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第3話 残業、そして……

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 カタカタ、とキーボードを打つ音が、静まり返ったオフィスに響く。

 時計の針は、すでに夜の九時を回っていた。

 ふと顔を上げる。広いフロアには、誰もいない。いつの間にか同僚たちは全員退勤し、静寂だけが空間を支配していた。まばらに点いた天井の蛍光灯が、規則的な明かりを落としている。

「……ふう」

 私は軽く肩を回し、伸びをする。

 デスクの上には、まだ片付いていない書類の山。

 ペンを握り、メモを書き込んでは確認し、整理していく。その繰り返し。単調だけど、これを終わらせないと帰れない。

 ふと手を伸ばし、デスクの端に置いたカフェラテを取る。もうすっかり冷めてしまっていた。一口、口に含む。広がるのは、冷たくなったカフェラテの苦み。

 ……こんな時間まで残業してるって、どうなんだろう。仕事は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。でも、こうやって静まり返ったオフィスに一人残っていると、ふと考えてしまう。このまま、ずっとこうなのかな──と。

 そんなことを考えていると、不意に背後で足音がした。

 一定のリズムを刻む、落ち着いた歩調。それが、私のすぐ後ろで止まる。

「まだ終わらないのか」

 低く、落ち着いた声が響いた。

「っ!」

 驚いて振り返る。

 そこには九条課長が立っていた。

 静まり返ったオフィスで、天井の蛍光灯の白い光が課長の影を長く伸ばす。壁に映ったその輪郭は、不気味なほどはっきりとしていた。まるで、この場に刻みつけられたかのように。

「……課長?」

 自分の声が、思った以上にかすれていた。

「いつまで残るつもりだ」

 低く落ち着いた声が、静寂の中に溶け込む。

 黒のスーツを完璧に着こなし、ネクタイの結び目すら乱れていない。一糸乱れぬ端正な身なり。それなのに、冷たい印象を拭えないのは、その表情のせいだろうか。

 冷たく研ぎ澄まされた瞳が、じっとこちらを見下ろしている。射抜くように、感情の揺らぎもなく。まるで、ただそこに存在するだけで、こちらの全てを見透かしてしまうかのように。

 心臓が、不意に跳ねた。

「えっと……」

 言葉を紡ごうとしたが、喉が強ばる。

 息を整えるように、一度小さく唾を飲み込んだ。

「あと少しで終わるので……」

 それだけを絞り出すように言った。

 静寂が、また降りてくる。時計の針の音すら、妙に大きく感じられた。

 自分でも言い訳がましいと思いながら、視線をそらす。

「その『あと少し』が長い」

 九条課長の声は低く、静かに響いた。

 背筋に、わずかに緊張が走る。

 課長の視線が、ゆっくりとデスクの上へと落ちる。

 広がる書類の山。乱雑に積み重なったそれは、私がどれだけ残業を続けているかを雄弁に物語っていた。

 言い訳の余地はない。

「明日でいいものは明日に回せ」

 静かに告げられた言葉が、心の奥にじんわりと沈み込む。その通りだと、頭ではわかっている。

 けれど、簡単に頷くことはできなかった。

「でも……」

 思わず声が漏れる。

 課長の瞳が、ふとこちらを捉えた。

「お前の仕事は、それだけじゃないだろう」

 低く、淡々とした声音。その言葉には強い力があった。

 息を呑む。返す言葉を失った。

 確かに、明日でも間に合うものはある。わかってはいる。

 けれど――一度手をつけた仕事を途中で投げ出すのは、どうしても気持ちが悪い。やりかけのものを残したまま帰るのは、どこか落ち着かない。それが私の性分だった。

 そんな私の考えを見透かしたように、九条課長はわずかに目を細める。

 そして、静かに息を吐いた。

「真面目すぎるのも考えものだな」

 微かに揺れた声は、呆れとも、諦めともつかない色を帯びていた。

 その響きに、胸の奥がかすかにざわめく。

「……すみません」

「謝ることじゃない」

 さらりとした口調で言いながら、九条課長は何気なく視線を落とす。

 そして、一瞬だけ沈黙したあと──

「俺と結婚しろ」

 カチン。

 手元でペンが転がる音がした。

「……はい?」

 思わずペンを落とし、呆然としたまま顔を上げる。

 目の前には、変わらず冷静な九条課長。その端正な顔には、冗談めいた色は一切ない。

「契約結婚だ。条件は追って話す」

「ちょ、ちょっと待ってください。え、何の話ですか?」

 唐突すぎる言葉に、頭が追いつかない。

 思わず椅子の背に寄りかかるが、背もたれの冷たさすら、今の混乱を鎮めるには足りなかった。

「俺と、お前の話だ」

「……えっと、つまり?」

「そのままの意味だ。俺と結婚しろ」

 二度目。

 静まり返ったオフィスに、低く響く声。たったそれだけの言葉が、部屋の空気を一変させた。

 冗談みたいなのに、九条課長の表情はあまりにも真剣で──

 それが、余計に現実味を帯びてくる。

 喉が乾く。何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。思考が追いつかない。

「……」

 私はポカンと口を開けたまま、何も言えなくなる。

 いやいや、ちょっと待って。

 今、課長は何て?

 結婚?

 私と?

 それも契約結婚?

 頭の中で言葉を反芻するたびに、違和感が増していく。まるで、現実感のない夢のようだ。

「どういうことですか……?」

 ようやく絞り出した声は、驚きと戸惑いで震えていた。

「俺は、実家から結婚を急かされている」

 九条課長は腕を組み、少しだけ眉を寄せる。その仕草すら、いつも通り端正で、隙がない。

「しかし、俺には恋愛感情を持つ相手はいないし、そもそも結婚する気もない。だから、お前と契約結婚をしようと思う」

 静かに放たれた言葉。淡々としていて、感情の起伏がない。

 そのあまりの冷静さが、逆に心臓をざわつかせた。

「……それ、本気で言ってます?」

「本気だ」

 即答だった。迷いも、躊躇いもない。当然のことを言っているかのような声音に、私は息を呑む。

「……えっと、それってつまり、名ばかりの夫婦ってことですか?」

「そういうことだ」

 淡々とした返答。

 思わず口を開けたり閉じたりする。

 結婚。

 契約結婚。

 普通なら一生を共にする相手と交わすはずの誓いを、ただの契約として結ぶ?

「お前は結婚に興味がないんだろう? そんな話を小耳に挟んだ。そして、それは俺も同じだ。だから、契約結婚しないか?」

「……まあ、確かに結婚なんて興味ないですけど……」

 そこは否定できなかった。私は、恋愛というものが嫌いだった。

 昔、付き合っていた相手に、息が詰まるほど束縛されたことがある。誰と会ったのか、何をしていたのか、逐一報告を求められ、少しでも遅くなれば疑われた。最初は愛情の形の一つだと思ったけれど、気づけばそれはただの支配だった。

 逃げるように別れたあと、私は誓った。二度と、あんな風に人に縛られたくない、と。

 だから、結婚なんて考えたこともなかった。恋愛なんて、もううんざりだった。

「もちろん、形式的な夫婦だ。互いに干渉しないし、必要がなくなれば解消する」

 さらりと続ける九条課長の声は、いつもと変わらない冷静さを帯びていた。

 当然のことを言っているかのような口調。その無機質さに、私は小さく息を吐いた。

 結婚を『必要がなくなれば解消する』──そんな風に割り切れるものなのか? それとも、私が考えすぎなのだろうか。

 課長の言葉は理屈としては正しい。彼が言うように、互いに興味がないなら、形式だけの結婚というのも一つの選択肢なのかもしれない。

 だけど──。

「……私じゃなきゃ、ダメなんですか? どうして私なんですか?」

 自分でも驚くほど、かすれた声だった。

 課長は微動だにせず、じっと私を見つめる。

 長い沈黙。

 そして、静かに口を開いた。

「お前なら信用できるからな」

 低く、落ち着いた声。

 それが、やけに心臓に響いた――
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