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第28話 冷たい態度
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とある日の午後。
どうしても九条課長に確認が必要な案件が発生した。私は意を決して彼のデスクへと向かう。
これまでと変わらないはずのオフィスの風景。しかし、今は妙に空気が重く感じられた。キーボードを叩く音がかすかに耳に届く。プリンターが動作する低い機械音。その合間に、誰かが小さく溜息をついた。窓の外を見やると、灰色の雲が空を覆い尽くし、わずかに差し込んでいた陽の光すら、完全にかき消されていた。湿った静けさが室内に満ち、まるで雨が降る直前のような、じっとりとした圧迫感がある。
ふと、自分の手が固く握りしめられていることに気づく。指先に力がこもり、爪が手のひらに食い込むほどだった。意識して緩め、ゆっくりと息を吐く。これはただの業務の確認にすぎない。何も気にすることはない。そう自分に言い聞かせるものの、喉の奥には小さな引っかかりが残る。
――最近、九条課長の態度が少し変わった気がする。
以前はもっと自然に話せていた。質問をすれば、的確に答えてくれたし、時には「ここはこうした方がいい」と助言をくれることもあった。けれど、ここ数日、どこか距離を感じる。言葉の端々が淡白で、会話の間に微妙な空白が生まれる。目が合ってもすぐに逸らされることが増えた。気のせいなのか。それとも、何か理由があるのか。
考えれば考えるほど、不安が胸の奥でじわりと広がっていく。
それでも、確認しなければならないことがある以上、立ち止まるわけにはいかない。私は意を決し、ゆっくりと立ち上がった。
足を踏み出すたびに、心臓がわずかに早鐘を打つ。デスクの間を縫うように歩く。何度も通ったはずのオフィスの通路が、今日はやけに長く感じられる。すれ違う同僚たちが談笑する声が耳に入るが、その言葉はまるで遠くの出来事のようにぼんやりと流れていく。いつもの空間のはずなのに、自分だけが切り離された別世界にいるような感覚だった。
そして――九条課長のデスクのすぐそばまで来た。
私は足を止めることなく歩きながら、一度、小さく息を吸い込んだ。空調の静かな音と、オフィスに響く微かなタイピング音。規則正しいキーボードの音が、今の自分の心拍と妙に重なる気がする。意識して肩の力を抜き、できるだけ普段通りの声で話しかけた。
「課長、先日のプロジェクトの件で確認したいことがあるのですが……」
自分の声が、思ったよりも硬い。喉の奥に残る緊張の感触が、わずかに言葉を引き締めてしまったのかもしれない。
九条課長はデスクの上の書類から顔を上げなかった。ペンを持つ指先がわずかに動き、さらさらと紙の上を滑る音が静かに響く。わずかに傾げられた眉と、冷静な筆記のリズム。それが私と彼の間に、見えない壁のようなものを作り出していた。
オフィスのざわめきが遠く感じる。人々の話し声、電話のベル、プリンターが紙を吐き出す音――それらすべてが、奇妙なほど遠のいていく。今、この空間には私と九条課長しかいないような気さえした。
そして、ようやく彼が口を開く。
「資料をメールで送っておけ。後で確認する」
――え……?
一瞬、思考が止まった。
今までなら、私が質問すればすぐに答えてくれた。時には、実際の資料を指し示しながら詳しく説明してくれることもあった。それなのに、今日はあまりにも素っ気ない。まるで、私との会話そのものを避けるかのような態度だった。
なぜ?
課長の横顔を盗み見る。整然と並べられた書類に向けられた視線は、わずかに鋭い。冷静で、理知的で、そして――まるで私に興味を失ったかのように、ただ事務的にそこにあるように見えた。
胸の奥がひどくざわつく。理由も分からず、どこか落ち着かない感覚が広がる。喉の奥に引っかかった小さな棘のように、違和感がまとわりついて離れない。
息を飲み込み、余計な動揺を悟られないように気をつけながら、私は小さく頷いた。
「……わかりました」
ようやくの思いで言葉を絞り出し、私はゆっくりと体を引いた。冷静でいなければ、と自分に言い聞かせる。しかし、足元がふわふわと浮つくような感覚がする。思考と現実の境界が曖昧になったかのようで、自席へ戻るための一歩が、妙に遠く感じられた。
これでいい。このまま席に戻れば、それが最善のはずだった。
でも――どうしても、気になってしまった。
歩き出す直前、ほんの一瞬だけ、私はそっと九条課長の方を見た。確かめるつもりなんてなかった。ただ、無意識に視線が吸い寄せられてしまった。
その瞬間。
彼も、わずかに顔を上げた。
目が合いそうになった。
いや、確かに、ほんの一瞬だけ視線が交差した気がした。だが、その刹那、九条課長の表情がわずかにこわばるのが見えた。そして、何かを振り払うように、すぐに視線を逸らした。
――避けられた?
唐突に、胸が強く締めつけられる。嫌な予感がする。
(もしかして……私のせいで、課長に迷惑をかけてる?)
思わず拳を握りしめる。指先がじんと痺れるほど、力が入ってしまっていた。
確信めいた違和感だけが、胸の奥に根を張る。
彼は、私を避けている。
それが事実なのか、ただの思い込みなのか、自分でも分からない。ただ、一度植えつけられた疑念は、じわじわと広がっていく。
考えれば考えるほど、その冷たい態度の理由が分からず、ただただ、不安だけが募っていった。
どうしても九条課長に確認が必要な案件が発生した。私は意を決して彼のデスクへと向かう。
これまでと変わらないはずのオフィスの風景。しかし、今は妙に空気が重く感じられた。キーボードを叩く音がかすかに耳に届く。プリンターが動作する低い機械音。その合間に、誰かが小さく溜息をついた。窓の外を見やると、灰色の雲が空を覆い尽くし、わずかに差し込んでいた陽の光すら、完全にかき消されていた。湿った静けさが室内に満ち、まるで雨が降る直前のような、じっとりとした圧迫感がある。
ふと、自分の手が固く握りしめられていることに気づく。指先に力がこもり、爪が手のひらに食い込むほどだった。意識して緩め、ゆっくりと息を吐く。これはただの業務の確認にすぎない。何も気にすることはない。そう自分に言い聞かせるものの、喉の奥には小さな引っかかりが残る。
――最近、九条課長の態度が少し変わった気がする。
以前はもっと自然に話せていた。質問をすれば、的確に答えてくれたし、時には「ここはこうした方がいい」と助言をくれることもあった。けれど、ここ数日、どこか距離を感じる。言葉の端々が淡白で、会話の間に微妙な空白が生まれる。目が合ってもすぐに逸らされることが増えた。気のせいなのか。それとも、何か理由があるのか。
考えれば考えるほど、不安が胸の奥でじわりと広がっていく。
それでも、確認しなければならないことがある以上、立ち止まるわけにはいかない。私は意を決し、ゆっくりと立ち上がった。
足を踏み出すたびに、心臓がわずかに早鐘を打つ。デスクの間を縫うように歩く。何度も通ったはずのオフィスの通路が、今日はやけに長く感じられる。すれ違う同僚たちが談笑する声が耳に入るが、その言葉はまるで遠くの出来事のようにぼんやりと流れていく。いつもの空間のはずなのに、自分だけが切り離された別世界にいるような感覚だった。
そして――九条課長のデスクのすぐそばまで来た。
私は足を止めることなく歩きながら、一度、小さく息を吸い込んだ。空調の静かな音と、オフィスに響く微かなタイピング音。規則正しいキーボードの音が、今の自分の心拍と妙に重なる気がする。意識して肩の力を抜き、できるだけ普段通りの声で話しかけた。
「課長、先日のプロジェクトの件で確認したいことがあるのですが……」
自分の声が、思ったよりも硬い。喉の奥に残る緊張の感触が、わずかに言葉を引き締めてしまったのかもしれない。
九条課長はデスクの上の書類から顔を上げなかった。ペンを持つ指先がわずかに動き、さらさらと紙の上を滑る音が静かに響く。わずかに傾げられた眉と、冷静な筆記のリズム。それが私と彼の間に、見えない壁のようなものを作り出していた。
オフィスのざわめきが遠く感じる。人々の話し声、電話のベル、プリンターが紙を吐き出す音――それらすべてが、奇妙なほど遠のいていく。今、この空間には私と九条課長しかいないような気さえした。
そして、ようやく彼が口を開く。
「資料をメールで送っておけ。後で確認する」
――え……?
一瞬、思考が止まった。
今までなら、私が質問すればすぐに答えてくれた。時には、実際の資料を指し示しながら詳しく説明してくれることもあった。それなのに、今日はあまりにも素っ気ない。まるで、私との会話そのものを避けるかのような態度だった。
なぜ?
課長の横顔を盗み見る。整然と並べられた書類に向けられた視線は、わずかに鋭い。冷静で、理知的で、そして――まるで私に興味を失ったかのように、ただ事務的にそこにあるように見えた。
胸の奥がひどくざわつく。理由も分からず、どこか落ち着かない感覚が広がる。喉の奥に引っかかった小さな棘のように、違和感がまとわりついて離れない。
息を飲み込み、余計な動揺を悟られないように気をつけながら、私は小さく頷いた。
「……わかりました」
ようやくの思いで言葉を絞り出し、私はゆっくりと体を引いた。冷静でいなければ、と自分に言い聞かせる。しかし、足元がふわふわと浮つくような感覚がする。思考と現実の境界が曖昧になったかのようで、自席へ戻るための一歩が、妙に遠く感じられた。
これでいい。このまま席に戻れば、それが最善のはずだった。
でも――どうしても、気になってしまった。
歩き出す直前、ほんの一瞬だけ、私はそっと九条課長の方を見た。確かめるつもりなんてなかった。ただ、無意識に視線が吸い寄せられてしまった。
その瞬間。
彼も、わずかに顔を上げた。
目が合いそうになった。
いや、確かに、ほんの一瞬だけ視線が交差した気がした。だが、その刹那、九条課長の表情がわずかにこわばるのが見えた。そして、何かを振り払うように、すぐに視線を逸らした。
――避けられた?
唐突に、胸が強く締めつけられる。嫌な予感がする。
(もしかして……私のせいで、課長に迷惑をかけてる?)
思わず拳を握りしめる。指先がじんと痺れるほど、力が入ってしまっていた。
確信めいた違和感だけが、胸の奥に根を張る。
彼は、私を避けている。
それが事実なのか、ただの思い込みなのか、自分でも分からない。ただ、一度植えつけられた疑念は、じわじわと広がっていく。
考えれば考えるほど、その冷たい態度の理由が分からず、ただただ、不安だけが募っていった。
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