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1 病弱な少年
1-2.記憶喪失と父親
しおりを挟むバルトに支度をしてもらいながら、色々話を聞いた。
目の腫れは少し引いて、体調も、大方問題はない。
袖を通して貰えるのは七日振だとバルトが喜んでいた略装を着せてもらったあと、やってきたメイドたちに髪型も綺麗に整えられた。
「本日も麗しゅうございます。坊ちゃま」
「はは、えっと、ありがとう」
メイドたちには、僕が記憶を失っていることを話してはいない。バルトがこの場で騒がれても困ると言っていたし、僕もそう思ったからだ。
「できましたよ。久しぶりに元気な坊ちゃまが見られて御当主様も喜ばれるでしょう」
「…そうだね」
僕が首を傾げると、鏡の中で、貴族然とした様相になった少年も同じように首を傾げた。
前髪が額を滑って揺れた。
つい、その髪を摘んで弄る。
「なにか問題がございましたか?」
「ああいや、…ないよ。綺麗だ」
そう言うと、メイドはふわりと笑って頷いた。
「坊ちゃまは素敵な御髪をお持ちですから」
「では、私共はこちらで失礼します」
「お疲れさまです」
バルトの応えを聞いてから、メイドたちがお辞儀をして下がる。
「…ふぅ」
ため息が漏れた。
「エル様、お疲れではありませんか? それから…」
バルトの言葉に、慌てて首を振る。
「そんなにすぐに疲れないよ。もう元気だから、大丈夫」
「そうですか。ですが病み上がりですので無理はなさらないでくださいね」
「うん」
「では、行きましょうか。食堂でお父上がお待ちです」
反射的に差し出されたその手を取ると、バルトは僕を立ち上がらせてから手を離した。
そして先に扉を開けて僕を促す。
「ありがとう」
バルトが軽く、頷くように目を伏せる。
一つ扉を抜けると、そこも同じ室内のようで、ソファやテーブルの置かれた空間となっていた。奥には、台所らしき部屋も見える。
「こちらです」
別の扉へ促されて、同じように外へ出る。
聞けば、先程までの部屋は全て僕の自室らしい。
そして、今度の扉を抜けた先は、廊下のようだった。
先程まで居た室内と同じようにカーペットが敷かれ、両脇には絵画や花瓶が飾られている。
バルトに続いてゆっくりと廊下を抜け、階段を降りながら、
(僕はここで暮らしてきたのか)
と周りをキョロキョロと眺めていた。
不意に、目眩のような感覚がして階段の手すりを離してしまう。
「…っ! エル様」
振り返ったバルトに手を掴まれ、落ちないよう下の段から押し返される。
「だ、大丈夫ですか」
やってしまった。
「…ごめん、ちょっとフラッとしただけだ。もう大丈夫。ありがとう」
バルトはホッとしたように息を吐くと、残りの数段の階段を、しっかりと僕の手を握ったまま降りた。
(余計な心配はかけたくないし、気をつけないと)
そして、バルトが少し大きな扉の前で足を止める。
「こちらが食堂です。エル様は、体調を崩されていないときは、多くの場合こちらで食事をなさっていました」
そして彼が「お連れしました」と声をかけると、扉が開いていく。
(入っていいのかな)
と足を踏み出しかけた時、バルトが耳打ちしてくる。
「…立場上、私からお父上にお話することはできかねますので、その、申し訳ありませんが、ご自分の口でお伝えになってください」
「…わかってる」
僕がなかなか伝えられないのをわかっているのだ。
“厳しい”とはあったが、実際は酷く優しいのだろう。
食堂へ足を踏み入れ、向かいで既に席についていた父に、頑張って声をかける。
「おはよう、ございます」
「おはよう、サリエル。座りなさい。調子はどうだい?」
昨日、見た顔。
けれど、昨日とは違い、今はこの顔になんの感慨も湧いてこない。
サリエルの父親であることを知っている。それだけ。
どのような顔をしていいか分からないので、必然的に無表情になってしまう。
一瞬答えようと口を開くが、とりあえず黙って頷いて、バルトが引いてくれた椅子に腰掛けた。
父はただ穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ている。
居た堪れなくなって、適当に言葉を紡いだ。
「あ…ええ、調子は、良いです。多分」
父は少しの間、何も言わずにそのままこちらを見ていたが、すぐに動き出してナイフとフォークを手に取った。
「そうか。じゃあ先に朝食をいただこう。病人にも優しいものを用意させた。話はそれからでも良いだろう」
(話があること、バレてる)
見透かされているようで、僅かに、反抗心が生まれる。
しかし、この様子ならきちんと聞いて貰えるだろう。
頷いて、僕もスプーンを取った。
作法は体に身に付いているようで、なんの戸惑いもなく食事はできた。見たことのない料理も、口に入れるのに躊躇いはなかったから、食べたことはあったのだろう。
まともに食欲があるのは久しぶりだったのか、勢い付きそうになるのを我慢しながら、丁寧に味わった。美味しかった。
「エル様」
「?」
バルトに声をかけられて顔を上げると、サッと口を拭われた。
「……あ、ありがとう」
「いえ」
貴族ってこういうものなのだろうか。
先程の支度もそうだが、子供みたいで恥ずかしいと思うのは、僕に記憶がないからか。
記憶を無くす以前の生活が気になるが、思い出そうとするとアレがくるので万が一にも思ってはいけない。
気にしないでおくのが一番だ。
「…サリエル」
(あ、僕のことか)
父へと顔を向ける。
「食べ終わったのなら、話を聞かせてくれるかな」
頷く。
「…ええと、目覚めてから、その、記憶が、」
父が眉を顰める。
思わず俯いて目を泳がせながら、言葉を続けた。
「記憶が、……ありません」
◇
「なんらかの危険から身を守るためか、とても大きなショックを受けたかのどちらかでしょう。失われたというよりは、封じ込めているのに近いです。もしかしたら、医者ではなく、神官のほうが専門かもしれませんが、とにかく、無理に思い出そうとすることは避けた方がいいでしょう」
僕の診察を終えた医者が話す。
「それよりも、御子息の健康状態のほうが問題です。今は落ち着いているようですが、また熱でも出したらお体が耐えられるかわかりません。健康状態が戻るまでは、特に気をお使いになってください」
「そうでしたか…もう少し早く診せてやれれば良かったのですが…」
「ええ、記憶を代償に病を治したと思えるほどでした。伯爵もお忙しいでしょうから、仕方のないことですよ。
それでは、お大事になさってください」
「ええ、ありがとうございます」
僕は、ベッドに腰掛けたまま、父と医者とのやりとりを、ぼーっとしながら聞いていた。
気づくと、医者は帰っていて、父が僕に向き直る。
「だそうだ。体力が戻るまで、暫く外出はさせられないが、許してくれ。それと、記憶のことは、無理に考えなくて良い。不安はあるだろうが、なるべく取り除けるよう努力しよう」
「はい」
頷くと、グイッと肩を引き寄せられて、なんだろうと見上げる。
「駄目な父親ですまない」
抱きしめられて、父のそんな声が聞こえてくる。
「…いえ」
記憶を無くす前なら、抱きしめ返したのだろうか。
笑顔で、大好きだと言ったのだろうか。
首を振って、感謝を述べたのだろうか。
昨日、父に「明日言う」と言ったことを思い出した。
父はそれさえも忘れたと思っているだろうが、僕は何を言いたかったのかは覚えている。
感情を覚えていなくても、これは、僕の望みだ。
「父…様、」
「何かな?」
「ええと、これは多分、記憶を無くす前の僕が思っていたことなのですが、」
父が僕の頭を撫でるのをやめて、こちらをじっと見る。
少し気まずくて、泳ぎ出した視線を落としてから僕も父の目をじっと見た。
「いつも、ありがとうございます。…と、大好きです」
父の目が見開かれる。
「…こちらの台詞だ。ありがとう、聴かせてくれてありがとう」
その泣きそうな声が少し可笑しくて、少し心がほぐれた気がした。
(この人は、僕の父親だな…)
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