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4.犠牲
狂愛
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「…俺に逆らうとは…
どうも勝手をさせ過ぎたようだな」
紫苑の瞳が、軽い怒りと共に剣呑に尖る。
それに梁は、蛇に睨まれた蛙の如く、更に体を強張らせた。
「…紫苑…」
──かつてこの体に、精神に嫌というほど与えられ、擦りこまれてきた恐怖を再び思い出し…
その喉はからからになり、引きつるように詰まり始める。
「…分かっているはずだ、梁牙…
俺は、お前に我名を呼ばれるのは嫌いではない。だからこそ、人前での呼び捨ても黙認して来た…
だが、本来のお前が俺を呼ぶその呼び方は…違うだろう?」
「!…」
紫苑の情け容赦ない言葉に、それまで、朝露を含んだ薔薇のような、ほんのりとした紅さを保っていたはずの梁の顔色が、一瞬にして青ざめる。
すると紫苑は、それに追い打ちをかけるかのように、恐怖で硬直した梁の耳元で、そっと囁いた。
「いつものように…俺を呼んではくれないのか? 梁牙…」
「!…」
梁の目が、これ以上ない程に大きく見開かれる。
兄である紫苑の与えた影響からか、その瞳には、途方もない畏れと、激しい迷いとが同時に浮かんでいた。
やがてそれが徐々にではあるものの引きを見せると、梁はただ、単語を紡ぐように言葉を漏らす。
「…、紫…苑」
「違う」
紫苑が冷たく呟く。
「…紫苑…」
「違う」
突き放すように、それでいて梁に言い聞かせるように、紫苑はその言葉のみを繰り返し放つ。
──梁の表情が、僅かながら苦痛に歪んだ。
「お前の名は、間違いなく紫苑だろう…
そして、俺もそう呼んでいる。それがお前の正式名だからだ…
でも、お前は俺を“梁牙”と…躊躇いなく呼んだ」
「……」
紫苑の眉がひそめられる。
それを見た梁は、その瞳に微かながら光を取り戻した。
「確信犯だな。お前は元々、全てを知っていた…
その上で、俺を翻弄していたんだ」
「…、今となっては弁明にしか聞こえないだろうが…
俺にはそのつもりはない」
紫苑が、苛立ち混じりに目を伏せる。
「名前に拘るのはお前くらいだ、“梁”」
「…呼び方に拘るお前の言う台詞じゃないだろう」
「…、よく言ったものだ」
紫苑の瞳が細められる。
瞬間、梁は、背中にぞくりとした恐怖を抱えて、その体の動き全てを止めた。
…紫苑の長い指。
その先が、ゆっくりと梁の唇に触れる。
端から見ればそれはまるで、天使が人間に情愛を与える時のそれに近かった。
…緩やかに唇をなぞられて、梁はその恍惚感に、抵抗する力を全て奪われる。
「…やめ…ろ…」
一文字ずつに拒絶を秘め、梁は嫌悪の意思を露にした。
それでも紫苑は指の動きを止めず、そのまま辿るように梁の顎のラインまで到達させ、指を加える。
「!」
人差し指を当てられ、もう一方の親指で難なく顎を持ち上げられて、梁の意識は、完全にそちらに向いた…と同時、紫苑がその整い過ぎている程の美貌を、その顔に近付ける。
「…さあ…言ってみろ」
「!紫苑っ…」
梁は反射的に、いつもの呼び名で兄を呼んだ。
しかし、そんな梁の失言を、紫苑が許すはずもなかった。
「違うと言っているだろう。何度も言わせるな」
不意にその親指に力を込められ、梁の顎は先程よりも空に近付く。
その息苦しさからか、梁は息をつくように、ついにその言葉を口にした。
「──やめて…くれ…“兄さん”…!」
「随分と無防備な色気を晒し示すのだな。
その様は何ともそそられるぞ…梁牙。
初めからそのように大人しく言うことを聞いていれば、こちらとしてもお前を手荒に扱うつもりはない」
勝ち誇ったように笑みを落として、紫苑は梁を抱く手に力を込めた。
…今や、紫苑の迫力に、そしてその威圧感に屈伏してしまった梁には、着ている服の擦れ合う音が、やけにはっきりと聞こえた気がした。
その表情は酷く虚ろで、瞳には絶望感だけが浮かんでいる。
先程まで梁にあったのは、言うまでもなく焦りだった。
だが紫苑に捕えられた今では、彼が満足するか、あるいは飽きるまで…
母親を、探すことは叶わない。
「…“兄さん”…、俺を…離してくれないのか…?」
梁が、ぽつりと呟く。
その静かな口調には、本人である梁も知らぬ間に、諦めと、そして僅かな咎めが含まれていた。
──瞬間、梁の性格を、その全てを良く知る紫苑が笑う。
「お前を、手放せると思うか?」
紫苑は梁の顎に当てていた手を崩し、辿るように頬へ触れた。
相手に敵わない事実を理解した梁は、最早されるがままで、抵抗しようともしない。
絶望も焦りも通り越した、ぼんやりとした瞳を、それでも紫苑に向けたまま…
梁は表情も変えずに、ただゆっくりと、唇のみを動かした。
「…でも、手放して貰わないと…
俺は、幼い兄さんと、母さんの所に…行けない」
「お前なら分かるだろう。我等が母・彩花は、煌牙の唯一の弱味であり、弱点だ。
殺されることはまず無い。何故なら、煌牙の今の目的は──」
「言うな!」
会話そのものを切り裂かんばかりの激しい怒声が、瞬間、紫苑の言葉を遮った。
自分でも驚く程にその意思を示した梁は、はっきりとした嫌悪の感情を覚醒させ、紫苑の手を振りきると、自らの耳を強く押さえた。
「…それ以上…言わないでくれ…!」
「…やれやれ。それ自体が既に、我々にとっては“起こってしまった過去”だと言うのに…」
紫苑はまたも、言葉ほどは困らずに苦笑してみせる。
…その中に、僅かばかりの侮蔑を込めて。
「…梁牙、お前の考えは読めている。
お前は自らの存在を消滅させてでも、それを阻止しようと目論んでいるのだろう?」
「!…」
紫苑のはっきりした、よく通る低い声は、押さえているはずの指の合間を縫うようにして、否が応にも梁の耳に滑り込んでくる。
…それすらも見越していたらしい紫苑は、知らぬ間に変わった、梁の蒼白になった顔色を窺いながら、先を続けた。
「…だが、俺はお前の消滅は望まない。
血を分けた…ただひとりの弟を、むざむざ死なせる手段を取らせるはずもない。
だからこうして──」
「…俺を、足止めしているのか?」
梁が、徐々にその声に怒りを含ませる。
それに紫苑は気付きながらも、そ知らぬ表情で頷いた。
「…ああ」
「そんな固執は必要ない!」
梁は怒りのあまり、先程よりも更に声を荒げると、少し前までは怯えていた、兄である紫苑に対して、面と向かって噛みついた。
「紫苑、全てを知っているなら分かっているはずだろう!?
…俺が本当に煌牙と彩花の子どもであると言うなら、今の俺は…
その事実を…、いや、“自分”そのものを抹消しないと、気が済まないんだ!」
「…それはあの男…、稔に対しての、義理立てのつもりなのか?」
「違う! 俺がそうしたいから… !?」
…はっきりとした言葉の応酬の後に。
紫苑の瞳が、残酷に細められた。
それはまるで尖った三日月を思わせるような鋭利さと、そしてそれを上回る、氷のような冷たさを含んでいた。
「…紫苑…?」
兄である紫苑の変化を目の当たりにした梁は、不思議さの中に些かの警戒を折り混ぜて尋ねる。
すると紫苑はその瞳を、緩やかに剣呑なものへと変貌させた。
「…実の父親ではないあの男…稔の為に、お前がそこまでする必要はない」
「!…っ」
紫苑の、その艶のある透明度を帯びた声は、低いながらも、一瞬にして梁の動きを支配する。
痛い所を突かれ、またそれがもはや真実であると理解している梁は、今度はそれに反論することすらままならなかった。
紫苑はそんな梁を冷たく一瞥すると、これ以上ない程に冷たく、更に先程のそれを上回る程に低い声で、ひっそりと告げる。
「…稔は、強力な能力を持った危険要因。
本来ならば殺すところだ…が、我が組織に与する意志があるのであれば、あの男の居場所は幾らでも作り出せる。
お前の出方次第では、稔を、その場にこそ存在させることは可能だが…?」
どうも勝手をさせ過ぎたようだな」
紫苑の瞳が、軽い怒りと共に剣呑に尖る。
それに梁は、蛇に睨まれた蛙の如く、更に体を強張らせた。
「…紫苑…」
──かつてこの体に、精神に嫌というほど与えられ、擦りこまれてきた恐怖を再び思い出し…
その喉はからからになり、引きつるように詰まり始める。
「…分かっているはずだ、梁牙…
俺は、お前に我名を呼ばれるのは嫌いではない。だからこそ、人前での呼び捨ても黙認して来た…
だが、本来のお前が俺を呼ぶその呼び方は…違うだろう?」
「!…」
紫苑の情け容赦ない言葉に、それまで、朝露を含んだ薔薇のような、ほんのりとした紅さを保っていたはずの梁の顔色が、一瞬にして青ざめる。
すると紫苑は、それに追い打ちをかけるかのように、恐怖で硬直した梁の耳元で、そっと囁いた。
「いつものように…俺を呼んではくれないのか? 梁牙…」
「!…」
梁の目が、これ以上ない程に大きく見開かれる。
兄である紫苑の与えた影響からか、その瞳には、途方もない畏れと、激しい迷いとが同時に浮かんでいた。
やがてそれが徐々にではあるものの引きを見せると、梁はただ、単語を紡ぐように言葉を漏らす。
「…、紫…苑」
「違う」
紫苑が冷たく呟く。
「…紫苑…」
「違う」
突き放すように、それでいて梁に言い聞かせるように、紫苑はその言葉のみを繰り返し放つ。
──梁の表情が、僅かながら苦痛に歪んだ。
「お前の名は、間違いなく紫苑だろう…
そして、俺もそう呼んでいる。それがお前の正式名だからだ…
でも、お前は俺を“梁牙”と…躊躇いなく呼んだ」
「……」
紫苑の眉がひそめられる。
それを見た梁は、その瞳に微かながら光を取り戻した。
「確信犯だな。お前は元々、全てを知っていた…
その上で、俺を翻弄していたんだ」
「…、今となっては弁明にしか聞こえないだろうが…
俺にはそのつもりはない」
紫苑が、苛立ち混じりに目を伏せる。
「名前に拘るのはお前くらいだ、“梁”」
「…呼び方に拘るお前の言う台詞じゃないだろう」
「…、よく言ったものだ」
紫苑の瞳が細められる。
瞬間、梁は、背中にぞくりとした恐怖を抱えて、その体の動き全てを止めた。
…紫苑の長い指。
その先が、ゆっくりと梁の唇に触れる。
端から見ればそれはまるで、天使が人間に情愛を与える時のそれに近かった。
…緩やかに唇をなぞられて、梁はその恍惚感に、抵抗する力を全て奪われる。
「…やめ…ろ…」
一文字ずつに拒絶を秘め、梁は嫌悪の意思を露にした。
それでも紫苑は指の動きを止めず、そのまま辿るように梁の顎のラインまで到達させ、指を加える。
「!」
人差し指を当てられ、もう一方の親指で難なく顎を持ち上げられて、梁の意識は、完全にそちらに向いた…と同時、紫苑がその整い過ぎている程の美貌を、その顔に近付ける。
「…さあ…言ってみろ」
「!紫苑っ…」
梁は反射的に、いつもの呼び名で兄を呼んだ。
しかし、そんな梁の失言を、紫苑が許すはずもなかった。
「違うと言っているだろう。何度も言わせるな」
不意にその親指に力を込められ、梁の顎は先程よりも空に近付く。
その息苦しさからか、梁は息をつくように、ついにその言葉を口にした。
「──やめて…くれ…“兄さん”…!」
「随分と無防備な色気を晒し示すのだな。
その様は何ともそそられるぞ…梁牙。
初めからそのように大人しく言うことを聞いていれば、こちらとしてもお前を手荒に扱うつもりはない」
勝ち誇ったように笑みを落として、紫苑は梁を抱く手に力を込めた。
…今や、紫苑の迫力に、そしてその威圧感に屈伏してしまった梁には、着ている服の擦れ合う音が、やけにはっきりと聞こえた気がした。
その表情は酷く虚ろで、瞳には絶望感だけが浮かんでいる。
先程まで梁にあったのは、言うまでもなく焦りだった。
だが紫苑に捕えられた今では、彼が満足するか、あるいは飽きるまで…
母親を、探すことは叶わない。
「…“兄さん”…、俺を…離してくれないのか…?」
梁が、ぽつりと呟く。
その静かな口調には、本人である梁も知らぬ間に、諦めと、そして僅かな咎めが含まれていた。
──瞬間、梁の性格を、その全てを良く知る紫苑が笑う。
「お前を、手放せると思うか?」
紫苑は梁の顎に当てていた手を崩し、辿るように頬へ触れた。
相手に敵わない事実を理解した梁は、最早されるがままで、抵抗しようともしない。
絶望も焦りも通り越した、ぼんやりとした瞳を、それでも紫苑に向けたまま…
梁は表情も変えずに、ただゆっくりと、唇のみを動かした。
「…でも、手放して貰わないと…
俺は、幼い兄さんと、母さんの所に…行けない」
「お前なら分かるだろう。我等が母・彩花は、煌牙の唯一の弱味であり、弱点だ。
殺されることはまず無い。何故なら、煌牙の今の目的は──」
「言うな!」
会話そのものを切り裂かんばかりの激しい怒声が、瞬間、紫苑の言葉を遮った。
自分でも驚く程にその意思を示した梁は、はっきりとした嫌悪の感情を覚醒させ、紫苑の手を振りきると、自らの耳を強く押さえた。
「…それ以上…言わないでくれ…!」
「…やれやれ。それ自体が既に、我々にとっては“起こってしまった過去”だと言うのに…」
紫苑はまたも、言葉ほどは困らずに苦笑してみせる。
…その中に、僅かばかりの侮蔑を込めて。
「…梁牙、お前の考えは読めている。
お前は自らの存在を消滅させてでも、それを阻止しようと目論んでいるのだろう?」
「!…」
紫苑のはっきりした、よく通る低い声は、押さえているはずの指の合間を縫うようにして、否が応にも梁の耳に滑り込んでくる。
…それすらも見越していたらしい紫苑は、知らぬ間に変わった、梁の蒼白になった顔色を窺いながら、先を続けた。
「…だが、俺はお前の消滅は望まない。
血を分けた…ただひとりの弟を、むざむざ死なせる手段を取らせるはずもない。
だからこうして──」
「…俺を、足止めしているのか?」
梁が、徐々にその声に怒りを含ませる。
それに紫苑は気付きながらも、そ知らぬ表情で頷いた。
「…ああ」
「そんな固執は必要ない!」
梁は怒りのあまり、先程よりも更に声を荒げると、少し前までは怯えていた、兄である紫苑に対して、面と向かって噛みついた。
「紫苑、全てを知っているなら分かっているはずだろう!?
…俺が本当に煌牙と彩花の子どもであると言うなら、今の俺は…
その事実を…、いや、“自分”そのものを抹消しないと、気が済まないんだ!」
「…それはあの男…、稔に対しての、義理立てのつもりなのか?」
「違う! 俺がそうしたいから… !?」
…はっきりとした言葉の応酬の後に。
紫苑の瞳が、残酷に細められた。
それはまるで尖った三日月を思わせるような鋭利さと、そしてそれを上回る、氷のような冷たさを含んでいた。
「…紫苑…?」
兄である紫苑の変化を目の当たりにした梁は、不思議さの中に些かの警戒を折り混ぜて尋ねる。
すると紫苑はその瞳を、緩やかに剣呑なものへと変貌させた。
「…実の父親ではないあの男…稔の為に、お前がそこまでする必要はない」
「!…っ」
紫苑の、その艶のある透明度を帯びた声は、低いながらも、一瞬にして梁の動きを支配する。
痛い所を突かれ、またそれがもはや真実であると理解している梁は、今度はそれに反論することすらままならなかった。
紫苑はそんな梁を冷たく一瞥すると、これ以上ない程に冷たく、更に先程のそれを上回る程に低い声で、ひっそりと告げる。
「…稔は、強力な能力を持った危険要因。
本来ならば殺すところだ…が、我が組織に与する意志があるのであれば、あの男の居場所は幾らでも作り出せる。
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