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脳真珠
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晴れた師走の頃の話である。
その日はちょうど、私の遠い親族が、えらく重い病気を得て入院したというので、久々に足を伸ばして見舞いに出かけていた。
彼とは別に見舞いの義理があるほどの間柄ではないのだが、締切に追われる鬱屈とした空間からなんとか逃げ出したくて、わざわざ上野くんだりまで電車で行ってみたのである。
駅から大して歩かない、こぢんまりとした病院の玄関扉をくぐり、手紙に書いてあった部屋まで一直線に行こうとすると、ちょっと、と横から口を挟むものがあった。
見れば気の強そうな、口を尖らせた狐目の看護婦で、この病院では防犯に気を使っているのだとのたまう。
聞けば、見舞客が病室に入る前には、自分の本名と、住所などを紙切れに記入して看護婦に渡さなければいけないというのだが、思いがけず、これが奇妙な話を採集するきっかけとなったのである。
私は懐の万年筆でさらさらと、なんの考えもなしに「菊亭寒原」と記入した____実際それは本名ではないので、厳密にいえば規則違反なのだが、どうもその紙切れを見て、私と話したい者がいるという。
見舞いを終えて出てくると、どたばたと騒がしい音がしたかと思うと、壮年のたくましい医者が息を切らせて私の目の前に立っていた。
「菊亭寒原先生でいらっしゃいますか?実は私、数年来あなた様の愛読者をしていまして。ちょうど先程、『人皮商人』を拝読しましたので、ぜひご挨拶をと____。」
いかにも快活そうな笑顔を浮かべてそういう男は、豊かなカイゼル髭を口元に蓄えており、私とは正反対の陽気な人物であった。
とりあえず握手を済ませて聞いてみれば、どこかの雑誌で、私が怪奇話を探している、とぽろりとこぼしたのを見ていたらしい。
そしていつか、自分の秘蔵の奇譚を語ろうと思っていたところ、ちょうど私が折りよくやってきたので、診察を早めに切り上げてやってきたそうである。
どれほど遠い病室から駆けてきたのか、額には薄く汗の玉が浮いているほどであったが、立ち話もなんだと休憩室に連れていかれ、そこで二人そろって腰を下ろす。
「私は普段、もう少し大きな病院で診察をしておりまして。脳外科医という職業上、どうしても重要な手術を請け負うことが多いんですな。」
革張りのふかふかの椅子に腰掛けた医者は、落ち着いた様子でそう語る。
優秀な大学を優秀な成績で卒業した彼は、数年後無事に医師免許を取得し、私でも聞いたことがあるほどの大病院に就職したという。
そこで彼は脳の専門家らしく、てんかんや、脊髄にまつわる病気、そして卒中などの治療に当たっていたのだが、そこで時折奇妙なものを見ることがあるらしいのである。
「寒原先生は、開頭手術、というのをご存知でしょうか。マア簡単にご説明しますと、頭蓋骨に小さな穴を開けまして、それを切開し、直接脳をいじるという作業です。」
恥ずかしながら私はそのような手術を知らなかったが、小心者ゆえ、医者がうっかり脳を潰してしまったらどうするのだろう、などと考えを巡らせていた。
実際、医者のうっかりで不用意に脳を傷つけてしまうこともあるらしく、私の推測もあながち間違いではないそうである。
しかし当然だが、そのような手術は失敗が許されないため、相応の技術を持つ医者が招集され、複数人での厳重な体制のもとで行われることとなる。
「それで、どこかのお偉いさんが脳の腫瘍で倒れたらしく、開頭手術をすることになったのですが、四人の指導医たちとともに、私も手術の担当に選ばれたのです。」
病院長によって直々の指名を受けたのは、帝国病院で執刀の経験もある専門医、当の病院の外科部長、など錚々たる面子であった。
なぜその中に、当時まだ若年であった医者殿が名を連ねていたかというと、院長が有望な医者に経験を積ませたかったから、だそうである。
そして綿密な打ち合わせをした上で、いよいよ手術が始まることとなった。
医者殿が語ってくれた、彼らの手術がどれだけの達人技か、また、繊細なメスの捌きがいかに素晴らしいか、という話はここでは割愛させてもらうが、とにかく彼は全神経を集中させてその手術の様子を見ていたらしい。
それも当然、開頭手術などそうそう頻繁に行われるものではないから、医者としての後学のためにも、彼は目を血眼にして観察しなければいけなかったのである。
「まずいくつかの器具を使いまして、表面から穴を開け、頭蓋骨を切り、膜や弁などに少々の細工をします。すると脳が露出して直接見えるようになるのですが、そこで私には腫瘍のほかに、ひとつおかしなものが見えたのです。」
それは先輩の医師達が、己の持つ技術を惜しみなく注ぎ込み、腫瘍の切除を行っている瞬間であった。
肌色の肉と、その表面を走る紅色の太い血管____覗いた脳の一部、ちょうど腫瘍の真隣に、なにか黒い物体が埋め込まれていたのを見たという。
それは人間の脳という、ある種グロテスクな肉の塊の中に、小指の先ほどの虹色の球体が、まるで土に植えられた豆の種のようにすっぽりと収まっていたという。
あれは明らかに人為的なものでした、と医者殿は記憶が蘇ったのか、少々不快そうな表情をしながらつぶやいた。
「最初は別の腫瘍ではないか、という考えに至りました。しかし、どんな医学書にも、脳に虹色で丸い____数色に輝いて光沢を帯びた、ビイドロのごとき玉が発生するとは書いていませんでした。傍で見学していた私が気づいたのですから、執刀医たちはその存在には確実に気づいていたでしょうな。」
しかし、後からどんなに尋ねてみても、彼らは一様に口をつぐんで黙ってしまったという。
単なる好奇心ならやめておきなさい、と悪戯をした子供を叱るような口調で諭してくる上長もいたというから、相当のことである。
結局、当時手術室にいた権威ある名医たちは、明らかに目立っていたその虹色の珠についてなにも教えてはくれなかったそうだ。
それからは、その正体を知ることを諦めた、若かった医者殿も順調に経験を積み、数多の修羅場や難題をくぐり抜けること早二十数年。
そしていま現在の壮年の医者殿へ至り、先日某病院で外科副部長の地位を拝命するほどに成長したらしいのだが、この話はまだここで終わらない。
「この歳まで医者を続けておりますと、今度は執刀医として開頭手術に臨むことも、何回かあるわけです。それで患者の脳を開いてみると、ごく稀に、十に一程度の確率で、その小さな球体が脳の中に見つかるのです。」
しかも、その球体は人によって全く同じという訳ではないそうで、ある物は漆黒、ある物は例の患者のように荘厳な煌めきを放っているのだという。
「手術をするうちに気づいたのですが、老年の患者の脳に見える珠は、虹色に輝いていることがほとんどなのです。逆に若年の患者はもっとくすんだ黒色、灰色に近く、中年は少し光っているものがあるという程度ですな。」
つまり、歳を追うごとに脳の珠の輝きが増しているというのであった。
医者殿が見た中でもっとも美しい珠というのは、御歳八十数歳になるようなご老齢の男性の脳に埋まっていたもので、最初はよもや宝石ではないかと疑ったという。
手術室の無粋な蛍光灯すらも美しく反射し、緑、赤、黄色、などをプリズム状にまとめ合わせて滑らかに光り輝く。
脳という人間の意識の根幹を司る器官の中に、不自然に埋め込まれていなければ、ご婦人の装飾品に使われてもおかしくない程の美麗であった、と医者殿は回想する。
そこまで聞き終えて、私はううむ、と思わず唸った。
時折私のもとに訪れては、つまらぬ妖怪物語や、ほとんど小説の脚本のような奇譚を、実体験だと偽って語ろうとする者がある。
しかし医者殿は、先程も述べた通り高い社会的地位についており、これは医者ならではの専門的な要素を混じえた会話である。
脳に発生する、世にも美しい不思議な球体。
これは良い小説の原石だぞ、と、ほくほく顔で家に持ち帰った私の顔面が引っぱたかれたのは、翌日友人と鮮魚を食しに出かけたときのことであった。
その店は瀬戸内から輸送してきたという、質のいい刺身や貝類を惜しみなく提供することで有名であった。
そこで私は、当店自慢、と大きく看板に書かれていた生牡蠣をたっぷりと注文し、早々と運ばれてきたそれに舌鼓を打っていたのである。
味は言うまでもなく、私の舌の上に乗った太鼓が鳴り響いて近所迷惑になるほどのものであった。
「最近は仕事が忙しくて、なかなか寒原くんとは食事に来れなかったから____久しぶりに旧交を温められて嬉しいよ。」
「イヤア、本当にお久しぶりですな、このような店まで紹介いただいてしまって。先程から一心不乱に殻を剥いておりますが、天国にも登るような心地です。」
そう世辞ぬきの賞賛を友人に送ると、彼ははっはっは、と大きく笑い、皿に積み上がった汚れた緑色の貝殻にちらりと目を向けた。
「知ってるかね、牡蠣にも真珠というものは生成されるそうだよ。」
「ヘエ、そうなのですか。てっきり阿古屋(アコヤ)貝でしか取れないものかと思っておりました。」
「いやいや、普通はそうさ。まずは貝の内部に、核となる黒い物体を入れて、それが貝の分泌液に覆われて、初めて美しい真珠というのものができるのだからね。だから、牡蠣に真珠の核となる物体が偶然入り込むなんてのは、ほとんど奇跡のようなものさ。」
なるほど、と適当な相槌をうって、手早く新たな牡蠣を口に放り込もうとしたところで、私はふと、先日の話を思い出してしまったのである。
いまの友人の説明と、昨日の医者殿の奇譚には、どこか共通している点が多いように見えるのだ。
脳を貝に見立ててみればわかりやすいだろうか。
若者の脳からは黒い物体____球体が見つかり、それが中年になると少しの輝きを放ち始め、老人にまで成長すると素晴らしい宝石のような姿に変化する。
これはまるで、人間の脳で真珠が作られる過程のようではないか。
横一文字に切れ込みを入れられた脳が、貝が呼吸をするようにぱくぱくと傷口を開閉させるのを想像したところで、私の手がまた止まる。
それは自らが思い浮かべたおかしな想像に閉口したのではなく、もし人間の脳で真珠のようなものが作られているとして、それは一体誰が核となる物質を入れているのかということである。
先程友人が言っていた通り、天然の真珠というのは、異物が入り込むなどして核となるものが生まれ、偶然真珠ができるというものである。
となれば人間の脳で真珠が偶然にできる確率というのは、考えなくても分かるが、ほとんどありえないことであり、外部から人為的に核を埋め込まれないと製造されないことになる。
しかしそれは、本人が気づかないうちに開頭手術を行い、脳の一部に核を埋め込み、そして再び医者がその痕跡に気づかないほど綺麗に皮膚を縫合しないと、なしえない技なのである。
そんな神業を行えるものが、人間の医者の中にどれだけいるであろうか。
私は都会の雑踏の中で、忙しなく行き交う人々の中の何人に、真珠が埋め込まれているのかと思案した。
それはまるで、真珠養殖場の中で人工の波に揉まれ、無意識に揺蕩う阿古屋貝の姿と奇しくも似ているのであった。
地球の外からやってきた何者かか、はたまた途方もしれない目的をもった覆面の集団か。
私は手元の貝殻から、煌めく真珠がぽろりと転がり出てこないことを祈りながら、静かに己の食事を再開した。
____菊亭寒原「脳真珠」より
(文中の表現は当時のものを採用している。)
その日はちょうど、私の遠い親族が、えらく重い病気を得て入院したというので、久々に足を伸ばして見舞いに出かけていた。
彼とは別に見舞いの義理があるほどの間柄ではないのだが、締切に追われる鬱屈とした空間からなんとか逃げ出したくて、わざわざ上野くんだりまで電車で行ってみたのである。
駅から大して歩かない、こぢんまりとした病院の玄関扉をくぐり、手紙に書いてあった部屋まで一直線に行こうとすると、ちょっと、と横から口を挟むものがあった。
見れば気の強そうな、口を尖らせた狐目の看護婦で、この病院では防犯に気を使っているのだとのたまう。
聞けば、見舞客が病室に入る前には、自分の本名と、住所などを紙切れに記入して看護婦に渡さなければいけないというのだが、思いがけず、これが奇妙な話を採集するきっかけとなったのである。
私は懐の万年筆でさらさらと、なんの考えもなしに「菊亭寒原」と記入した____実際それは本名ではないので、厳密にいえば規則違反なのだが、どうもその紙切れを見て、私と話したい者がいるという。
見舞いを終えて出てくると、どたばたと騒がしい音がしたかと思うと、壮年のたくましい医者が息を切らせて私の目の前に立っていた。
「菊亭寒原先生でいらっしゃいますか?実は私、数年来あなた様の愛読者をしていまして。ちょうど先程、『人皮商人』を拝読しましたので、ぜひご挨拶をと____。」
いかにも快活そうな笑顔を浮かべてそういう男は、豊かなカイゼル髭を口元に蓄えており、私とは正反対の陽気な人物であった。
とりあえず握手を済ませて聞いてみれば、どこかの雑誌で、私が怪奇話を探している、とぽろりとこぼしたのを見ていたらしい。
そしていつか、自分の秘蔵の奇譚を語ろうと思っていたところ、ちょうど私が折りよくやってきたので、診察を早めに切り上げてやってきたそうである。
どれほど遠い病室から駆けてきたのか、額には薄く汗の玉が浮いているほどであったが、立ち話もなんだと休憩室に連れていかれ、そこで二人そろって腰を下ろす。
「私は普段、もう少し大きな病院で診察をしておりまして。脳外科医という職業上、どうしても重要な手術を請け負うことが多いんですな。」
革張りのふかふかの椅子に腰掛けた医者は、落ち着いた様子でそう語る。
優秀な大学を優秀な成績で卒業した彼は、数年後無事に医師免許を取得し、私でも聞いたことがあるほどの大病院に就職したという。
そこで彼は脳の専門家らしく、てんかんや、脊髄にまつわる病気、そして卒中などの治療に当たっていたのだが、そこで時折奇妙なものを見ることがあるらしいのである。
「寒原先生は、開頭手術、というのをご存知でしょうか。マア簡単にご説明しますと、頭蓋骨に小さな穴を開けまして、それを切開し、直接脳をいじるという作業です。」
恥ずかしながら私はそのような手術を知らなかったが、小心者ゆえ、医者がうっかり脳を潰してしまったらどうするのだろう、などと考えを巡らせていた。
実際、医者のうっかりで不用意に脳を傷つけてしまうこともあるらしく、私の推測もあながち間違いではないそうである。
しかし当然だが、そのような手術は失敗が許されないため、相応の技術を持つ医者が招集され、複数人での厳重な体制のもとで行われることとなる。
「それで、どこかのお偉いさんが脳の腫瘍で倒れたらしく、開頭手術をすることになったのですが、四人の指導医たちとともに、私も手術の担当に選ばれたのです。」
病院長によって直々の指名を受けたのは、帝国病院で執刀の経験もある専門医、当の病院の外科部長、など錚々たる面子であった。
なぜその中に、当時まだ若年であった医者殿が名を連ねていたかというと、院長が有望な医者に経験を積ませたかったから、だそうである。
そして綿密な打ち合わせをした上で、いよいよ手術が始まることとなった。
医者殿が語ってくれた、彼らの手術がどれだけの達人技か、また、繊細なメスの捌きがいかに素晴らしいか、という話はここでは割愛させてもらうが、とにかく彼は全神経を集中させてその手術の様子を見ていたらしい。
それも当然、開頭手術などそうそう頻繁に行われるものではないから、医者としての後学のためにも、彼は目を血眼にして観察しなければいけなかったのである。
「まずいくつかの器具を使いまして、表面から穴を開け、頭蓋骨を切り、膜や弁などに少々の細工をします。すると脳が露出して直接見えるようになるのですが、そこで私には腫瘍のほかに、ひとつおかしなものが見えたのです。」
それは先輩の医師達が、己の持つ技術を惜しみなく注ぎ込み、腫瘍の切除を行っている瞬間であった。
肌色の肉と、その表面を走る紅色の太い血管____覗いた脳の一部、ちょうど腫瘍の真隣に、なにか黒い物体が埋め込まれていたのを見たという。
それは人間の脳という、ある種グロテスクな肉の塊の中に、小指の先ほどの虹色の球体が、まるで土に植えられた豆の種のようにすっぽりと収まっていたという。
あれは明らかに人為的なものでした、と医者殿は記憶が蘇ったのか、少々不快そうな表情をしながらつぶやいた。
「最初は別の腫瘍ではないか、という考えに至りました。しかし、どんな医学書にも、脳に虹色で丸い____数色に輝いて光沢を帯びた、ビイドロのごとき玉が発生するとは書いていませんでした。傍で見学していた私が気づいたのですから、執刀医たちはその存在には確実に気づいていたでしょうな。」
しかし、後からどんなに尋ねてみても、彼らは一様に口をつぐんで黙ってしまったという。
単なる好奇心ならやめておきなさい、と悪戯をした子供を叱るような口調で諭してくる上長もいたというから、相当のことである。
結局、当時手術室にいた権威ある名医たちは、明らかに目立っていたその虹色の珠についてなにも教えてはくれなかったそうだ。
それからは、その正体を知ることを諦めた、若かった医者殿も順調に経験を積み、数多の修羅場や難題をくぐり抜けること早二十数年。
そしていま現在の壮年の医者殿へ至り、先日某病院で外科副部長の地位を拝命するほどに成長したらしいのだが、この話はまだここで終わらない。
「この歳まで医者を続けておりますと、今度は執刀医として開頭手術に臨むことも、何回かあるわけです。それで患者の脳を開いてみると、ごく稀に、十に一程度の確率で、その小さな球体が脳の中に見つかるのです。」
しかも、その球体は人によって全く同じという訳ではないそうで、ある物は漆黒、ある物は例の患者のように荘厳な煌めきを放っているのだという。
「手術をするうちに気づいたのですが、老年の患者の脳に見える珠は、虹色に輝いていることがほとんどなのです。逆に若年の患者はもっとくすんだ黒色、灰色に近く、中年は少し光っているものがあるという程度ですな。」
つまり、歳を追うごとに脳の珠の輝きが増しているというのであった。
医者殿が見た中でもっとも美しい珠というのは、御歳八十数歳になるようなご老齢の男性の脳に埋まっていたもので、最初はよもや宝石ではないかと疑ったという。
手術室の無粋な蛍光灯すらも美しく反射し、緑、赤、黄色、などをプリズム状にまとめ合わせて滑らかに光り輝く。
脳という人間の意識の根幹を司る器官の中に、不自然に埋め込まれていなければ、ご婦人の装飾品に使われてもおかしくない程の美麗であった、と医者殿は回想する。
そこまで聞き終えて、私はううむ、と思わず唸った。
時折私のもとに訪れては、つまらぬ妖怪物語や、ほとんど小説の脚本のような奇譚を、実体験だと偽って語ろうとする者がある。
しかし医者殿は、先程も述べた通り高い社会的地位についており、これは医者ならではの専門的な要素を混じえた会話である。
脳に発生する、世にも美しい不思議な球体。
これは良い小説の原石だぞ、と、ほくほく顔で家に持ち帰った私の顔面が引っぱたかれたのは、翌日友人と鮮魚を食しに出かけたときのことであった。
その店は瀬戸内から輸送してきたという、質のいい刺身や貝類を惜しみなく提供することで有名であった。
そこで私は、当店自慢、と大きく看板に書かれていた生牡蠣をたっぷりと注文し、早々と運ばれてきたそれに舌鼓を打っていたのである。
味は言うまでもなく、私の舌の上に乗った太鼓が鳴り響いて近所迷惑になるほどのものであった。
「最近は仕事が忙しくて、なかなか寒原くんとは食事に来れなかったから____久しぶりに旧交を温められて嬉しいよ。」
「イヤア、本当にお久しぶりですな、このような店まで紹介いただいてしまって。先程から一心不乱に殻を剥いておりますが、天国にも登るような心地です。」
そう世辞ぬきの賞賛を友人に送ると、彼ははっはっは、と大きく笑い、皿に積み上がった汚れた緑色の貝殻にちらりと目を向けた。
「知ってるかね、牡蠣にも真珠というものは生成されるそうだよ。」
「ヘエ、そうなのですか。てっきり阿古屋(アコヤ)貝でしか取れないものかと思っておりました。」
「いやいや、普通はそうさ。まずは貝の内部に、核となる黒い物体を入れて、それが貝の分泌液に覆われて、初めて美しい真珠というのものができるのだからね。だから、牡蠣に真珠の核となる物体が偶然入り込むなんてのは、ほとんど奇跡のようなものさ。」
なるほど、と適当な相槌をうって、手早く新たな牡蠣を口に放り込もうとしたところで、私はふと、先日の話を思い出してしまったのである。
いまの友人の説明と、昨日の医者殿の奇譚には、どこか共通している点が多いように見えるのだ。
脳を貝に見立ててみればわかりやすいだろうか。
若者の脳からは黒い物体____球体が見つかり、それが中年になると少しの輝きを放ち始め、老人にまで成長すると素晴らしい宝石のような姿に変化する。
これはまるで、人間の脳で真珠が作られる過程のようではないか。
横一文字に切れ込みを入れられた脳が、貝が呼吸をするようにぱくぱくと傷口を開閉させるのを想像したところで、私の手がまた止まる。
それは自らが思い浮かべたおかしな想像に閉口したのではなく、もし人間の脳で真珠のようなものが作られているとして、それは一体誰が核となる物質を入れているのかということである。
先程友人が言っていた通り、天然の真珠というのは、異物が入り込むなどして核となるものが生まれ、偶然真珠ができるというものである。
となれば人間の脳で真珠が偶然にできる確率というのは、考えなくても分かるが、ほとんどありえないことであり、外部から人為的に核を埋め込まれないと製造されないことになる。
しかしそれは、本人が気づかないうちに開頭手術を行い、脳の一部に核を埋め込み、そして再び医者がその痕跡に気づかないほど綺麗に皮膚を縫合しないと、なしえない技なのである。
そんな神業を行えるものが、人間の医者の中にどれだけいるであろうか。
私は都会の雑踏の中で、忙しなく行き交う人々の中の何人に、真珠が埋め込まれているのかと思案した。
それはまるで、真珠養殖場の中で人工の波に揉まれ、無意識に揺蕩う阿古屋貝の姿と奇しくも似ているのであった。
地球の外からやってきた何者かか、はたまた途方もしれない目的をもった覆面の集団か。
私は手元の貝殻から、煌めく真珠がぽろりと転がり出てこないことを祈りながら、静かに己の食事を再開した。
____菊亭寒原「脳真珠」より
(文中の表現は当時のものを採用している。)
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