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東部連合編

巨大温室

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 井上のシルクハットは、ようやく役目を果たす時が来た。
 私の知る限り、彼は四六時中帽子を被るけれど、やはり太陽を浴びている時がしっくりくる。愛好品を自分の目印に設定できる者は、大地と大空の間を通り抜ける風のように、いつでも検査を通過できる。検閲の対象として認められる程、彼の趣味は独特だった。

 一方で、左内さんは、風で体にまとわりつくフーディを煩わしそうにしている。
 彼は、魔法界では正常の趣向で、ローブを好む。歩行時は気にならなくとも、箒の上では、我慢ならないようだ。不幸な事に、フーディは私のリュックサックや浄御原の黄色いハンカチのように、基地に留守番させたり、ポケットに隠したりできない。素人風情で魔法使いを続ける他なかった。

 芝生の上で、緑の羊が列をなす。可愛らしい正体は、葉をパンパンに茂らせた樹木の大群だ。一団毎に緑の差異が鮮明で、家族ごとに集まっているように見える。全体の中でこそ、それぞれの個性がより引き立った。
 ぽつぽつある萩色の区画は、進路を阻むバンカーに相当する。ミズミアらしく池や湖まで顔を出すから、芽湖間はゴルフ場のコースさながらだ。

 果てしない大地と空は、白い雲とその下の山を挟さみ込む。
 浄御原の夙川庭園に関する言葉は、魔法界中央にも当てはまるようで、メマンベッツまでの道中も、団長な景色がしばらく続いた。

 やがて、湖庵を出た現れか、だんだんと湖が姿を見せなくなり、代わりに、川が快晴を楽しむように、身をよじらせ始めた。
 細長い流れは、恵の水を山から湖に運んでいる。私達とは逆方向だが、道が通っていれば関係ない。川は一つの道標で、その先は、私たちの目的地に延びている。

 目当ての物は、山の入り口にお出ましだ。扇状地の中程に、格子組の箱が組み込まれている。ガラスの壁は近づく者に太陽光を跳ね返すが、熱帯植物を隠すのには失敗していた。
 昨日朝刊の写真と照合して、収納箱を大きくしたような外形から、対象をいち早く特定できた。遠巻きの裸眼は、グラビアページより画素数の少ないが、恐怖を感じるには十分だ。

 箱は露である。フラッグスの隠蔽工作を掻い潜っているからこそで、秘密の温室が正義軍の支配下にある証拠だ。
 ただ、そう頭では分かっていても、高度を下げて行くと、平穏ではいられない。初めて足を降ろしたメマンベッツの地は、ついこないだまで敵の息がかかっていた地でもある。足元の砂利を踏みしめながら、ガラス越しに、ささくれた緑の翼と対峙した。
 こいつらは、メマンベッツの象徴のような見てくれをしておいて、むしろ、千種の植物の敵だ。大きな葉の下に、コウモリや忌まわしい武器を隠している。人工の産物は、欠陥がなくとも、全身で全てを語っていた。

 入り口は、田園地帯お馴染みのビニールハウスのと同じくらいの大きさで、警備は二人が突っ立っていれば足りた。私は、面識のある軍人の可能性を疑い、顔を凝視したが、誰だか見当がつかない。向こうも、私だけでなく、左内達をも知っている素ぶりを見せなかった。

 それもそのはず、胸元で輝くローブの紋章は、水飛沫の花びらとは似ても似つかない模様だ。三角形の幹に、五色の葉っぱが扇子のように並んでいる。幹は、アイスクリームのコーンをひっくり返したようで、遊び心が溢れている。場所がら、ミズミアでないとすれば、どこの軍のマークか明らかだった。

 検査官は、例の一振り魔法をかけ、関係者本人かどうか調べ始めた。二重検査は難なく終わった。
 ゲルのようなヒラヒラ扉を開けながら、ロイド眼鏡の検査官は、「堂々と、フーディーやセーターでいらっしゃるからには、真っ当な方だと思ってました。悪さを働こう者は、それなりの身なりでごまかそうとしますから」と鋭い読みを披露した。

 目ではなく、肌で一番に異変を感じとった。
 真夏の寝床のように、湿り気が全身にまとわりつく。入り口は二重扉で、間の蛇腹の空間には、内外の空気が入り混じっていた。温度調整がされているからこそ、外の検査官は、難なく立っていられたようだ。
「二ヶ月先の暑さだぜ」と殺風景の終盤で、浄御原が言った。左内さんはローブを着て来なくて良かったと考え直しているかもしれない。役立つアイテムは、日よけになる井上のシルクハットくらいだ。

 奥の開き戸の向こうは、外の空気で中和されない分、まるで蒸し風呂の中だ。脳が生命危機の信号を無視するのは、視覚のからの情報が強烈だからに他ならなかった。鮮やか過ぎる青緑が、どこからともなく、葉を広げている。葉の量からしても、延びる方向(四方八方)からしても、緑が邪魔をして、その起源である幹や茎を追う事ができない。
 苔の生えた石の列が、かろうじて二本の道を示している。(ただ、上からは緑がお辞儀し、足元は整備されないままだから、道と呼ぶのには留保が必要だ)格子の入った天井だけが、ここは温室施設だという事実に立ち返らせた。

 先頭の浄御原について、樹林のトンネルに入っていく。
 三番手の私は、前の背中かシルクハットを見るように努めた。わずかな距離に、左右上下の植物が入り込み、目がチカチカする。葉は、至近距離で見てとった陰影により立体感を、皮膚が捕まえた掠れ(かすれ)により質量を獲得した。今見ているものは、確かに実在する。
 魔法で操作してなかったら存在し得ない幻だなんて、信じられない。全てが作り物だとしたら、なんだか気持ち悪い。ここにある全てが溶けて、私も飲み込まれるかもしれない、と身震いした。
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