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第六章 戻り火
トミの心
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ここで、長く物語から身を引いていたサナの末の妹であるトミに視点を向けてみたい。彼女は愛するリュウキの死後、かつての明るくて闊達な面は、すっかり形を潜めていた。
リュウキに大陸の言葉を教わったりして親しかったナシメがトミを気にかけ、しきりと食べ物を持っていったり珍しい財物などを届けさせたりした。しかし、それでトミの顔が晴れることはなかった。
この日も、ナシメがトミのもとを訪れていた。大陸の土産を手渡すためである。なかにはトミが見たこともないほど美しいものもあったし、トミの顔を映す鏡もあった。
やはり、トミは喜ばない。ナシメは、思い切って、リュウキの話をした。思い出話である。ナシメは、泣きながら話した。大の男が涙と鼻を垂らし、顔をぐしゃぐしゃにして、しかも、それが、普段はあけびの実に目鼻を付けただけのようなナシメであるのがおかしくて、トミは思わず吹き出した。今しがた渡されたばかりの鏡をナシメに差し出し、そのひどい顔を見せてやった。ナシメも、それを見て泣きながら笑った。
「ナシメは、リュウキ様が好きだったのね」
あれから季節は巡り、トミにもやや大人びた魅力が備わっている。しかし、リュウキがこの世にない以上、超えることすらできない思い人を、ナシメはどうすることもできぬ。だから、ただ、珍しいものや食べ物などを届け、話をするしかなかった。
「私は、あの人が、とても好きでした」
ナシメは、泣きながら笑った。
「ハクラビのことも、私は好きでした」
「まだ、悲しいのですか」
ナシメは、頷いた。
「わたしは、もう、悲しくはありません」
トミが、かすかに笑った。
「だから、もう、リュウキ様の話は、しないで」
「申し訳ありません、ヒメミコ」
「あなたが、リュウキ様の意思を継ぐのですね」
ナシメは、少し考えるような素振りをした。もともと、何の特徴もない平凡な顔立ちである。それが何かを深く考えるような仕草をすると、途端に滑稽味を帯びてくるのは何故だろう。
「リュウキ様の意思を継ぐのは、私ではありません」
とナシメは意外なことを言った。
「リュウキ様が見遥かしていたものは、誰かがその真似をしても、見えるものではありません。私は、私の見えるものを、ひとつずつ」
力なく笑った。
「ナシメは、自分を知っているのですね。あの人にそっくり」
トミは、遠い眼をした。
「リュウキ様の見ておられたものの中で、一つだけなら、私にも分かるものがあります」
「それは、なんですか」
「民の暮らしが、食べ物が、マヒロ様やユウリ様やヤマトのヒメミコが、ヤマトそのものが、私はとても好きであるということです」
どこまでも透明な男だった。
「それと――」
ナシメは口ごもった。意を決して、トミを見つめ、
「――ヒメミコのことも」
風の精霊が、緑の匂いを運びながら囁いている。
遂に言ってしまった、と思った。
「ナシメ」
トミは、ぱっと立ち上がった。ナシメは、自分の言ったことを激しく後悔した。
「我が名は、トミである」
自ら、名を明かした。ナシメは、ぽかんとしている。
「聞こえたか、ナシメ」
「はい」
「聞こえたならば、そういうことじゃ」
成長して女になったトミは、サナより少し尖った形の顎を背けた。ナシメは、情けなくなってきた。
「トミ様」
「なんじゃ」
「私は、リュウキ様の代わりにはなれませんぞ」
「それでよい。別に、ナシメのことは好きでもなんでもない」
「は?」
「だが、ナシメだけが、私に心を取り戻させることのできる男だと思ったのじゃ」
「トミ様の、心」
「取り戻してくれるな」
「わかりませんが、そう努めます」
「よし、明日、ヤマトに向かい、姉様にこのこと、伝えよう」
「はい」
ナシメは、これから自分の妻になる憧れのヒメミコが言うことが、もう一つ飲み込めない。いや、思えば、リュウキのいるとき、トミはこのようではなかったか。後先を考えず、思うままに行動する。そのトミの心が、ひとかけら戻ったのかもしれない。
翌朝、ナシメは何となくトミを先導し、ヤマトへの山越えの道を歩いた。一夜明けても、自らの身に起きたことが信じられない。隣で軽やかな音を立てて土を踏む女は、ヒメミコではなく、妻なのだ。
途中、峠の開けた場所に、リュウキが葬られている。そこは小さな盛り土になっており、ヤマトもオオトの海も前後に見ることができた。そこに、二人で跪いた。
「リュウキ様がわたしを置いて、こんな所にいるものだから、わたし、この人の妻になることになったのですよ」
と恨みがましく言うものだから、ナシメはやりきれない。
「リュウキ様」
ナシメも語りかけた。
「リュウキ様のヤマトを愛する心は、このナシメがよく分かっているつもりです。必ずや、このヒメミコをお守りしてゆきます」
「偉そうに」
トミが、ナシメを小突いた。ぎこちないが、お互い、笑顔があった。
「リュウキ様」
ナシメは、リュウキにもう一度語りかけ、
「あなたのヒメミコの名は、トミと仰るのですよ」
と教えてやり、リュウキとトミを、夫婦にしてやった。
「ナシメ、ありがとう」
トミの眼から、一筋、涙が流れた。夫婦となっても、トミの心からリュウキが消えることはないし、ナシメのことをリュウキ以上に好くこともないであろう。それでも、ナシメは良かった。トミに、心が戻ってゆくなら。
「なんじゃと?お前たち、いつの間に」
サナは珍しい来訪者がもたらした珍妙な知らせに、団栗のような目を一層丸くした。マヒロもこらえきれず、笑った。
「末のヒメミコと、ナシメか。悪くない」
「いや、実のところ、私も未だに信じられず」
と大陸の言葉も文字も扱うこの秀才は、頭を掻いた。
「姉様、長い間、ご心配をおかけしました。これより、ヤマトの地に戻らせていただきます」
「よかろう。それでは、婚儀の手配は」
「おれにせよ、と言うのでしょう」
マヒロが、先回りをした。
「その通りじゃ」
「これは。軍神マヒロ様に婚儀の手配をしていただけるなど」
「と、言いたいところじゃが、タクにやらせるのはどうだ」
「タク様に。それも、願ってもないこと」
「では、オオトに使いを出そう」
ユウリの地にもハラの地にも、使いを出した。ユウリの土地はもともとヤマトの直轄領であったため、単にユウリの地。とこれまで呼ばれていたが、オオミにその土地をやり候に封じたことで新たな名を用い、緩やかな流れの河と丘陵地帯にちなみ、木と水の地。という意味で「キヅ」と名付けられていた。キヅ候オオミもハラ候カイも、風よりも早く駆けつけてきた。
彼らの到着より少し前、タクがマオカとイヨを伴ってやって来て、流石の手腕でてきぱきと準備をこなした。マヒロが、手伝おうか、とタクの滞在する部屋を覗いた。
「やけに、張り切っているではないか」
「あたり前だ。ナシメは、私の直接の部下だぞ」
「そうだな。よい婚儀になりそうだ」
「末のヒメミコも以前のように明るくなられ、ヤマトの未来も一層晴れるとよいのだが」
「うむ」
やはり、タクにはマヒロが何を考えているのか分からない。以前は、もっと思考の読みやすい男であった。だが今のマヒロは、サナのように底知れぬ、自分では計り知れぬ何かを見ているような眼をもっており、どうにもやりにくく、眼をそらした。
「特に、手伝ってもらうことはない。ありがとう」
「そうか。人手がいるなら、おれの兵を貸すぞ」
「必要があれば、頼むことにする」
「タク」
マヒロが、退室しようとして、足を止めた。
「おれを殺そうとしたハツミという女を、覚えているな」
「忘れるものか。お前を殺そうとしたのだぞ」
「あれは、クナの者であったと言った」
「聞いている」
「お前も、クナの意を受け、ここにいるのか」
タクは、剣を取ろうとしたが、やめた。剣を取れば、マヒロの想像が正しいと宣言することになる。
「私は、私の意思で、ここにいる」
「そうか」
「ほかに、何か聞きたいことは、あるか」
「ない」
マヒロは、八重歯を見せた。
「次は、お前の娘が、コウラと結ばれるのかな」
ただそう言い残し、去った。タクは、大きく息をついた。全身から、汗が吹き出してきた。今、マヒロの八重歯がちらりと覗いた瞬間、間違いなく斬られていた。マヒロはただ笑い、立っていただけであったが、タクは血の海に沈む自分を見た。
そして、婚儀の前夜になった。近しい者、主だった者が一同に介し、夕餉を共にする。ナシメとトミが、挨拶と謝辞を述べる。あとは、飲み、食い、踊る。
「もう、ずいぶんと前になるな」
マヒロが、酒の入った容れ物を持ち、タクの隣に来た。
「なにが」
「お前の婚儀の前の夜、二人で踊ったではないか」
マヒロは、部屋の隅に立て掛けた己の剣の一本をその手に取り、もう一本をタクに手渡した。
マヒロが剣を抜いた。タクも、れに合わせ、しぶしぶ抜いた。息が、詰まる。ただの踊りだというのに、斬り合いをしているようであった。いや、マヒロに他意はないし、タクに意地悪をしているつもりもない。ただ、踊ろうとしているだけである。しかしマヒロの目はタク自身を映し返し、タクがそれに飲まれまいと自らを奮い立たせれば奮い立たせるほど、マヒロが大きく見えるのであった。
マヒロは、革で拵えた鞘に、愛用の剣を納めた。
「やめだ、やめだ。お前、踊りが下手になったな」
タクも、剣を鞘に納めた。マヒロにそれを返しながら、
「少し、疲れたのかもしれぬ」
と言い、苦笑してみせた。
「なんじゃ、踊らぬのか。つまらんの」
サナが興を失ったように、酒をちびりと啜った。
「では、我ら兄弟が」
と進み出てきたカイが嫌がるオオミを引っ張り出し、踊りだした。カイはさすが、候になる前はふらふらと遊び歩いていただけあり踊りも上手い。民の間で近頃よく歌われているという、この座にいる者が知らぬ歌を歌いだした。しかしオオミの踊りのまずさはどうであろう。二人の調子はてんで合わず、遂にオオミは転んだ。一座はどっと笑いに包まれた。
「なんだ、兄者。みっともない」
カイも、腹を抱えて笑った。
「楽しいの、ヒメミコ」
ナシメは、隣でくすくすと笑うトミに語りかけてやった。
「はい、ナシメ」
「このヤマトを、盛り立てていかねば」
「はい」
「そなたの心も、一緒に探そう」
「嬉しい」
トミがナシメに抱きついた。ナシメは目を白黒させてもがいている。一座はまた笑いに包まれた。
こうしてヤマトの地に、新たな夫婦が誕生した。順調すぎる気がしないでもない。いや、これまで、苦難が多すぎただけかもしれぬ。
リュウキに大陸の言葉を教わったりして親しかったナシメがトミを気にかけ、しきりと食べ物を持っていったり珍しい財物などを届けさせたりした。しかし、それでトミの顔が晴れることはなかった。
この日も、ナシメがトミのもとを訪れていた。大陸の土産を手渡すためである。なかにはトミが見たこともないほど美しいものもあったし、トミの顔を映す鏡もあった。
やはり、トミは喜ばない。ナシメは、思い切って、リュウキの話をした。思い出話である。ナシメは、泣きながら話した。大の男が涙と鼻を垂らし、顔をぐしゃぐしゃにして、しかも、それが、普段はあけびの実に目鼻を付けただけのようなナシメであるのがおかしくて、トミは思わず吹き出した。今しがた渡されたばかりの鏡をナシメに差し出し、そのひどい顔を見せてやった。ナシメも、それを見て泣きながら笑った。
「ナシメは、リュウキ様が好きだったのね」
あれから季節は巡り、トミにもやや大人びた魅力が備わっている。しかし、リュウキがこの世にない以上、超えることすらできない思い人を、ナシメはどうすることもできぬ。だから、ただ、珍しいものや食べ物などを届け、話をするしかなかった。
「私は、あの人が、とても好きでした」
ナシメは、泣きながら笑った。
「ハクラビのことも、私は好きでした」
「まだ、悲しいのですか」
ナシメは、頷いた。
「わたしは、もう、悲しくはありません」
トミが、かすかに笑った。
「だから、もう、リュウキ様の話は、しないで」
「申し訳ありません、ヒメミコ」
「あなたが、リュウキ様の意思を継ぐのですね」
ナシメは、少し考えるような素振りをした。もともと、何の特徴もない平凡な顔立ちである。それが何かを深く考えるような仕草をすると、途端に滑稽味を帯びてくるのは何故だろう。
「リュウキ様の意思を継ぐのは、私ではありません」
とナシメは意外なことを言った。
「リュウキ様が見遥かしていたものは、誰かがその真似をしても、見えるものではありません。私は、私の見えるものを、ひとつずつ」
力なく笑った。
「ナシメは、自分を知っているのですね。あの人にそっくり」
トミは、遠い眼をした。
「リュウキ様の見ておられたものの中で、一つだけなら、私にも分かるものがあります」
「それは、なんですか」
「民の暮らしが、食べ物が、マヒロ様やユウリ様やヤマトのヒメミコが、ヤマトそのものが、私はとても好きであるということです」
どこまでも透明な男だった。
「それと――」
ナシメは口ごもった。意を決して、トミを見つめ、
「――ヒメミコのことも」
風の精霊が、緑の匂いを運びながら囁いている。
遂に言ってしまった、と思った。
「ナシメ」
トミは、ぱっと立ち上がった。ナシメは、自分の言ったことを激しく後悔した。
「我が名は、トミである」
自ら、名を明かした。ナシメは、ぽかんとしている。
「聞こえたか、ナシメ」
「はい」
「聞こえたならば、そういうことじゃ」
成長して女になったトミは、サナより少し尖った形の顎を背けた。ナシメは、情けなくなってきた。
「トミ様」
「なんじゃ」
「私は、リュウキ様の代わりにはなれませんぞ」
「それでよい。別に、ナシメのことは好きでもなんでもない」
「は?」
「だが、ナシメだけが、私に心を取り戻させることのできる男だと思ったのじゃ」
「トミ様の、心」
「取り戻してくれるな」
「わかりませんが、そう努めます」
「よし、明日、ヤマトに向かい、姉様にこのこと、伝えよう」
「はい」
ナシメは、これから自分の妻になる憧れのヒメミコが言うことが、もう一つ飲み込めない。いや、思えば、リュウキのいるとき、トミはこのようではなかったか。後先を考えず、思うままに行動する。そのトミの心が、ひとかけら戻ったのかもしれない。
翌朝、ナシメは何となくトミを先導し、ヤマトへの山越えの道を歩いた。一夜明けても、自らの身に起きたことが信じられない。隣で軽やかな音を立てて土を踏む女は、ヒメミコではなく、妻なのだ。
途中、峠の開けた場所に、リュウキが葬られている。そこは小さな盛り土になっており、ヤマトもオオトの海も前後に見ることができた。そこに、二人で跪いた。
「リュウキ様がわたしを置いて、こんな所にいるものだから、わたし、この人の妻になることになったのですよ」
と恨みがましく言うものだから、ナシメはやりきれない。
「リュウキ様」
ナシメも語りかけた。
「リュウキ様のヤマトを愛する心は、このナシメがよく分かっているつもりです。必ずや、このヒメミコをお守りしてゆきます」
「偉そうに」
トミが、ナシメを小突いた。ぎこちないが、お互い、笑顔があった。
「リュウキ様」
ナシメは、リュウキにもう一度語りかけ、
「あなたのヒメミコの名は、トミと仰るのですよ」
と教えてやり、リュウキとトミを、夫婦にしてやった。
「ナシメ、ありがとう」
トミの眼から、一筋、涙が流れた。夫婦となっても、トミの心からリュウキが消えることはないし、ナシメのことをリュウキ以上に好くこともないであろう。それでも、ナシメは良かった。トミに、心が戻ってゆくなら。
「なんじゃと?お前たち、いつの間に」
サナは珍しい来訪者がもたらした珍妙な知らせに、団栗のような目を一層丸くした。マヒロもこらえきれず、笑った。
「末のヒメミコと、ナシメか。悪くない」
「いや、実のところ、私も未だに信じられず」
と大陸の言葉も文字も扱うこの秀才は、頭を掻いた。
「姉様、長い間、ご心配をおかけしました。これより、ヤマトの地に戻らせていただきます」
「よかろう。それでは、婚儀の手配は」
「おれにせよ、と言うのでしょう」
マヒロが、先回りをした。
「その通りじゃ」
「これは。軍神マヒロ様に婚儀の手配をしていただけるなど」
「と、言いたいところじゃが、タクにやらせるのはどうだ」
「タク様に。それも、願ってもないこと」
「では、オオトに使いを出そう」
ユウリの地にもハラの地にも、使いを出した。ユウリの土地はもともとヤマトの直轄領であったため、単にユウリの地。とこれまで呼ばれていたが、オオミにその土地をやり候に封じたことで新たな名を用い、緩やかな流れの河と丘陵地帯にちなみ、木と水の地。という意味で「キヅ」と名付けられていた。キヅ候オオミもハラ候カイも、風よりも早く駆けつけてきた。
彼らの到着より少し前、タクがマオカとイヨを伴ってやって来て、流石の手腕でてきぱきと準備をこなした。マヒロが、手伝おうか、とタクの滞在する部屋を覗いた。
「やけに、張り切っているではないか」
「あたり前だ。ナシメは、私の直接の部下だぞ」
「そうだな。よい婚儀になりそうだ」
「末のヒメミコも以前のように明るくなられ、ヤマトの未来も一層晴れるとよいのだが」
「うむ」
やはり、タクにはマヒロが何を考えているのか分からない。以前は、もっと思考の読みやすい男であった。だが今のマヒロは、サナのように底知れぬ、自分では計り知れぬ何かを見ているような眼をもっており、どうにもやりにくく、眼をそらした。
「特に、手伝ってもらうことはない。ありがとう」
「そうか。人手がいるなら、おれの兵を貸すぞ」
「必要があれば、頼むことにする」
「タク」
マヒロが、退室しようとして、足を止めた。
「おれを殺そうとしたハツミという女を、覚えているな」
「忘れるものか。お前を殺そうとしたのだぞ」
「あれは、クナの者であったと言った」
「聞いている」
「お前も、クナの意を受け、ここにいるのか」
タクは、剣を取ろうとしたが、やめた。剣を取れば、マヒロの想像が正しいと宣言することになる。
「私は、私の意思で、ここにいる」
「そうか」
「ほかに、何か聞きたいことは、あるか」
「ない」
マヒロは、八重歯を見せた。
「次は、お前の娘が、コウラと結ばれるのかな」
ただそう言い残し、去った。タクは、大きく息をついた。全身から、汗が吹き出してきた。今、マヒロの八重歯がちらりと覗いた瞬間、間違いなく斬られていた。マヒロはただ笑い、立っていただけであったが、タクは血の海に沈む自分を見た。
そして、婚儀の前夜になった。近しい者、主だった者が一同に介し、夕餉を共にする。ナシメとトミが、挨拶と謝辞を述べる。あとは、飲み、食い、踊る。
「もう、ずいぶんと前になるな」
マヒロが、酒の入った容れ物を持ち、タクの隣に来た。
「なにが」
「お前の婚儀の前の夜、二人で踊ったではないか」
マヒロは、部屋の隅に立て掛けた己の剣の一本をその手に取り、もう一本をタクに手渡した。
マヒロが剣を抜いた。タクも、れに合わせ、しぶしぶ抜いた。息が、詰まる。ただの踊りだというのに、斬り合いをしているようであった。いや、マヒロに他意はないし、タクに意地悪をしているつもりもない。ただ、踊ろうとしているだけである。しかしマヒロの目はタク自身を映し返し、タクがそれに飲まれまいと自らを奮い立たせれば奮い立たせるほど、マヒロが大きく見えるのであった。
マヒロは、革で拵えた鞘に、愛用の剣を納めた。
「やめだ、やめだ。お前、踊りが下手になったな」
タクも、剣を鞘に納めた。マヒロにそれを返しながら、
「少し、疲れたのかもしれぬ」
と言い、苦笑してみせた。
「なんじゃ、踊らぬのか。つまらんの」
サナが興を失ったように、酒をちびりと啜った。
「では、我ら兄弟が」
と進み出てきたカイが嫌がるオオミを引っ張り出し、踊りだした。カイはさすが、候になる前はふらふらと遊び歩いていただけあり踊りも上手い。民の間で近頃よく歌われているという、この座にいる者が知らぬ歌を歌いだした。しかしオオミの踊りのまずさはどうであろう。二人の調子はてんで合わず、遂にオオミは転んだ。一座はどっと笑いに包まれた。
「なんだ、兄者。みっともない」
カイも、腹を抱えて笑った。
「楽しいの、ヒメミコ」
ナシメは、隣でくすくすと笑うトミに語りかけてやった。
「はい、ナシメ」
「このヤマトを、盛り立てていかねば」
「はい」
「そなたの心も、一緒に探そう」
「嬉しい」
トミがナシメに抱きついた。ナシメは目を白黒させてもがいている。一座はまた笑いに包まれた。
こうしてヤマトの地に、新たな夫婦が誕生した。順調すぎる気がしないでもない。いや、これまで、苦難が多すぎただけかもしれぬ。
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