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「今日だけ、特別にいいそうですよ」
間もなく、さっきと同じ看護婦さんが来て言った。
「言ってみるもんだねえ」
伊万里さんがからからと笑う。
おじさんは頭をかいた。
「さあ、どうする?」
私はきょとんとした。
「はじめての舞台じゃねぇか」
はっとした。
練習中にはおじさんがいたが、いつもはミーちゃんだけが観客だった。
とたんにジュースの味が分からなくなる。
「失敗してもかまわんさ。こんな場所であたしたちのために弾こうとしてくれる、その気持ちが嬉しいんだからさ」
「ほんとに、そうですよ」
清水くんも同意する。
私は深呼吸をすると、バイオリンをケースから取り出した。
軽く演奏前の指ならしに何音か鳴らした。
寝坊助の男の子がようやく目を覚ます。
思いもしないギャラリー。
心臓がどくどくと鳴った。
手が震えた。
そんな私を励ますように、弓のお姉さんが笑った。
男の子も真剣な顔をしている。
『大丈夫』
二人の声が珍しくそろう。
「はじ、め、ます」
どもっていたが、誰も何も言わなかった。
目をつぶる。
弓と弦に感覚を集中させる。
曲は「サイレントナイト」。
日本名は「清しこの夜」。
私は冬の夜の匂いを思い浮かべた。
透明な静かな暗闇。
澄みわたる紺色の空。
輝く三日月。
空気が揺れる。
鼓動が走る。
一面に凍えた風が吹き抜ける。
その中で輝く無数の星たち。
そのきらめき。
弦と弓が触れ合う。
指先から音が生まれる。
私の身体全体が楽器になったように。
肩にのせたバイオリンが溶けていく。
指先の感覚がにじんで、私自身が弓になる。
バイオリンは私で。
私は弓で。
バイオリンで。
古い病院の壁に音が反響する。
天井が、床が、うたいだす。
なんて不思議な感覚。
家で弾いていた時とは比べものにならないほどの。
圧倒的、多幸感。
伊万里さん、高橋さん、清水くん、
それに。
おじさん。
見えていますか。
たくさんの星たちの呼吸が。
まばたきが。
どうか。
どうか。
みなさんの傷が、病が早くなおりますように。
優しい風がたくさん吹きますように。
無数の星がみなさんの道を照らしますように。
どうか。
どうか。
この祈りが、
少しでも届きますように。
「ーーーーーありがと、ございま、した」
私は深々と頭を下げた。
パチパチ、と拍手が鳴った。
すぐ隣から、カーテンの向こうから。
それに背後から。
「きれいな音ねえ」
「良かったよ、お嬢さん」
「サイレントナイトか、懐かしいわ」
「ありがとうね」
見たことがない患者さんたちがたくさん病室の前にいた。
「ど、して」
「古い建物だから、他の部屋にも響いたのね」
さっきの若い看護婦さんが言った。
少し目が赤いようにも見える。
「真っ直ぐで、いい音だった」
高橋さんも目を抑えていた。
「ありがとうね。お嬢さん」
伊万里さんも泣いていた。
「やっぱり思ったとおり。優しい音でした。ありがとう」
清水くんは笑っていた。
「下手くそだなあ」
隣でおじさんが呟く。
「緊張したのか?音が走りすぎてるよ」
声が震えていた。
顔を隠していても分かる。
「だけど届いたよ。あんたの思いが。星が見えたよ」
「でも、まだ、あの時みたいな星の、またたきには、なら、ない」
「人によって音色は違って当たり前だろ。個性があるように。バイオリンも違っていいんだよ。むしろ違った音の方がいい」
おじさんはごしごしと顔を拭いた。
「今日は星が見えたけどよ、あんたのは音はどっちかってえと太陽だな。みんなにエネルギーを与える。あったかい音だよ」
「う、そ」
「うそじゃねえよ」
おじさんは笑った。
「お前が上手に話せなくても、お前にはバイオリンがある。お前のバイオリンはまだ幼いけどな、ちゃんとこんなにみんなに届いてるよ」
周りを見た。
たくさんの笑顔があった。
まぶしいほどの優しさが溢れている。
私の中でまた音が生まれる。
それはけして上手に私ののどを通さない。
けれど。
指先からこの世界に響いていく。
私の音は、たしかに目の前の人たちに届いた。
それがこんなにうれしいことだなんて。
「さあ、アンコールだ。また弾いてくれ」
おじさんが笑った。
うなずいて弓とバイオリンをかまえて、私はまっすぐに前を向いた。
end
間もなく、さっきと同じ看護婦さんが来て言った。
「言ってみるもんだねえ」
伊万里さんがからからと笑う。
おじさんは頭をかいた。
「さあ、どうする?」
私はきょとんとした。
「はじめての舞台じゃねぇか」
はっとした。
練習中にはおじさんがいたが、いつもはミーちゃんだけが観客だった。
とたんにジュースの味が分からなくなる。
「失敗してもかまわんさ。こんな場所であたしたちのために弾こうとしてくれる、その気持ちが嬉しいんだからさ」
「ほんとに、そうですよ」
清水くんも同意する。
私は深呼吸をすると、バイオリンをケースから取り出した。
軽く演奏前の指ならしに何音か鳴らした。
寝坊助の男の子がようやく目を覚ます。
思いもしないギャラリー。
心臓がどくどくと鳴った。
手が震えた。
そんな私を励ますように、弓のお姉さんが笑った。
男の子も真剣な顔をしている。
『大丈夫』
二人の声が珍しくそろう。
「はじ、め、ます」
どもっていたが、誰も何も言わなかった。
目をつぶる。
弓と弦に感覚を集中させる。
曲は「サイレントナイト」。
日本名は「清しこの夜」。
私は冬の夜の匂いを思い浮かべた。
透明な静かな暗闇。
澄みわたる紺色の空。
輝く三日月。
空気が揺れる。
鼓動が走る。
一面に凍えた風が吹き抜ける。
その中で輝く無数の星たち。
そのきらめき。
弦と弓が触れ合う。
指先から音が生まれる。
私の身体全体が楽器になったように。
肩にのせたバイオリンが溶けていく。
指先の感覚がにじんで、私自身が弓になる。
バイオリンは私で。
私は弓で。
バイオリンで。
古い病院の壁に音が反響する。
天井が、床が、うたいだす。
なんて不思議な感覚。
家で弾いていた時とは比べものにならないほどの。
圧倒的、多幸感。
伊万里さん、高橋さん、清水くん、
それに。
おじさん。
見えていますか。
たくさんの星たちの呼吸が。
まばたきが。
どうか。
どうか。
みなさんの傷が、病が早くなおりますように。
優しい風がたくさん吹きますように。
無数の星がみなさんの道を照らしますように。
どうか。
どうか。
この祈りが、
少しでも届きますように。
「ーーーーーありがと、ございま、した」
私は深々と頭を下げた。
パチパチ、と拍手が鳴った。
すぐ隣から、カーテンの向こうから。
それに背後から。
「きれいな音ねえ」
「良かったよ、お嬢さん」
「サイレントナイトか、懐かしいわ」
「ありがとうね」
見たことがない患者さんたちがたくさん病室の前にいた。
「ど、して」
「古い建物だから、他の部屋にも響いたのね」
さっきの若い看護婦さんが言った。
少し目が赤いようにも見える。
「真っ直ぐで、いい音だった」
高橋さんも目を抑えていた。
「ありがとうね。お嬢さん」
伊万里さんも泣いていた。
「やっぱり思ったとおり。優しい音でした。ありがとう」
清水くんは笑っていた。
「下手くそだなあ」
隣でおじさんが呟く。
「緊張したのか?音が走りすぎてるよ」
声が震えていた。
顔を隠していても分かる。
「だけど届いたよ。あんたの思いが。星が見えたよ」
「でも、まだ、あの時みたいな星の、またたきには、なら、ない」
「人によって音色は違って当たり前だろ。個性があるように。バイオリンも違っていいんだよ。むしろ違った音の方がいい」
おじさんはごしごしと顔を拭いた。
「今日は星が見えたけどよ、あんたのは音はどっちかってえと太陽だな。みんなにエネルギーを与える。あったかい音だよ」
「う、そ」
「うそじゃねえよ」
おじさんは笑った。
「お前が上手に話せなくても、お前にはバイオリンがある。お前のバイオリンはまだ幼いけどな、ちゃんとこんなにみんなに届いてるよ」
周りを見た。
たくさんの笑顔があった。
まぶしいほどの優しさが溢れている。
私の中でまた音が生まれる。
それはけして上手に私ののどを通さない。
けれど。
指先からこの世界に響いていく。
私の音は、たしかに目の前の人たちに届いた。
それがこんなにうれしいことだなんて。
「さあ、アンコールだ。また弾いてくれ」
おじさんが笑った。
うなずいて弓とバイオリンをかまえて、私はまっすぐに前を向いた。
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