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第32話 送別会

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 正式な異動発表があった日、オフィスの空気はどこか落ち着かなかった。すでに噂は広まっていたが、正式に九条課長の異動が決まったことで、みんながそわそわしている。

 まるで季節の変わり目のように、見えない風が吹いている気がした。誰もが普段通りの業務をこなしているはずなのに、書類をめくる音、キーボードを打つ音、電話の呼び出し音――それらがいつもよりわずかに鈍く、間延びして聞こえる。意識すればするほど、空気の重たさが肌にまとわりつくようだった。

「課長、行っちゃうんだね……」

 隣の席の麻美がぽつりと呟いた。その声はいつもより少し掠れていて、どこか頼りなげだった。

 私はそっと横目で彼女を盗み見る。

 普段の麻美なら、こういう時こそ「課長、新天地でも頑張ってくださいね!」と明るく送り出すタイプだ。それが今日は、伏し目がちにデスクの端を指先でなぞるばかり。細く白い指が、まるでそこに形のない何かを探すように、同じ場所をゆっくりとなぞっていた。その仕草に、理由のわからないざわつきが胸に広がる。

「……そうだね」

 私は応じる。でも、たったそれだけの言葉を口にしただけなのに、喉の奥に何か引っかかるものがあった。もっと言うべきことがあるはずなのに、それが見つからない。

 麻美の視線は、彼女のデスクの一点に落ちたままだった。机の上に置かれた小さな観葉植物の葉が、わずかに揺れている。エアコンの風が当たっただけだろう。でも、それがまるで彼女の心の揺らぎを映しているように見えてしまう。

 私は静かに視線を落とす。

(これでよかったんだよね?)

 何度も自分にそう言い聞かせる。

 九条課長の異動は、会社の方針で決まったことだ。本人の意思だけでどうこうできる問題ではない。私たちはただ、受け入れるしかない。

 ――そう、受け入れるしか。

 だけど。

 不意に、視界の端に九条課長の姿が映る。

 彼はいつも通り、淡々とパソコンに向かっている。いつも通り、静かな声で指示を出している。周囲と同じように彼もまた「何事もない」ように振る舞っている。けれど、ふとした瞬間に遠くを見つめるような横顔が、妙に印象に残る。

 それはほんの一瞬のことだ。目の錯覚かもしれない。でも、確かにそう思った。

(本当は……どう思っているんですか?)

 心の中で問いかけても、答えが返ってくるはずもない。彼はいつも通りだ。変わらず、淡々と。



 ――そして迎えた送別会の夜。

 店内はいつもよりも賑やかだった。送別会特有の高揚感と、ほんの少しの寂しさが入り混じる空気。グラスがぶつかり合い、あちこちで笑い声が弾ける。談笑の輪がいくつも広がり、酔いに任せて上司のモノマネを披露する者まで現れる。

「九条課長、もうちょっと飲みません?」
「俺たち、課長ロスになっちゃいますよ!」

 冗談交じりの言葉が飛び交う中、九条課長は変わらぬ落ち着いた表情で「世話になった」とだけ告げた。短く、それ以上の言葉はない。

 誰かが「課長らしいな」と笑った。そう、これが彼だ。感情を大きく表に出すことはない。冷静沈着で、隙のない完璧な上司――。

 でも、私は知っている。

 あの人が、ただ冷たいだけの人じゃないことを。

 淡々としているように見えるその姿の奥に、何かがあることを。

 皆が盛り上がる中で、私の視線はずっと彼を追い続けていた。

 何を話しているのか、誰と笑い合っているのか――それを気にしても仕方がないのに、目が離せなかった。

(これが……最後?)

 そう思うと、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。喉の奥が熱を帯び、言葉にならない感情が渦を巻く。このまま、何も言わずに終わるの?

「元気でいてくださいね」
「新しい部署でも頑張ってください」

 そんな当たり障りのない言葉だけを並べて、この気持ちを閉じ込めてしまうの? そんなの、あんまりだ。

 ――嫌だ。

 込み上げる衝動に突き動かされ、私は意を決して席を立った。

 心臓の音がうるさい。鼓動が耳の奥まで響いて、落ち着こうとしても呼吸が浅くなる。指先まで冷え切っているのに、背中にはじんわりと汗が滲んでいた。

 人の波を縫うように歩き、彼に向かってまっすぐ進む。酔った同僚たちが楽しげに笑いながら肩を叩き合い、賑やかな声が飛び交う空間をすり抜けていく。けれど、私の視界にはもう彼しか映らなかった。

 九条課長――。

 不意に立ち止まった瞬間、彼が少し遠くに感じた。もうすぐ手の届かない場所へ行ってしまうのだという現実が、胸を締めつける。

「……課長」

 思ったよりも小さな声だったのに、それでも九条課長はすぐに振り向いた。

 ぶつかる視線。静かに私を見つめる瞳。その目に映る自分の表情が、どんなものかなんて考える余裕はなかった。ただ、その瞬間、迷いが生まれそうになる。

 今さら何を言っても、どうにもならないのかもしれない――。

 けれど、もう後戻りはできない。

「……本当に、異動しなきゃいけないんですか?」

 自分でも驚くほど、声が震えていた。喉の奥が締めつけられるようで、うまく息ができない。言葉を発するたび、胸の奥がきりきりと痛む。

 九条課長は、ふと動きを止めた。テーブルをに置いた手が微かにこわばる。彼の瞳がわずかに見開かれたのを、私は見逃さなかった。驚いたような表情――けれど、その奥に滲む感情は、もっと別のものだった。寂しさ。それとも、諦めにも似た何か。

 心臓が高鳴る。足元がぐらりと揺れるような感覚に襲われながら、それでも私は、口を開かずにはいられなかった。

「私……課長がいなくなるの、嫌です」

 途端に、息が詰まる。自分の口から零れ落ちた言葉に、胸の奥がひどく熱を持った。

 そうだ、私は――この人がいなくなるのが、嫌なのだ。

 言葉にして初めて気づいた。ずっと曖昧にしていた想いが、一気に形を持ってしまった。言葉になった途端、それまで必死に押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出しそうになる。

 九条課長は、静かに私を見つめていた。何かを言おうとして、けれどそれを飲み込むようにして、ほんの数秒、沈黙が降りる。

「……俺も、本当は異動したくない」

 ようやく紡がれた彼の声は、ひどく静かだった。

「今の仕事も、まだ完全に自分のものにできたわけではないからな」

 その言葉に、私は思わず顔を上げた。

「じゃあ……!」

 思いがけず、声が弾む。僅かでも、この異動が覆る可能性があるのなら――そんな淡い期待が胸の奥で膨らむ。

 けれど、九条課長の表情は変わらなかった。微かに迷いの色を浮かべたように見えたが、すぐにそれを押し隠すように、わずかに苦笑を浮かべた。

「だが、決まったことだ」

 その言葉が、冷たい現実を突きつけるように響いた。

「お前に迷惑をかけたくなかった。それに……」

 言葉が、途切れる。

 ふと彼の視線が揺れ、何かを探るように周囲を見回したかと思うと、私のすぐそばへと近づいた。

 そして、次の瞬間――

 不意に、彼の顔が傾く。息を潜める間もなく、耳元にそっと近づく気配がした。

「同じ職場だと、お前だけをつい特別扱いしてしまう。あのままでは、噂が真実だとバレるのも時間の問題だった」

 低く、けれど確かに響く声が、直接肌に触れるように伝わってくる。

 私だけを――特別扱い。

 その言葉が、波紋のように広がり、頭の中で何度も何度も反響する。

(……それってつまり……)

 心臓が、大きく跳ねた。

 耳の奥で鼓動が膨れ上がる。どくん、どくんと、自分の存在そのものを揺さぶるように響く。息がうまく吸えない。浅い呼吸を繰り返すたび、ますます体が熱を帯びていく。

 理解したくない。

 けれど、確信してしまうのは――もっと怖い。

 胸の奥で、甘く痛い何かが、静かに疼き始めていた。
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