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第19話 あとで少し時間をくれ

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 社内のカフェでカップを手に取り、一息つこうとした瞬間、背後の席から聞こえてきた会話に耳が引っ張られた。雑音の中でも、その言葉だけが妙にクリアに響く。

「結局、課長の噂って本当なのかな?」

 課長――九条課長のこと? 反射的に指がカップの取っ手を強く握りしめる。さっきまでの穏やかなコーヒーブレイクの空気が、一瞬で張り詰めたものに変わる。心の奥に潜んでいた何かが、ゆっくりと水面に浮かび上がるような感覚。

 スプーンを回す音、カップを置くかすかな音、誰かの笑い声。そのすべてが遠のき、代わりに後ろの会話だけが鮮明に耳へと届く。

「でもさ、あの人、今まで恋愛に無縁だったじゃん? いきなり社内恋愛とかありえる?」

 恋愛に無縁――確かに、九条課長には恋愛関係の噂はなかった。クールで的確、冷静沈着。無駄口ひとつ叩かず、いつも理路整然と物事を進める人だ。会議では端的に要点をまとめ、誰もが納得する結論を導き出す。淡々と仕事をこなす姿は、まるで完璧な機械のようで、感情を表に出すことなんてほとんどない。厳格で妥協を許さず、それでいて決して不遜ではなく、ただ静かに、効率的に仕事を片付けていく。その冷ややかな眼差しの奥に、何か熱を秘めているのか――誰も知らない。

 プライベートについて話すこともなく、飲み会にも最低限しか顔を出さず、何を考えているのか分からない。社内の誰かと特別な関係になっているなんて、想像すらできない。そんな人が、本気で恋愛を――?

 ありえない。

 想像してみる。九条課長が誰かと親しげに話している姿。誰かに向かって微笑む姿。恋人と歩く姿。――どれもが現実味に欠けていて、頭の中の映像がすぐに霧散する。そんなこと、今まで一度も見たことがない。私だって、彼の「妻」になる予定ではあるけれど、それはあくまで契約の上での関係だ。そこに恋愛感情なんてものは存在しない。

 それなのに――

「むしろ、相手の方が課長に惚れたんじゃない?」

 ぶっ――!

 喉の奥が焼けるような熱さに襲われ、飲みかけていたコーヒーが気管に入りかける。思わず目を見開き、口元を押さえた。咳が込み上げ、肩が震える。苦さと熱さが混ざった刺激が喉に残り、息を吸うのもままならない。

 周囲の視線が突き刺さる。カフェの穏やかな空気の中で、不意に目立ってしまったことに、恥ずかしさがじわじわと込み上げる。耳まで熱くなり、どうにか平静を装おうとするが、指先は震え、落ち着かない。

 向かいに座る麻美が、驚いた顔で身を乗り出してくる。

「ちょっと、大丈夫?」

「だ、大丈夫……っ」

 かすれた声で答えながら、慌ててナプキンで口元を拭う。喉の奥がまだヒリヒリと痛むが、それ以上に、心臓が激しく跳ねる音が耳の奥に響いていた。驚きと動揺が一気に押し寄せ、体の芯まで熱くなるのを感じる。まさか、こんな話題を聞いてしまうなんて。

 頭の中が真っ白になりかけるのを必死で押しとどめる。冷静にならなきゃ。平静を装わなきゃ。けれど、思考はぐるぐると堂々巡りを続け、意識が現実からわずかに浮いていくような感覚に襲われる。

 ――そんなこと、あるわけない。

 心の中でそう繰り返しながら、震える指先でカップを持ち直す。熱の抜けかけたコーヒーをそっと口に含むと、微かに苦味が広がり、少しだけ意識が引き戻される気がした。落ち着かなきゃ。何でもないことのように振る舞わなきゃ。

 カフェの空気は相変わらず穏やかで、周囲の会話やカップの触れ合う音が心地よく響いている。柔らかな音楽も流れ、外から差し込む午後の陽射しがテーブルの上に揺れる。しかし、その和やかな光景が、かえって自分の胸の奥で渦巻く感情の嵐を際立たせるように思えた。気持ちを落ち着かせようと何度か深呼吸を試みるが、喉の奥に小さな棘が引っかかったような違和感が拭えない。

 それでも何とか取り繕い、麻美の追及混じりの雑談をかわしながら、表向きは平静を保った。彼女の視線がふと鋭くなるたびに、心の奥を探られているような気がしてならなかったが、笑顔を崩さずやり過ごすことができたのは、長年培った処世術のおかげかもしれない。

 ようやく、午後の仕事の時間だ。仕事が始まれば、余計なことを考えずに済む。視線を手元の資料に落とし、文字を追う。しかし、書かれた内容がうまく頭に入ってこない。どこか現実から一歩引いた場所にいるような感覚がまとわりつく。

 深く息を吸い込み、気持ちを切り替えようとする。ペンを握り直し、書類の余白にメモを取ろうとした——そのとき。

「佐倉」

 低く抑えた声がすぐ近くで響いた。

 背中がピクリと震え、指先の感覚が一瞬にして薄れる。心臓が喉元までせり上がり、息が詰まるような感覚に襲われた。まるで背後から冷たい刃先を突きつけられたかのように、全身がこわばる。

 振り返ると、九条課長が私のデスクの横を通りながら、深い色の瞳でじっとこちらを見ていた。視線はただまっすぐに私を捉え、静かな圧力を持っている。声の抑えられた低さと、その目の奥にある何かが、周囲に悟られまいとする分、かえって鋭く感じられた。空気が一瞬で冷たくなった気がする。

「あとで少し時間をくれ」

 静寂の中に落とされたその一言は、まるで水面に小石を投げ込んだように、じわりと波紋を広げた。

 一拍遅れて、言葉の意味が頭の中で弾ける。

 ――えっ? まさか、噂の件……?

 胸の奥が強く締めつけられ、息を呑む音が自分の耳にもはっきりと聞こえた。デスクの上で握りしめたボールペンが、わずかに震えている。気づかれまいと指先に力を込めるが、それはかえって震えを強調するだけだった。まるで抗えない何かが、じわじわと迫ってくるような感覚。

 心臓の鼓動が、耳の奥でいやに大きく響く。まるで、何かの始まりを告げる鐘の音のように。冷たい汗が背中を伝い、微細な悪寒が皮膚をかすめた。

「……わかりました」

 自分の声がひどく掠れているのがわかった。たった六文字を絞り出すのに、これほどまでに苦労するとは。

 落ち着かなければ――。そう思えば思うほど、足元がふわりと頼りなくなる。意識的に深く息を吸い込もうとするが、喉がひどく渇いていて、まともに呼吸すらままならない。唾を飲み込もうとするが、それすらもうまくいかず、焦燥感だけが増していく。

 視界が、わずかに揺れた気がした。空調の音、遠くで交わされる何気ない会話、誰かがめくる書類のかすかな音――すべてが遠のいていく。

 逃げ道はない。
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