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第14話 噂

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 食堂の端から元の席へと戻ると、麻美が待ち構えていた。まるで獲物を逃がさない猫のように目を光らせ、唇の端をわずかに持ち上げたその表情は、いたずらを仕掛ける直前の子どものようにも見える。テーブルに肘をつきながら、身を乗り出してくるその仕草には、明らかに狙いがある。

「ねえねえ、課長と何話してたの?」

 予想通りの問いかけ。だが、その声音はただの世間話ではなく、明確な興味と好奇心が詰まっている。きらきらと輝く瞳は、こちらが何か隠していると確信しているかのようだ。まるで刑事ドラマの尋問シーンのような圧を感じる。これはもう、逃げ場なし。

「た、ただの仕事の話!」

 慌てて言い訳じみた答えを返すと、麻美は「ふーん?」と、明らかに疑わしげな間を置いた。唇の端をさらに引き上げ、いたずらな笑みを深める。その目には、「嘘ついてるでしょ?」と書いてあるようだった。

 ……この感じ、絶対に疑ってる。

 どう考えても、このままでは追及がエスカレートするだけだ。深入りされる前に、ここは強制終了するしかない。私は残っていたお茶をぐっと一気に飲み干し、空になった湯呑みをテーブルに置くと同時に立ち上がった。

「じゃ、戻るね!」

 逃げるように席を立とうとした、その瞬間――

「ちょっと待ってよ!」

 麻美が素早く腕を伸ばし、私の袖を軽く引いた。その力は強くはないが、逃げるには十分な障害だ。

「本当に仕事の話? なんか課長、最近優しくない?」

 核心をつくような言葉に、私は思わずぎくりとした。思い返せば、確かに課長は最近妙に柔らかい態度を見せることが増えている気がする。けれど、それが特別な意味を持つとは考えたくなかった。

「そ、そうかな……?」

 自分でも情けないくらいに弱々しい返事をすると、麻美はすかさず畳みかける。

「うん、絶対そう! ねえ、何かあるんじゃないの?」

 麻美のにやにやとした笑顔が、まるで確信を持っているかのように迫ってくる。私はぎくりとしながらも、できる限り冷静を装い「何もない!」と強く否定するしかなかった。

 しかし、そんな言葉が彼女の疑念を払拭するわけもなく、むしろ楽しげに私の反応を観察しているようにすら見える。こういうときの麻美は本当にしつこい。追及が終わる気配はまるでなかったが――

「……あ、チャイム!」

 昼休みの終わりを告げる電子音がオフィスの隅々まで響き渡る。それがまるで救いの鐘のように感じられ、私は「じゃ、午後の仕事!」と逃げるように席を立った。麻美は「まだ話足りないんだけどなー」と未練たっぷりに呟きながらも、仕方なく自席へと戻っていった。

 だが、ほっと息をつく間もなく、午後の業務が始まる――というより、そこからがむしろ落ち着かない時間の始まりだった。

 静まり返ったオフィス。規則的に響くキーボードの打鍵音。時折、電話の呼び出し音や紙をめくる微かな音が混じる。そんな中、不意に耳に届いたのは、ひそひそとした囁き声だった。

「おい、聞いたか? 最近、課長が優しくなったのは『誰かの影響』らしいぞ」

 ――え、ちょっと待って……それって……!?

 心臓が一気に跳ね上がる。書類に視線を落としながらも、耳は完全にそちらへ向いてしまっていた。何気なくペンを走らせていた手が止まり、紙の上に滲んだ小さなインクの跡が、私の動揺をはっきりと示している。

「相手が誰かまでは分からないけど、課長が変わったのは確かだな」

「まさか社内に彼女ができたとか?」

「おいおい、すぐに色恋沙汰に繋げるなよ。いい大人なんだからさ」

「だからこそ、よ。ずっと冷徹だった九条課長が変わるなんて、それぐらいしかなくない?」

 くすくすと笑い合う声が、不自然なほどクリアに耳に届く。軽い冗談めいた口調。それなのに、どうしようもなく胸をざわつかせる。

 九条課長が、優しくなった――。

 改めてその言葉を頭の中で反芻すると、思い当たる節がいくつも浮かんでしまう。最近、たしかに彼の態度は以前と比べて柔らかくなっていた。些細なミスをしてもすぐに冷たい言葉が飛んでこなくなったし、目が合うとふっと微かに笑うことすらある。以前の彼なら考えられなかった変化。

 ……でも、それが「誰かの影響」だなんて、考えたこともなかった。

 私は思わず固まった。

(課長が変わった原因が私なんて――そんなこと、あるわけないよね)

 自分で自分を笑ってしまいそうになる。自意識過剰にもほどがある。

 けれど――心の奥底でざわめく何かは、否定の言葉を重ねるたびにかえって強くなるばかりだった。

 契約結婚をしたタイミングと、課長が優しくなったタイミングが同じ頃だからといって、短絡的に結びつけるのはおかしい。偶然だ。そうに決まってる。

 でも、本当にそうだろうか?

 知らず知らずのうちに、机の上の書類を見つめる視線がぼやける。視線を落とせば、ペン先が止まっていたことに気づかず、書類の隅に小さなインクの染みを作ってしまっていた。滲んだ黒い点が、まるで自分の心の揺らぎをそのまま映し出したように見える。

「……まさかね」

 小さく息を吐き出し、誰にともなくそう呟く。けれど、その言葉とは裏腹に、胸の奥に灯った小さな熱は、消えるどころか、じんわりと広がっていくようだった。
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