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第十五章 黒い薔薇にキスを
お金持ちの事情
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テーブルの上に広げられたドレスは、長そでで、胸のところに緑の宝石があった。水色のロングドレスで足元は完全に隠れ、裾はかなり広がっていた。そこら中にリボンや花のコサージュがつけられていて、どう見ても十代の夢見がちな乙女が舞踏会で着るものだった。
「セリーヌ、さすがにそれは」
ドレス専門店からの帰り、ルチアの窯に向かうまでの間、嬉しそうにしているセリーヌに、クロヴィスが話しかけた。セベルとアースは、哀れなものを見る目でクロヴィスを見ている。
「クロヴィスには絶対似合うわ。安心して、店主のおばさまの見立ては確かよ」
大きくて重いドレスはクロヴィスが持たされていた。ため息をつきながら歩くクロヴィスの周りを、女装している男たちが囲んで歩く。
その中で最も楽しそうにしているのは、エリクだった。
「古いお店だったね! あのドレスはクロヴィスに似合うよ。かわいいと思う」
エリクは、自分が変身できていることが楽しかった。そして、ほかの男性がいつもと違う姿になっていることも楽しかった。
しかし、そのエリクの言葉はクロヴィスの慰めにはならなかった。
ルチアの窯に着くと、女性陣がそこに待っていた。
「おかえり!」
リゼットが真っ先に手を振ってきた。女性たちは男性たちほど華やかではないが、それぞれの個性にあった格好をしていた。
「ジャンヌ、なんだそれ」
クロヴィスはジャンヌを見てびっくりした。黒の燕尾服を着ている。赤い傘を持ち、きれいな化粧をして、皆の前に現れた。
「クロヴィスのドレスとジャンヌの燕尾服なら、お似合いのカップルね」
セリーヌはクロヴィスからドレスの入った袋を受け取り、大きく広げて出して見せた。
みんなから、歓声が上がった。
「素敵だわ、クロヴィス!」
リゼットがなぜかガッツポーズをとった。そのリゼットは海賊の格好をしている。
「海賊リゼットにさらわれるのなら、エリクがいいわね」
セリーヌがくすくすと笑う。エリクは何が何だかわからなかったが、皆が楽しそうにしているので笑っていた。
セリーヌは皆にドレスをお披露目した後、クロヴィスに合わせると言って女主人に許可を取り、店の奥に行ってしまった。
すると、今度は男性陣と女性陣の衣装を披露しあう段になった。
ジャンヌはいずこかの紳士の男装、リゼットは海賊の衣装に作り物のサーベルを持っていた。ナリアはマジシャンの格好をして、頭にハトのぬいぐるみを置いてニコニコしていた。エーテリエは、古代ローマ時代の貴婦人の衣装を売っている、怪しい店で買ってきたチュニカを身にまとっていた。みんなよく似合っていたし、互いの衣装を称賛しあっていた。
「アースさまの素敵なこと!」
リゼットがそう言いながらうっとりしていると、ナリアがセベルをつついた。
「筋肉が丸見えだわ。でも、よく似合っている。きれいよ」
そう言われて、セベルは照れた。
「ナリアが男装すると、凛々しいな」
セベルとナリアは、そう言いあって愛を確かめ合っていた。
「これなら、セリーヌの衣装も楽しみだね」
ジャンヌは楽しそうだ。エリクほどではないが、ジャンヌは今、とても楽しかった。クロヴィスとの絆がより深くなった嬉しさもあったが、今の、皆がふざけあっているこの時がとても貴重に思えたからだ。
そうしているうちに、セリーヌとクロヴィスが出てきた。
クロヴィスの着ているドレスは乙女めいたものだったが、クロヴィスによく似合っていた。裾の広がった水色の乙女ドレスに白いハイヒール、白いレースの日傘。全身から女の子の匂いをぷんぷんさせていた。クロヴィスの長い黒髪は一本の三つ編みにして後ろに垂らしていた。
「きれい!」
クロヴィスは半泣き状態で、心の中で、アースやエリクに助けを求めていた。どうしてこんなことになったのか。やはり発端はナリアだったのではないか。
クロヴィスが半分泣いて佇んでいると、後ろからセリーヌが出てきた。
「ものすごく東の国に、こういう人がいるみたいで。でも着付けが難しくて、覚えるのがやっとだったわ」
セリーヌは、その長い金の髪をポニーテールにして、長い刀を脇に刺して、藍色の着物を着ていた。口に楊枝をくわえている。
「武士は食わねど高楊枝、と言うみたいだわ」
そこにいた全員が、あんぐりと口を開けた。
「侍か。そんな着物をどこで手に入れたんだ?」
アースが聞きなれない単語を口にしている。皆に注目されると、アースは恥ずかしそうに下を向いた。今は女装をしている。むやみにしゃべると注目の的になる。
「セリーヌも素敵だわ。サムライっていうのね。腰に差しているのは?」
まだリゼットはアースに見とれている。アースが刀だと教えてやると、皆がセリーヌに注目した。
「もう、あまりじっくり見ないで。着付けがうまくいっているかどうか分からないの」
すると、アースがセリーヌのほうに歩いて行って、セリーヌとクロヴィス、両方を見た。
「クロヴィス、これは痛いだろう」
片膝をついてクロヴィスの履いているハイヒールに触れると、アースは少しの間何も言わずにクロヴィスの足に触れていた。
「痛いのは痛いが、あれ?」
クロヴィスは、不思議そうな顔をした。
「痛くないぞ。どういうことだ?」
クロヴィスが自分の足を見ていると、アースがクロヴィスのほうを見て笑い、立ち上がった。
「このまま履いていると足を痛める。靴をお前の足の形に合わせ、傷を癒しておいた」
「錬術は、そんなこともできるのか」
アースは、頷いた。そして、セリーヌのところに行くと、少しだけ、刀の位置や襟まわり、袴を整えた。
「これでいい。それで、いつこの格好をするんだ? 今日の今日というわけではあるまい」
アースが皆のほうを向いて問いかけると、ナリアが答えた。
「店主さんに伺ったのですが」
ナリアが、そう言って店主の女性を見る。すると、彼女はにこりと可愛らしい笑顔を見せた。
「私の名前はマリア。皆さん、知らないと不便でしょ? お金持ちの旦那さんは明後日、会ってくれるそうよ。皆さんがどんなことをして彼の心を開くのか、ぜひ見てみたいわ」
心を、開く。
みんなが、その言葉にひっかかりを感じた。その金持ちは何かを抱えているのだろうか。
リゼットやクロヴィスたちがそのことをマリアに聞いても、彼女は何も答えてはくれなかった。ただ、少しだけ寂しそうな顔をしていた。
その日、一行はマリアの家に招待され、泊まることになった。
翌日、昼ご飯をみんなで食べるとき、キッチンで料理を用意しながら、マリアが例の金持ちのことを教えてくれた。
「お金持ちの旦那さんは、名前をレナートと言うの。経済的には恵まれて生まれ育ったけれど、心は満たされないまま家を継いだ。彼は、小さいころになりたいものがあったの。彼は人を助ける医者にあこがれていたんだけど、そのために勉強することを彼の父親も咎めなかった。でも、彼の実のお母さんだけは違っていたの。彼女はどうしても、レナートに家を継いでほしかった。古くから続く商人の家を。だから、あらゆる手を使ってレナートの邪魔をしたわ。でも、そんなレナートを助けてくれる人が父親以外にもいたの。それが、その時屋敷のお手伝いをしていた女性だった。彼女は母親の目を盗んでレナートに医学の勉強をさせ、母親が彼に対して怒るときには庇ってくれた。やがてそんなお手伝いさんの姿を見ていたお父さんが彼女に恋をした。そして、レナートは二人のお母さんを持つことになった。でも、実のお母さんはそれが気に入らないから、レナートを庇っているお母さんをいじめにいじめた。でも、したたかに耐えるものだから、諦めて屋敷を出たの。でも、彼女の嫌がらせはそのことでエスカレートした。そのせいでレナートは医者の道をあきらめて商家を継ぐことになった。この町にあるいい大学を出て、経済学の勉強もして。そして、彼の父親が亡くなり、去年、優しかったお母さんも亡くされた。それから、彼は外界のすべてのものから心を閉ざし、娯楽にふけるようになってしまった。今回皆さんにいろいろ頼んだのは、彼の姿が見ていられなかったから」
マリアの話は長かった。しかし、レナートが心を閉ざした理由が何となく皆にはわかったので、誰一人として退屈に感じる人間はいなかった。
「心が痛む話だわ。確かにどうにかしてあげたくなる」
セリーヌは、レナートに自分を重ねていた。自分のやりたいこともやれず嫌がらせばかり受ける。やっと得られた優しい母親もほどなくして死んでしまった。両親の顔を知らないセリーヌにはうらやましい反面、哀れにも思えた。
「お父さんとお母さんを持ってしまったから、かえって悲しい思いをしたのね」
すると、リゼットが腕組みをして考えながらしゃべり始めた。
「レナートは不幸だったの? 幸せだったの? 今の彼は幸せなの、不幸なの? 私にはわからないわ。きっと、今がすごく幸せな私たちには考えたってわからない」
その言葉に誰も何も言わなくなったが、アースとナリアだけは違った。何も言わないのは他と同じだったが、表情が違った。
「リゼット、彼が今どうなっているのか、それは明日、お屋敷に行って直接会ってみないと分かりません。私たちにできることは精いっぱいいたしましょう。レナートの事情も大切ですが、船を借りることも大切です」
ナリアの言葉に、マリアは涙を流した。
「そうお考えなら、ごもっともでございます、ナリアさま。聡明でいらっしゃる」
皆は、そんなマリアの姿を見て、余計に、レナートのことを何とかしなければならないと感じるようになった。エリクやジャンヌは例の実母が許せなかったし、クロヴィスやセリーヌはレナートに感情移入していた。リゼットは悲しくなっていた。
「まあ、まだ今日一日ある」
アースは、暗い顔をしている皆をなだめるように、低い声で言った。
「この一日で冷静になっておけ」
アースの言うことはもっともなことだった。ここで冷静になっておかなければ、解決するものも解決しない。詳しい事情を何も知らない外野が騒ぎ立てたところで、レナートの心には響かない。
「でも、まだ一日あるんでしょ?」
ジャンヌが、口に食べ物を含んだまま、皆の方向にフォークを向ける。リゼットが咳払いをしたので、はいはいと言いながらフォークを下げた。
「ジャンヌはお行儀が悪すぎるわ。でもまあ、確かにあと一日はあるわね。ここで何か作戦を立てるのもいいかもしれないわ。お医者様もいらっしゃることだし」
リゼットの提案に、エリクとジャンヌは首を縦に振った。しかし、ナリアやアースは乗り気ではなかった。
「リゼット、わたくしたちはまだ、レナートのことをよく知りません。それでは作戦の立てようもないのです」
ナリアの言葉に、リゼットは黙ってしまった。
「感情論で何とかなる問題でもあるまい。よく考えることだ」
アースは、すでに何かを考えていた。皆にはこう言ったが、彼には彼なりに何とかしてやりたいという心があるのだろう。
ナリアとアースによって出足をくじかれてしまったリゼットたちは、今日これからの半日をどう過ごしたらいいのか迷う羽目になった。レナートにはなんとかして立ち直ってほしいが、どうしたらいいのかは分からない。かといって、この問題を棚上げして遊んだり呆けたりしている気分にもなれない。
「ねえ、レナートさんは本当に助けてほしいって思っているのかな」
静寂の中、エリクが小さい声で話した。その声は小さかったが、確実に、そこにいた人間すべてに聞こえていた。
「レナートさんは医者にはなれなかったけど、優しいお父さんとお母さんがいて、いじわるなお母さんは出て行っていないんでしょ? お父さんとお母さんは死んじゃったけど、本当にそれがレナートさんの心を閉ざした原因なのかな」
エリクは、そう言って皆を見渡した。そこにいた全員が目を丸くしている。
「そう言えばそうだ。俺なら医学を捨てた時点で実母を恨み、心を閉ざしている」
クロヴィスが、少し考えてエリクを見た。
「実母を嫌っているのなら、試験をクリアしなければ入れない大学で懸命に経済学など学ばないし、家の跡を継いで頑張って栄えさせることもない。レナートは本当に不幸なのか?」
その話を聞いて、マリアが頭を抱えて考え込んだ。
「自信がなくなってきたわ。レナートがこうなったいきさつはなんとなく不幸に思えるけど、確かに彼、いい母親にも恵まれたし、嫌な奴は追い出したし。これだけ周りで話題になるくらいだから、実のお母さんも嫌がらせなんてできなくなっていたでしょうし。私たちが悩んだところで、何が何だか分からないんじゃ、どうしようもないわね」
ナリアとアース以外の人間が、マリアと同じように頭を抱えた。
どうしたらいいのか分からない。まだ、何か暗い問題でも抱えてくれていてくれたら、そのほうが突っ込む隙がありそうなのに。
だから、ナリアとアースがこういう答えを出した時、そこにいる皆が全員、納得するしかなかった。
「レナートを観客だと思って、道化を演じるしかない」
「私たちが今考えるべきことは、彼の家庭事情ではなく、彼を喜ばせるための演劇のシナリオです」
これには、全員が従うしかなかった。誰一人として反論するものもいない中、ナリアが珍しくため息をついた。
「わたくしが脚本を書きましょう」
すると、全員がナリアを見た。クロヴィスがなんとか声を絞り出して尋ねる。
「このメンツで、例の仮装をした状態でのシナリオなのか?」
ナリアは、笑顔で頷いた。
「もちろんです。せっかく、みなさんが恥をかいてくださっているのですから、無駄にはしません」
ナリアが笑顔になったはいいが、男性は四人とも、黙ってしまった。
「わたくしはシナリオをあと一時間で仕上げます。それから練習して明日に間に合わせましょう。安心してください。そんなに難しい劇ではありませんから」
「あ、明日までに劇をやるんですか?」
ジャンヌが口をあんぐりと開ける。ナリアは屈託のない笑顔で答えた。
「信じていますよ、みなさん」
「セリーヌ、さすがにそれは」
ドレス専門店からの帰り、ルチアの窯に向かうまでの間、嬉しそうにしているセリーヌに、クロヴィスが話しかけた。セベルとアースは、哀れなものを見る目でクロヴィスを見ている。
「クロヴィスには絶対似合うわ。安心して、店主のおばさまの見立ては確かよ」
大きくて重いドレスはクロヴィスが持たされていた。ため息をつきながら歩くクロヴィスの周りを、女装している男たちが囲んで歩く。
その中で最も楽しそうにしているのは、エリクだった。
「古いお店だったね! あのドレスはクロヴィスに似合うよ。かわいいと思う」
エリクは、自分が変身できていることが楽しかった。そして、ほかの男性がいつもと違う姿になっていることも楽しかった。
しかし、そのエリクの言葉はクロヴィスの慰めにはならなかった。
ルチアの窯に着くと、女性陣がそこに待っていた。
「おかえり!」
リゼットが真っ先に手を振ってきた。女性たちは男性たちほど華やかではないが、それぞれの個性にあった格好をしていた。
「ジャンヌ、なんだそれ」
クロヴィスはジャンヌを見てびっくりした。黒の燕尾服を着ている。赤い傘を持ち、きれいな化粧をして、皆の前に現れた。
「クロヴィスのドレスとジャンヌの燕尾服なら、お似合いのカップルね」
セリーヌはクロヴィスからドレスの入った袋を受け取り、大きく広げて出して見せた。
みんなから、歓声が上がった。
「素敵だわ、クロヴィス!」
リゼットがなぜかガッツポーズをとった。そのリゼットは海賊の格好をしている。
「海賊リゼットにさらわれるのなら、エリクがいいわね」
セリーヌがくすくすと笑う。エリクは何が何だかわからなかったが、皆が楽しそうにしているので笑っていた。
セリーヌは皆にドレスをお披露目した後、クロヴィスに合わせると言って女主人に許可を取り、店の奥に行ってしまった。
すると、今度は男性陣と女性陣の衣装を披露しあう段になった。
ジャンヌはいずこかの紳士の男装、リゼットは海賊の衣装に作り物のサーベルを持っていた。ナリアはマジシャンの格好をして、頭にハトのぬいぐるみを置いてニコニコしていた。エーテリエは、古代ローマ時代の貴婦人の衣装を売っている、怪しい店で買ってきたチュニカを身にまとっていた。みんなよく似合っていたし、互いの衣装を称賛しあっていた。
「アースさまの素敵なこと!」
リゼットがそう言いながらうっとりしていると、ナリアがセベルをつついた。
「筋肉が丸見えだわ。でも、よく似合っている。きれいよ」
そう言われて、セベルは照れた。
「ナリアが男装すると、凛々しいな」
セベルとナリアは、そう言いあって愛を確かめ合っていた。
「これなら、セリーヌの衣装も楽しみだね」
ジャンヌは楽しそうだ。エリクほどではないが、ジャンヌは今、とても楽しかった。クロヴィスとの絆がより深くなった嬉しさもあったが、今の、皆がふざけあっているこの時がとても貴重に思えたからだ。
そうしているうちに、セリーヌとクロヴィスが出てきた。
クロヴィスの着ているドレスは乙女めいたものだったが、クロヴィスによく似合っていた。裾の広がった水色の乙女ドレスに白いハイヒール、白いレースの日傘。全身から女の子の匂いをぷんぷんさせていた。クロヴィスの長い黒髪は一本の三つ編みにして後ろに垂らしていた。
「きれい!」
クロヴィスは半泣き状態で、心の中で、アースやエリクに助けを求めていた。どうしてこんなことになったのか。やはり発端はナリアだったのではないか。
クロヴィスが半分泣いて佇んでいると、後ろからセリーヌが出てきた。
「ものすごく東の国に、こういう人がいるみたいで。でも着付けが難しくて、覚えるのがやっとだったわ」
セリーヌは、その長い金の髪をポニーテールにして、長い刀を脇に刺して、藍色の着物を着ていた。口に楊枝をくわえている。
「武士は食わねど高楊枝、と言うみたいだわ」
そこにいた全員が、あんぐりと口を開けた。
「侍か。そんな着物をどこで手に入れたんだ?」
アースが聞きなれない単語を口にしている。皆に注目されると、アースは恥ずかしそうに下を向いた。今は女装をしている。むやみにしゃべると注目の的になる。
「セリーヌも素敵だわ。サムライっていうのね。腰に差しているのは?」
まだリゼットはアースに見とれている。アースが刀だと教えてやると、皆がセリーヌに注目した。
「もう、あまりじっくり見ないで。着付けがうまくいっているかどうか分からないの」
すると、アースがセリーヌのほうに歩いて行って、セリーヌとクロヴィス、両方を見た。
「クロヴィス、これは痛いだろう」
片膝をついてクロヴィスの履いているハイヒールに触れると、アースは少しの間何も言わずにクロヴィスの足に触れていた。
「痛いのは痛いが、あれ?」
クロヴィスは、不思議そうな顔をした。
「痛くないぞ。どういうことだ?」
クロヴィスが自分の足を見ていると、アースがクロヴィスのほうを見て笑い、立ち上がった。
「このまま履いていると足を痛める。靴をお前の足の形に合わせ、傷を癒しておいた」
「錬術は、そんなこともできるのか」
アースは、頷いた。そして、セリーヌのところに行くと、少しだけ、刀の位置や襟まわり、袴を整えた。
「これでいい。それで、いつこの格好をするんだ? 今日の今日というわけではあるまい」
アースが皆のほうを向いて問いかけると、ナリアが答えた。
「店主さんに伺ったのですが」
ナリアが、そう言って店主の女性を見る。すると、彼女はにこりと可愛らしい笑顔を見せた。
「私の名前はマリア。皆さん、知らないと不便でしょ? お金持ちの旦那さんは明後日、会ってくれるそうよ。皆さんがどんなことをして彼の心を開くのか、ぜひ見てみたいわ」
心を、開く。
みんなが、その言葉にひっかかりを感じた。その金持ちは何かを抱えているのだろうか。
リゼットやクロヴィスたちがそのことをマリアに聞いても、彼女は何も答えてはくれなかった。ただ、少しだけ寂しそうな顔をしていた。
その日、一行はマリアの家に招待され、泊まることになった。
翌日、昼ご飯をみんなで食べるとき、キッチンで料理を用意しながら、マリアが例の金持ちのことを教えてくれた。
「お金持ちの旦那さんは、名前をレナートと言うの。経済的には恵まれて生まれ育ったけれど、心は満たされないまま家を継いだ。彼は、小さいころになりたいものがあったの。彼は人を助ける医者にあこがれていたんだけど、そのために勉強することを彼の父親も咎めなかった。でも、彼の実のお母さんだけは違っていたの。彼女はどうしても、レナートに家を継いでほしかった。古くから続く商人の家を。だから、あらゆる手を使ってレナートの邪魔をしたわ。でも、そんなレナートを助けてくれる人が父親以外にもいたの。それが、その時屋敷のお手伝いをしていた女性だった。彼女は母親の目を盗んでレナートに医学の勉強をさせ、母親が彼に対して怒るときには庇ってくれた。やがてそんなお手伝いさんの姿を見ていたお父さんが彼女に恋をした。そして、レナートは二人のお母さんを持つことになった。でも、実のお母さんはそれが気に入らないから、レナートを庇っているお母さんをいじめにいじめた。でも、したたかに耐えるものだから、諦めて屋敷を出たの。でも、彼女の嫌がらせはそのことでエスカレートした。そのせいでレナートは医者の道をあきらめて商家を継ぐことになった。この町にあるいい大学を出て、経済学の勉強もして。そして、彼の父親が亡くなり、去年、優しかったお母さんも亡くされた。それから、彼は外界のすべてのものから心を閉ざし、娯楽にふけるようになってしまった。今回皆さんにいろいろ頼んだのは、彼の姿が見ていられなかったから」
マリアの話は長かった。しかし、レナートが心を閉ざした理由が何となく皆にはわかったので、誰一人として退屈に感じる人間はいなかった。
「心が痛む話だわ。確かにどうにかしてあげたくなる」
セリーヌは、レナートに自分を重ねていた。自分のやりたいこともやれず嫌がらせばかり受ける。やっと得られた優しい母親もほどなくして死んでしまった。両親の顔を知らないセリーヌにはうらやましい反面、哀れにも思えた。
「お父さんとお母さんを持ってしまったから、かえって悲しい思いをしたのね」
すると、リゼットが腕組みをして考えながらしゃべり始めた。
「レナートは不幸だったの? 幸せだったの? 今の彼は幸せなの、不幸なの? 私にはわからないわ。きっと、今がすごく幸せな私たちには考えたってわからない」
その言葉に誰も何も言わなくなったが、アースとナリアだけは違った。何も言わないのは他と同じだったが、表情が違った。
「リゼット、彼が今どうなっているのか、それは明日、お屋敷に行って直接会ってみないと分かりません。私たちにできることは精いっぱいいたしましょう。レナートの事情も大切ですが、船を借りることも大切です」
ナリアの言葉に、マリアは涙を流した。
「そうお考えなら、ごもっともでございます、ナリアさま。聡明でいらっしゃる」
皆は、そんなマリアの姿を見て、余計に、レナートのことを何とかしなければならないと感じるようになった。エリクやジャンヌは例の実母が許せなかったし、クロヴィスやセリーヌはレナートに感情移入していた。リゼットは悲しくなっていた。
「まあ、まだ今日一日ある」
アースは、暗い顔をしている皆をなだめるように、低い声で言った。
「この一日で冷静になっておけ」
アースの言うことはもっともなことだった。ここで冷静になっておかなければ、解決するものも解決しない。詳しい事情を何も知らない外野が騒ぎ立てたところで、レナートの心には響かない。
「でも、まだ一日あるんでしょ?」
ジャンヌが、口に食べ物を含んだまま、皆の方向にフォークを向ける。リゼットが咳払いをしたので、はいはいと言いながらフォークを下げた。
「ジャンヌはお行儀が悪すぎるわ。でもまあ、確かにあと一日はあるわね。ここで何か作戦を立てるのもいいかもしれないわ。お医者様もいらっしゃることだし」
リゼットの提案に、エリクとジャンヌは首を縦に振った。しかし、ナリアやアースは乗り気ではなかった。
「リゼット、わたくしたちはまだ、レナートのことをよく知りません。それでは作戦の立てようもないのです」
ナリアの言葉に、リゼットは黙ってしまった。
「感情論で何とかなる問題でもあるまい。よく考えることだ」
アースは、すでに何かを考えていた。皆にはこう言ったが、彼には彼なりに何とかしてやりたいという心があるのだろう。
ナリアとアースによって出足をくじかれてしまったリゼットたちは、今日これからの半日をどう過ごしたらいいのか迷う羽目になった。レナートにはなんとかして立ち直ってほしいが、どうしたらいいのかは分からない。かといって、この問題を棚上げして遊んだり呆けたりしている気分にもなれない。
「ねえ、レナートさんは本当に助けてほしいって思っているのかな」
静寂の中、エリクが小さい声で話した。その声は小さかったが、確実に、そこにいた人間すべてに聞こえていた。
「レナートさんは医者にはなれなかったけど、優しいお父さんとお母さんがいて、いじわるなお母さんは出て行っていないんでしょ? お父さんとお母さんは死んじゃったけど、本当にそれがレナートさんの心を閉ざした原因なのかな」
エリクは、そう言って皆を見渡した。そこにいた全員が目を丸くしている。
「そう言えばそうだ。俺なら医学を捨てた時点で実母を恨み、心を閉ざしている」
クロヴィスが、少し考えてエリクを見た。
「実母を嫌っているのなら、試験をクリアしなければ入れない大学で懸命に経済学など学ばないし、家の跡を継いで頑張って栄えさせることもない。レナートは本当に不幸なのか?」
その話を聞いて、マリアが頭を抱えて考え込んだ。
「自信がなくなってきたわ。レナートがこうなったいきさつはなんとなく不幸に思えるけど、確かに彼、いい母親にも恵まれたし、嫌な奴は追い出したし。これだけ周りで話題になるくらいだから、実のお母さんも嫌がらせなんてできなくなっていたでしょうし。私たちが悩んだところで、何が何だか分からないんじゃ、どうしようもないわね」
ナリアとアース以外の人間が、マリアと同じように頭を抱えた。
どうしたらいいのか分からない。まだ、何か暗い問題でも抱えてくれていてくれたら、そのほうが突っ込む隙がありそうなのに。
だから、ナリアとアースがこういう答えを出した時、そこにいる皆が全員、納得するしかなかった。
「レナートを観客だと思って、道化を演じるしかない」
「私たちが今考えるべきことは、彼の家庭事情ではなく、彼を喜ばせるための演劇のシナリオです」
これには、全員が従うしかなかった。誰一人として反論するものもいない中、ナリアが珍しくため息をついた。
「わたくしが脚本を書きましょう」
すると、全員がナリアを見た。クロヴィスがなんとか声を絞り出して尋ねる。
「このメンツで、例の仮装をした状態でのシナリオなのか?」
ナリアは、笑顔で頷いた。
「もちろんです。せっかく、みなさんが恥をかいてくださっているのですから、無駄にはしません」
ナリアが笑顔になったはいいが、男性は四人とも、黙ってしまった。
「わたくしはシナリオをあと一時間で仕上げます。それから練習して明日に間に合わせましょう。安心してください。そんなに難しい劇ではありませんから」
「あ、明日までに劇をやるんですか?」
ジャンヌが口をあんぐりと開ける。ナリアは屈託のない笑顔で答えた。
「信じていますよ、みなさん」
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勇者の血筋に生まれながらにしてジョブ適性が『村人』であるレジードは、生家を追い出されたのち、自力で勇者になるべく修行を重ねた。努力が実らないまま生涯の幕を閉じるも、転生により『勇者』の適性を得る。
しかしレジードの勇者適性は、自分のステータス画面にそう表示されているだけ。
他者から確認すると相変わらず村人であり、所持しているはずの勇者スキルすら発動しないことがわかる。
自分は勇者なのか、そうでないのか。
ふしぎに思うレジードだったが、そもそも彼は転生前から汎用アビリティ『複合技能』の極致にまで熟達しており、あらゆるジョブのスキルを村人スキルで再現することができた。
圧倒的な火力、隙のない肉体強化、便利な生活サポート等々。
「勇者こそ至高、勇者スキルこそ最強。俺はまだまだ、生家<イルケシス>に及ばない」
そう思いこんでいるのはレジード当人のみ。
転生後に出会った騎士の少女。
転生後に再会したエルフの弟子。
楽しい仲間に囲まれて、レジードは自分自身の『勇者』を追い求めてゆく。
勇者スキルを使うための村人スキルで、最強を証明しながら……
※カクヨム様、小説家になろう様でも連載予定です。
家庭菜園物語
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お人好しで動物好きな最上 悠(さいじょう ゆう)は肉親であった祖父が亡くなり、最後の家族であり姉のような存在でもある黒猫の杏(あんず)も静かに息を引き取ろうとする中で、助けたいなら異世界に来てくれないかと、少し残念な神様に提案される。
その転移先で秋田犬の大福を助けたことで、能力を失いそのままスローライフをおくることとなってしまう。
異世界で新しい家族や友人を作り、本人としてはほのぼのと家庭菜園を営んでいるが、小さな畑が世界には大きな影響を与えることになっていく。
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