海が鳴いている

八助のすけ

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海が鳴いている15

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 リーリー……リリリリ……昼間のたたき付ける様な蝉の鳴き声から、夜に鳴く虫の声にすっかり入れ替わる深夜。時折空からはギャーと言うゴイサギの鳴く声が聞こえる。蒸し熱く湿った外気が肌にへばりつく様に舐め、今の心の中にある不快感を益々煽り章良はもう何度目か解らない溜め息をついた。

 カタン……その時、小さな音を立て部屋が区切られた襖が開き、廊下の明かりが、暗い部屋に黄色い帯を作った。

「眠れんのか」

 紫煙の匂いを纏いながら部屋に入って来たのは、シャツとステテコ姿の辰朗だった。窓際で肘をつき、暗い外を見ている章良の隣へ〈じゃまするでぇ〉と言って座るが、章良は何も言わずに視線だけチラリと向けた。

「こっから、海は見えないんだな……」

 章良がそうポツリと言うと、辰朗が持って来た団扇で首元に風を送り始める。

「ああ、そうじゃのぉ、ここは島でも山に近いけぇから、丁度見えんな……アキ坊は海が好きか」

「うん、好き……正確にはここに来て好きになったよ」

「そうかぁ、そりゃぁよかった」

「…………マコちゃん、島出ちゃうのかな」

 章良が暗い外を見据えながらポツリとそう溢す。

「どうじゃろ、とりあえず話は聞いたが……島に残るか、出ていくんかはマコさん次第じゃけ……アキ坊は何か聞いてるんか?」
 
「聞いた……訳では無いけど、マコちゃんの所を尋ねて来た奴は見た」

「……そうか」

「すげぇムカつく奴だった、マコちゃんは男を誘うとか、お前も気をつけろとか」

 章良が夕方の出来事を思い出し、悔しそうに親指の爪を嚙みながら何度も〈ムカつく〉と繰り返した。

「なぁアキ坊」

「うん?」

「ズバリ聞くけど、アキ坊はマコさんの事が好きじゃろ?」

 章良は窓の外から視線を移動させ、辰朗の顔を見て躊躇う様に声を詰まらせる。

「……どう言う意味?」

「そのままの意味じゃ、われがマコさんの事が好きかどうかと聞いとる」

「……好きだ……けど?」

「そうか、ならええ」

「好きだからなんだって言うんだよ」

「自分が惚れた相手なら、とことん最後まで相手の事を信じちゃれ。たとえ、どがいな疑いとうなる様な場面に出くわしても、周りがしようもない事を言うとったとしても、われだけは疑うちゃるな」

 薄暗い部屋の中で、章良の瞳が光を反射した様に一瞬鋭く光り隣にいる辰朗を見つめる。限られた灯りの中で見る辰朗の顔は、何時もの様な人なつっこい図々しさは微塵も感じられず、これまで幾度も荒波を渡って来た海賊の様に引き締まった顔をしていた。

「解った」

 おそらく、何もかもを見通してこの言葉を言っていると理解し、章良はきっぱりと決意をする様に頷く。その章良の眼を見て、辰朗が納得した様にクシャリと破顔し、何時もの顔に戻る。

「まずは、自分がどれだけ相手を本気で好きなのかって事を相手ではのう、自分自身に問う事が大事じゃ。ほいで、腹が決まったらもう迷いんさんな」

 章良の髪をクシャリとひと撫でし、辰朗が〈もう寝ろ〉とだけ言って部屋を出て行った。

 惚れた相手なら、とことん信じてやれ――章良は辰朗の言葉を何度も頭の中で反芻しながら、眠れぬ夜を過ごした。


 ◇◇◇


 章良がなぶらを出てから、一度大きな台風がやって来たが、幸い進路を変え室戸の沖を北へと登り、紀伊半島から上陸したとニュースは伝えていた。章良は辰朗の勧めもあり、次の日から船に乗り漁の手伝いをしており、今も昨夜から朝にかけてのはえ縄の引き上げをしていた。港に戻ると直ぐに捕れた魚を選別するが、飲み込みの早い章良は、周りが驚くほど良く働いている。

「アキ坊」

 今手伝いで乗っている漁船の船頭が、今日の手当だと言って金の入った封筒を手渡しに来た。

「やった!」

 章良は受け取った封筒を胸ポケットへと入れて、今日捕れた魚の中から大きく長い魚を手で掴み、船頭へ声をかける。

「こいつ、俺が買ってっても良い?」

「ああ? ええぞ、金は要らんけぇ持って行け」

「ありがとう!」

 港の片隅に積み上げられている発泡スチロールを取り、氷も入れ、大きく長い魚を押し込んで、港の朝食も食べずに歩き出した。まだ一週間ほどしか経っていなかったが、既になぶらを出てから随分と時間が過ぎた様に感じる。懐かしさと緊張の狭間で、カンカン照りの道を歩いて行くと、まだ朝だと言うのに、アスファルトからはユラユラと陽炎が上り始めていた。

 辰朗が二日に一度なぶらに顔を出している事は知っていて、真琴の様子もそれとなく聞いていた。港から近い場所だったが、真琴は一度も港へは顔を出さなかった。昨夜、早い夕飯も終わり、章良が漁へと出かける前に辰朗が紙袋を渡して来た。

「アキ坊、明日港に返ってからでええけぇ、これを返してきてくれや」

 中を覗くと、最初なぶらを出る時に持って来た保存容器が入っている。

「これ……なぶらの?」

「ああ、そうじゃ」

 自分と違い、辰朗の方がなぶらへは足を運んでいたにも関わらず、ここに来て章良に使いを言って来たのには何か意味があると思った。章良は〈解った〉とだけ言い船に乗る為に辰朗の家を出て港へと向かった。

 昨夜の出来事を思い出しながら、預かった紙袋をチラリと覗いてみたが、中は大きな保存容器が三つ重なっているだけだった。

 港通りから一つ上の通りへ上がり、そのまま道を渡って古くて丸い形をした郵便ポストを右に折れる。そこから二つ目の細い路地を上がった所にあるのが【鮨なぶら】。古いタイプの磨りガラスが木の枠に挟まれた入り口の上に、何時もこの時間から少し色褪せた藍色の暖簾がかかっていたが、今は暖簾は出て居ない。店の入り口に立ち、手を伸ばしノックをしようかと躊躇っていると、突然目の前の扉がカラカラと音を立てて開いた。

「やっぱり……浄水君どうしたの? 何か忘れ物?」

 半分開いた入り口に立っているのは、何時もと同じ格好の真琴だった。

「あ……いや……えっと……これ、辰っちゃんから預かって来たんだ」

 章良はしどろもどろになりながら、右手に持っていた紙袋を差し出すと、真琴が受け取り中を確認する。

「ああ、料理を入れてた……別にそのままでも良かったのに……」

「それと、俺さ、今、船に乗ってんだ」

「うん、そうみたいだね……辰朗さんから聞いてるよ、浄水君身体も大きいし力もあるし、物覚えが早いから将来は大物漁師になるぞって……浄水君、漁師になるつもりなの?」

「そ、そう言う訳じゃないんだけど……でも楽しいよ」

「そう、良かったね」

 ――痩せた……――

 章良は、店の入り口に立っている真琴を見てそう思った。以前から痩せていたが、この会わなかった数日間で一回り小さくなった様に見える。作務衣の袖から出ている手首は折れそうなほどで、シャツの上からでも鎖骨が浮き上がっているのが解った。顔はそこまで変わりは無いが、顔色も良くなく、目の下には隈が出来ている。

 それなのに、以前とは変わらない柔らかで温かい声色で話す姿に胸が締め付けられ、抱きしめたくなった。

 ――やっぱり、俺はマコちゃんが好きだ――

 章良の中で、真琴を愛おしいと想う気持ちが溢れ出し始め、心拍数が上がって行くのが解った。

「あ、あのさ……」

「ん? なに?」

「あの……さ……」

 章良がゴクリと生唾を飲み、自分が思ったより大きく喉がなってしまった為、それを誤魔化そうと一度咳払いをする。

「あ――……っと……これ!」

 章良が持っていた発泡スチロールの箱の蓋を開けて中身を見せると、真琴が覗き込みながら声を上げた。

「凄いね、良い鱧じゃないか」

 氷の上に身体を曲げて入っていたのは、今が旬とされている鱧だった。

「うん、漁船に乗せてもらって、昨晩初めてはえ縄の引き上げをやらせてもらったんだ、それで最初に上がって来たのがこいつでさ! 俺が生まれて初めて釣った第一号なんだ、って釣ったってのは言い方が変か……とにかく、初めての獲物」

「記念すべき魚だね、良かったね浄水君」

「鱧って栄養があって夏バテにも良いって船長が言ってて……俺、初めての魚はマコちゃんに食べさせてやろうって、ずっと思ってたんだ。だから、これ……食べて」

 真琴が驚いた顔をして章良を見上げる。嬉しそうに声を弾ませているが、それとは逆に顔は真剣だった。

「……浄水君」

「ちゃんと……食べて、お願いだから」

「…………ありがとう」

 章良が鱧の入った箱を渡し、じゃあまた何か持って来るから、そう言って背を向けて歩き出した。真琴は少し鱧を見つめた後、入り口の横へ箱を降ろして小走りで路地から通りへと出て行く。

「浄水君!」

 両手をズボンのポケットに入れ、俯きかげんでトボトボと歩いている章良の背中に声をかけると、章良が弾かれた様に振り向いた。

「……よかったら、鱧、食べていかない?」

「え?」

「あんな立派な鱧、僕一人じゃ食べきれないよ……一緒に食べてくれないかな」

「うん! 食べる!」

 まるで太陽の下で笑う向日葵の様に笑う章良の顔に、真琴は眩しそうに眼を細めた。



 





 2019/07/26 海が鳴いている15
 八助のすけ
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