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第八章 揺れ火
真名と名無し
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マヒロは、愛馬黒雷を走らせていた。他の馬よりも一回り大きな黒雷は、駆けるのが好きなようであった。マヒロも、黒雷をたいへん気にいっているようで、暇があれば、こうしてヤマトの楼閣を飛び出し、野を駆けている。駆けると、ほとんど風になった。耳が、びゅうびゅうと鳴る。ひょっとすると、風さえも追い越しているのかもしれない。
物語と関係のないことであるが、この時代、空気というものは無い。勿論、科学的な意味での大気はあったに決まっているが、それを人々が概念として捉えるようになるのは、時代を大きく進め、科学の発達を待ち、空気とは異なる様々な成分が混じりあって存在している物体であるということの発見を待たなければならないし、筆者は、たとえばユウリなどに、訳知り顔で、「これこそ戦場の空気よな」などと、間違っても言わせぬように注意してきた。
だが、風や空間など、見えるもの、感じられるものはこの時代にも存在した。たとえば、こんにちでは神社などでは必ずと言っていいほど「御神体」が祀られており、それは例えば鏡であったり刀であったり宝具であったりするが、マヒロらの時代より少し降った時代の、神道の原型のようなものにおいては、「空間」こそに神が宿るとされていた。それは石に、木に、水に、火に、山に、太陽に、月に、森羅万象それぞれに神が宿る。というアニミズム信仰と、体系化されたストーリーのある宗教との間の、過渡期のことである。体系化が進むにつれ、神は、より具体性を帯び、人格を持ち、意思を強めた。しかしこの時代においては、風は風、石は石であり、それぞれの神には、人格も名前もない。そういう意味で、むしろこの時代の方が、神は身近な存在で、人々は、おおらかにそれを受け入れることで、自らもまた天地自然の構成物であるということを認識していたのではなかろうか。
自分に、魂がこうして宿っているのだから、水にも、風にも魂があって当然である。しかし、人格はないのだから、普通にはその声は聴こえぬ。したがって、サナのような神宿しが有り難がられ、あるいは占いによってその意思を確かめたりするのかもしれぬ。
その風の神あるいは精霊が、マヒロの耳元で囁き続けている。無論マヒロには、その言葉は聞き取れない。しかし、語り合っていた。
黒雷が踏む土にも神がおり、馬蹄の響きに合わせ、何か言っている。
冬の空は、晴れており、青が濃い。新年の忙しさを越え、ようやく一息つけたわけであるから、余計そう感じるのかもしれない。
マヒロは、馬を停めた。槐の木のある丘である。葉は落ち、枝がむき出しになっているが、槐の木もまた、生きている。それを板にし、構造の強化のため木目を互い違いにしながらヒモで括るなどして貼り合わせて作った愛用の長弓を、傍らに置いた。黒雷は、マヒロが座ると、別に木に繋いだりせずとも近くをうろうろして、冬の枯れ草の中で食えるものを見つけては食んだりしていた。マヒロが出発の気配を示すと、耳を一度震わせ、小走りで戻ってくるのである。
マヒロは立ち上がった。黒雷がこちらを見、耳を震わせたが、弓を構えているので、まだ出発ではないと思ったのか、草探しに再び戻った。
マヒロの弓が、弧を描く。むかし、同じ場所で、同じことをした。あのときも、冬であった。あのときは、タクの脳天を、自らの矢が貫通することを思い、矢を放ったが、今は何も考えていない。
ぱん。と、弾ける音がする。弓が大きいため、その轟音は普通ではない。あたりに残響を残しながら、溶けていく。
矢も、視界の彼方に溶けた。その先には、鹿。豆粒ほどの大きにしか見えぬ距離で動く鹿を一撃で射殺すというのは、もはや人間業ではないが、マヒロは、弓が得意であった。神宿し、神殺しの弓などと噂されているが、マヒロにしてみれば、ただ得意なだけであった。
この時代では、マヒロくらいの年齢は、かなり成熟した年齢とされている。医学が発達し、寿命が長くなり、また、経済の発達による複雑な価値観の分岐は、どうやら我々が「子供でいられる期間」を長くしているようである。マヒロくらいの年齢ならば、こんにちでは「働き盛り」とされ、年長者からは「まだ若いんだから」と自らの老いを理由付ける依り代にされ、女からは「いつまで経っても子供ね」などと言われ、立つ瀬のないものであるし、「三十代からが人生だ。まだやり直せる」などと同僚から励まされたりするものであるが、この時代、いや、ひょっとすると戦前くらいまでは違った。経験的に、肉体的に最も多くのことができる年代であり、精神的にも落ち着きがあり、判断は冷静で的確である。当人自身もその自覚を自然と持ち、周囲も単純にそれを喜んだ。だから老人は威張らず、若者は従った。それでこそはじめて、この年代が社会的に最大限の力を発揮することができるのではなかろうか。同時に、マヒロくらいの年齢になり、生き方を間違えた、と気付く者などおらぬ。選択肢が少ないからこそ、自らが選べる最大限を誰もが選び、生きている。
ところで、あのマナという女は何者なのであろう。いつから、サナの側にいるのであろう。マヒロは記憶を遡ったが、あるとき自然にそこにおり、どういういきさつで、いつやって来たのか全く思い出せない。あれほど見目が良く、気もよく付く女ならば、もう少し記憶に留めていてもよいようなものであるが、分からない。
マナの顔を、思い出す。美しい一重の瞼は沈着な弧を描いており、その上の薄い眉は目尻にかけて優しげに下がっている。鼻はツンと嫌味なく尖り、上唇は薄く、下唇はみずみずしく膨らんでいる。その下には、思わずつついてやりたくなるようなおとがいがあり、白い首がその顔と、ふわりとした曲線を持つ胸を繋いでいる。
他意はなくとも、特定の異性のことを考えるうち、気になってくるというのは時代を越えよくある話である。マヒロは、いかん、と思った。また、彼女はマヒロを好いていると言う。特にハツミのことがあって以降、マヒロは、自らの身辺に並々ならぬ警戒をしていたから、マナのそのような視線に勘づかぬはずがない。ひょっとしたら、あれはでっち上げではないか。そうなれば、マナがタクの放った者であるという、クナの間者の話が正しいことになる。今は、何も分からぬ。分からぬが、考えてしまう。マヒロは、いかん、と再び頭を振った。
黒雷が、マヒロのそばで待っている。首筋を優しく叩いてやり、射殺した鹿を回収しに行くべく、跨がった。それを黒雷の背に結わえ、マヒロは歩いた。黒雷は帰りもマヒロを乗せて駆けられると思っていたらしく残念そうであったが、仕留めた巨大な角を持つ牡鹿を運ぶ役目に従っている。
楼閣に戻り、従者に鹿を与えた。これからこの鹿は解体され、立派な角は祭具や工芸品に、肉は塩漬けにされ、皮は人々の寒さを凌いだり、沓になったりするのだ。また脂肪は燃料になり、火を灯す。マヒロが仕留めた自然の命が、こうして同じ自然の構成員である人々の中に、溶け込んでゆくのだ。
黒雷の巨体が入るよう特別大きく造った小屋に入れ、一通り身体を拭ったり、水を替えてやったりして、世話をした。
馬小屋の前で、マナが、待っていた。マヒロは、一瞬、たじろいだ。
「なんだ。役目はどうした」
「ヒメミコより、免じられました」
クビにされたということである。
「なんだと」
「それよりも、マヒロ様の世話をせよ、と」
「ちょっと、来い」
マヒロはマナの手を引き、楼閣へ上がってゆく。三階のサナの部屋を、声をかけてから開け放った。
白い、もやのようなものが、サナにまとわりついていた。それはマヒロらに気付くと、ふわりとサナから離れ、空中に消えた。マヒロは、立ち尽くした。
「なんじゃ、阿呆のような顔をして」
「なんでもありません」
今見たものは、何だったのか。見間違いにしては、まるでマヒロらの来訪に気が咎めたようにして逃げたではないか。
「どうしたのだ。マナも連れて」
「そのことです。マナの役を免じ、おれの側に付けとはどういうことです」
「その方が、よい」
「なぜ」
「マナは、眼と耳を持っておる」
「そんなもの、このマヒロにも二つずつあります」
「お前が持たぬ、眼と耳だ」
マヒロは、いっこうに話が見えない。
「このマナは、わたしが王となったとき、取り止めにした、占いをする家の子じゃ。そのときまだ幼かったが、それ以来、わたしの側に置いているのだ」
言われて、マヒロは察した。マナはずっと、サナの側にいたらしい。そして、どうやらマナもまた、サナと同じ眼と耳を持っているらしい。今、サナと戯れていた白い何かは、マナが見たものなのかもしれない。タクのことも、クナのことも、マナは、人ではない何かの力によってそれを知ったのかもしれない、と思った。
「こやつは、よく眼が開いておる。わたしは、ここを動くわけにはゆかぬ。これからのお前に、わたしと同じ眼を持ち、わたしと同じ耳を持つ者が必要だと思ったのだ」
「しかし」
マヒロは、なおも納得しない。この女として危険な魅力を孕んだ者をそばに置いていては、どのような災難が彼を襲うか分からない。
「この者の毒も、薬も、おまえは自らのために使うのだ」
とサナは言った。
「なんなら、抱いてもよいのだ」
いたずらっぽく笑った。その顔にマヒロは唾を飲み込みたくなり、安心した。脇でマナが、恥ずかしそうに眼を伏せる気配がした。
「抱きませぬ。しかし、そこまで仰るなら」
マヒロは、マナを側に置くことを渋々引き受けた。今さら、神の声を聞いて、どうなるというのか。サナは、一体、何を見ているのか。
マナは、人前に出るときは、彼女がマナだと、そして女だと分からぬよう、絹の白い頭巾を被せ、目だけを出して布を垂らす姿になった。自らの軍の者には、新しい軍師であるとして引き合わせた。マナ自身が、そうせよと言ったのである。火傷の跡を隠すため、頭巾を用いている。大陸から渡ってきたばかりなので言葉が上手く使えず、故に言葉をあまり発しない、ということにした。これでマヒロの心を騒がせることはない、とも言った。彼女が用いた名は、ナナシ。そのまま、「名無し」である。
リュウキの死からずっと、明確な筋道を立て国家の運営や戦いの助言をする者がいないため、マナの存在は受け入れられた。思えば、あれからずっと、ヤマトの運営は、その豊かな人材により支えられてはきたものの、どこか行き当たりばったりで、戦いになれば各々の武で無理矢理敵を撃滅し、クナとの土地争いにおいては、クナが鎮静化しているため今はそれほどでもないが、また戦いになれば誰をどこに置き、何の役割をさせればよいのか、そもそも戦うべきかどうかについても、分かる者がいない。マナがほんとうに軍師として役に立つとはマヒロは思ってはいないが、自らそのように扱ってくれと申し出てきたわけで、サナもそれでよい、という意向を示したから、仕方ない。
サナは、実際のところ、どう思っているのであろうか。マナの神宿しの巫女としての力を、同じ力を持つサナは早くから発見していたのは確かである。かといって、マナは自らは何も言わない。サナの身の回りの世話をする者が揃って身に付けている白い絹の衣服に深い赤の帯を巻き、無駄口を叩くことなく長い間役目をこなしていた。
サナの神宿しの力は、サナ自身がそうあろうと思っている以上、ヤマト全体のことしか見えぬ。見えたところで、何かを予知し、事故を未然に防いだりするわけでもない。たとえば、クナと戦ったとき、誘われるように戦場に赴き、ヤマトを勝利に導いたり、死の淵に立つマヒロを呼び戻したりはしたが、これからのマヒロには、もっと具体的で、どう行動すればよいのかを示すものがあった方がよい、と思った。神や精霊がサナに何かを見せようとする意思よりも、特定の個人の役に立ちたいと思い、それを見ようとする人間の意思の方が、強い。と、この間の間者騒ぎのとき、改めてマナの眼を見て、サナは確信していた。
マヒロが、マナをどう扱おうが、マヒロの勝手である。しかしマナなら、マヒロの望むように上手く用いられることであろう、と思っていた。サナは、マナに対し、自分の分身のようにして、常にマヒロのそばにいることを期待した。マヒロが、よりよく戦えるよう。そしてマヒロが、死なぬよう。それを、マナはよく分かっているらしい。ごく一部の中枢に関わる者には知らされたが、そうではない多くの者にとっての自らの存在を殺し、頭巾を纏い、名を捨てて。
あとは、堅物のマヒロが、彼女を受け入れられるかどうかである。それは、共に時をすごし、マナの、いやナナシとしての彼女の力にマヒロが信頼を置けるようになるのを待たねばなるまい。
マナといえば、当時、その者の名そのもののを指す一般名詞を「マナ」と言った。漢字を当てるなら「真名」である。
自らの真名を捨て、名無しになった女がいる。という話である。
物語と関係のないことであるが、この時代、空気というものは無い。勿論、科学的な意味での大気はあったに決まっているが、それを人々が概念として捉えるようになるのは、時代を大きく進め、科学の発達を待ち、空気とは異なる様々な成分が混じりあって存在している物体であるということの発見を待たなければならないし、筆者は、たとえばユウリなどに、訳知り顔で、「これこそ戦場の空気よな」などと、間違っても言わせぬように注意してきた。
だが、風や空間など、見えるもの、感じられるものはこの時代にも存在した。たとえば、こんにちでは神社などでは必ずと言っていいほど「御神体」が祀られており、それは例えば鏡であったり刀であったり宝具であったりするが、マヒロらの時代より少し降った時代の、神道の原型のようなものにおいては、「空間」こそに神が宿るとされていた。それは石に、木に、水に、火に、山に、太陽に、月に、森羅万象それぞれに神が宿る。というアニミズム信仰と、体系化されたストーリーのある宗教との間の、過渡期のことである。体系化が進むにつれ、神は、より具体性を帯び、人格を持ち、意思を強めた。しかしこの時代においては、風は風、石は石であり、それぞれの神には、人格も名前もない。そういう意味で、むしろこの時代の方が、神は身近な存在で、人々は、おおらかにそれを受け入れることで、自らもまた天地自然の構成物であるということを認識していたのではなかろうか。
自分に、魂がこうして宿っているのだから、水にも、風にも魂があって当然である。しかし、人格はないのだから、普通にはその声は聴こえぬ。したがって、サナのような神宿しが有り難がられ、あるいは占いによってその意思を確かめたりするのかもしれぬ。
その風の神あるいは精霊が、マヒロの耳元で囁き続けている。無論マヒロには、その言葉は聞き取れない。しかし、語り合っていた。
黒雷が踏む土にも神がおり、馬蹄の響きに合わせ、何か言っている。
冬の空は、晴れており、青が濃い。新年の忙しさを越え、ようやく一息つけたわけであるから、余計そう感じるのかもしれない。
マヒロは、馬を停めた。槐の木のある丘である。葉は落ち、枝がむき出しになっているが、槐の木もまた、生きている。それを板にし、構造の強化のため木目を互い違いにしながらヒモで括るなどして貼り合わせて作った愛用の長弓を、傍らに置いた。黒雷は、マヒロが座ると、別に木に繋いだりせずとも近くをうろうろして、冬の枯れ草の中で食えるものを見つけては食んだりしていた。マヒロが出発の気配を示すと、耳を一度震わせ、小走りで戻ってくるのである。
マヒロは立ち上がった。黒雷がこちらを見、耳を震わせたが、弓を構えているので、まだ出発ではないと思ったのか、草探しに再び戻った。
マヒロの弓が、弧を描く。むかし、同じ場所で、同じことをした。あのときも、冬であった。あのときは、タクの脳天を、自らの矢が貫通することを思い、矢を放ったが、今は何も考えていない。
ぱん。と、弾ける音がする。弓が大きいため、その轟音は普通ではない。あたりに残響を残しながら、溶けていく。
矢も、視界の彼方に溶けた。その先には、鹿。豆粒ほどの大きにしか見えぬ距離で動く鹿を一撃で射殺すというのは、もはや人間業ではないが、マヒロは、弓が得意であった。神宿し、神殺しの弓などと噂されているが、マヒロにしてみれば、ただ得意なだけであった。
この時代では、マヒロくらいの年齢は、かなり成熟した年齢とされている。医学が発達し、寿命が長くなり、また、経済の発達による複雑な価値観の分岐は、どうやら我々が「子供でいられる期間」を長くしているようである。マヒロくらいの年齢ならば、こんにちでは「働き盛り」とされ、年長者からは「まだ若いんだから」と自らの老いを理由付ける依り代にされ、女からは「いつまで経っても子供ね」などと言われ、立つ瀬のないものであるし、「三十代からが人生だ。まだやり直せる」などと同僚から励まされたりするものであるが、この時代、いや、ひょっとすると戦前くらいまでは違った。経験的に、肉体的に最も多くのことができる年代であり、精神的にも落ち着きがあり、判断は冷静で的確である。当人自身もその自覚を自然と持ち、周囲も単純にそれを喜んだ。だから老人は威張らず、若者は従った。それでこそはじめて、この年代が社会的に最大限の力を発揮することができるのではなかろうか。同時に、マヒロくらいの年齢になり、生き方を間違えた、と気付く者などおらぬ。選択肢が少ないからこそ、自らが選べる最大限を誰もが選び、生きている。
ところで、あのマナという女は何者なのであろう。いつから、サナの側にいるのであろう。マヒロは記憶を遡ったが、あるとき自然にそこにおり、どういういきさつで、いつやって来たのか全く思い出せない。あれほど見目が良く、気もよく付く女ならば、もう少し記憶に留めていてもよいようなものであるが、分からない。
マナの顔を、思い出す。美しい一重の瞼は沈着な弧を描いており、その上の薄い眉は目尻にかけて優しげに下がっている。鼻はツンと嫌味なく尖り、上唇は薄く、下唇はみずみずしく膨らんでいる。その下には、思わずつついてやりたくなるようなおとがいがあり、白い首がその顔と、ふわりとした曲線を持つ胸を繋いでいる。
他意はなくとも、特定の異性のことを考えるうち、気になってくるというのは時代を越えよくある話である。マヒロは、いかん、と思った。また、彼女はマヒロを好いていると言う。特にハツミのことがあって以降、マヒロは、自らの身辺に並々ならぬ警戒をしていたから、マナのそのような視線に勘づかぬはずがない。ひょっとしたら、あれはでっち上げではないか。そうなれば、マナがタクの放った者であるという、クナの間者の話が正しいことになる。今は、何も分からぬ。分からぬが、考えてしまう。マヒロは、いかん、と再び頭を振った。
黒雷が、マヒロのそばで待っている。首筋を優しく叩いてやり、射殺した鹿を回収しに行くべく、跨がった。それを黒雷の背に結わえ、マヒロは歩いた。黒雷は帰りもマヒロを乗せて駆けられると思っていたらしく残念そうであったが、仕留めた巨大な角を持つ牡鹿を運ぶ役目に従っている。
楼閣に戻り、従者に鹿を与えた。これからこの鹿は解体され、立派な角は祭具や工芸品に、肉は塩漬けにされ、皮は人々の寒さを凌いだり、沓になったりするのだ。また脂肪は燃料になり、火を灯す。マヒロが仕留めた自然の命が、こうして同じ自然の構成員である人々の中に、溶け込んでゆくのだ。
黒雷の巨体が入るよう特別大きく造った小屋に入れ、一通り身体を拭ったり、水を替えてやったりして、世話をした。
馬小屋の前で、マナが、待っていた。マヒロは、一瞬、たじろいだ。
「なんだ。役目はどうした」
「ヒメミコより、免じられました」
クビにされたということである。
「なんだと」
「それよりも、マヒロ様の世話をせよ、と」
「ちょっと、来い」
マヒロはマナの手を引き、楼閣へ上がってゆく。三階のサナの部屋を、声をかけてから開け放った。
白い、もやのようなものが、サナにまとわりついていた。それはマヒロらに気付くと、ふわりとサナから離れ、空中に消えた。マヒロは、立ち尽くした。
「なんじゃ、阿呆のような顔をして」
「なんでもありません」
今見たものは、何だったのか。見間違いにしては、まるでマヒロらの来訪に気が咎めたようにして逃げたではないか。
「どうしたのだ。マナも連れて」
「そのことです。マナの役を免じ、おれの側に付けとはどういうことです」
「その方が、よい」
「なぜ」
「マナは、眼と耳を持っておる」
「そんなもの、このマヒロにも二つずつあります」
「お前が持たぬ、眼と耳だ」
マヒロは、いっこうに話が見えない。
「このマナは、わたしが王となったとき、取り止めにした、占いをする家の子じゃ。そのときまだ幼かったが、それ以来、わたしの側に置いているのだ」
言われて、マヒロは察した。マナはずっと、サナの側にいたらしい。そして、どうやらマナもまた、サナと同じ眼と耳を持っているらしい。今、サナと戯れていた白い何かは、マナが見たものなのかもしれない。タクのことも、クナのことも、マナは、人ではない何かの力によってそれを知ったのかもしれない、と思った。
「こやつは、よく眼が開いておる。わたしは、ここを動くわけにはゆかぬ。これからのお前に、わたしと同じ眼を持ち、わたしと同じ耳を持つ者が必要だと思ったのだ」
「しかし」
マヒロは、なおも納得しない。この女として危険な魅力を孕んだ者をそばに置いていては、どのような災難が彼を襲うか分からない。
「この者の毒も、薬も、おまえは自らのために使うのだ」
とサナは言った。
「なんなら、抱いてもよいのだ」
いたずらっぽく笑った。その顔にマヒロは唾を飲み込みたくなり、安心した。脇でマナが、恥ずかしそうに眼を伏せる気配がした。
「抱きませぬ。しかし、そこまで仰るなら」
マヒロは、マナを側に置くことを渋々引き受けた。今さら、神の声を聞いて、どうなるというのか。サナは、一体、何を見ているのか。
マナは、人前に出るときは、彼女がマナだと、そして女だと分からぬよう、絹の白い頭巾を被せ、目だけを出して布を垂らす姿になった。自らの軍の者には、新しい軍師であるとして引き合わせた。マナ自身が、そうせよと言ったのである。火傷の跡を隠すため、頭巾を用いている。大陸から渡ってきたばかりなので言葉が上手く使えず、故に言葉をあまり発しない、ということにした。これでマヒロの心を騒がせることはない、とも言った。彼女が用いた名は、ナナシ。そのまま、「名無し」である。
リュウキの死からずっと、明確な筋道を立て国家の運営や戦いの助言をする者がいないため、マナの存在は受け入れられた。思えば、あれからずっと、ヤマトの運営は、その豊かな人材により支えられてはきたものの、どこか行き当たりばったりで、戦いになれば各々の武で無理矢理敵を撃滅し、クナとの土地争いにおいては、クナが鎮静化しているため今はそれほどでもないが、また戦いになれば誰をどこに置き、何の役割をさせればよいのか、そもそも戦うべきかどうかについても、分かる者がいない。マナがほんとうに軍師として役に立つとはマヒロは思ってはいないが、自らそのように扱ってくれと申し出てきたわけで、サナもそれでよい、という意向を示したから、仕方ない。
サナは、実際のところ、どう思っているのであろうか。マナの神宿しの巫女としての力を、同じ力を持つサナは早くから発見していたのは確かである。かといって、マナは自らは何も言わない。サナの身の回りの世話をする者が揃って身に付けている白い絹の衣服に深い赤の帯を巻き、無駄口を叩くことなく長い間役目をこなしていた。
サナの神宿しの力は、サナ自身がそうあろうと思っている以上、ヤマト全体のことしか見えぬ。見えたところで、何かを予知し、事故を未然に防いだりするわけでもない。たとえば、クナと戦ったとき、誘われるように戦場に赴き、ヤマトを勝利に導いたり、死の淵に立つマヒロを呼び戻したりはしたが、これからのマヒロには、もっと具体的で、どう行動すればよいのかを示すものがあった方がよい、と思った。神や精霊がサナに何かを見せようとする意思よりも、特定の個人の役に立ちたいと思い、それを見ようとする人間の意思の方が、強い。と、この間の間者騒ぎのとき、改めてマナの眼を見て、サナは確信していた。
マヒロが、マナをどう扱おうが、マヒロの勝手である。しかしマナなら、マヒロの望むように上手く用いられることであろう、と思っていた。サナは、マナに対し、自分の分身のようにして、常にマヒロのそばにいることを期待した。マヒロが、よりよく戦えるよう。そしてマヒロが、死なぬよう。それを、マナはよく分かっているらしい。ごく一部の中枢に関わる者には知らされたが、そうではない多くの者にとっての自らの存在を殺し、頭巾を纏い、名を捨てて。
あとは、堅物のマヒロが、彼女を受け入れられるかどうかである。それは、共に時をすごし、マナの、いやナナシとしての彼女の力にマヒロが信頼を置けるようになるのを待たねばなるまい。
マナといえば、当時、その者の名そのもののを指す一般名詞を「マナ」と言った。漢字を当てるなら「真名」である。
自らの真名を捨て、名無しになった女がいる。という話である。
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