執事が執事でなくなる日

伊吹咲夜

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前編

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 日も短くなった秋の空に、どんよりとした雲が広がっている。
 きっと雨でも降るんだろうな、と思ったのはほんの一時間前。
 肌寒く感じて書類から顔を上げると、思った通り窓の外は雨模様になっていた。

「やっぱり降ってきた。明日は赤間グループの新社屋ビルの竣工式じゃなかったっけ。このまま降り続いたらやだなぁ……」

 いくらテントを張っているとはいえ、剥き出し部分の地面には水溜まりが出来ている。そこを歩けば必然的にスーツに跳ね返って濡れる。
 もちろん屋外だから寒いのは当たり前の話。

「考えただけで余計に寒くなってきた……」

 こういう時は何か温かいものが飲みたくなる。甘くてあったかいもの。
 机上にあるベルを持ち上げ軽く振る。
 『チリーン』と涼しげな音をひとつ響かせたあと、部屋は再び静寂に包まれた。
 ノックの後ドアが開く音が耳に入る。

「ちょっと冷えてきたから温かい飲み物を」
「何がよろしいでしょうか?」

 ん? と思って顔を上げると自分の求めていた人物ではない姿が目に入った。
 そう、今日は彼がいないんだ。
 いることが当たり前すぎて、いないことをすっかり忘れていた。

「そうだな、ミルクティーがいいな。疲れているから甘いやつ」
「かしこまりました」

 彼の代わりらしいフットマンが、おずおずとお辞儀をして下がっていく。
 かなり緊張しているっぽく、動きがかなりカクカクしていてどこかにぶつけないか心配になった程だ。

「どうして今なんだろう……」

 彼だって執事という仕事だけをして、日々過ごしている訳ではないのは分かっている。
 でもいつだって執事の仕事を最優先にする。
 僕の急な仕事と彼の休日がかち合ってしまったときは、自分の休日を犠牲にしてしまう。
 なのに今回は違っていた。

「明日は久し振りに二人で過ごせると思っていたのに」

 予定されていた会食がキャンセルになり、その他の仕事も順調に片付いて、一日まるっと暇になったのだ。
 これといって用事も外出の予定もない。いわばフリーだ。
 ならば二人で過ごそうと考えていたのに、彼の口から出てきた言葉は、

『お暇を頂きたいのですが』

 寝耳に水とはまさにこの事を言うのだろう。
 一瞬にして僕は凍り付いてしまった。



 最近忙しくてバタバタと動き回っていたから、彼とゆっくり触れ合う時間なんてなかった。

「気を遣ってくれるのは嬉しいんだけどさ……」

 疲れていても彼を求めてしまう。
 あの逞しい腕に背後から抱きしめられ熱い唇を首筋に這わせられる感触、耳元で囁かれる卑猥な言葉、やや強引にねじ込まれる肉棒。
 思い出すだけでゾクリと欲情が背中を走り抜けていく。

 それなのに彼はこの半月ほど、指一本触れてこようとはしなかった。
 誰もいない執務室で求めても、『執務中ですから』とあっさりと断られ何もしてはくれなかった。
 キスですら、半月前の行為でしたっきりだ。

「もう僕のことは飽きてしまったんだろうか」

 元々僕が憧れて、好きになって、色欲の目で見るようになって、欲情した。
 自慰をしているところを見られてから、彼の僕の『世話』が始まった。
 求めれば応じてくれるし、拗ねれば煽ってから犯してくる。
 いつだったか幼馴染の男に犯されたときは、『消毒』という形で着衣のまま犯された。
 あれは嫉妬だったんだろうかと思えるくらい、彼は僕の想いに寄り添っていてくれた。
 それなのに……。



「失礼いたします」

 欲求不満に身を任せ彼を思い出していると、件のフットマンが飲み物を運んできた。
 彼に触れられた感覚まで思い出していたせいか、下半身が半勃ちになっている。
 
「そこに置いていって。あとは自分でやるから」
「でも……」
「いいから。下がって」

 飲み物を淹れる時に見られてはマズイと、咄嗟にフットマンをきつく追い払ってしまった。
 緊張していたのが余計に委縮し、何かへまでもやらかしたのではと青くなって下がっていく。
 悪いことをしたかな、と思う反面、膨れ上がった下半身を見られずに良かったと安堵もした。

「もう、我慢しきれないよ……」

 会食がキャンセルになったと判明した一昨日の夜は、明日になれば彼とできると思って自慰を我慢した。
 それが昨日になって彼から急に休みが欲しいと言い出され、ショックでなにもする気になれなかった。

「僕に触れて、扱いて……」

 ズボンのファスナーを下ろし、硬くなりかけたモノを取り出す。
 彼の手を思い浮かべながら、彼がするように最初はやんわりと握りゆっくりと扱き始めた。
 じれったいほどにゆっくりとした動きは、ムクムクとモノを成長させていく。
 硬く反り返ったモノはもっと強い刺激を与えてくれと、ビクビクと手の中で踊る。

「ああ……、もっと強く握って。もっと早く、いっぱい擦って……」

 自分の手なのに彼に求めるときと同じように呟く。
 ただ自分で自慰するのならここで強く早く扱くところだが、彼がするように僕の呟きには応じない。
 そのままゆっくりと、少しだけ握る力を強くして上下に手を動かしていく。

「だめっ、我慢出来ない! お願いもっと扱いて!」

 中途半端にせり上がる射精感にもどかしさが募る。
 こんな時彼だったら一度手を止めわざと煽ってくるのだが、そこまでするには理性の限界だった。

 願うままにモノを強く握り、先程よりも早く上下に扱く。
 溢れる先走り液が手とモノの間に入り込み、感度を増させていく。

「出る、出ちゃうっ! あああああっ!」

 一気に昇りつめた射精感は、排出される液の受け皿を用意させる間もなく体外へと飛び散らせた。
 白い液体は辺りを汚し、一気に僕を現実へと連れ戻した。

「はぁ……。こんなんじゃ、満たされない……」

 萎えていくモノを眺めながら呟く。
 彼の手で扱かれてイッた後はもっと心まですっきりするような、充実した気持ちになるのに。
 今はただ虚しいだけで、気持ち良かったとかそんなのものは全然なかった。



「お暇を頂きたいのですが」

 彼のこの言葉を聞いて僕は瞬時に固まった。
 読みかけの契約書が手から滑り落ちる。

「え……、お暇って……」
「ああ、誤解させてしまいましたか。そちらの『お暇』ではありません」

 僕の思惑を読み取ったらしく、落ちた書類を拾い、僕の手に戻しながら涼しい顔で言った。

「有給休暇を頂きたいのです。頂いていた公休日に用事を済ませられなかったもので」
「え、ああこの間の休みに高木様のお屋敷に急に呼ばれてしまったからね。すぐに帰れると思っていたのに、結局夕食までご馳走になってしまった」

 急に入った用事しごとだった。
 その日彼は契約上与えられた休日だった。他に彼の業務を代われる者がいれば良かったのだが、生憎代われる者を使いに出したばかりだったのだ。
 それを知った彼は休日を放棄して僕の用事に従事した。

『主人の仕事を優先するのが執事たるものです』

 そう言って彼は一人で出掛けようとした僕を制して、素早く執事の服に着替えて車を出してくれた。

「そうだね、フットマンもいることだしゆっくり休んだらいいよ」

 内心ではそんなこと全然思ってもいない。
 むしろ『休みなんて取らないで』と声を大にして言いたいくらいだった。 

「先ほどお伺いした限りでは、明後日の会食がキャンセルになったという事ですが」
「そうだけど?」
「それでしたら」

 次に続く言葉に、僕はさらにショックを受けた。

「明日から三日間、休暇を頂きたいのですが」
「三日間も!?」

 確かに彼の休日は急な接待などの執務でちょくちょく潰されているのは事実だ。
 だからといって三日間、それも明日からなんてちょっと急過ぎる。

「いかがでしょう」
「いや、休みを与えるのは問題ないよ。だけど、ちょっと急過ぎないか?」
「急なのは重々承知しております。ただ、こちらも少々急用でして」

 そういって深々と腰を屈め、最敬礼の姿勢で許しを請うた。
 長い最敬礼の後、頭を上げ、彼は僕の目を見て続けた。

「ご主人様のお仕事に支障をきたさないよう、明日の書類関係の準備は済ませてあります。緊急なものに関しては連絡を頂ければ対応いたします」
「あ、うん。だったら大丈夫っぽいね」
「身の回りのことはフットマンにお申し付けください。一日の流れは説明済みです」

 もう最初から休み気満々だ。断る理由がない。
 僕が何を言っても多分、すぐさま代替案が出てくるんだろう。
 それほどまでして休みを取りたかったんだ……。

「……分かった。明日から三日間休んでいいよ。緊急事態以外、連絡しないようにはするよ」
「ありがとうございます。午後のお茶をお持ちいたします」

 今度はいつもと同じ深さのお辞儀をし、何事もなかったかのようにお茶を淹れるために厨房へと下がっていった。



 それが二日前の出来事。
 翌朝、そっと様子を窺いに行くと部屋の中はいつも以上に整然としており、彼の姿は当然のようにそこには存在していなかった。

「今、何してるんだろう」

 妄想の成れの果てを始末しながら、やはり彼のことを考えた。
 急用というのは何なんだろう。一日で済ませられないなんて、どこで何をしているんだろう。
 僕の気持ちを知っていてそれに応えるような態度を取りながら、実は外に恋人がいて逢瀬にいそしんでいるのだろうか?

 考えれば考えるほど悪い方向へといってしまう。
 三日間の休暇とかいいながら、このまま屋敷へ帰って来ないのではとまで至ってしまう。

「彼に限ってそんなことはない。だって執事という仕事に誇りを持っているし、嫌な顔ひとつせず執務をこなしてくれた」

 絶対に僕を捨ててどこかへ行ってしまうなんてありえない。
 絶対そうだ。そう考えないとやっていけない。

「少し落ち着こう。疲れているから変なこと考えるんだ」


 先ほどフットマンに淹れてもらったミルクティーをポットからカップに注ぐ。
 添えられたシュガーポットから砂糖をひと匙入れ、軽く混ぜひと口啜る。

「……」

 美味しくない、訳ではない。
 でも求めていた味とはかなり違う。
 紅茶とミルクのバランスとか、茶葉の種類とか。僕が欲っしていたものとは何もかも違った。
 そもそも『甘いのがいい』と言ったのに、砂糖が別添えだった。
 彼だったなら、その時の僕の求める香りの茶葉で、好みのバランスのミルクと砂糖を加えたお茶を持ってきてくれていた筈だ。

「彼がいなきゃダメだ」

 仕事においても、飲み物ひとつとっても、弄ばれているような自慰行為においても、彼がいないと何かが違う。

「三日なんて長すぎるよ」

 そんなに長く独りではいられない。寂しくて心だけが死んでしまいそうだ。
 彼だってそんな僕の気持ちを分かってくれているに違いない。
 急用もさっさと済ませて、『思ったよりも用事が早く済みました』と何事もなかったかのように帰ってきてくれる筈だ。

 そんな僕の願いも虚しく、夜になっても彼は屋敷に帰っては来なかった。
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