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2 未知の世界
2-9.弱さと希望
しおりを挟む短い音楽が流れ、授業の終わりを告げる。
「それではね、各自今日クラスメイトと学んだことをしっかり復習してくださいね」
マルク先生のその言葉を合図に、ディルクは僕に軽く会釈をして自分の席へ戻っていった。
僕はホッと息を吐くと、目の前に散布された資料と、裏紙に書かれたたくさんのメモを見つめた。
全て、ディルクが発表の中で使用したものだ。
正直驚いている。
基本的な知識から導かれることはもちろん、過去の研究結果や、未だ実現されていない領域においても根拠のある仮説を示してある。
課題に出されていた、「基礎魔法技能の活用」には十分すぎるといえる量だった。
僕には理解の及ばなかったものも多い。
入念な下調べと準備、丁寧な話し方から感じた。彼がAクラスに入ったのは必然だったのだろう。
ただ、素直に凄いと言ったら「当たり前です」と返されてしまったので、僕はやっぱり嫌われている気がする。
◇
「技能祭?」
「ええ」
バルトが僕の髪を梳かしながら頷いた。
「クラウス様がおっしゃっていました。毎年、五月の終わりに行われる行事だそうです。一年生も無関係ではないようですから、明日にでも説明があるのではないでしょうか」
初めての行事ですね、と付け加えてバルトは櫛を置く。
「そう…」
バルトの手が離れたので、自らの灰髪を少し摘みながら曖昧な相槌を打った。
「何か心配事でもおありですか」
「……」
あるといえばある。
たくさんある。
まずはバルトのことだ。
こうして来れる時は僕の面倒を見にきて、屋敷にいた頃のように色々と世話を焼いてくれるから、自分のやりたいことができていないのではないかと思う。
例のバルトをこき使おうとしていた令息たちと、元気のなかったバルトのことも気にかかっている。
バルトに尋ねても何も問題ないと言うから、それ以上追及することはできずにいるが、もしも僕が同じ立場だったら、それでいいとは思えない。きっと。
「エル様?」
「…バルトは」
口を開くと、バルトは黙って顎を引いた。
「バルトは、大丈夫?」
なんと言えばいいのかわからなくて逡巡するうちに、そんな言葉が溢れた。
バルトは、少し息を呑むような間の後に、
「何がですか」
と呟く。
「……バルトが」
「私のほうは何も問題ありません」
もう何度か、聞いた言葉。無感情な声に、少し寂しさを感じる。
少し考えて、僕は続けた。
「僕に仕えてて良かった?」
「…は、えっと、はい?」
「家のことも、バルトの事情も今はなにも覚えてないけど、僕がバルトにしてあげられることなんてなかっただろ。きっと、最初から」
母を亡くして、体が弱く友達もいない僕の側にいるのはきっと楽じゃなかっただろう。レアジさんのような優秀な貴族令息に仕えるのとはわけが違う。
バルトがいくら僕の世話に時間を費やしても、僕から彼に返せるものは何もないのだ。
「それでも、僕に仕えてて良かった?」
少し、彼の表情が揺らいだ。
「…エル様は私の生き甲斐です」
「記憶がなくても?」
「…関係ありません。エル様はエル様ですから」
バルトはため息をつくと、しゃがみ込んで悔しそうに天井を仰いだ。
「怒られるかもしれませんが言ってしまうと、エル様が居なかったら俺は生きてませんよ。
弱いんです、呆れるくらい。エル様のそばに居させてもらえるだけで、俺はいつも救いを貰ってます」
「だから問題ありません。心配要りませんよ、ありがとうございます」
その顔がどうにも泣きじゃくる子供のように見えて、僕は手を伸ばした。
「泣かないで」
「泣、いてませんよ?」
「うん。でも、困ったことがあったら僕にも教えてよ」
僕にできることがあるのなら、力になりたい。
そう言うと、バルトは笑みを零す。
「なんというか、エル様は変わりませんね」
「そう?」
「はい」
バルトは何かを懐かしむように優しく微笑んだ。
…
「ディルク・リーレ・クラーゼですか。クラーゼ男爵家にはとくに目立った特徴や業績はなかったと思いますが、彼は優秀ですよ」
なかなか他の人と仲良くなれないことと、先日のディルクの件をバルトに話したところ、バルトはそう言って言葉を切った。
僕たちが腰掛けるソファの前には、バルトが淹れた紅茶が柔らかな湯気を立てている。
「そうだな。実力もあるし、なにより真面目なやつだ」
そう言ってヴィンツは僕の向かいに腰掛けた。
彼は今、ヴィンフリーとの買い物が終わって寮に戻ってきたところである。
「ご存じだったんですか」
お茶を口に含みながら尋ねると、ヴィンツは少し考えるように首を傾げた後、頷いた。
「少し不思議な縁があってな、俺もヴィンフリーも以前から知り合いだった」
「不思議な縁、ですか」
「ああ、わざわざ話すほどのことではないんだが、ただ、出会った時から彼は何一つ変わっていないとだけ言っておこう。俺は彼ほど己のために力を尽くせる人物を知らない」
思わず瞳を瞬いて、動きを止めた。
ヴィンツがそこまで人を語ることにも驚いたし、何より、彼がディルクを認めているらしいことに驚いた。
「そうなんですね」
ディルクが勤勉なことは僕も知っている。
その実力も努力も、誰もが認めるところだろう。
でも、少なくとも僕は彼に、ヴィンツやバルトに感じるような大人っぽさを感じたことはなかった。
僕にあからさまに気に入らないとでも言うような視線を向けてくることもそうだ。彼からは、どちらかといえば気張っているというか、誰かに認めてもらいたくてムキになっているような気迫を感じる。
言うなれば人間らしく、子供らしい顔をしている。
「ヴィンツェンツ様は、ディルクがエル様を嫌う理由に心当たりはございませんか」
バルトがそう尋ねると、ヴィンツは口元に手を当てて眉間に皺を寄せる。
「強いて言えば、一つだけあるな」
ごくりと唾を飲んだ。
「サリエルは何回かリーゼに話しかけられていただろう」
頷く。というか、週末に話をする約束をしたところだ。
「リーゼ…様というのは?」
「伯爵令嬢で…以前、その…」
記憶を無くす以前に会ったことがあるようだ、と言いかけて、ヴィンツを盗み見る。
僕が会ったことがあるならバルトも知っているのかと思ったが、そういうわけではないらしい。
バルトは察したように頷くと、再びヴィンツに顔を向けた。
「その方がどうかなさいましたか?」
少し逡巡するような間があってから、ヴィンツは口を開く。
「ディルクの想い人だ」
盛大に咽せた。
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