女王の名

増黒 豊

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第四章 産み火

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 そして一行は、洛陽(魏の都)を進発した。魏からは多数の銅鏡や財物、武具や奴隷などが下げ渡された。奴隷の中には、罪人のような者も混じっているらしい。しかしヤマトにとって、大陸の知識などを持っている者は、どのような人物であれ、有り難い存在であった。
 返礼品を船に積むべく積載量を計算するが、どう考えても余る。ヤマトからの贈り物の方が多く、超大国であり世界の先進地域の国家である魏からの下げ渡しが少ないのは当然といえば当然であった。
 空になった輸送船に、返礼の財物を積み込んでも、だいぶ空きがあった。空のまま船を走らせることは喫水が上がり、転覆のおそれがあり危険であるため、リュウキの発案で財物の一部を代価に、大きなかめや馬などを購い、あとは船底に石を載せた。
 疲れが取れないのか、丹田のあたりと腰が重い。しかしナシメと共に帰国の手配を速やかに整えた。
 財物のほかに、魏国からの下げ物があった。当初の目論見通り、「ヤマトを国の王と認める」という魏のスタンスの表明を受けた。
「ゆえに」
 と魏は言う。
「速やかに領土を整え、国を安定させるように」
 早い話が、さっさとクナを滅ぼし、内戦を終結させろ、というわけである。大陸の公認の国家であることを宣言し、他の諸地域、諸勢力などにヤマトに付いてクナから離れることを促すつもりであっただけに、肩すかしであった。
 大陸の中でも頻繁に、それこそヤマトとクナの戦などとは比べ物にならないほどの規模で戦がある。あちらを押さえればこちらが出、という具合で、この時代、大陸にあった国家はどれも忙しい。はるか東の、未開の蛮族どもの国が魏の服属国家でありさえすればよく、内戦や王のことなど、勝手にせよ。という程度であったかもしれない。

 ともかく、一行は帰国の途についた。
 黄河を下る。下るときは、速い。その船の中、文字通り黄色い水の流れを眺めながら、リュウキは何となく、もうこの故地のこの流れを見ることはないような気がしていた。
 ヤマトに、帰りたい。
 三日ほどで、外洋に出た。外洋になると、やはり船は揺れる。行きはそうでもなかったが、帰りは、疲労のためか激しく嘔吐した。ハクラビが一心に背中をさするが、良くならない。
「降りてしまえば、すぐに治るのですが」
 と、この海と船に詳しい男は短い袖から龍の文身いれずみを覗かせて言った。
 まだ帰国までに、大分ある。補給などのため浦や港にこまめに寄るのであるが、その度リュウキは船から転がるように降り、草や土の上で横になった。
 やはり丹田と腰が重い。
 どうにか帰国することができ、オオトの浦に船団は船を着けた。
 迎えにタクとマオカ、ヤマトの北を守るユウリ、本国からマヒロなど錚々そうそうたる面子が揃っていた。彼らの脇から、ひょっこりと顔を出すトミの姿もあった。
 リュウキは、帰ってきた、と思った。
 思った途端、船着き場の土の上に倒れた。

 オオトの楼閣の一室に運び込まれたリュウキは、顔を真っ白にし、かろうじて浅い息をしているだけであった。
 医術というわけではなく、数々の戦場での怪我人や民からの訴え――当時、民などで重篤な病を得たものがあるとき、王家に一定の捧げ物をすることで祈祷をすることがあった――により、人の病状を観察した経験の多いユウリが、リュウキを診た。財物などを、まずヤマト本土に移送する手配をタクとナシメでしているとき、奴隷の中で医学を修めていた者が一人いるのを見つけたため、それを伴っている。
「わからぬ。特に何があったわけでもないらしいが、腹に血が溜まっている者と同じような様子だ。儂は以前、戦場で激しい打撃のため同じような様子で腹に血を溜め、血の小便を流しながら、死んだ者を知っている」
 と不吉なことを言った。
「診てもよろしいでしょうか」
 とナシメの通訳越しに、大陸の医者が言った。
 医者は、ひとしきりタクの様子を観察した後、背を向け、自らの腰を指差し、
「ここに、腎、というものがあります」
 と言った。
「このお方はそこが破れ、身体の中に血が溜まり続けているとともに、身体の毒を流すことができぬようになっているようです」
「助ける方法はないのか」
「破れてしまったものは、どうすることもできません」
「いったい、なぜその腎というものが破れたのだ」
「わかりません。普通、よほど強い衝撃などが加わらぬ限り、滅多なことでは破れぬものですが。他の内蔵と違い、なぜか腎だけは破れてもはじめは気づかぬものなのです。そして気付いたときは、このように――」
 と憐れみの視線をリュウキに落とした。
「この者は、我らがヤマトにとって無くてはならぬ者なのだ。何とかならぬのか」
 マヒロが医者に掴みかからんばかりの勢いで言うので、タクが穏やかに制止した。通訳を受けた医者が、肩を落とし、かぶりを振った。
 トミが、リュウキの身体に頭を付ける姿勢で泣き崩れた。リュウキは、ヤマトにとってなくてはならぬ者であり、トミにとってはなくてはならぬ者であった。
「お願い、死なないで、リュウキ様。優しくトミを叱って、優しくトミに面白いお話をして、トミを妻にして下さい」
 その泣き声が、一座の空気を一層悲壮なものにした。
 ユウリは、もういちど、細かにナシメに渡海後のリュウキの行動を聞いた。どこそこの食堂で何を食ったとか、だれそれと何を話したというようなことまで聞いた。

 リュウキは、ヤマトにいた。
 オヤマと皆が呼ぶ山がある。春らしく淡い色彩をまとったその山が、リュウキもまた好きだった。
 部屋の周囲は開けており、それが座している席から、よく見えた。
 蝶が一匹、ふらふらと室内に舞い込んできて、出ていった。
 大陸の面白い話をしてやる代わりに、トミがオヤマに宿るという神の話をしてくれた。
 そこにはサナもおり、マヒロもおり、ユウリもいた。
 皆、味の薄い酒を飲み、粗末な食事を美味そうに食っている。リュウキは、彼らが皆自分のことを好いていることを知っていた。
 この国には膳などはなく、足の高い器を床に直接置き、そこに盛り付けられた料理を食う。身分の高いものは箸を使うが、べつに手掴みで食べても、誰も咎めることはない。リュウキは、その穏やかな風俗がとても好きだった。
 この国に流れるゆっくりとした時間は、彼の故地において、しばしば荒ぶり、野を水で浸し、龍のように流れを変える黄河ではなく、滔々としながら深い光を湛え、いつの時もその姿を変えることなく海へゆっくりと注いでゆく長江のようだった。
 リュウキは杯を置き、トミの手に、自らの手をそっと重ねた。それで眼が合い、彼女は頬を染め微笑んだ。
 そこに、黄河のような龍が現れた。
 龍に一飲みにされると、辺りは闇になった。その闇の中、自らの立てた作戦により葬られる、夥しい人の群れが明滅した。その姿形や、声までもが、浮かんだ。
 怒声と、断末魔。剣と剣が触れ合う音と共に、鉄粉が散るのか血飛沫か、酸い臭いが鼻を満たす。その闇から逃れようと、後ろを向いた。しかし、闇は闇だった。あちこちに、自らが作り出した、夥しい量の屍が積み上げられていた。
 雨。
 いや、血なのか。
 リュウキは、その雨を少しの間受け、抗えぬことを知り、闇を受け入れた。
 ただ、最後にもう一度、トミに会いたい、と思った。

 リュウキの異変に、トミが気付いた。
「リュウキ様?息を、して下さいませ」
 それで、一座の者は、一斉にリュウキの周りに集まった。
 リュウキは、もう既にリュウキではなくなっていた。その土気色の物体にトミの涙が落ち、そこだけ、生き物のように輝いた。
 ユウリが、老いた顔を、蒼白にしている。
 タクが立ち上がり、肩を落とした。
 ハクラビは、宙を見つめている。
 ナシメが、床を強く叩く。
 マヒロが叫びながら立ち上がり、辺りの調度品を蹴り付けた。

 その夜。ハクラビはヤマトの本国への山道へと急いだ。
 山へ続く街道は、よく整備されており、駆けるのに楽だった。夜であるが満月で、あたりは十分に明るい。
 山へ街道が差し掛かるとき、月明かりの下に浮かぶ人影を見た。ハクラビは歩を慎重に緩めた。
「やはり、お前だったか」
 と、その影は黄色っぽい銀髪を薄い風になびかせ、腰をひねって抜剣した。
 ユウリである。
「ヤマトの地に、報をもたらさねばなりません。お通し下さい」
 ハクラビの口調は、いつもの訥々とつとつとしたものではなかった。
「お前が、リュウキの身体を、ゆっくりと壊した」
 ユウリの声は、深く沈んでいた。
「なぜだ」
 じり、と土を踏み直す音がした。
「なぜ。理由を聞いて、どうするのだ」
 ハクラビの口調が、明るくなった。
「我が龍に、呑まれただけのこと」
 月の下にのハクラビの腕に、二匹の龍が現れた。
「誰かの意を受け、したことであろう」
 ユウリは、やはり落ち着いている。できれば締め上げて、拷問にでもかけ、背後関係を洗おうとしているらしい。
 返答の代わりに、ハクラビの龍が飛んだ。
 それを、ユウリは剣で受けた。堅い音を立て、それは折れた。
 地に突き立った刃が、月の光を冷たく跳ね返している。
 繰り出される拳撃は、武器こそ持っていないとはいえ、ユウリが今までに受けたどんな攻撃よりも強い殺気が籠められていた。これはただごとではない、とユウリは攻撃をかわしながら思った。
 木立を背にした。
 その木立を、ハクラビの龍が打った。
 音を立て、それが倒れる。
 次の一撃を加えようと、ハクラビが拳を繰り出す。
 そこに、ユウリは既にいない。ハクラビの背後を取っている。
 膝の裏に足を入れると、ハクラビの足がおかしな音を立てて曲がった。
 脛から、骨が飛び出している。
「誰の意を受けたのか、吐け」
 答えは無い。
 二人を照らす月のように、静かで、何も言わない。
 春の薄い風が、吹いた。
 ハクラビは痛みを感じていないのか、折れた足で大地を踏みしだくと、再びユウリに向けて一撃を放った。
 その一撃に、ハクラビの生命の全てが載っているのを、ユウリは感じた。
 それが、ユウリの眼に火を宿らせた。
 火が、ユウリを獣にした。
 したたかに打たれ、口から大量の血を吐き絶命するはずのユウリの身体は、そこには無かった。
 彼は突き出された拳を巻き上げるようにして取り込むと、渾身の力で捻り上げた。嫌な音と重い手応えと共に、ハクラビの龍の文身が、途中から曲がった。
 その腕を緩やかに解放し、鼻柱に肘を打ち込む。
 鼻血が吹き上がり、ハクラビは天を仰いだ。
 その短い髪を掴み、引き下ろすと共に眉間に向かってゆくユウリの膝。
 ぐしゃりと感触がした。
 二度。
 三度。
 四度。
 五度。
 六度。
 ハクラビは、踏まれた蛙のようになった頭部から、地に崩れ落ちた。
 ユウリの腰には、もう一本の剣があった。
 その剣を抜く暇もないほど、ハクラビの攻めは凄まじかった。
 まず相手の武器を破壊し、新たな武器を執らせる前に徹底的に攻め、葬り去る。相当戦い慣れしているようだった。
 ハクラビの死骸に、ユウリは抜き放った剣を真っ直ぐに突き下ろした。
 リュウキが自らの心の鍛練のため打たせ、いていたものだった。
 月の透明な光をたたえるその剣が、ただ一度だけ、主の命を奪った者の血を吸った。
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