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日は昇る
弐
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茶々は、箸を持ったまま、ぼんやりとしていた。昨夜の火照りが、まだ体のどこかにあるような心地がする。
「姫様。」
大野局がスッと茶を置いた。
「まもなく江姫様がいらっしゃるかと。」
乳母の言葉に、我に返った茶々が、ホゥと一息ついた。
「今日はもうよい。」
茶々は華奢な手で、漆塗りの美しい箸を置き、小振りの志野茶碗に口をつけた。
柔らかな茶の香りが茶々の鼻をくすぐる。
(今ごろはおねさまと朝餉を召し上がっておられるか…)
茶々の胸がチリッと痛んだ。
「今日は、写経をする。」
グッと頭をまっすぐに上げ、茶々は遠いところを見つめた。
娘としての思い、姉としての思い、女としての思い…、諸々の思いを茶々は鎮めたかった。
そして、なによりも……。
「かしこまりました。」
大野局はそれだけの返事で深く礼をした。口数少ない茶々の心の揺れを乳母は感じ取っていた。
「姉上、朝餉が遅うござりまするね。どこかお悪いのですか?」
そう言って心配そうに入ってきた江だったが、茶々の微笑みにまだあどけない笑顔を返す。
「お戻りが遅うござりましたゆえ、案じました。」
「すまぬな、江。」
「仇の猿のそばに上がるなど…」
「江、そなたの義父上ぞ。」
「あのような猿、義父上ではござりませぬ。」
末姫が、プイッとふくれた。
「無体をされたのではございませぬか?」
「いいや。」
妹姫の「無体」と言う言葉に、ポッと体が火照ったのを隠し、茶々はやんわりと答えた。
「姉上、私も一成様に一度嫁がされました。もう子どもではありませぬ。」
「案ぜずともよい。」
「一成様は楽しいお話をして楽しませてくださっておったのに。猿のせいじゃ。きっと、姉上にもご無理を申すのでしょう?」
茶々の顔がほんのり色づく。
その様子を江は怒りのせいだと思った。自分が一成と別れさせられたように、きっと難儀な命令をされたのに違いない、と。それを姉は甘んじて受けているのだと。
「姉上、猿の元へ行くのはもしや私のためにございまするか?私のために……」
江の瞳がみるみる潤み、声が震える。
茶々はゆっくり首を振り、江のつややかな髪を撫でた。
「そなたのためではないぞ。案ずるな。」
「でも!」
江はなにか言おうとしたが、見たこともない満ち足りた茶々の微笑みに黙ってしまった。
「それより、姉上、よい天気ゆえ、外に出かけましょう。」
目を輝かせて、江が茶々を誘う。
(殿下に辱しめられて、私が気鬱になっていると思うておるのか…)
妹の思いやりに、姉姫は穏やかな微笑みを返した。
「そうじゃな。じゃが、わたくしは殿下の妻になったゆえ、そう出歩くことはできぬ。」
「姉上。」
「江、そなたの気持ちは、嬉しく思うぞ。じゃが、今日は、写経をして過ごそうと思うておる。」
「写経…でございますか。」
「そうじゃ。そなたも一緒にどうじゃ?」
「いえ、北政所様にもご挨拶せねばなりませぬゆえ。」
笑顔を作りながらも、両手を前に出してブンブンと振った江は、慌てて立ち上がり、深紅の打掛を翻す。
「では、また参ります。」
逃げるようにすたすたと歩きながら、江の心は嬉しかった。
(父上や母上に謝られるのじゃな。)
江は、茶々が仇の側室になったことを両親に詫びるための写経だと信じていた。
茶々は丁寧に墨を擦っている。侍女が墨を擦っておいてくれてはいたが、今少し水を注し、練るように墨を擦っていた。
手は墨を擦りながら、茶々の頭は、今朝のことで一杯である。
「姫様。」
大野局がスッと茶を置いた。
「まもなく江姫様がいらっしゃるかと。」
乳母の言葉に、我に返った茶々が、ホゥと一息ついた。
「今日はもうよい。」
茶々は華奢な手で、漆塗りの美しい箸を置き、小振りの志野茶碗に口をつけた。
柔らかな茶の香りが茶々の鼻をくすぐる。
(今ごろはおねさまと朝餉を召し上がっておられるか…)
茶々の胸がチリッと痛んだ。
「今日は、写経をする。」
グッと頭をまっすぐに上げ、茶々は遠いところを見つめた。
娘としての思い、姉としての思い、女としての思い…、諸々の思いを茶々は鎮めたかった。
そして、なによりも……。
「かしこまりました。」
大野局はそれだけの返事で深く礼をした。口数少ない茶々の心の揺れを乳母は感じ取っていた。
「姉上、朝餉が遅うござりまするね。どこかお悪いのですか?」
そう言って心配そうに入ってきた江だったが、茶々の微笑みにまだあどけない笑顔を返す。
「お戻りが遅うござりましたゆえ、案じました。」
「すまぬな、江。」
「仇の猿のそばに上がるなど…」
「江、そなたの義父上ぞ。」
「あのような猿、義父上ではござりませぬ。」
末姫が、プイッとふくれた。
「無体をされたのではございませぬか?」
「いいや。」
妹姫の「無体」と言う言葉に、ポッと体が火照ったのを隠し、茶々はやんわりと答えた。
「姉上、私も一成様に一度嫁がされました。もう子どもではありませぬ。」
「案ぜずともよい。」
「一成様は楽しいお話をして楽しませてくださっておったのに。猿のせいじゃ。きっと、姉上にもご無理を申すのでしょう?」
茶々の顔がほんのり色づく。
その様子を江は怒りのせいだと思った。自分が一成と別れさせられたように、きっと難儀な命令をされたのに違いない、と。それを姉は甘んじて受けているのだと。
「姉上、猿の元へ行くのはもしや私のためにございまするか?私のために……」
江の瞳がみるみる潤み、声が震える。
茶々はゆっくり首を振り、江のつややかな髪を撫でた。
「そなたのためではないぞ。案ずるな。」
「でも!」
江はなにか言おうとしたが、見たこともない満ち足りた茶々の微笑みに黙ってしまった。
「それより、姉上、よい天気ゆえ、外に出かけましょう。」
目を輝かせて、江が茶々を誘う。
(殿下に辱しめられて、私が気鬱になっていると思うておるのか…)
妹の思いやりに、姉姫は穏やかな微笑みを返した。
「そうじゃな。じゃが、わたくしは殿下の妻になったゆえ、そう出歩くことはできぬ。」
「姉上。」
「江、そなたの気持ちは、嬉しく思うぞ。じゃが、今日は、写経をして過ごそうと思うておる。」
「写経…でございますか。」
「そうじゃ。そなたも一緒にどうじゃ?」
「いえ、北政所様にもご挨拶せねばなりませぬゆえ。」
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「では、また参ります。」
逃げるようにすたすたと歩きながら、江の心は嬉しかった。
(父上や母上に謝られるのじゃな。)
江は、茶々が仇の側室になったことを両親に詫びるための写経だと信じていた。
茶々は丁寧に墨を擦っている。侍女が墨を擦っておいてくれてはいたが、今少し水を注し、練るように墨を擦っていた。
手は墨を擦りながら、茶々の頭は、今朝のことで一杯である。
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