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1 病弱な少年

1-1.記憶喪失と従者

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 暗い視界に、光が差し込んでくる。
 深い海を揺蕩っていたような意識が、ゆっくりと上昇していく。

 瞼を開いた。

 何故だか流していた涙を拭い、起き上がる。
 目が腫れぼったい。
 まだ朝は早いようで、差し込む光は低かった。

(ここは…どこだ)

 知らない部屋。知らないベッド。
 見覚えのない、自分の手。
 だがしかし、そう感じたのも一瞬だった。

 そうだ。昨日、自分は死ぬ代わりに、記憶を失ったのだ。

(昨日の記憶はあるんだったな…)

 自分の体が自分の体でないような不思議な感覚。
 昨日は確かに自分の部屋だと疑わなかったここも、何故だかそうとは思いにくい。
 ゆっくりと昨日の記憶を辿りながら、机に置いたままのノートを捲る。

“絶対に誰にも見せるな”

 と書かれた一枚目。

“---年-月-日 お迎え”

“-月-日 天使だか悪魔だかが話しかけてきた。僕は今日死ぬはずだったらしい。それを、彼の…厚意で記憶を無くす代わりに三年遅らせてもらい、悔いなく生きる約束をした。
記憶を無くした後の自分のために、最低限の情報を書いておく。”

“僕の名前は、サリエル・ルエド・ブランシュ。今は十二歳。”

「サリエル…」

 そう言えば、昨日も父様と呼んだ相手に、そう呼ばれていた気がする。
 口に馴染ませるように、自分の名前を繰り返す。
 涼やかで透き通るような少年の声。これが僕の声。

“ブランシュ家は伯爵家で、僕は長男。
父様の名前は、ホルス・ルエド・ブランシュ。
母様は小さい頃に亡くなった。名前は、アリセ。
二人とも、優しい人だ。言ったことはないけど、大好きだし、とくに父様にはいつも感謝している。”

 昨日、サリエルを心配してきた父親を思い出し、少しだけ和やかな気分になる。
 あの一時だけでもわかる。
 サリエルは父親に愛されている。

“うちには使用人が沢山いるけれど、僕には専属の従者が一人いる。名前はバルト。僕の乳兄弟でもある。家柄は子爵家だが妾の子らしく、実家には居場所がないと言っていた。
僕に仕えたいと言い出したのも彼らしい。身分は大して変わらないのに、やたらと畏まって接してくる。
歳が同じだから、学園にも一緒に通うことになると思う。
真面目で僕に厳しいが、まあ好き。”

“僕は体が弱い。そのせいで、他の子と同じように、外で遊んだり訓練したりすることは難しい。だから友人と呼べる人は、バルトの他には、父様が連れてきた人の何人かしかいない。それも、向こうが僕をそう認識しているかは怪しい。記憶があっても無くても大差無いと思う。”

 体が弱いことは、昨日の天使(仮)とのやり取りで覚えている。あの声が注意事項として言い連ねたことには、そのことについての項目もあった。

 声曰く、
『今日死なないとしても、別に明日からお前の体質が良くなるわけじゃない。それに加えて、封印した記憶を思い出そうとした時は、酷い頭痛がするだろう。三年の命は俺が保証してやるが、自分の体のことは自分でわかっとけ』

 この体でどれだけのことができるのかはわからない。
 でも、確かにサリエルは、昨日の僕は誓った筈だ。

「大丈夫だ」

 声に出すと、第三者に励まされているようで、気が楽になる。なんだか可笑しい。

“レアジ・カイト・メアスフラムは、僕より三歳年上で、メアスフラム公爵家の長男。公爵子息だけど、何故か父様と仲が良くて、僕にも仲良くしてくれる。今は学園の三年生で、前回会ったのは一年半くらい前。
レアジさんと呼ばれたがる節がある。僕も最初はそう呼ぶこともあったけど、最近はあまり呼んでいない。他の人がいるところでうっかり呼びたくはないから。レアジさんは魔法が得意で、他の分野でも優秀らしい。誰が見ても格好良いと言うと思うし、僕もレアジさんみたいになりたいと思う。好きか嫌いかで言えば好き。”

 その後も、何人かの紹介や、僕の好きな本、使える魔法の説明が続いている。

(いちいち好きって書くのはなんなんだ…。なんで書いたんだっけ?)

 記憶を無くした僕にも、好きでいろと言うのだろうか。
 それとも、僕にとって良い人だったと、そう言っているのだろうか。
 どっちにしても、今の僕にこの“レアジさん”や他の人の記憶はないから、判断のしようもない。

 ノートを置いて立ち上がる。
 一瞬フラついてしまって、驚いて椅子に掴まった。

(…厄介な体だ)

 部屋の反対に見つけた鏡へと向かった。

「これが…僕」

 鏡の向こうで、さらりとした薄墨色の髪が揺れる。
 細身で背が低い、十歳ほどに見える少年が立っていた。
 綺麗に切り揃えられた前髪は、目にかかるかかからないかくらいの長さがあり、その下に、大きな、美しい黄水晶の瞳が覗く。
 若干瞼が腫れて、疲れた顔をしているのは病み上がりだから仕方ない。
 鏡像と手を合わせて、ゆっくりと瞬きを繰り返した。

「知らないなぁ」

 苦笑いを溢した。自分が自分であるという当たり前のことが、不思議に感じられる。
「君は誰?」と問いたくなる。

(いや、僕は“あなた”って言っていたんだっけ)

 そこで、誰かが扉をノックするがした。

「おはようございます。エル様、バルトです」

 芯のある、幼さの感じられる声が聞こえた。

(バルト…)

 突然のことで固まってしまう。
 僕の従者であるバルトで間違いはないだろう。
 そして多分、エル様というのは僕のことだ。
 しっかりと書いていてくれた昨日の自分に感謝もするが、足りないとも思う。
 いつも僕は、どのように受け答えをしていたのだろうか。
 なんと呼んで、どんな風に接していたのだろう。

「…エル様? まだお休み中でしょうか?」

 どうしよう。何か言わないと。

「え、ええと、…どうぞ」

 そう言うとゆっくりと扉が開き、一人の少年が顔を出した。
 茶髪の似合う、真面目そうな印象の少年。服装はしっかりと使用人然としている。
 その目が、立ち尽くしている僕を捉えると、ぱあっと嬉しそうな顔に変わる。

「起き上がれるになったようで何よりです。お加減はいかがですか?」

 バルトは僕を座らせてから、部屋の外へ行ってお茶を持ってきて淹れ始める。

「え、と、大丈夫です…?」

 僕の言葉に、バルトは少し驚いたような顔をして、手袋を外した手で僕の額に触れる。

「お顔の色は随分と良くなったようですが、まだボーッとなさいますか? 今朝もお医者様がいらしていますので、後ほどお呼びしましょう」

「あ、え、…はい」

 記憶がないことを言わなければならない。
 そう思うのに、どう切り出して良いか分からず再び吃る。

「朝のお支度はどうなさいますか? まだお休みになるのであれば、体だけお拭きいたします」

「えっ」

 なるほど。どうしよう。多分、体調的には、もう問題はない…はずだ。

「ええと…あの、もう元気なので、その、」

 初対面の人相手にどう話せと言うのだ。
 そう心の中で文句をいいつつ、頑張って口を動かす。

「…朝のお支度をなさいますか?」

 わかっている。初対面だと感じるのは僕だけで、きっとバルトにしてみれば、これまでに何回もしてきたやりとりだろう。

 どうしよう。記憶が無いことを言うべきだろうか。
 全く知らない顔とはいえ、その顔が悲壮感に満ちるとしたら、僕だって苦しい。
 でも、言わないで隠し通せる自信も、僕には無い。

(言わないと、いけないな)

 わかっていて記憶を失うのも、なかなか辛いことをしたなと思う。
 でも、僕が選んだことだ。

 黙り込む僕を、バルトが不思議そうに見つめる。

「あの、エル様? 大丈夫ですか?」

「…バルト、と言いましたっけ」

「? エル様、何を」

 一気に言って仕舞おうと思ったのに、不安そうな表情のバルトに向き直った瞬間、どこからか涙が込み上げてきた。

(…僕は泣き虫なのかもしれない)

「エル様って、僕のことですよね」

 泣きそうな顔でそう言った瞬間、バルトの表情が塗り替わった。
 理解ができないと言った顔でようやく音を発する。

「…は、い?」

 ああダメだ。これは辛い。
 バルトが僕の前でこんな顔をするのはきっと初めてだ。

(きっと…)

 そう思った瞬間、やってしまったと気づく。
 思い出そうとしたら、頭痛がするのは聞いていたのに。

 突然の激痛に頭を抑えて屈み込む。

「ひッ…あぐぅ、、ぅ…ぅう…」

 思っていたよりも何倍も痛みが酷い。
 倒れ込んでのたうち回りたいくらいに。

「エル様!? どうなさいましたか、ま、お待ちください。今お医者様を」

 走り去ろうとするバルトの服を引いて、痛みに耐えながら首を振る。

「ですが」

「ッ…大丈…夫」

 酷くそわそわとしながら、バルトは僕の頭痛が治まるのを待つ間、眉を歪ませてこちらを見ていた。

「…ふぅ、はぁ…大丈夫…治った…」

「そ、そうですか…?」

 バルトは僕が顔をあげると、すぐに自分の手拭いで僕の汗を拭った。

「あの、エル様、無理は…」

 首を振る。

「ごめんなさい。…でも一つ、言わなきゃいけないことがあって」

「…はい」

 バルトが手を止める。
 僕は、少し息を吐いてから、再び口を開いた。

「今までの、記憶がありません」

 僕は口を閉じた。
 記憶を失ったことは隠せないだろうから言うしかない。
 しかし、昨日より前と言うと、昨日のことを尋ねられる可能性がある。余命のことを説明することはしたくない。
 だから僕は、こう言った。

 バルトは、先ほどのやり取りで察していたのだろうか、悲しげに目を伏せ、口を開いたかと思うと、再びぎゅっと結ぶことを繰り返している。
 部屋が、静寂に包まれた。

「…なん、いや、」

 バルトが口を開く。すでに声が震えているのがわかる。

「えっと…それは、つまり、」

「……」

「俺のこともわからないってこと、、です、か…?」

 黙って首肯する。
 バルトは顔に手を当て、その場で下を向いた。

「…すみません、ちょっと、ちょっと待ってください」

「……。」

 そして数秒後に、バルトは勢いよく顔を上げた。
 小さく、「よし」と言う声が聞こえる。

「…すみませんでした、一番つらいのはエル様なのに」

 首を振る。
 なんて言えば良いのかわからない。ただひたすらに、心が痛い。

「大丈夫です。わからないことは私がお教えします。記憶のことはお医者様にお聞きしましょう。もしかしたらすぐに戻るかも知れませんしね」

 不安そうにバルトを見る僕の視線に気づいたのだろうか。
 彼は僕を安心させるように、屈んで僕の手を握った。

「記憶が無くてもエル様はエル様ですから、心配なさらないでください」

「あ……」

「そうだ、だとしたら、ご挨拶がまだでしたね」

「?」

 バルトが、丁寧に礼をして僕の目を見つめる。

「私の名はバルト・ロムルス。ロムルス子爵家三男、バルト・ロムルスです。ブランシュ伯爵子息、サリエル・ルエド・ブランシュ様にお仕えしています。御用の際は、何なりとお申し付けください」

「…ありがとうございます」

 この切り替えは、さすが貴族というべきか。
 まだ僕と同じ十二歳のはずなのに、しっかりしているなと思う。僕は、こんな彼を知っていたのだろうか。

「エル様」

「あ、はい」

「私に敬語を使う必要はございません。いつものように、ではなく、…本来のように、自然になさってください」

(ああ…そうか)

 昨日の記憶では全て敬語で話していたから、そういうものだと思い込んでいた。

「わ、かった。教えてくれてありがとう。」

 これで良いのかな、とバルトを見ると、彼は嬉しそうに微笑んでいた。

「はい」

「…ではまず、朝のお支度をしましょうか。全て私がいたしますので、エル様は楽になさっていてください」

「はい、あ、え、うん!」

 少し可笑しそうに目を細めたバルトを見て、安心感を覚える。
 きっとこれが僕が感じていた“好き”なのだろうなと思った。
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