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第九章 裂き火
策を破る策
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「よかったのか。女であると知らせて」
マヒロは、舟を漕ぎながら、ナナシに問うた。
「構いませぬ。女であろうとなかろうと、私はただの名無し。マヒロ様こそ、よろしかったのですか」
「おれは、別に構わぬが。皆、驚いていたな」
ナナシは、覆面の奥で眼を細くした。
「お前の策は、必ず当たると思う。我らだけでは、とうてい思い付かぬことである」
「神の声でもなんでもなく、わたし自身で考え、その考えを、わたしの声で、皆に伝えたかったのです」
川を遡る波音よりも美しい声で、ナナシは言った。
やがて、川が開けた。おうの海に出たようである。そちらこちらに浮かぶ、漁をする舟が、この奇妙な船団を見て、手を止めている。
「この時期は、何が獲れるのだろうな」
アユや、ウグイ、ハスなどであろうか。海と接続した汽水湖だから、ひょっとしたらもっと別のものも獲れるかもしれない。
舟は、南へ。逆らう流れのない平らな湖だから、驚くほど速い。さすがに両腕が張って辛いが、なおも漕いだ。夕暮れには、再び上陸できそうである。今宵は、朔のため、月はない。晴れた空の星明かりの下で、火も焚かず夜営をし、夜が明けると同時にイヅモの西を一気に衝く。
一方、南の丘陵地帯をゆくカイの軍は。ようやく、敵が襲撃してくるであろう地点にたどりついた。既に、敵はこちらを捕捉している気配がある。長く東西に横たわる丘の切れ目で必ず襲いかかってくる、と確信するカイの肌は、針で刺すように緊張していた。
丘が、一度切れた。前方に再び広がる丘に向け、歩を進めたところを、北からクナ軍がやってきた。場所も、数も読み通りである。こちらのナナシが、相当な眼と頭を持っているのと同じように、敵にも切れ者がいるということである。
カイは、迎撃を命じた。後列の隊まで、光と音でそれが伝達される。
兵が弧を描くようにして展開し、迎撃の構えを取った。カイも、剣を抜き放った。
「揉み潰せ」
こちらは、二千。兵数では敵が上回っているが、敵はこの奇襲を予測されているとは思っていないらしく、カイが先手を取った形になる。敵が、慌てて進軍隊形から散開する。機動性が重視される戦いであるから、カイは、マヒロの百の騎馬を従えていた。自らも、馬にまたがっている。その騎馬隊が、まず敵の前衛を食い散らかす。
それに応じるべく反転してくる敵の騎馬隊の頭上を通り越すようにして、矢を放つ。一部で混乱をきたしているようである。そこで歩兵を突撃させたいところであるが、できるだけ敵の眼をこの南に向けさせるため、戦いを長引かせ、深追いをさせねばならない。マヒロが西側を衝くのは、明日の朝。
カイは、睨むようにして照りつけている夏の陽を頭上に、退却を命じた。兵が、散り散りに逃げてゆく。
――追え。一人も逃すな。
という敵の指揮官の号令が、ほとんど陽差しに溶けこむようにして聞こえた。カイの兵は、十人一組になり、散った。かなり大きく散開させ、丘陵地帯の中に駆け込む。その中でやや開けた場所があり、そこで軍を再集結させる、と敵が読むと踏んだため、軍を集結させることなく、あえて散らせたままにしておいた。
考えた場所にカイらがおらぬため、今頃敵は焦っているだろう。その様を想像して、カイは笑みを漏らした。
カイが指定した集結点は、丘陵地帯のもっと奥、さらに南の場所である。散り散りになった兵は、日暮れまでに、ゆっくりとそこに集まる。
カイは、本気で逃げていた。彼はやはりその半生の過ごし方により、天才的な逃げっぷりを持っていた。丘陵地帯を、飛ぶような速さで、馬を飛ばした。また、その兵も同様である。だから、敵はいくら山狩りをしても、いっこうにカイらを見つけられぬ。まるで、はじめからヤマトの兵など存在しなかったかのような徹底した逃げっぷりであった。
集結地点まで近い者は木に登ったり、草に伏せたりして、太陽を見つめ、集合の時を待った。集結地点まで回り込むようにして行く者は、ひたすら駆けた。マヒロから預かった百の騎馬のみ、カイが直接率いて駆けている。馬という生き物は、全速力で駆けようと思えば、生命の続く限り駆けられる。しかし、限界を越えると、死ぬ。その見極めも、カイは上手かった。騎馬隊の中でもっとも体力のない馬の足が緩むと、カイの馬も、自然と足を緩めた。そうして集団の速力を保ったまま、一頭も馬を潰さず駆け続ける。
かなり、南に来た。丘陵地帯が一旦途切れ、椀の底のようになっている地形の場所である。そこで、カイは歩兵を待つ。日が暮れるにつれ続々と兵が集まってきて、日没までには全軍が集結した。このまま、兵と馬を、明け方まで休ませる。
「やはり、おかしい」
クシムは、違和感を感じていた。いるはずのマヒロが、消えた。南を迂回する軍は捕捉したが、どうやらその指揮官はユウリの子の片割れらしい。それが、奇襲を予め知っていたような動きをし、そして跡形も残さず、鮮やかに散ったという。
「気になるか」
ヒコミコが声をかけてきた。
「はい」
短く答えた。
「マヒロは、どこだ」
「恐らく」
クシムは、ヒコミコと眼を合わせた。
「西」
「西?」
クシムは、ヒコミコと会話をしながら、自分の想像が、確信へと変わってゆくのを感じた。
「マヒロは、西から来ます」
「どうやって」
「おそらく、舟を徴発し、川を遡り、おうの海を滑って来ることでしょう」
「それならば、北を迂回し、歩いて来るよりも速い、か。とすると」
「恐らく、マヒロは既に、陸に上がっていると思われます」
クシムの目が、焚かれた火を映し出していた。
「夜が明けたら、来るか」
西側を攻められれば、正面と南と、軍を三方に分けねばならない。兵数で劣るクナにとっては、それは痛手になる。
「西のマヒロを、迎え撃つか」
「迎え撃ちます。しかし」
とクシムは言う。
「どうするのだ」
クシムは、軍師として対応策を施した。ヒコミコも思いも付かぬ策であった。
「それは、面白い」
ヒコミコは、手を叩いて喜んだ。
夜が明けようとしている。手筈通りなら、カイは、既に進発を始めた頃である。兵は大いに眠らせ、少しでもこの強行軍の疲れを取らせた。マヒロとナナシは、一睡もしていない。特に何も語ることがないので、ただこれまでの戦いのことであったり、幼い頃の話などをした。ナナシは、呪縛から解放されたように、笑い、話した。
マヒロは、皮肉にも、これがほんとうのマナなのか、とマナであることをやめ、ナナシとして生きてゆくことを決意した姿を見て、思った。
「陽が上ったら、ゆく。都邑の館を、まず焼く。その煙を合図に、カイとオオミも攻撃を始める」
マヒロは、ナナシの授けた策を確認した。ナナシは、眼を細めて頷いた。
「どうか、無理をされませぬよう」
「案ずるな」
黒が青味を帯び、それが段々と薄くなってくる。夜と朝で、鳴く虫が違う。夜の虫の鳴き声が少なくなり、止んだ。夜の風は、水から陸の方に向かって吹く。昼の風は、陸から水に向かって吹く。その水からの風が弱まったことがそうさせるのか、虫もまた僅かな光の加減の違いを感じ取り、そうしているのかはマヒロには分からない。
「ゆく」
既に兵は、起き出してきている。マヒロも二本の剣を佩き、矛を手にし、立ち上がった。コウラが、待ちかねたようにマヒロの弓を差し出す。矛を片手に、弓を片手に持った。
空の青が色彩を帯び、赤が混じってきた。マヒロはその赤を、正面に見ていた。
「なにか、おかしい」
マヒロは、赤の中に眼を凝らした。目指す都邑の方向から、朝の凪の空に煙が立ち上っている。
「馬鹿な」
クナが、自ら火を放ったとでもいうのか。先にカイやオオミにそれを見せつけ、早くもマヒロの奇襲が成ったと思わせ、攻撃の拍子を崩したのか。マヒロは、ナナシを見た。
「危険です。今、行っては」
ナナシは、マヒロの思考を先回りした。
「いや、ゆく。今ここで行かねば、カイも、オオミも、負ける」
ナナシが、恐れた通りのことになってはいないか。マヒロは、彼らのためクナを撃退すべく奮戦し、そして、死ぬのではないだろうか。しかし、もうナナシには、マヒロを止める術はない。
「せめて、一緒に」
それだけを言った。続きは、ない。これがナナシにとっての精一杯だった。マヒロは、答えず、ただ歩みだした。
セイは、クシムからの急報を受け、正面の守りから密かに抜け出し、五百ほどの手勢を連れて、西側へ急行した。馬が減れば、正面のオオミに抜け出したことが察知されてしまう。そのため、馬は残した。夜が明け、都邑の西に位置する館の方から煙が上がれば、館の守備のため防戦の構えを解いて都邑の中へと退却し、西へ進むことを自軍に言い含めてある。
正面と、南など、どうでもよい。マヒロさえ潰せば、あとはどうにでもなる、と思った。先にオオミ、カイに攻めさせ、それを都邑に引き込み、迎え撃つ。肩すかしを食らったマヒロを西の地で迎えて討ち取り、その衝撃で南と東を動揺させ、一挙に叩き潰す。
マヒロが見ていたのと同じ青い色彩の空の下、セイは、館の前の広場に積み上げた木材に火を放った。小さな火はどんどん燃え上がり、天を焦がすほどの炎となり、黒い煙がまっすぐに立ち上った。
「来い、マヒロ」
クシムと共に、ヒコミコのいる館の前で燃え盛る炎を背に、セイは西へ軍を進めた。
そのマヒロは、都邑に向け進軍を開始した。急いだ。この煙を見て、早すぎる攻めを、カイとオオミは始めているであろう。
三方を一斉に攻めて初めて、この二重の陽動の意味がある。既に、西からの奇襲を察知されている以上、この作戦は破綻した。しかし、立ち上る煙が、マヒロに退却を許さない。マヒロは、オオミとカイを救わなければならなかった。
都邑の姿が、朝の陽射しの中に浮かび上がってきた。
「今日も、暑くなりそうだな」
マヒロは、覆面から蒼白な顔を覗かせているナナシに向かって言った。ナナシは、なんと答えてよいのか分からない。
「陽が暮れれば、また涼しくなるのだが」
マヒロは、ほんとうに今日の日没後の涼しさを感じることが出来るのであろうか。
「ナナシ」
マヒロは、歩く速度を緩めず言った。
「お前は、ここで待て」
「そんな」
「守りながらでは、戦えぬ」
「しかし」
「必ず、勝つ。そしてお前を、呼び戻しに来る」
マヒロは、ナナシの肩に手を置き、その場に押し止めた。
「大丈夫です。マヒロ様は、このコウラの命に代えて、死なせはしません」
マヒロの傍らのコウラが、声をかけてきた。マヒロの軍が、ナナシの両脇を、すり抜けてゆく。マヒロが、遠ざかってゆく。朝の陽射しの中に、それは消えた。ナナシは、草の上に座り込んだ。そして、泣いた。
マヒロは、舟を漕ぎながら、ナナシに問うた。
「構いませぬ。女であろうとなかろうと、私はただの名無し。マヒロ様こそ、よろしかったのですか」
「おれは、別に構わぬが。皆、驚いていたな」
ナナシは、覆面の奥で眼を細くした。
「お前の策は、必ず当たると思う。我らだけでは、とうてい思い付かぬことである」
「神の声でもなんでもなく、わたし自身で考え、その考えを、わたしの声で、皆に伝えたかったのです」
川を遡る波音よりも美しい声で、ナナシは言った。
やがて、川が開けた。おうの海に出たようである。そちらこちらに浮かぶ、漁をする舟が、この奇妙な船団を見て、手を止めている。
「この時期は、何が獲れるのだろうな」
アユや、ウグイ、ハスなどであろうか。海と接続した汽水湖だから、ひょっとしたらもっと別のものも獲れるかもしれない。
舟は、南へ。逆らう流れのない平らな湖だから、驚くほど速い。さすがに両腕が張って辛いが、なおも漕いだ。夕暮れには、再び上陸できそうである。今宵は、朔のため、月はない。晴れた空の星明かりの下で、火も焚かず夜営をし、夜が明けると同時にイヅモの西を一気に衝く。
一方、南の丘陵地帯をゆくカイの軍は。ようやく、敵が襲撃してくるであろう地点にたどりついた。既に、敵はこちらを捕捉している気配がある。長く東西に横たわる丘の切れ目で必ず襲いかかってくる、と確信するカイの肌は、針で刺すように緊張していた。
丘が、一度切れた。前方に再び広がる丘に向け、歩を進めたところを、北からクナ軍がやってきた。場所も、数も読み通りである。こちらのナナシが、相当な眼と頭を持っているのと同じように、敵にも切れ者がいるということである。
カイは、迎撃を命じた。後列の隊まで、光と音でそれが伝達される。
兵が弧を描くようにして展開し、迎撃の構えを取った。カイも、剣を抜き放った。
「揉み潰せ」
こちらは、二千。兵数では敵が上回っているが、敵はこの奇襲を予測されているとは思っていないらしく、カイが先手を取った形になる。敵が、慌てて進軍隊形から散開する。機動性が重視される戦いであるから、カイは、マヒロの百の騎馬を従えていた。自らも、馬にまたがっている。その騎馬隊が、まず敵の前衛を食い散らかす。
それに応じるべく反転してくる敵の騎馬隊の頭上を通り越すようにして、矢を放つ。一部で混乱をきたしているようである。そこで歩兵を突撃させたいところであるが、できるだけ敵の眼をこの南に向けさせるため、戦いを長引かせ、深追いをさせねばならない。マヒロが西側を衝くのは、明日の朝。
カイは、睨むようにして照りつけている夏の陽を頭上に、退却を命じた。兵が、散り散りに逃げてゆく。
――追え。一人も逃すな。
という敵の指揮官の号令が、ほとんど陽差しに溶けこむようにして聞こえた。カイの兵は、十人一組になり、散った。かなり大きく散開させ、丘陵地帯の中に駆け込む。その中でやや開けた場所があり、そこで軍を再集結させる、と敵が読むと踏んだため、軍を集結させることなく、あえて散らせたままにしておいた。
考えた場所にカイらがおらぬため、今頃敵は焦っているだろう。その様を想像して、カイは笑みを漏らした。
カイが指定した集結点は、丘陵地帯のもっと奥、さらに南の場所である。散り散りになった兵は、日暮れまでに、ゆっくりとそこに集まる。
カイは、本気で逃げていた。彼はやはりその半生の過ごし方により、天才的な逃げっぷりを持っていた。丘陵地帯を、飛ぶような速さで、馬を飛ばした。また、その兵も同様である。だから、敵はいくら山狩りをしても、いっこうにカイらを見つけられぬ。まるで、はじめからヤマトの兵など存在しなかったかのような徹底した逃げっぷりであった。
集結地点まで近い者は木に登ったり、草に伏せたりして、太陽を見つめ、集合の時を待った。集結地点まで回り込むようにして行く者は、ひたすら駆けた。マヒロから預かった百の騎馬のみ、カイが直接率いて駆けている。馬という生き物は、全速力で駆けようと思えば、生命の続く限り駆けられる。しかし、限界を越えると、死ぬ。その見極めも、カイは上手かった。騎馬隊の中でもっとも体力のない馬の足が緩むと、カイの馬も、自然と足を緩めた。そうして集団の速力を保ったまま、一頭も馬を潰さず駆け続ける。
かなり、南に来た。丘陵地帯が一旦途切れ、椀の底のようになっている地形の場所である。そこで、カイは歩兵を待つ。日が暮れるにつれ続々と兵が集まってきて、日没までには全軍が集結した。このまま、兵と馬を、明け方まで休ませる。
「やはり、おかしい」
クシムは、違和感を感じていた。いるはずのマヒロが、消えた。南を迂回する軍は捕捉したが、どうやらその指揮官はユウリの子の片割れらしい。それが、奇襲を予め知っていたような動きをし、そして跡形も残さず、鮮やかに散ったという。
「気になるか」
ヒコミコが声をかけてきた。
「はい」
短く答えた。
「マヒロは、どこだ」
「恐らく」
クシムは、ヒコミコと眼を合わせた。
「西」
「西?」
クシムは、ヒコミコと会話をしながら、自分の想像が、確信へと変わってゆくのを感じた。
「マヒロは、西から来ます」
「どうやって」
「おそらく、舟を徴発し、川を遡り、おうの海を滑って来ることでしょう」
「それならば、北を迂回し、歩いて来るよりも速い、か。とすると」
「恐らく、マヒロは既に、陸に上がっていると思われます」
クシムの目が、焚かれた火を映し出していた。
「夜が明けたら、来るか」
西側を攻められれば、正面と南と、軍を三方に分けねばならない。兵数で劣るクナにとっては、それは痛手になる。
「西のマヒロを、迎え撃つか」
「迎え撃ちます。しかし」
とクシムは言う。
「どうするのだ」
クシムは、軍師として対応策を施した。ヒコミコも思いも付かぬ策であった。
「それは、面白い」
ヒコミコは、手を叩いて喜んだ。
夜が明けようとしている。手筈通りなら、カイは、既に進発を始めた頃である。兵は大いに眠らせ、少しでもこの強行軍の疲れを取らせた。マヒロとナナシは、一睡もしていない。特に何も語ることがないので、ただこれまでの戦いのことであったり、幼い頃の話などをした。ナナシは、呪縛から解放されたように、笑い、話した。
マヒロは、皮肉にも、これがほんとうのマナなのか、とマナであることをやめ、ナナシとして生きてゆくことを決意した姿を見て、思った。
「陽が上ったら、ゆく。都邑の館を、まず焼く。その煙を合図に、カイとオオミも攻撃を始める」
マヒロは、ナナシの授けた策を確認した。ナナシは、眼を細めて頷いた。
「どうか、無理をされませぬよう」
「案ずるな」
黒が青味を帯び、それが段々と薄くなってくる。夜と朝で、鳴く虫が違う。夜の虫の鳴き声が少なくなり、止んだ。夜の風は、水から陸の方に向かって吹く。昼の風は、陸から水に向かって吹く。その水からの風が弱まったことがそうさせるのか、虫もまた僅かな光の加減の違いを感じ取り、そうしているのかはマヒロには分からない。
「ゆく」
既に兵は、起き出してきている。マヒロも二本の剣を佩き、矛を手にし、立ち上がった。コウラが、待ちかねたようにマヒロの弓を差し出す。矛を片手に、弓を片手に持った。
空の青が色彩を帯び、赤が混じってきた。マヒロはその赤を、正面に見ていた。
「なにか、おかしい」
マヒロは、赤の中に眼を凝らした。目指す都邑の方向から、朝の凪の空に煙が立ち上っている。
「馬鹿な」
クナが、自ら火を放ったとでもいうのか。先にカイやオオミにそれを見せつけ、早くもマヒロの奇襲が成ったと思わせ、攻撃の拍子を崩したのか。マヒロは、ナナシを見た。
「危険です。今、行っては」
ナナシは、マヒロの思考を先回りした。
「いや、ゆく。今ここで行かねば、カイも、オオミも、負ける」
ナナシが、恐れた通りのことになってはいないか。マヒロは、彼らのためクナを撃退すべく奮戦し、そして、死ぬのではないだろうか。しかし、もうナナシには、マヒロを止める術はない。
「せめて、一緒に」
それだけを言った。続きは、ない。これがナナシにとっての精一杯だった。マヒロは、答えず、ただ歩みだした。
セイは、クシムからの急報を受け、正面の守りから密かに抜け出し、五百ほどの手勢を連れて、西側へ急行した。馬が減れば、正面のオオミに抜け出したことが察知されてしまう。そのため、馬は残した。夜が明け、都邑の西に位置する館の方から煙が上がれば、館の守備のため防戦の構えを解いて都邑の中へと退却し、西へ進むことを自軍に言い含めてある。
正面と、南など、どうでもよい。マヒロさえ潰せば、あとはどうにでもなる、と思った。先にオオミ、カイに攻めさせ、それを都邑に引き込み、迎え撃つ。肩すかしを食らったマヒロを西の地で迎えて討ち取り、その衝撃で南と東を動揺させ、一挙に叩き潰す。
マヒロが見ていたのと同じ青い色彩の空の下、セイは、館の前の広場に積み上げた木材に火を放った。小さな火はどんどん燃え上がり、天を焦がすほどの炎となり、黒い煙がまっすぐに立ち上った。
「来い、マヒロ」
クシムと共に、ヒコミコのいる館の前で燃え盛る炎を背に、セイは西へ軍を進めた。
そのマヒロは、都邑に向け進軍を開始した。急いだ。この煙を見て、早すぎる攻めを、カイとオオミは始めているであろう。
三方を一斉に攻めて初めて、この二重の陽動の意味がある。既に、西からの奇襲を察知されている以上、この作戦は破綻した。しかし、立ち上る煙が、マヒロに退却を許さない。マヒロは、オオミとカイを救わなければならなかった。
都邑の姿が、朝の陽射しの中に浮かび上がってきた。
「今日も、暑くなりそうだな」
マヒロは、覆面から蒼白な顔を覗かせているナナシに向かって言った。ナナシは、なんと答えてよいのか分からない。
「陽が暮れれば、また涼しくなるのだが」
マヒロは、ほんとうに今日の日没後の涼しさを感じることが出来るのであろうか。
「ナナシ」
マヒロは、歩く速度を緩めず言った。
「お前は、ここで待て」
「そんな」
「守りながらでは、戦えぬ」
「しかし」
「必ず、勝つ。そしてお前を、呼び戻しに来る」
マヒロは、ナナシの肩に手を置き、その場に押し止めた。
「大丈夫です。マヒロ様は、このコウラの命に代えて、死なせはしません」
マヒロの傍らのコウラが、声をかけてきた。マヒロの軍が、ナナシの両脇を、すり抜けてゆく。マヒロが、遠ざかってゆく。朝の陽射しの中に、それは消えた。ナナシは、草の上に座り込んだ。そして、泣いた。
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