しかし、彼の目指す事業とは、そうではない。重ねて言うが、彼はヤマトの滅びを望んでいるわけではない。
 ヤマトを、そしてサナを、自らのものにすること。そこに彼は還ってきた。薄皮を剥ぐように、あるいは火がついたようにヤマトの力を削ぎ、自らのものとする。そのためには、クナの力も欠かせない。今や独立した自我を持って動き始めたクナを御するのは困難であるが、ただヤマトが弱るだけでは、滅んでしまう。どちらも完膚なきまでに傷付くことが必要で、そうなれば、そこに新しいヤマトを建設することができる。その国では、サナは、ただの女になるのだ。

 筆者は、ここにきて初めて、タクの本当の意思を、断定的な口調で文字にした。これまで思わせぶりに匂わせてばかりで、読者諸兄諸姉やタク自身にも申し訳のないことであったが、もはや彼がその方向に専一に動きはじめた以上、隠すことはできまい。彼は、やる。誰に与えられたのか人の器には収まりきらぬほどの大望と、それを叶える才をもって生まれてきたタクにその機会が巡ってきた以上、もはや筆者の意思では彼を止められぬであろうことを含み置いて頂きたい。
 
 閉じていたマヒロの眼が、開いた。
 遥か北、かつてオオミとカイの兄弟が甚大な被害を被ったサザレの地が、再び叛いたという。その報をもたらしたのは、タクである。
「ほかに」
 とタクは続けた。
「クナと境するイシの地も」
「かつて、ヤマトに叛いた地ばかりではないか」
「クナが、おおっびらに動き出したようだな。どうする」
 マヒロは、即断した。
「おれは、イシにゆく。サザレの地は、かつてそこで戦ったことのある、オオミかカイがよい。地形などもよく飲み込んでいよう」
「どちらかは、残すのだな」
「この度は、ただごとではないからな」
 マヒロは、タクを見た。タクは、自らの企みが露見しているかもしれぬことを恐れたが、元々、腹にを持っていることを知った上で上手く使い、使われしてきた間柄であるから、今になって急に動き出したと思われることはないと踏んでいた。また、彼が妙な動きをしていたとしても、一体何をしようとしているのかマヒロが知るはずもない。だから、逆にあからさまにこの二つの地域を叛かせ、わざわざマヒロにその報を持っていってやった。
「マヒロ。古い付き合いであるからあえて言うが、私はこの度のことに、何の関わりもない。私がヤマトをどうこうしようと仮にしていたとしても、まさか滅びを望んでいることなど、あり得ないのだ」
 あえて言った。マヒロは、何も答えず、立ち上がった。
「信じてくれ、マヒロ。私は、ヒメミコや我が娘が火に焼かれることなど、全く望んではいないのだ」
 タクも、追いすがるように立ち上がり、言った。
「わかっている、タク」
 マヒロは、剣をきながら答えた。次の瞬間、タクの首に、その剣が当てられていた。
「まだお互いに若い頃、稽古で負けたこともある。しかし、分かっているとは思うが、おれはその頃のおれではない。どのような戦いが待ち受けていようとも、おれは、ヒメミコのため、ヤマトのため、おれ自身のため、必ず勝ち、戻る」
「わかっている」
 タクは、全く表情を変えない。
「しかし、おれが戻ったとき、オオトの地を塞いでいたり、ヤマトに火の手が上がっていたりしてみろ。おれは、どのような手を用いても、必ず、お前を殺す。どれだけお前が遠くに逃げようとも、おれの矢がお前の頭を砕く」
「私は、そのようはことはせぬ。むしろ、お前のおらぬ間にクナなどが攻めてくれば、私自らが兵を率い、戦うつもりだ」
 タクが、マヒロの剣を掴んだ。刃に、血が滲んだ。マヒロは、剣に込めた気を緩めた。タクも、刃を握る力を緩めた。
「ヤマトを、頼む」
 そう言い残し、マヒロは兵の召集のため、ナナシを呼びに退室した。タクも、そのままサナを訪れ、マヒロにもたらした報と同じことを報告した。
「わかった。任せる」
 サナはいつもの調子で言った。いつもなら、必要な報告を済ませればさっさと引き下がるタクがなおも座ったままであるので、サナはタクの方を見た。夕暮れが、近い。もう、春は終わろうとしており、早くも初夏の匂いを含んだ風が吹き込んでくる。
「ヒメミコは、クナが、このままヤマトを飲み込もうとしてくるつもりであるとお考えですか」
 タクは、風の匂いに耳を澄ませるサナに言った。サナは、
「攻めてくるのであろう?」
 と反問した。
「この度のことが、その始まりになるかと」
「であれば、攻めてくるのであろうよ」
「攻めてくれば、どうするのです」
「マヒロらが、戦う。そして、勝つ」
 お団子に挿した黒檀の箸を一度抜き、挿し直した。タクは、以前使っていたものを新しくしたのだ、と思った。確かにその箸には傷もなく、艶があった。
「ヒメミコは、どうされるのです」
「今日は、いつになく、しつこいな」
「事が、事ですから」
「わたしか。わたしは」
 ぱっと笑顔が咲いた。
「ここを、動かぬよ」
 タクは、はっとした。
「マヒロらが戦い、そして勝つのを信じることしか、できぬからな」
「しかし、万一負ければ」
「それは、すなわち、わたしもヤマトも滅ぶということだ」
「それでは、あまりにも」
 サナは、さらに被せて言った。
「わたしが滅んでも、ヤマトはある。ヤマトが滅んでも、国はある。我らは、大いなる水の流れが通りすぎる、その一つの点でしかないのだ」
「分かりません」
「分からずともよい。王としてのわたしの個は、もはやどこにもない。個であるわたしがあるなら、それは王ではない」
 サナは、暮れ始めた空を見た。
「ただ、マヒロが死なぬよう祈り、その帰りを待つだけの女じゃ」
 焦がれるような眼をしているのは、サナ自身の意思なのか、暮れて行く陽がそうさせるのか。
「タクよ」
 その眼が、戻ってきた。
「かつて、わたしは、声を聞いた」
「どんな」
「わたしは、マヒロと共に生きると」
 いたずらっぽく笑い、
「お前が、わたしを抱いた夜のことじゃ」
 と付け加えた。タクは、サナのこの顔が好きであった。片方の眉にだけ力が宿り、意地悪に眼を歪め、唇には妖しい香りが漂う。その香りを持ったまま、唇が動く。
「それは、すなわち、わたしはマヒロとともに死ぬということじゃ」
 陽が、紅い。
「わたしの個とは、それでしかない。小さく、何の力もない、取るに足らぬ女だ」
「ヒメミコは、ヤマトのあらゆる者にとっての、全てです」
「それは、王としてのわたしだ。先にも言うたが、それは、別に、わたしでなくともよい」
「王は、この世で唯一のものではないと」
「クナを見ろ。先のヒコミコは、マヒロが討ち果たしたというのに、もう新たな王のような者が立ち、現にこうして我らを悩ませている」
 タクは、黙った。
「ヤマトも、クナも、時の続く限りあるなどということはない。ただ、名は変わり、人が変わっても、そこに意思があり、人があれば、国はある」
「ヒメミコの見ておられる国は、私などの見ているそれよりも、遥かに大きいらしい」
「当たり前じゃ。わたしを、誰だと思っておる」
「神宿しの、陽の巫女様――」
 サナは、いつもの癖で、足を投げ出すようにして座り直した。このような座り方など奴婢でもせぬが、それが何故かサナらしかった。
「思えば、そのことばかり、考えてきた」
 その足の指が、閉じたり開いたりするのを、タクは見つめている。
「王とは。国とは。民とは。人とは何ぞや、とな。その答えは神も知らぬし、精霊も知らぬ」
「神も、精霊も?」
「当たり前じゃ。そのようなものが、この世に存在した試しがないのだから。神も精霊も、知るわけがなかろう」
 更に、言葉を継いだ。
「我らは既に、もはや神も、精霊も見たことのない世界にいるのだ」
 タクは、背筋が寒くなってゆくのを感じた。
「それが証に――」
 サナは立ち上がり、タクの側にまで歩き、その前で屈みこむ。ふわりと甘い匂いが漂った。
「――わたしには、もはや神の声も、精霊の声も、全く聞こえぬのだ」
 タクは、そう囁くサナの顔を見た。これほど間近でサナを見るのは、あの夜以来であろうか。やはり、女王になったときと比べて少しも歳は取っておらず、顔には全く皺などもなく、肌は白く、熟れ始めた果実のようにみずみずしい。
「ヒメミコは、今なお歳を取らずにおられます」
 と、この時の止まったようなサナに言った。
「いや、わたしもまた、死に向かって、必ず時を刻んでおる。人は、生まれたときから、死へ向かってゆくのを避けられはしない。一度陽が落ちてそれがまた昇る度、人は死に近づいてゆく。私だけが、その定めの外にあるわけがない」
 サナは、ふしぎなことを言った。
「だから、タク。無理はするな」
 どういう意味なのか、タクにも筆者にも分からない。
 室外で、飯を運んできた者から、声が上がった。サナは素早くお団子から新しい箸を抜くと、
「飯を食う。下がれ」
 と言った。タクは、一度頭を下げ、退室した。
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