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第二章
002 風に当たってくる
しおりを挟む何時間、こうしていたのだろう。トトが自分とライムの間に挟まれている状況で止まっている。否、『セラを殺そうと注射器を持ったライムの目の前に、素手のトトが立ちふさがっている』だけであった。何時間も経過しているわけがない。ただの数秒を、自分が永遠に感じていただけだ。
「騙すつもりは無かったの。ごめんなさい」
吐く言葉は力ない。誰に向けるわけでもなかった。ただ、自分が『そういう生き物』だったことを知り、言葉が見つからなかっただけである。この期に及んで、トトは自分を守ろうとしてくれている。
「気にしないで。君に悪意が無いことはわかってるから」
それでもトトは、セラにそう返した。こんな状況で、悪意や害意の有無を考える余地などないはずなのに。そんな精神論を挟める事態ではないはずなのに。それはいわば、『体内に核兵器を埋め込まれた一般人を守る』ことと同義。それ以上のことを彼はしている。その一般人を殺せば、億単位の人々を守れるのに、たった数日の間柄で、なぜここまでのことが言えるのか。
「どけよ」
「無理」
「お前頭沸いてんのか? コイツが生きてる間は、俺たちが死ぬ可能性を常に背負っとかないといけないんだぞ!」
「そんなの皆一緒だよ! セラが……《マヨイビト》がいなくたって、誰にでも死ぬ可能性は付きまとってる。だいたい、セラがそんな事をする子だって本気で思ってるわけじゃないんだろ?」
「コイツがするんじゃない! 他の人間がそうするんだよ! 現にシルヴァリーの野郎が《再生の臓器》を使おうとしてる」
「じゃあシルヴァリーを倒せばいい! 簡単な事だろ!」
「簡単な事? おめおめと逃げて、俺に頼ったのはどこのどいつだ! 仮にシルヴァリーを殺したとしよう。その後はどうする? またシルヴァリーと同じことをしようとする奴が出てきたら、お前はどうするつもりなんだ!?」
「――やめてくださいッ!」
まるで死ぬ直前の一言のように、その声は力強く、虚しかった。自分が勝手に巻き込んで、それを他人が争うなんて、セラルフィには耐えられなかった。張り裂けそうだった。
「望むなら私はいつでも死にます。でも事態はそれほど単純でもないんです。彼は言ってました。七日経つまでは私は死ねないと。つまり、つまり……」
「シルヴァリーを何とかしないといけないんだね」
トトの言葉に、黙ったまま首肯する。
「ライム、聞いただろ? シルヴァリーを何とかしよう。皆で協力すれば、きっと」
「ああそうだな。コイツを今殺しても問題は解決しない。どうせシルヴァリーを殺すのは確定事項だ。手間が省けて良かったぜ! ……クソ、面倒事を持ち込みやがって」
「おい、そんな言い方ないだろ!」
「だったら何て言うんだ? 『世界を救うヒーローになれましたありがとうございます』って言ってほしいのか? そりゃそうだよな! お前は一人じゃ何もできない臆病者だったもんな! 言えよ嬉しいって! 《マヨイビト》のクソ野郎が来てくれたおかげで僕も英雄になれますってさ!」
「この……ッ!」
「トト。お願いですから」
裾を掴んだ《マヨイビト》の手は、トトが少し振り返るだけで解けるほどに弱弱しい。
「厄介事を持ち込んですみません。こうなったのは勝手に迷い込んだ私の責任です。シルヴァリーから心臓を取り返せたら私はちゃんとケジメを付けます。せめてその間だけ、心臓を取り返せるまでは……手を貸してください」
俯いたままだったが、ライムが扉の方に歩いていくのを感じた。背を向けたまま、腑に落ちないような声音で、
「……少し風に当たってくる。ここにあるものは好きに使え」
後にはセラとトトだけが残された。
「ごめん」
「なぜあなたが謝るのですか。悪いのは私なのに」
「本当はさ、僕。楽しいんだ」
申し訳なさそうに苦笑する。彼はもともと謝る癖があるようにも思えたが、今回ばかりは本気で申し訳なく思っている言い方である。
「アイツの――ライムの言うとおりだ。こんな状況なのに、君が死にそうだって言うのに、こういう事態が楽しくて楽しくてしょうがないんだ。あのとき君がリラを助けてくれたのには驚いたし嬉しかった。彼女は僕にとっても大事な友達――妹みたいなものだったし。でもね、兵士に追われてる時とか、シルヴァリーとやり合うんだって思うと、わけもわからずに楽しくなって、どうしようもなく舞い上がってるような、そんな気分になるんだ。酷いってのはわかってる。人でなしって言われても言い返せないけど、でも……ごめん。やり合う前に、ちゃんと言っておきたかった。これが僕だから。表面上誰にでもいい顔をするけど、どんな人間だったのか記憶もないけど、これが今の僕なんだ」
まるで胸のつっかえを取るかのように自分の胸中を曝したトト。セラの心臓をめぐる戦いの前に、後ろめたさを拭い去りたかったのかもしれない。
「……たぶん、私も同じなのかもしれません」
「え?」
「楽しかったんです。私も。兵士に追いかけられたり、殺されそうになったりした時も、まるで友達のサプライズパーティーを計画してるみたいなワクワクが、あったのかもしれません。だからトトも、謝る必要はないし、私はあなたを軽蔑しません。その資格もありません。何も知らなかったとはいえ、本当は私が一番、そんなことを感じていいわけがないのですけど」
《マヨイビト》という存在がどういうものなのかわからないし、自分が世界を壊し尽くせるような力を持っているとは到底信じられない。ただ、ライムの言ったように自分は自分の意思で異界からここへ来たし、どんなに魔術を行使しても精神に異常をきたすような症状は無いと思っている。
「トト、こんな時に聞いていいのかわかりませんけど、もしかしてライムは《マヨイビト》に恨みがあるのではありませんか?」
「どうして?」
「私が異次元から来たと知った途端、態度が変わったからです」
「あいつは……あいつの妹は、《マヨイビト》って人に食われたんだ」
「食われた?」
「蛇の腕を持った男だったらしい。あいつの妹は、そうだな。ちょうどリラくらいの年齢だった。その時の新聞だけは書庫にとってあるよ。きっとライムはそいつを捜してるんだ。ある人は山の神を怒らせたとか、祟りだとか言っていたけど。ライムの住んでいた村がそいつに襲われて、妹もそいつに」
異端者という存在によほどのことをされたのだろうと予想はしていたが、さすがに土足で踏み込み過ぎただろうか。そんな空気を察したのか、トトが強引に話を終わらせることにしたようである。
「ライムは、そいつが異空間に消えていくのを見たらしい。とにかく、今は下手にライムと顔を合わせないほうがいいかもね。あいつもあいつで、素直な性格でもないから」
「そうでも無いみたいですよ」
セラが床に散らばっていた羊皮紙の中、たくさんの赤い線が引かれた一枚を手に取る。
「これは……」
「この国の古記録ですね。町長になった経歴、人物がリスト化されています。見てください。やはりシルヴァリーの名前がありません。これを住民の皆に見せれば、もしかすると催眠が解けるかもしれない。少なくとも、彼らにも記憶の矛盾に気づくはずです」
さも自分の手柄のように話してしまったが、そうさせるほど、この資料はシルヴァリーを追い詰めるための可能性を秘めていた。
「ずっと漁っていたのでしょうね。国中の書物を何から何まで、一人で……」
まるで雛鳥への羽化に立ち会ったような、心躍る感覚をトトから感じ取った。その感覚は確かに、トトという少年の中で言いようのない感情が芽生えたことを示唆していた。
「僕、少し風に当たってくるよ」
ライムの開いた扉を開き、親友の背中を追った。
****
「あれはまさか――」
実に数分前のことである。この町の兵団に入って間もないペジットは、ライムのアジトを物陰からひっそりと観察していた。ライムがその建物から出ていくのも確認済みである。
今回指名手配されているセラルフィとトトの二人は別として、小隊長からライムの動向についても探るよう指示されていたのだ。シルヴァリーのことを裏で嗅ぎまわっている人間がいるという情報を、シルヴァリー本人から知らされ、それを特定することがペジットの所属する部隊の役目だった。どうやらシルヴァリーはあえてライムを泳がせていたようである。まさか指名手配犯二人も彼と通じているとは思わなかったが。
兎に角。
「どうしようか……オレ一人で突入して、みすみす逃がしたなんてことになったら困るしなあ。小隊長の拳骨も地味に痛いし」
砂埃の目立つ、栗色の髪を撫でながら小隊長の拳骨を思い出す。少しして、青色の瞳に決断の色が宿った。
「オレだって伊達に凶獣狩りをしてきたわけじゃない。今家の中にいるのは最低でも二人。大丈夫。十人までなら絶対に負けることはないさ。足音からしても三人いたかいないかだったはずだし……」
国からこの町に支給された装備でも一番安物の兵団服を纏っているペジットは、一振りの長剣を確認して、家の前に立った。
貧乏人には違いないが、貧困生活から脱するために鍛えた剣術だけが、ペジットの自信となっていた。災害孤児だったペジットは、もともと正義感だけは人一倍あった。きっとあの三人はこの町を脅かすテロリストなのだろう。それでこの町の子供を人質に、シルヴァリーを殺せとか言ってしまうのだろう。脳内で勝手に膨らんでいく悪の存在が、ペジットの正義感を更に大きくしていく。
「許さんぞ悪党共……ッ! このオレが、町を――ユーリッドを救って見せる!」
扉に手を掛けようとした瞬間、向こうから独りでに扉が開いた。
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